君のとなり 〜約束の168〜

夏の空は、どこまでも高かった。

 朝から照りつける太陽が、グラウンドの土を白く光らせている。乾いた土の匂いに、蝉の声が重なる。スタンドから聞こえる応援や、他の競技の歓声も、いつもより近く感じた。

 中学最後の大会。

 私は高跳びの競技エリアに立っていた。

 この場所に立つのも、今日が最後になる。

 そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。

 でも、今はまだ考えない。

 目の前のバーだけを見る。

 この三年間、何度ここから走り出しただろう。

 助走の歩数を数えて。

 踏み切る位置を何度も調整して。

 バーを落としては、悔しくて。

 それでも、また並べ直して。

 もう一度、走った。

 その繰り返しだった。

 今日も、いつもと同じように始まる。

 最初の高さ。

 助走。

 踏み切り。

 身体を反らせる。

 バーの上を越えて――着地。

 成功。

 小さく息を吐いた。

 次の高さ。

 また成功。

 そのたびに、胸の奥が少しずつ熱くなる。

 最後の大会だからこそ、一本一本を大切にしたかった。

 私は高跳びが好きだった。

 跳ぶ瞬間の、ほんの一瞬だけ身体が宙に浮く感覚。

 バーを越えたときの、何とも言えない嬉しさ。

 そして――。

 少し離れたところにいる翔を見る。

 目が合った。

 翔が小さく頷く。

 私も頷いた。

 それだけで、背中を押してもらえた気がした。

 次の高さ。

 私は助走位置に立った。

 息を吸う。

 走る。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 踏み切る。

 身体が浮いた。

 視界の端にバーが見える。

 身体を反らせる。

 ――越えた。

 マットに落ちる。

 振り返る。

 バーは、落ちていない。

 成功。

 思わず笑った。

 翔を見る。

 翔も笑っていた。

 私は胸に拳を当てる。

 トントン。

 そして、

 グッ。

 翔も同じように返してくれた。

 その瞬間だけ、周りの音が遠くなった気がした。

 二人だけに分かる、小さなサイン。

 言葉にしなくても、ちゃんと伝わる。

 それが嬉しかった。

 次の高さへ進む。

 バーが少しずつ高くなっていく。

 私は何度も深呼吸をした。

 そして、最後の高さ。

 助走位置に立った。

 もう一度、息を吸う。

 走る。

 踏み切る。

 身体を浮かせる。

 けれど――。

 足がバーに触れた。

 カンッ。

 バーが落ちる。

 一回目。

 私は小さく息を吐いた。

 まだ大丈夫。

 二回目。

 同じ高さへ向かう。

 走る。

 踏み切る。

 身体を浮かせる。

 今度こそ――。

 けれど、ほんの少しだけ身体が足りなかった。

 カンッ。

 またバーが落ちた。

 二回目。

 残りは、あと一本。

 私は一度、目を閉じた。

 深く息を吸う。

 最後の一回。

 これが、中学最後の一本になる。

 助走位置へ戻る。

 これまでの三年間が、頭の中を駆け抜けた。

 初めてバーを越えた日。

 失敗して泣きそうになった日。

 何度やっても跳べなくて、悔しくて。

 それでも、次の日にはまたグラウンドに立った。

 翔と一緒に練習した日。

 跳べたとき、二人で交わしたサイン。

 全部。

 全部、この一本に詰まっているような気がした。

 私は顔を上げた。

 走る。

 踏み切る。

 身体が浮いた。

 バーが視界に入る。

 あと少し。

 そう思った瞬間――。

 肩がバーに触れた。

 カンッ。

 乾いた音が、真夏の空気に響いた。

 バーが落ちる。

 そして、私の身体もマットへ落ちた。

 ――そのまま、起き上がれなかった。

 背中を柔らかなマットに預けて、身体の力を抜く。

 熱い。

 頬も、首も、汗でびっしょりだった。

 胸が大きく上下している。

 目を閉じる。

 ほんの少しだけ、涙が滲んだ。

 悔しい。

 でも、それだけじゃない。

 ゆっくり目を開ける。

 視界いっぱいに、青。

 雲ひとつない、夏の空。

 眩しくて、目を細める。

 こんなに青かったんだ。

 ずっと走っていたから。

 ずっと下を向いていたから。

 こんなふうに空を見上げたのは、いつ以来だろう。

 私は、ぼんやりと思った。

 ――終わったな。

 中学三年間の高跳びが。

 終わっちゃった。

 そう思ったら、また少しだけ目が熱くなった。

 でも、不思議と悲しいだけじゃなかった。

 何度も失敗した。

 何度も悔しくなった。

 それでも、三年間、私は跳び続けた。

 今日だって、最後まで逃げなかった。

 だから。

 私は心の中で、自分に言った。

 ――よく頑張ったね。

 本当に。

 三年間、よく頑張った。

 私はゆっくり身体を起こした。

 そして、少し離れたところにいる翔を見た。

 目が合う。

 私は、笑った。

 涙が少し残っているのに。

 ちゃんと、笑えた。

 翔にも、笑っていてほしかったから。

 翔が、ほんの少しだけ目を細める。

 私は胸に拳を当てた。

 トントン。

 そして、

 グッ。

 最後のサイン。

 翔も、同じように返してくれた。

 それを見たら、胸の奥がまた熱くなった。

 これで終わり。

 でも。

 この三年間は、終わらない。

