梅雨入りを前にした六月の放課後は、空気の中に水分を含んでいるようだった。
朝から曇っていた空は、夕方になっても晴れる気配がない。校舎の窓ガラスには薄暗いグラウンドが映り、風が吹くたび、校庭の隅に植えられた木の葉がざわざわと音を立てていた。
陸上部の練習が終わる頃には、額に浮いた汗がなかなか引かなかった。
「今日はここまで」
顧問の先生の声が響く。
部員たちが一斉に動き始めた。
ハードルを片付ける人。トラックの道具を倉庫へ運ぶ人。水筒を手に、校舎へ向かう人。
私も高跳びのマットを片付けようと立ち上がった。
けれど。
翔はまだ、バーの前にいた。
「翔、片付けるよ?」
「うん」
返事はしたものの、動かない。
翔の視線は、バーに向けられたままだった。
私はその横顔を見て、何も言わずに立ち止まった。
先日の練習で、私が越えた高さ。
翔はまだ越えられていない。
何度跳んでも、ほんの少しだけ届かない。
バーに触れたときの乾いた音。
マットに落ちる身体。
起き上がって、落ちたバーを拾う。
それを何度も繰り返していた。
翔は「悔しい」と口にすることはほとんどなかった。
でも、私には分かった。
バーが落ちたあと、一瞬だけ伏せられる目。
何も言わずに拾い上げる手。
次の助走位置へ戻るまでの、ほんのわずかな間。
その全部が、翔の気持ちを表していた。
「もう一回、跳ぶ?」
私が聞くと、翔は少しだけこちらを見た。
「……うん」
「先生、もう終わりって言ってたよ」
「分かってる」
「じゃあ、帰ろう?」
「あと一回だけ」
私は笑った。
「それ、毎回言ってる」
「今日は本当に一回」
「本当?」
「本当」
翔が助走位置へ歩いていく。
私はマットの脇に立った。
もう何度も見てきた光景なのに、翔が助走に入ると、自然と目で追ってしまう。
身体を少し前に傾ける。
足元を確認する。
そして、走り出す。
トン、トン、トン――。
一定のリズムで近づいてくる足音。
最後の数歩。
踏み切り。
身体が浮く。
私は息を止めた。
翔の背中が反り、バーへ近づいていく。
あと少し。
そう思った瞬間。
カンッ。
乾いた音がした。
バーが落ちる。
翔はそのままマットへ落ちた。
「……」
起き上がった翔は、すぐには何も言わなかった。
落ちたバーを見つめる。
それから立ち上がり、ゆっくりとバーを拾った。
「翔」
「ん?」
「今の、惜しかったよ」
「……うん」
それだけだった。
翔はもう一度、バーをセットする。
私はその姿を見ながら、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
頑張ってほしい。
でも、無理はしてほしくない。
そして――。
いつか本当に、私より高く跳んでほしい。
あの約束をした日から、私はそう思っている。
「瑠夏」
「なに?」
「見てて」
「うん」
それだけ言って、翔はまた助走位置へ戻った。
私は頷いた。
翔が走る。
跳ぶ。
落ちる。
また立ち上がる。
その姿を見ているうちに、私はふと気づいた。
私、いつからこんなに翔を見ているんだろう。
高跳びをしているから。
同じ部活だから。
そう思っていた。
けれど、練習が終わっても翔が残っていると、帰らずに待ってしまう。
翔が跳ぶと、成功してほしいと思う。
失敗すると、胸が痛くなる。
自己ベストを更新すると、自分のことみたいに嬉しい。
そして。
翔が笑うと、その笑顔をもう一度見たくなる。
それが何を意味するのか。
私はもう、薄々気づいていた。
たぶん私は――。
翔が好きなんだ。
気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
でも、その気持ちを言葉にする勇気はなかった。
告白したら、今までみたいに話せなくなるかもしれない。
練習の帰りに一緒に歩くことも。
高跳びの話をすることも。
くだらないことで笑うことも。
全部、変わってしまうかもしれない。
だから私は、何も言わない。
今まで通りでいい。
翔の隣で、ただ高跳びを見ていられれば、それでいい。
そう思った。
「瑠夏」
「ん?」
「今の、どうだった?」
いつの間にか、翔が目の前に立っていた。
「え?」
「跳び方」
「あ……」
私は慌てて笑った。
「うん。良かったよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、もう一回」
「え?」
「今の感じ、忘れないうちに」
