君のとなり 〜約束の168〜

 六月の終わり。

 梅雨の合間に覗く青空は、もう夏の色をしていた。

 放課後の体育館は、窓を開けても少し蒸し暑い。

 床に落ちた汗が、小さな水滴になって光っている。

 新体操部の練習も、夏休みを前に少しずつ熱を帯びていた。

「今日はここまでにしようか」

 先輩の声がして、私はリボンを片づけた。

 汗で少し重くなった髪を、後ろでまとめ直す。

「瑠夏ちゃん、最近すごく動き戻ってきたね」

「本当ですか?」

「うん。三年ブランクあるって言われなかったら、分からないくらい」

「ありがとうございます」

 嬉しくて笑う。

 小学生の頃にやっていた新体操。

 中学では離れていたけれど、高校に入ってまた始めてから、少しずつ身体が昔の感覚を取り戻していた。

 リボンを持つ指。

 ターンするときの軸。

 音楽を身体で感じる感覚。

 忘れていたと思っていたものが、ひとつずつ戻ってくる。

 それが嬉しかった。

「ちょっと休憩してから片づけよう」

「はい」

 私はタオルを肩にかけ、体育館の端にある扉へ向かった。

 重たい扉を開けると、熱を含んだ風が頬を撫でた。

「……暑い」

 思わず笑ってしまう。

 手すりに両手を置く。

 見下ろした校庭では、いくつもの部活動が練習を続けていた。

 サッカー部の掛け声。

 野球部の金属バットがボールを捉える音。

 遠くから聞こえる吹奏楽部の音。

 夏が近づいている。

 そんな空気だった。

 私はぼんやりと校庭を眺めた。

 その先に、陸上部がいる。

 そして。

 高跳びのマット。

 胸が、ほんの少しだけざわついた。

 もう見ない。

 そう思ったのに。

 目は自然と、その場所を探していた。

 いた。

 翔。

 今日も高跳びの練習をしている。

 私は小さく息を吐いた。

 高校に入ってから、何度この場所から翔を見ただろう。

 高跳びをやめた私。

 それでも翔が跳んでいる姿を見ると、どうしても足を止めてしまう。

 翔は助走位置に立っていた。

 少しだけ身体を揺らしながら、バーを見ている。

 私は手すりに置いた指先に、少し力を込めた。

 走る。

 踏み切る。

 跳ぶ。

 いつもの動き。

 そう思った。

 その瞬間だった。

 翔の身体が、突然崩れた。

「……え?」

 高く跳んだわけじゃない。

 踏み切った直後。

 翔が、その場で足を押さえた。

 そして、そのまま地面に座り込んだ。

 私は息を呑んだ。

「翔くん……?」

 声が出た。

 もちろん、ここからでは届かない。

 陸上部の仲間が一人、二人と翔のところへ駆け寄っていく。

 翔は動かない。

 右足を伸ばしたまま、じっとしている。

 誰かが先生を呼びに走っていく。

 私は手すりを強く握った。

 何が起きたの。

 さっきまで、普通に跳んでいたのに。

 翔が顔をしかめている。

 その表情を見るだけで、胸が苦しくなった。

 私はバルコニーから動けなかった。

 助けに行くこともできない。

 ただ、遠くから見ていることしかできない。

 やがて先生が駆けつけ、翔のそばにしゃがみ込んだ。

 何かを話している。

 翔が小さく頷く。

 それから、周りの人に支えられるようにして立ち上がろうとした。

 でも。

 すぐに顔を歪めた。

 私は唇を噛んだ。

「……大丈夫なの?」

 誰に聞くでもなく呟く。

 夏の風が吹いた。

 汗ばんだ頬を撫でていく。

 さっきまで明るかった校庭が、急に遠く感じた。

     *

 翌朝。

 教室に入ると、何人かの女子が話をしていた。

「昨日、陸上部で怪我した人いたんだって」

「C組の翔くんでしょ?」

 その名前を聞いた瞬間、私は足を止めた。

「……翔くん?」

「あ、瑠夏も知ってる?」

「うん……」

 私は鞄を机に置きながら、何気ないふりをした。

「昨日、練習中に怪我したらしいよ」

「病院行ったんだって」

「アキレス腱を断裂したらしい」

 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥が、冷たくなった。

「……アキレス腱?」

「うん。結構大きな怪我みたい」

 私は何も言えなかった。

 昨日。

 バルコニーから見た翔。

 突然、動けなくなった姿。

 あのときの表情。

 全部が頭の中に蘇ってくる。

 アキレス腱を断裂。

 それが、どれほどの怪我なのか。

 私は詳しく知らなかった。

 でも。

 少なくとも、すぐにまた走れるような怪我ではないことくらい分かった。

 私はそっと手を握った。

 高跳び。

 翔がずっと続けてきたもの。

 何度失敗しても、また助走位置へ戻っていた。

 その翔から。

 高跳びが奪われるかもしれない。

 そう思っただけで、胸が苦しくなった。

     *

 それから数日。

 翔は学校に来なかった。

 教室が違うから、普段なら顔を合わせないこともある。

 それでも。

 廊下を歩いているとき。

 昇降口を通るとき。

 体育館へ向かうとき。

 私は無意識に翔の姿を探していた。

 でも、いない。

 校庭を見ても、高跳びのマットの周りに翔はいなかった。

 バーだけが、静かに立っている。

 あの日まで、当たり前にそこにあった景色。

 それが、こんなにも寂しく見えるなんて思わなかった。

     *

 夏休みが始まる頃。

 翔が手術を受けることになったと聞いた。

 アキレス腱をつなぐ手術。

 その後は、しばらく入院してリハビリをするらしい。

 私は、その話を聞きながら黙っていた。

「結構長く入院するんだって」

「そうなんだ……」

 それ以上は、何も言えなかった。

 夏休み。

 みんなが海へ行ったり、花火大会を楽しんだりする季節。

 その間も、翔は病院にいる。

 ベッドの上で。

 自分の足と向き合って。

 もう一度、走れるようになるために。

 私は空を見上げた。

 真っ青な空。

 雲ひとつない、夏の空。

 高跳びのバーを越える翔の姿が、頭に浮かんだ。

 私は高跳びをやめた。

 自分から離れた。

 なのに。

 翔が跳べなくなったと知った今。

 あの場所に戻ってほしいと思ってしまう。

 また、走ってほしい。

 また、跳んでほしい。

 いつか。

 もう一度。

 あのマットの上に立ってほしい。

 私は胸の前で、そっと手を握った。

 翔には、言えないけれど。

 心の中でだけ。

 私は願った。

 ――早く、元気になりますように。

 そして。

 また、翔が跳べますように。