 私の中に、ずっと残る。

 そう思いながら、私はマットから降りた。

     *

 大会が終わると、私たち中学三年生は陸上部を引退した。

 次の日から、グラウンドに立つことはなくなった。

 朝練もない。

 放課後、部室へ向かうこともない。

 あんなに毎日当たり前だった時間が、急になくなった。

 それでも私は、まだ思っていた。

 高校に行ったら、また高跳びをやろう。

 翔も続けるだろうし。

 また同じグラウンドに立てるかもしれない。

 そう思っていた。

 だから、このときの私はまだ知らなかった。

 自分が、この先、高跳びから離れることになるなんて。

     *

 秋が深まるにつれて、校庭の木々が少しずつ色づいていった。

 窓を開けると、冷たい風が教室に入り込んでくる。

 そんな季節になっても、あの噂は消えなかった。

「ねえ、やっぱり彩花と翔って付き合ってるよね?」

「絶対そうだと思う」

「だって、よく一緒にいるじゃん」

「翔も嫌そうじゃないし」

 そんな声を、何度も耳にした。

 本当のことは、私には分からない。

 彩花が告白したことは知っている。

 でも、翔がどう答えたのかは知らない。

 二人が付き合っているというのも、ただの噂。

 それなのに。

 何度も聞いているうちに、その噂が少しずつ私の中に入り込んできた。

 ある日の放課後。

 昇降口へ向かっていた私は、校舎裏の木々の向こうに翔と彩花の姿を見つけた。

 二人で向かい合って話している。

 何を話しているのかまでは聞こえない。

 彩花が笑った。

 翔も笑った。

 それだけだった。

 でも。

 彩花の髪が風に揺れた。

 一枚の枯葉が、髪に引っかかっている。

 彩花は気づいていない。

 翔が、それに気づいた。

「彩花、頭」

 翔が手を伸ばした。

 髪に乗っていた枯葉を、指先でそっと取る。

「……え?」

 彩花が驚いたように顔を上げた。

 翔は取った枯葉を見せる。

「これ」

「あ……ありがとう」

「うん」

 ただ、それだけ。

 本当に、それだけだった。

 なのに。

 私には、それが決定的なものに見えた。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 ――やっぱり。

 二人は付き合ってるんだ。

 本当は違うかもしれない。

 翔はただ、彩花の髪に枯葉が乗っていたから取っただけ。

 そんなことは分かっている。

 でも。

 今まで聞いてきた噂。

 彩花の告白。

 二人が一緒にいるところ。

 そして、今の光景。

 全部が、私の中で勝手につながった。

 私は静かにその場を離れた。

 胸の奥が痛かった。

 涙は出なかった。

 ただ、もういいと思った。

 好きでいることに、少し疲れた。

 翔が悪いわけじゃない。

 彩花が悪いわけでもない。

 誰も悪くない。

 ただ、私が勝手に苦しくなっているだけ。

 だったら。

 自分から離れればいい。

 高跳びを続けていたら、きっと翔を見続ける。

 跳ぶ姿を見るたびに嬉しくなって。

 笑っているのを見るだけで胸が高鳴って。

 そして、彩花と一緒にいるところを見れば、また苦しくなる。

 だから――。

 高校では、高跳びをやらない。

 そう決めた。

 高跳びを辞めたら、翔を好きな気持ちも、いつか消えてくれるかもしれない。

 そんなふうに思った。

     *

 それから卒業までの日々は、あっという間に過ぎていった。

 冬の朝は寒く、吐く息が白くなる。

 教室の窓から見える木々は、すっかり葉を落としていた。

 卒業が近づく。

 友達と過ごす時間も、少しずつ残り少なくなっていく。

 私は、翔に何も言わなかった。

 高校では高跳びをやらないことも。

 その理由も。

 もちろん、翔を好きだったことも。

 言えなかった。

 そして、卒業式の日。

 体育館には、冷たい空気が残っていた。

 壇上には花が飾られ、窓から差し込む光が床に細長く伸びている。

 名前を呼ばれる。

 返事をする。

 卒業証書を受け取る。

 ひとつひとつの動作が、いつもよりゆっくりに感じられた。

 式が終わる。

 教室へ戻る。

 黒板には、先生が書いた「卒業おめでとう」の文字。

 机もロッカーも、今日で最後。

 最後のホームルームが終わる。

 みんなが泣いたり笑ったりしながら教室を出ていく。

 私も鞄を持った。

 廊下に出る。

「瑠夏」

 振り返る。

 翔がいた。

「帰る?」

「うん」

「一緒に帰ろう」

「……うん」

 二人で校門を出た。

 春を待つ木々の枝が、まだ蕾の固い桜を揺らしていた。

「高校、同じだな」

「うん」

「また会えるじゃん」

「……そうだね」

 私は笑った。

 胸の奥が少しだけ痛む。

 高校に行けば、また翔に会う。

 それでも。

 高跳びをやらなければ、少しはこの気持ちから離れられる。

 そう思っていた。

 翔が私を見る。

「じゃあ、またな」

「うん」

 私は笑った。

「またね、翔くん」

 翔は何も言わなかった。

 私はそのまま歩き出す。

 振り返らない。

 振り返ったら、きっとまた好きになる。

 ……ううん。

 もう、とっくに好きなのに。

 それでも私は、その気持ちを胸の奥へしまった。

 中学三年間の高跳びは、終わった。

 そして私の初恋も。

 これで終わりにするつもりだった。