君のとなり 〜約束の168〜

夏休みが終わった。

 二学期の始業日。

 久しぶりの校舎には、夏休みの間に少しだけ変わった空気が流れていた。

 廊下には、久しぶりに会った友達の笑い声が響いている。

 私は友達と話しながら、教室へ向かっていた。

 そのとき。

 廊下の向こうに、見覚えのある姿が見えた。

 少しゆっくりとした歩き方。

 右足をかばうようにしている。

 胸が、大きく跳ねた。

「……翔くん」

 思わず足が止まる。

 翔が顔を上げた。

 目が合う。

 その瞬間、翔の顔に驚きが浮かんだ。

 そして――。

 ふっと、嬉しそうに笑った。

「瑠夏!」

 その声を聞いた瞬間。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 会いたかった。

 本当は、ずっと心配していた。

 手術は大丈夫だったのかな。

 リハビリは辛くないのかな。

 ちゃんと歩けるようになったのかな。

 聞きたいことは、いっぱいあった。

「今日から学校?」

「うん。今日から」

 翔が笑う。

「やっと戻ってこられた」

「……そっか」

 私は翔の足を見る。

 まだ装具をつけている。

「足……大丈夫?」

「学校に来るくらいなら大丈夫」

「リハビリは?」

「まだ続いてる」

「そっか……」

 そこまで言って、私は口を閉じた。

 本当なら、もっと聞きたい。

 もっと話したい。

 久しぶりなんだから。

 でも――。

 あの日から、私は決めた。

 翔への気持ちを終わらせる。

 高跳びをやめたのも、そのためだった。

 翔を好きなままではいけない。

 だから、少しずつ。

 翔のことを考えないように。

 翔を目で追わないように。

 翔に近づかないように。

 そうやって、私の中にある恋を消していこうと決めた。

 なのに。

 こうして目の前に翔がいるだけで。

 その決意が、簡単に揺らいでしまう。

「瑠夏?」

「……え?」

「なんか、ぼーっとしてない?」

「ううん。なんでもない」

 私は笑った。

 ちゃんと笑わなきゃ。

「学校、久しぶりだね」

「うん」

「無理しちゃダメだよ」

「分かってるって」

 翔が笑う。

「相変わらず心配性だな」

「だって……」

 言いかけて、私は止まった。

 だって、好きだから。

 そんな言葉が、喉まで出かかった。

「……なんでもない」

「?」

 翔が不思議そうな顔をする。

 その顔を見るのも、苦しかった。

「じゃあ、私、教室行くね」

「え?」

「またね、翔くん」

「……うん」

 私は翔の返事を聞いて、すぐに歩き出した。

 振り返らない。

 絶対に。

 そう思っていたのに。

 教室へ向かう途中、どうしても気になってしまった。

 ほんの少しだけ振り返る。

 翔は、まだそこにいた。

 私の背中を見ている。

 目が合った。

 翔が少しだけ笑った。

 私は小さく頭を下げて、今度こそ前を向いた。

 そのまま教室へ戻る。

 胸の奥が痛かった。

 やっと会えたのに。

 本当は、もっと話したかった。

 なのに。

 自分から離れてしまった。

 これでいい。

 これでいいんだ。

 そう言い聞かせる。

 翔への気持ちを消すためには。

 これくらいしなきゃ。

     *

 廊下に一人残された翔は、しばらく瑠夏が去っていった方向を見ていた。

 やっと学校に戻れた。

 入院している間、何度も思い浮かべた。

 学校に戻ったら、瑠夏に会いたい。

 ちゃんと話したい。

 笑ってる顔が見たい。

 それなのに。

 久しぶりに会った瑠夏は、どこかよそよそしかった。

 以前なら、もっと話してくれた。

 もっと笑ってくれた。

 なのに今日は、自分から離れていった。

「……なんで?」

 答えは出ない。

 自分には、思い当たることがなかった。

 翔は小さく息を吐いて、歩き出した。

     *

 二学期が始まって数日。

 放課後のホームルームで、担任の先生が黒板の前に立った。

「来月は体育祭。そして、その後には文化祭があります」

 教室がざわつく。

「文化祭は十一月。準備期間もあるので、そろそろ実行委員を決めます」

 私は友達と顔を見合わせた。

「実行委員、誰かやる?」

「どうしよう」

 先生が教室を見回す。

「やりたい人、いるか?」

 しばらく沈黙が続いた。

「誰もいないか?」

 そのとき、隣の友達が私の肩をつついた。

「瑠夏、やれば?」

「私?」

「うん。こういうの好きじゃん」

「……そうかな」

「絶対向いてるって」

 私は少し考えた。

 文化祭。

 十一月。

 まだ少し先のことだけど。

 新しいことを始めるのも悪くない。

「じゃあ……やります」

 私は手を挙げた。

「お、瑠夏。ありがとう」

 先生が黒板に私の名前を書く。

 そのあと何人かの生徒も決まり、実行委員が決まっていった。

「次の実行委員会は、放課後に会議室で行うからな」

「はい」

 先生が教室を出ていく。

 私は黒板に書かれた自分の名前を見つめた。

 文化祭。

 ここから、また新しい毎日が始まる。

 そう思った。

 まだ知らなかった。

 この文化祭が。

 私の恋を、大きく動かすことになるなんて。