翔がバーを見る。
私は思わず笑ってしまった。
「あと一回だけ、じゃなかったの?」
「……忘れた」
「もう」
笑いながら、私はバーを直した。
翔も笑った。
そのときだった。
「翔」
後ろから声がした。
振り返る。
同じ陸上部の彩花が立っていた。
手には部活のバッグを持っている。
「まだ帰らないの?」
「うん。もう少し」
「そっか」
彩花はバーをちらりと見て、それから翔を見る。
「次の記録会、出るんでしょ?」
「たぶん」
「頑張ってね」
「ありがとう」
それだけの会話だった。
彩花は「じゃあね」と言って、先に校舎のほうへ歩いていった。
私はその背中を目で追った。
「瑠夏?」
「……ううん。何でもない」
「そう?」
「うん」
私は笑った。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。
彩花が翔に声をかけたこと。
翔と彩花が普通に話していたこと。
そんなことは、何もおかしくない。
同じ部活なんだから。
私だって翔と話す。
なのに。
どうしてだろう。
さっきの二人を見ていると、ほんの少しだけ落ち着かなかった。
その理由を考えるのは、やめた。
「翔、もう一回跳ぶんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと見てる」
「絶対?」
「絶対」
翔が少しだけ笑った。
私はその笑顔を見て、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。
やっぱり、好きだ。
この人が好き。
でも、その気持ちは口にはしない。
言わないまま、大切にしまっておく。
翔がもう一度、助走位置に立つ。
私はマットの横で、静かにその姿を見つめた。
夕暮れのグラウンドに、風が通り抜ける。
バーの上には、薄い雲に覆われた空が広がっていた。
翔が走り出す。
私は息を止める。
踏み切る。
跳ぶ。
ほんの一瞬、翔の身体が空に近づいた。
その姿を見ながら、私は思った。
いつか。
いつか翔が、私より高く跳べたらいい。
その瞬間を、私は一番近くで見ていたい。
それだけでいい。
今は、それだけで。
そう思いながら、私は翔が着地する音を聞いていた。
朝から曇っていた空は、夕方になっても晴れる気配がない。校舎の窓ガラスには薄暗いグラウンドが映り、風が吹くたび、校庭の隅に植えられた木の葉がざわざわと音を立てていた。
陸上部の練習が終わる頃には、額に浮いた汗がなかなか引かなかった。
「今日はここまで」
顧問の先生の声が響く。
部員たちが一斉に動き始めた。
ハードルを片付ける人。トラックの道具を倉庫へ運ぶ人。水筒を手に、校舎へ向かう人。
私も高跳びのマットを片付けようと立ち上がった。
けれど。
翔はまだ、バーの前にいた。
「翔、片付けるよ?」
「うん」
返事はしたものの、動かない。
翔の視線は、バーに向けられたままだった。
私はその横顔を見て、何も言わずに立ち止まった。
先日の練習で、私が越えた高さ。
翔はまだ越えられていない。
何度跳んでも、ほんの少しだけ届かない。
バーに触れたときの乾いた音。
マットに落ちる身体。
起き上がって、落ちたバーを拾う。
それを何度も繰り返していた。
翔は「悔しい」と口にすることはほとんどなかった。
でも、私には分かった。
バーが落ちたあと、一瞬だけ伏せられる目。
何も言わずに拾い上げる手。
次の助走位置へ戻るまでの、ほんのわずかな間。
その全部が、翔の気持ちを表していた。
「もう一回、跳ぶ?」
私が聞くと、翔は少しだけこちらを見た。
「……うん」
「先生、もう終わりって言ってたよ」
「分かってる」
「じゃあ、帰ろう?」
「あと一回だけ」
私は笑った。
「それ、毎回言ってる」
「今日は本当に一回」
「本当?」
「本当」
翔が助走位置へ歩いていく。
私はマットの脇に立った。
もう何度も見てきた光景なのに、翔が助走に入ると、自然と目で追ってしまう。
身体を少し前に傾ける。
足元を確認する。
そして、走り出す。
トン、トン、トン――。
一定のリズムで近づいてくる足音。
最後の数歩。
踏み切り。
身体が浮く。
私は息を止めた。
翔の背中が反り、バーへ近づいていく。
あと少し。
そう思った瞬間。
カンッ。
乾いた音がした。
バーが落ちる。
翔はそのままマットへ落ちた。
「……」
起き上がった翔は、すぐには何も言わなかった。
