君のとなり 〜約束の168〜

 4月。

 桜の花びらが、校門へ続く坂道を薄桃色に染めていた。

 中学校の制服とは違う、新しい制服。

 少しだけ硬い襟元。

 まだ身体に馴染んでいない革靴。

 肩にかけた鞄も、鏡の前で何度も確認した髪型も。

 全部が新しかった。

 今日から、高校生。

 私は校門の前で一度だけ立ち止まり、ゆっくり息を吐いた。

 春の風が吹く。

 桜の花びらが一枚、目の前を横切った。

 その向こうに、大きな校舎が見える。

 ここで三年間を過ごす。

 そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。

 でも。

 同時に、ひとつだけ気になっていることがあった。

 翔も、この高校にいる。

 卒業式の日。

 校門へ向かう道で、翔が言った。

『高校、同じだな』

 その言葉を思い出す。

 同じ高校。

 それだけなのに。

 私は昨日から、何度もその言葉を思い返していた。

 会えば、きっと普通に話せる。

 そう思っていた。

 中学の頃と同じように。

 でも。

 高校生になった今日。

 同じ制服を着て、この校門をくぐると、なんだか少しだけ違って見えた。

 私は小さく息を吐いて、校舎へ向かった。

     *

 入学式が終わり、教室へ戻る。

 窓の外では、新しい制服を着た生徒たちが行き交っていた。

 教室には、知らない顔がたくさんある。

 中学から一緒の子もいるけれど、ほとんどは初めて会う人たちだった。

 私は自分の席に座り、机の上に手を置いた。

 これから始まるんだ。

 新しい生活。

 新しい友達。

 新しい毎日。

 私は窓の外へ視線を向けた。

 高跳びのことは、考えない。

 そう決めていた。

 もう、跳ばない。

 高校では別のことをする。

 それでいい。

 そう思っていた。

     *

 放課後。

 部活動紹介が行われる体育館には、たくさんの新入生が集まっていた。

 ステージの上では、各部が新入生に向けて声を上げている。

 バスケットボール部。

 吹奏楽部。

 サッカー部。

 そして――陸上部。

 短距離の選手が走り、高跳びの選手がバーを越える。

 会場から歓声が上がった。

 私は、思わずそちらを見た。

 身体が宙に浮く。

 バーを越える。

 マットに着地する。

 胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。

 懐かしい。

 助走の感覚。

 踏み切る瞬間。

 身体が宙に浮く感覚。

 全部、まだ覚えている。

 でも。

 私は目を逸らした。

 もう、私は跳ばない。

 そう決めたんだから。

 そのとき。

「瑠夏?」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 翔だった。

 中学の頃とは違う制服姿。

 少しだけ大人っぽく見える。

 でも、顔を見ればすぐに分かる。

「……翔くん」

 思わず名前を呼ぶ。

 翔が少し笑った。

「瑠夏、陸上部入るだろ?」

 心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。

「……え?」

「だって、高跳び」

 翔は当たり前のように言った。

「続けるんだろ?」

 私は答えられなかった。

 翔は、私が高校でも高跳びをすると思っている。

 当然みたいに。

 私は少しだけ笑った。

「……入らないよ」

「え?」

「陸上部」

 翔の表情が止まった。

「なんで?」

「なんとなく」

「なんとなくって……」

 翔が私を見る。

 私は視線を逸らした。

「もう、高跳びはいいかなって」

 翔は何も言わなかった。

 体育館では、次の部活紹介が始まっている。

 大きな拍手が起こる。

 でも、私たちの周りだけ、音が遠くなったような気がした。

「……なんで高跳びやんねぇんだよ!」

 翔の声が、少しだけ大きくなった。

 私は驚いて顔を上げた。

 翔は、怒っているようにも見えた。

 でも。

 その目には、怒りだけじゃないものがあった。

 戸惑い。

 寂しさ。

 理解できない、という顔。

 私は胸の奥が痛くなった。

「……もう、決めたから」

「でも……」

「翔くん」

 私は笑った。

「高校では、別のことしたいの」

 翔はしばらく黙っていた。

 何か言いたそうにしていたけれど、結局、何も言わなかった。

「……そっか」

 それだけ。

 私は小さく頷いた。

「うん」

 本当のことなんて、言えない。

 高跳びを辞めた理由も。

 あの日、翔と彩花を見てしまったことも。

 あのとき、自分の初恋を終わらせようと思ったことも。

 全部、胸の中にしまっておく。

 翔には、知られなくていい。

 私はそう思った。

 でも。

 翔は、まだ私を見ていた。

 まるで、何かを探すように。

 私はその視線から逃げるように、ステージへ顔を向けた。

 体育館の高い天井。

 大きな窓から差し込む春の光。

 新しい制服。

 新しい学校。

 新しい生活。

 ここから、全部が変わっていく。

 そう思った。

 それなのに。

 隣にいる翔だけは、変わらなかった。

 中学の頃と同じように。

 私の知らないところで、私の心を揺らしていた。