君のとなり 〜約束の168〜

春の終わりのグラウンドは、まだ少しだけ冷たい風が残っていた。

 放課後の校舎から流れてくる生徒たちの声が、開け放された窓を通って遠くまで響いている。吹奏楽部の音が風に乗って聞こえ、校庭の反対側では野球部の掛け声が重なっていた。

 その中で、陸上部の練習場所だけは、どこか張り詰めた空気があった。

 トラックを走る選手たちの足音。

 砂を踏みしめる音。

 短く飛び交う掛け声。

 そして、高跳びのバーが落ちる乾いた音。

 カンッ。

「……っ」

 私はマットの上に背中から落ちて、悔しさに唇を噛んだ。

 見上げた空は、薄い雲の向こうに淡い青を残している。

 息を整えながら身体を起こすと、少し離れたところに立っていた翔と目が合った。

「惜しかった」

「……また?」

「いや、今のは本当に」

「でも落ちたじゃん」

「バーに当たっただけだろ」

「それを落ちたって言うの」

 翔が苦笑する。

 私たちは中学三年生。

 同じ陸上部で、同じ高跳びをしている。

 そして今、私たちが競っている高さは、私が先に越えていた。

 ほんの数センチ。

 たったそれだけの差なのに、翔にとっては大きな差だった。

「次、俺」

 翔が言った。

「うん」

 私はマットの端に座り、翔が助走を始めるのを見た。

 翔はバーから少し離れた場所で立ち止まる。

 いつもそうだった。

 跳ぶ前だけは、余計なことを言わない。

 さっきまで笑っていた顔から表情が消えて、視線がバーだけを捉える。

 風が吹く。

 翔の練習着の裾がわずかに揺れた。

 次の瞬間、翔が走り出した。

 一定のリズムで足音が近づいてくる。

 トン、トン、トン――。

 最後の数歩で速度が上がる。

 踏み切り。

 身体が浮く。

 背中がバーに近づいて――

 カンッ。

 バーが落ちた。

「……くそ」

 翔がマットに落ちる。

 いつもの悔しそうな顔。

 私は立ち上がって、転がったバーを拾った。

「惜しかったよ」

「瑠夏に言われても嬉しくない」

「なんでよ」

「だって、俺より高く跳んでるじゃん」

「……それは」

 私は言葉に詰まった。

 翔が悔しそうにバーを見る。

 その顔を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 でも、私だってわざと高く跳んでいるわけじゃない。

「もう一回?」

「うん」

 翔は即答した。

 私はバーを戻した。

 翔はまた助走位置へ向かう。

「無理しないでね」

「無理してない」

「でも、さっきから何回も跳んでる」

「越えたいから」

 短い言葉だった。

 私は黙った。

 翔は、私が跳んだ高さを越えたい。

 その気持ちは、ずっと知っていた。

 練習のときも。

 大会のときも。

 私がバーを越えるたびに、翔は笑って「すごい」と言ってくれる。

 でも、その目の奥にはいつも悔しさがあった。

 私はそれを知っていた。

 だからこそ、翔がもう一度走り出す姿を、黙って見つめた。

 助走。

 踏み切り。

 跳躍。

 今度は――。

 バーは落ちなかった。

「……!」

 私は思わず身を乗り出した。

 翔の身体がマットに落ちる。

 バーは、まだそこにある。

「翔!」

 私が叫ぶと、翔はすぐに起き上がった。

「……越えた?」

「うん!」

「ほんと?」

「ほんと!」

 翔が振り返る。

 バーを見て、それから私を見る。

 一瞬、目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。

「やった」

 その笑顔が、あまりにも嬉しそうだったから。

 私まで嬉しくなった。

「すごいじゃん」

「……でも」

 翔がバーを見た。

「瑠夏の高さじゃない」

 私は笑った。

「まだ?」

「まだ」

「欲張り」

「だって、越えたいから」

 翔はそう言って笑った。

 その笑顔を見ながら、私は思った。

 翔は、負けず嫌いだ。

 特に高跳びになると、それがよく分かる。

 私より高く跳べないことが悔しくて、何度でも挑戦する。

 転んでも。

 失敗しても。

 バーを落としても。

 また助走位置に戻っていく。

 そんな翔を見ているのが、私は好きだった。

 高跳びをしているときの翔は、普段より少しだけ遠いところにいるような気がする。

 走って。

 踏み切って。

 一瞬だけ空へ身体を預ける。

 その瞬間だけ、誰にも触れられない場所へ行ってしまうみたいだった。

「瑠夏」

「ん?」

「次、跳んで」

「私?」

「うん」

「なんで?」

「もう一回見たい」

 私は少しだけ笑った。

「何それ」

「いいから」

「翔、さっきまで自分が跳ぶって言ってたじゃん」

「今は瑠夏」

「……分かった」

 私は助走位置へ向かった。

 スパイクの紐を確認する。

 足元の土を踏む。

 顔を上げると、バーの向こうに夕方の空が見えた。

 春の終わりの空は、まだ夏ほど濃くない。

 西のほうだけが少しずつ橙色に染まり、校舎の窓には夕陽が細く反射している。

 風は昼間より涼しくなっていた。

 私は一度、深く息を吸った。

「瑠夏!」

 翔の声が飛んでくる。

「いける!」

 その声に背中を押されるように、私は走った。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 踏み切る。

 身体が浮く。

 視界の端にバーが見えた。

 背中を反らす。

 そのまま――。

 越える。

 着地。

 マットが身体を受け止める。

「よし!」

 翔の声が聞こえた。

 私は起き上がって、バーを見る。

 落ちていない。

 成功。

 翔が駆け寄ってくる。

「やっぱりすげえ」

「そう?」

「うん」

 翔はバーを見上げた。

 そして、少しだけ悔しそうに笑った。

「いつか絶対、越えるから」

 その言葉を聞いたとき、私は何も考えずに笑った。

「うん」

 それだけ答えた。

 このときの私は、まだ知らなかった。

 翔が私を越えようとしていたことが、ただの競技の話だけではなかったことも。

 私たちが何度も同じ場所で跳び、同じ空を見上げた時間が、いつか大切な記憶になることも。

 そして――。

 この日の「いつか」が、何年も先まで続いていくことも。

 ただ私は、もう一度だけバーを見上げた。

 翔はその隣に立っていた。

 少し悔しそうで。

 でも、どこか楽しそうで。

 そんな翔の横顔を見ながら、私はまた笑った。