君のとなり 〜約束の168〜

その噂を聞いたのは、六月の終わりだった。

 朝から空は薄暗く、教室の窓には細かな水滴が残っていた。

 梅雨らしい湿った空気が教室に入り込み、机の上に置いたノートの端が少しだけ柔らかくなっている。

 一時間目が始まるまでの教室は、いつもより騒がしかった。

「ねえ、知ってる?」

 前の席から聞こえてきた声に、私は教科書を開く手を止めた。

「何?」

「彩花のこと」

 その名前が耳に入った瞬間、胸の奥が小さく反応した。

「昨日、翔に告白したんだって」

 息が止まりそうになった。

 私は顔を上げなかった。

 聞き間違いかもしれない。

 そう思ったのに、次の言葉がはっきり聞こえてきた。

「放課後、二人で話してたって」

「え、本当に?」

「うん。見た人がいるらしいよ」

「で、翔は何て言ったの?」

「そこまでは知らないって」

 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。

 翔が何て答えたのか。

 それは誰にも分からないらしい。

 付き合ったのか。

 断ったのか。

 まだ返事をしていないのか。

 何も分からない。

 ただ、彩花が翔に告白した。

 その事実だけが、頭の中に残った。

「でも、彩花って前から翔のこと好きだったよね」

「そうなの?」

「見てたら分かるじゃん」

 その言葉に、私はゆっくり顔を上げた。

 彩花。

 昨日、練習中に翔に声をかけていた。

 次の記録会の話をしていた。

 笑っていた。

 私は、そのときの二人を思い出した。

 あれは――。

 そういうことだったんだ。

 胸の奥が、ずきっと痛んだ。

「瑠夏?」

 隣の席の子に呼ばれて、私は慌てて笑った。

「……なに?」

「どうしたの? ぼーっとしてる」

「ううん。何でもない」

 何でもない。

 そう言ったのに。

 胸の中は、全然何でもなくなかった。

 その日の昼休みも、私は何度も窓の外を見た。

 校庭では男子たちが話をしている。

 その中に翔の姿があった。

 少し離れた場所に彩花もいる。

 たまたまなのかもしれない。

 同じ部活なのだから、話をすることくらいある。

 そう思った。

 なのに。

 彩花が翔に何か話しかけた。

 翔が笑った。

 ただ、それだけだった。

 彩花も笑った。

 その笑顔が、昨日までとは違って見えた。

 嬉しそうだった。

 翔が何か言うたびに、目を細めて笑っている。

 翔も、そんな彩花を見て笑っている。

 二人の距離は、特別近いわけじゃない。

 触れてもいない。

 何か特別なことをしているわけでもない。

 それなのに。

 私には、二人の間にだけ柔らかな空気が流れているように見えた。

 まるで。

 もう、恋人みたいに。

「……やだ」

 小さく呟いて、自分でも驚いた。

 何が嫌なのか。

 分かっている。

 私は、翔が好きだから。

 だから、そう見えてしまう。

 本当は違うかもしれない。

 噂しか知らない。

 翔が彩花の気持ちを受け入れたのかどうかも分からない。

 なのに。

 一度そう見えてしまったら、もう元には戻れなかった。

 翔が笑うたび。

 彩花が嬉しそうにするたび。

 二人の間にある何でもない時間まで、特別なものに見えてしまう。

 私は窓から目を逸らした。

 こんな自分が嫌だった。

 彩花は何も悪くない。

 ただ翔が好きなだけ。

 私と同じように。

 そう思った瞬間、胸が苦しくなった。

 放課後。

 いつものように陸上部の練習が始まった。

 グラウンドには、昼間より少し強い風が吹いていた。

 雲の切れ間から夕陽が差し込み、濡れたトラックがところどころ光っている。

 私は高跳びのマットの横に立っていた。

 翔が助走位置につく。

 バーを見る。

 走る。

 踏み切る。

 跳ぶ。

 けれど、バーに触れた。

 カンッ。

 乾いた音を立てて、バーが落ちる。

 翔はマットに着地すると、すぐに起き上がった。

 落ちたバーを拾う。

 何も言わない。

 ただ、もう一度セットする。

 私はその姿を見つめていた。

 あんなに一生懸命なのに。

 私より高く跳びたいって、何度も挑戦しているのに。

 それなのに今の私は、翔の跳ぶ姿を見ていても、胸の中が晴れなかった。

「瑠夏」

「え?」

「次、跳ぶ」

「うん」

「ちゃんと見てて」

「……うん」

 翔は助走位置へ戻った。

 私はマットの横で、もう一度その背中を見る。

 そのとき。

「翔」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 彩花だった。

 手に練習用のタオルを持っている。

「今日、まだやるの?」

「うん。もう少し」

「そっか」

 彩花が笑った。

 ほんの少しだけ、照れたような笑顔だった。

「じゃあ、頑張って」

「ありがとう」

 翔も笑う。

 その瞬間。

 胸の奥が、また痛くなった。

 ただ笑っただけ。

 本当に、それだけ。

 なのに。

 彩花の笑顔が、私にはあまりにも嬉しそうに見えた。

 翔の笑顔も。

 いつも見ているはずなのに、今日は違って見える。

 二人とも何もしていない。

 ただ話しているだけ。

 それなのに、私の目には――。

 まるで、二人だけの時間を過ごしているみたいに見えた。

 まるで。

 私には見えない約束でも交わしているみたいに。

 私は思わず視線を落とした。

「……瑠夏?」

 彩花が私を見る。

「どうしたの?」

「ううん」

 私は顔を上げて笑った。

「何でもないよ」

「そう?」

「うん」

 彩花は少し首を傾げたあと、翔のほうを見た。

「じゃあ、また明日ね」

「うん。また」

 彩花が離れていく。

 私は、その背中を見送った。

 嫌いになんてなれない。

 彩花は何も悪くない。

 むしろ、あんなふうに素直に好きな人へ気持ちを伝えられることが、少し羨ましかった。

 私はできない。

 翔が好き。

 ずっと好き。

 でも、言えない。

 もし言ってしまったら。

 もし翔が困ったら。

 もし今までみたいに話せなくなったら。

 そう考えるだけで怖かった。

「瑠夏」

 翔の声がした。

 顔を上げる。

「今の、どうだった?」

 バーの前に立った翔が、こちらを見ている。

「……良かったよ」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ、もう一回やる」

「うん」

 翔が笑う。

 私はその笑顔を見つめた。

 さっきまで彩花に向けていた笑顔と、同じだった。

 同じはずなのに。

 どうしてだろう。

 胸が苦しい。

 私は、知らない。

 翔が彩花に何と答えたのか。

 二人が今どういう関係なのか。

 本当は何も知らない。

 噂を聞いただけ。

 それなのに。

 もう、そう見えてしまう。

 翔と彩花が並んでいるだけで。

 笑い合っているだけで。

 私の知らないところで、二人の距離が近づいているように思えてしまう。

 私は小さく息を吐いた。

 今まで通りでいよう。

 そう決めた。

 翔には何も聞かない。

 彩花にも何も言わない。

 ただ、いつも通り隣にいる。

 それでいい。

 それしか、今の私にはできない。

 翔が助走を始めた。

 足音が近づいてくる。

 踏み切る。

 身体が宙へ浮く。

 私はその姿を見上げた。

 いつか。

 翔が私より高く跳ぶ日が来るまで。

 その日だけは、変わらず隣で見ていたい。

 そう願った。

 たとえ、その隣にいられる時間が、いつまでも続くとは限らなくても。