君のとなり 〜約束の168〜

高校生活が始まって、半月ほどが過ぎた。

 少しずつ新しい制服にも慣れてきて、朝の校門をくぐる足取りも、入学したばかりの頃より軽くなっていた。

 放課後になると、私は体育館へ向かう。

 新体操部に入部したからだ。

 小学生の頃、私は新体操を習っていた。

 音楽に合わせて身体を動かすことが好きだった。

 リボンが空中に描く曲線。

 ボールを投げ上げた一瞬の静けさ。

 身体を大きく伸ばしたときの解放感。

 全部が好きだった。

 けれど、中学生になってからは続けなかった。

 三年間のブランク。

 だから、高校でまた始めることには少しだけ不安もあった。

 昔みたいに身体が動くかな。

 忘れていることも多いだろうな。

 そう思っていた。

 ところが。

「瑠夏ちゃんって、経験者?」

 入部して二日目。

 先輩にそう聞かれた。

「はい……小学生の頃に少しだけ」

「少しだけっていう動きじゃないよ」

「え?」

「身体の使い方が綺麗。三年もやってなかったとは思えない」

 別の先輩まで、感心したように私を見る。

「本当に中学ではやってなかったの?」

「はい」

「もったいないなあ」

 私は少し照れながら笑った。

「でも、三年ぶりなので……ターンとか、全然安定しなくて」

「それでも十分上手いよ」

 そう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。

 久しぶりに触れたリボンは、最初こそ少し重く感じた。

 思ったところに飛ばない。

 指先から離れるタイミングがずれる。

 ターンの軸も、昔ほど綺麗には決まらない。

 それでも、身体を動かしているうちに、少しずつ感覚が戻ってきた。

 音楽が流れる。

 私はリボンを持った右手を大きく回した。

 白いリボンが空中に弧を描く。

 一歩。

 二歩。

 身体をひねる。

 足を伸ばす。

 最後に、つま先で床を捉える。

 ぴたり。

 止まった。

「今の綺麗!」

 先輩の声が飛んできた。

 私は振り返って笑った。

 久しぶりだった。

 こんなふうに、夢中になって身体を動かすのは。

 高跳びとは違う。

 でも。

 空中に身体を預ける瞬間があるところは、少しだけ似ていた。

 私は、ここでいい。

 そう思った。

 高跳びをやめたことを、後悔しないためにも。

 私は新体操に夢中になろうと思った。

     *

 その日の練習の途中。

「少し休憩しようか」

 先輩の声がして、私はタオルを手に取った。

 体育館の端にある扉へ向かう。

 その扉の向こうには、外のバルコニーがある。

 重たい扉を開けると、春の風が一気に身体を包んだ。

「……気持ちいい」

 体育館の中とは違う、少し冷たい空気。

 私はバルコニーへ出て、手すりに軽く手を置いた。

 見下ろせば、校庭が広がっている。

 運動部の声。

 ボールを蹴る音。

 グラウンドを走る足音。

 春の陽射しを受けた土が、少しだけ白く霞んで見えた。

 その先には、陸上部の練習場所がある。

 短距離の選手が何人も走っていた。

 その中に、高跳びのマットが見えた。

 ――高跳び。

 胸の奥が、きゅっと縮まる。

 私は目を逸らそうとした。

 もう、やらない。

 そう決めたはずだった。

 なのに。

 視線は、マットの近くから離れなかった。

 一人の男子が、助走位置へ歩いていく。

 少し俯いて、バーの高さを確認している。

 その歩き方を見た瞬間。

 胸が、大きく鳴った。

 ――翔。

 翔だった。

 陸上部の練習着を着て、バーの前に立っている。

 中学の頃より、少しだけ身体が大きくなったように見えた。

 私は知らないうちに、手すりを握っていた。

 翔が一度だけ深く息を吐く。

 助走位置へ戻る。

 そして――走り出した。

 タン、タン、タン。

 乾いた靴音が、校庭から聞こえてくる。

 踏み切る。

 身体が浮く。

 背中を反らせる。

 バーを越える。

 マットへ落ちる。

 成功。

 私は、息を止めていたことに気づいた。

 ゆっくり息を吐く。

 翔はマットから起き上がると、バーを見た。

 そして、また助走位置へ向かう。

 私は、その姿を見つめていた。

 見ないつもりだった。

 高跳びから離れたのだから。

 翔からも、少しずつ離れようと思っていたのだから。

 なのに。

 翔が跳ぶたびに、目が追ってしまう。

 助走。

 踏み切り。

 空中で身体を反らせる瞬間。

 着地。

 その一つ一つを、私は知っている。

 中学の頃から、ずっと見てきた。

 バーを越えたとき。

 私は胸に拳を当てた。

 トントン。

 そして、グッ。

 翔も同じように返してくれた。

 あのサイン。

 誰にも分からない、二人だけのサイン。

 思い出しただけで、胸が苦しくなった。

 翔がまた助走を始める。

 今度は――。

 カンッ。

 バーが落ちた。

 翔はマットから起き上がる。

 何も言わない。

 落ちたバーを拾って、元の位置へ戻す。

 そして、また助走位置へ向かった。

 悔しい。

 そう口にすることはない。

 でも。

 その横顔を見れば分かる。

 もう一度跳びたいんだ。

 次は越えたいんだ。

 私は、その姿を見ながら思った。

 翔は、まだ高跳びを続けている。

 私は、もうやめた。

 同じ高校にいるのに。

 同じ空の下にいるのに。

 私たちは、もう別々の場所に立っている。

 そう思ったら、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「瑠夏ちゃん?」

 後ろから先輩の声がした。

 私は慌てて振り返る。

「はい?」

「休憩、もうすぐ終わるよ」

「あ……はい」

 私はバルコニーから離れた。

 でも、体育館へ戻る前に、もう一度だけ校庭を見た。

 翔が、また跳ぼうとしている。

 助走位置に立っている。

 春の陽射しの中で、翔の姿だけが妙に鮮明に見えた。

 私は唇を噛んだ。

 もう、好きじゃなくなる。

 そう決めたはずなのに。

 高跳びをやめれば、きっとこの気持ちも消えていくと思っていたのに。

 翔が跳んでいる。

 ただ、それだけなのに。

 胸の奥にしまったはずの気持ちが、簡単に顔を出してしまう。

 私は静かに扉を閉めた。

 体育館の中へ戻る。

 リボンを手に取る。

 音楽が流れ始めた。

 私は身体を動かした。

 リボンが空中に大きな円を描く。

 ステップを踏む。

 身体を伸ばす。

 ターンする。

 跳ぶ。

 着地する。

 今、私がいるのはここ。

 新体操のマットの上。

 私が選んだ場所。

 それなのに。

 さっき見た翔の姿が、頭から離れなかった。

 高跳びをやめた私。

 高跳びを続ける翔。

 同じ高校にいるのに。

 少しずつ、違う道を歩き始めている。

 そう思っていた。

 このときは、まだ。