君のとなり 〜約束の168〜

 梅雨入りを前にした六月の放課後は、空気の中に水分を含んでいるようだった。

 朝から曇っていた空は、夕方になっても晴れる気配がない。校舎の窓ガラスには薄暗いグラウンドが映り、風が吹くたび、校庭の隅に植えられた木の葉がざわざわと音を立てていた。

 陸上部の練習が終わる頃には、額に浮いた汗がなかなか引かなかった。

「今日はここまで」

 顧問の先生の声が響く。

 部員たちが一斉に動き始めた。

 ハードルを片付ける人。トラックの道具を倉庫へ運ぶ人。水筒を手に、校舎へ向かう人。

 私も高跳びのマットを片付けようと立ち上がった。

 けれど。

 翔はまだ、バーの前にいた。

「翔、片付けるよ?」

「うん」

 返事はしたものの、動かない。

 翔の視線は、バーに向けられたままだった。

 私はその横顔を見て、何も言わずに立ち止まった。

 先日の練習で、私が越えた高さ。

 翔はまだ越えられていない。

 何度跳んでも、ほんの少しだけ届かない。

 バーに触れたときの乾いた音。

 マットに落ちる身体。

 起き上がって、落ちたバーを拾う。

 それを何度も繰り返していた。

 翔は「悔しい」と口にすることはほとんどなかった。

 でも、私には分かった。

 バーが落ちたあと、一瞬だけ伏せられる目。

 何も言わずに拾い上げる手。

 次の助走位置へ戻るまでの、ほんのわずかな間。

 その全部が、翔の気持ちを表していた。

「もう一回、跳ぶ?」

 私が聞くと、翔は少しだけこちらを見た。

「……うん」

「先生、もう終わりって言ってたよ」

「分かってる」

「じゃあ、帰ろう?」

「あと一回だけ」

 私は笑った。

「それ、毎回言ってる」

「今日は本当に一回」

「本当?」

「本当」

 翔が助走位置へ歩いていく。

 私はマットの脇に立った。

 もう何度も見てきた光景なのに、翔が助走に入ると、自然と目で追ってしまう。

 身体を少し前に傾ける。

 足元を確認する。

 そして、走り出す。

 トン、トン、トン――。

 一定のリズムで近づいてくる足音。

 最後の数歩。

 踏み切り。

 身体が浮く。

 私は息を止めた。

 翔の背中が反り、バーへ近づいていく。

 あと少し。

 そう思った瞬間。

 カンッ。

 乾いた音がした。

 バーが落ちる。

 翔はそのままマットへ落ちた。

「……」

 起き上がった翔は、すぐには何も言わなかった。

 落ちたバーを見つめる。

 それから立ち上がり、ゆっくりとバーを拾った。

「翔」

「ん?」

「今の、惜しかったよ」

「……うん」

 それだけだった。

 翔はもう一度、バーをセットする。

 私はその姿を見ながら、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

 頑張ってほしい。

 でも、無理はしてほしくない。

 そして――。

 いつか本当に、私より高く跳んでほしい。

 あの約束をした日から、私はそう思っている。

「瑠夏」

「なに?」

「見てて」

「うん」

 それだけ言って、翔はまた助走位置へ戻った。

 私は頷いた。

 翔が走る。

 跳ぶ。

 落ちる。

 また立ち上がる。

 その姿を見ているうちに、私はふと気づいた。

 私、いつからこんなに翔を見ているんだろう。

 高跳びをしているから。

 同じ部活だから。

 そう思っていた。

 けれど、練習が終わっても翔が残っていると、帰らずに待ってしまう。

 翔が跳ぶと、成功してほしいと思う。

 失敗すると、胸が痛くなる。

 自己ベストを更新すると、自分のことみたいに嬉しい。

 そして。

 翔が笑うと、その笑顔をもう一度見たくなる。

 それが何を意味するのか。

 私はもう、薄々気づいていた。

 たぶん私は――。

 翔が好きなんだ。

 気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 でも、その気持ちを言葉にする勇気はなかった。

 告白したら、今までみたいに話せなくなるかもしれない。

 練習の帰りに一緒に歩くことも。

 高跳びの話をすることも。

 くだらないことで笑うことも。

 全部、変わってしまうかもしれない。

 だから私は、何も言わない。

 今まで通りでいい。

 翔の隣で、ただ高跳びを見ていられれば、それでいい。

 そう思った。

「瑠夏」

「ん?」

「今の、どうだった?」

 いつの間にか、翔が目の前に立っていた。

「え?」

「跳び方」

「あ……」

 私は慌てて笑った。

「うん。良かったよ」

「本当?」

「うん」

「じゃあ、もう一回」

「え?」

「今の感じ、忘れないうちに」

 翔がバーを見る。

 私は思わず笑ってしまった。

「あと一回だけ、じゃなかったの?」

「……忘れた」

「もう」

 笑いながら、私はバーを直した。

 翔も笑った。

 そのときだった。

「翔」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 同じ陸上部の彩花が立っていた。

 手には部活のバッグを持っている。

「まだ帰らないの?」

「うん。もう少し」

「そっか」

 彩花はバーをちらりと見て、それから翔を見る。

「次の記録会、出るんでしょ?」

「たぶん」

「頑張ってね」

「ありがとう」

 それだけの会話だった。

 彩花は「じゃあね」と言って、先に校舎のほうへ歩いていった。

 私はその背中を目で追った。

「瑠夏?」

「……ううん。何でもない」

「そう?」

「うん」

 私は笑った。

 けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。

 彩花が翔に声をかけたこと。

 翔と彩花が普通に話していたこと。

 そんなことは、何もおかしくない。

 同じ部活なんだから。

 私だって翔と話す。

 なのに。

 どうしてだろう。

 さっきの二人を見ていると、ほんの少しだけ落ち着かなかった。

 その理由を考えるのは、やめた。

「翔、もう一回跳ぶんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、ちゃんと見てる」

「絶対?」

「絶対」

 翔が少しだけ笑った。

 私はその笑顔を見て、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。

 やっぱり、好きだ。

 この人が好き。

 でも、その気持ちは口にはしない。

 言わないまま、大切にしまっておく。

 翔がもう一度、助走位置に立つ。

 私はマットの横で、静かにその姿を見つめた。

 夕暮れのグラウンドに、風が通り抜ける。

 バーの上には、薄い雲に覆われた空が広がっていた。

 翔が走り出す。

 私は息を止める。

 踏み切る。

 跳ぶ。

 ほんの一瞬、翔の身体が空に近づいた。

 その姿を見ながら、私は思った。

 いつか。

 いつか翔が、私より高く跳べたらいい。

 その瞬間を、私は一番近くで見ていたい。

 それだけでいい。

 今は、それだけで。

 そう思いながら、私は翔が着地する音を聞いていた。