落ちたバーを見つめる。
それから立ち上がり、ゆっくりとバーを拾った。
「翔」
「ん?」
「今の、惜しかったよ」
「……うん」
それだけだった。
翔はもう一度、バーをセットする。
私はその姿を見ながら、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
頑張ってほしい。
でも、無理はしてほしくない。
そして――。
いつか本当に、私より高く跳んでほしい。
あの約束をした日から、私はそう思っている。
「瑠夏」
「なに?」
「見てて」
「うん」
それだけ言って、翔はまた助走位置へ戻った。
私は頷いた。
翔が走る。
跳ぶ。
落ちる。
また立ち上がる。
その姿を見ているうちに、私はふと気づいた。
私、いつからこんなに翔を見ているんだろう。
高跳びをしているから。
同じ部活だから。
そう思っていた。
けれど、練習が終わっても翔が残っていると、帰らずに待ってしまう。
翔が跳ぶと、成功してほしいと思う。
失敗すると、胸が痛くなる。
自己ベストを更新すると、自分のことみたいに嬉しい。
そして。
翔が笑うと、その笑顔をもう一度見たくなる。
それが何を意味するのか。
私はもう、薄々気づいていた。
たぶん私は――。
翔が好きなんだ。
気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
でも、その気持ちを言葉にする勇気はなかった。
告白したら、今までみたいに話せなくなるかもしれない。
練習の帰りに一緒に歩くことも。
高跳びの話をすることも。
くだらないことで笑うことも。
全部、変わってしまうかもしれない。
だから私は、何も言わない。
今まで通りでいい。
翔の隣で、ただ高跳びを見ていられれば、それでいい。
そう思った。
「瑠夏」
「ん?」
「今の、どうだった?」
いつの間にか、翔が目の前に立っていた。
「え?」
「跳び方」
「あ……」
私は慌てて笑った。
「うん。良かったよ」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、もう一回」
「え?」
「今の感じ、忘れないうちに」
翔がバーを見る。
私は思わず笑ってしまった。
「あと一回だけ、じゃなかったの?」
「……忘れた」
「もう」
笑いながら、私はバーを直した。
翔も笑った。
そのときだった。
「翔」
後ろから声がした。
振り返る。
同じ陸上部の彩花が立っていた。
手には部活のバッグを持っている。
「まだ帰らないの?」
「うん。もう少し」
「そっか」
彩花はバーをちらりと見て、それから翔を見る。
「次の記録会、出るんでしょ?」
「たぶん」
「頑張ってね」
「ありがとう」
それだけの会話だった。
彩花は「じゃあね」と言って、先に校舎のほうへ歩いていった。
私はその背中を目で追った。
「瑠夏?」
「……ううん。何でもない」
「そう?」
「うん」
私は笑った。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。
彩花が翔に声をかけたこと。
翔と彩花が普通に話していたこと。
そんなことは、何もおかしくない。
同じ部活なんだから。
私だって翔と話す。
なのに。
どうしてだろう。
さっきの二人を見ていると、ほんの少しだけ落ち着かなかった。
その理由を考えるのは、やめた。
「翔、もう一回跳ぶんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと見てる」
「絶対?」
「絶対」
翔が少しだけ笑った。
私はその笑顔を見て、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。
やっぱり、好きだ。
この人が好き。
でも、その気持ちは口にはしない。
言わないまま、大切にしまっておく。
翔がもう一度、助走位置に立つ。
私はマットの横で、静かにその姿を見つめた。
夕暮れのグラウンドに、風が通り抜ける。
バーの上には、薄い雲に覆われた空が広がっていた。
翔が走り出す。
私は息を止める。
踏み切る。
跳ぶ。
ほんの一瞬、翔の身体が空に近づいた。
その姿を見ながら、私は思った。
いつか。
いつか翔が、私より高く跳べたらいい。
その瞬間を、私は一番近くで見ていたい。
それだけでいい。
今は、それだけで。
そう思いながら、私は翔が着地する音を聞いていた。



