春の終わりのグラウンドは、まだ少しだけ冷たい風が残っていた。
放課後の校舎から流れてくる生徒たちの声が、開け放された窓を通って遠くまで響いている。吹奏楽部の音が風に乗って聞こえ、校庭の反対側では野球部の掛け声が重なっていた。
その中で、陸上部の練習場所だけは、どこか張り詰めた空気があった。
トラックを走る選手たちの足音。
砂を踏みしめる音。
短く飛び交う掛け声。
そして、高跳びのバーが落ちる乾いた音。
カンッ。
「……っ」
私はマットの上に背中から落ちて、悔しさに唇を噛んだ。
見上げた空は、薄い雲の向こうに淡い青を残している。
息を整えながら身体を起こすと、少し離れたところに立っていた翔と目が合った。
「惜しかった」
「……また?」
「いや、今のは本当に」
「でも落ちたじゃん」
「バーに当たっただけだろ」
「それを落ちたって言うの」
翔が苦笑する。
私たちは中学三年生。
同じ陸上部で、同じ高跳びをしている。
そして今、私たちが競っている高さは、私が先に越えていた。
ほんの数センチ。
たったそれだけの差なのに、翔にとっては大きな差だった。
「次、俺」
翔が言った。
「うん」
私はマットの端に座り、翔が助走を始めるのを見た。
翔はバーから少し離れた場所で立ち止まる。
いつもそうだった。
跳ぶ前だけは、余計なことを言わない。
さっきまで笑っていた顔から表情が消えて、視線がバーだけを捉える。
風が吹く。
翔の練習着の裾がわずかに揺れた。
次の瞬間、翔が走り出した。
一定のリズムで足音が近づいてくる。
トン、トン、トン――。
最後の数歩で速度が上がる。
踏み切り。
身体が浮く。
背中がバーに近づいて――
カンッ。
バーが落ちた。
「……くそ」
翔がマットに落ちる。
いつもの悔しそうな顔。
私は立ち上がって、転がったバーを拾った。
「惜しかったよ」
「瑠夏に言われても嬉しくない」
「なんでよ」
「だって、俺より高く跳んでるじゃん」
「……それは」
私は言葉に詰まった。
翔が悔しそうにバーを見る。
その顔を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになる。
でも、私だってわざと高く跳んでいるわけじゃない。
「もう一回?」
「うん」
翔は即答した。
私はバーを戻した。
翔はまた助走位置へ向かう。
「無理しないでね」
「無理してない」
「でも、さっきから何回も跳んでる」
「越えたいから」
短い言葉だった。
私は黙った。
翔は、私が跳んだ高さを越えたい。
その気持ちは、ずっと知っていた。
練習のときも。
大会のときも。
私がバーを越えるたびに、翔は笑って「すごい」と言ってくれる。
でも、その目の奥にはいつも悔しさがあった。
私はそれを知っていた。
だからこそ、翔がもう一度走り出す姿を、黙って見つめた。
助走。
踏み切り。
跳躍。
今度は――。
バーは落ちなかった。
「……!」
私は思わず身を乗り出した。
翔の身体がマットに落ちる。
バーは、まだそこにある。
「翔!」
私が叫ぶと、翔はすぐに起き上がった。
「……越えた?」
「うん!」
「ほんと?」
「ほんと!」
翔が振り返る。
バーを見て、それから私を見る。
一瞬、目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「やった」
その笑顔が、あまりにも嬉しそうだったから。
私まで嬉しくなった。
「すごいじゃん」
「……でも」
翔がバーを見た。
「瑠夏の高さじゃない」
私は笑った。
「まだ?」
「まだ」
「欲張り」
「だって、越えたいから」
翔はそう言って笑った。
その笑顔を見ながら、私は思った。
翔は、負けず嫌いだ。
特に高跳びになると、それがよく分かる。
私より高く跳べないことが悔しくて、何度でも挑戦する。
転んでも。
失敗しても。
バーを落としても。
また助走位置に戻っていく。
そんな翔を見ているのが、私は好きだった。
高跳びをしているときの翔は、普段より少しだけ遠いところにいるような気がする。
走って。
踏み切って。
一瞬だけ空へ身体を預ける。
その瞬間だけ、誰にも触れられない場所へ行ってしまうみたいだった。
「瑠夏」
「ん?」
「次、跳んで」
「私?」
「うん」
「なんで?」
「もう一回見たい」
私は少しだけ笑った。
「何それ」
「いいから」
「翔、さっきまで自分が跳ぶって言ってたじゃん」
「今は瑠夏」
「……分かった」
私は助走位置へ向かった。
スパイクの紐を確認する。
足元の土を踏む。
顔を上げると、バーの向こうに夕方の空が見えた。
春の終わりの空は、まだ夏ほど濃くない。
西のほうだけが少しずつ橙色に染まり、校舎の窓には夕陽が細く反射している。
風は昼間より涼しくなっていた。
私は一度、深く息を吸った。
「瑠夏!」
翔の声が飛んでくる。
「いける!」
その声に背中を押されるように、私は走った。
一歩。
二歩。
三歩。
踏み切る。
身体が浮く。
視界の端にバーが見えた。
背中を反らす。
そのまま――。
越える。
着地。
マットが身体を受け止める。
「よし!」
翔の声が聞こえた。
私は起き上がって、バーを見る。
落ちていない。
成功。
翔が駆け寄ってくる。
「やっぱりすげえ」
「そう?」
「うん」
翔はバーを見上げた。
そして、少しだけ悔しそうに笑った。
「いつか絶対、越えるから」
その言葉を聞いたとき、私は何も考えずに笑った。
「うん」
それだけ答えた。
このときの私は、まだ知らなかった。
翔が私を越えようとしていたことが、ただの競技の話だけではなかったことも。
私たちが何度も同じ場所で跳び、同じ空を見上げた時間が、いつか大切な記憶になることも。
そして――。
この日の「いつか」が、何年も先まで続いていくことも。
ただ私は、もう一度だけバーを見上げた。
翔はその隣に立っていた。
少し悔しそうで。
でも、どこか楽しそうで。
そんな翔の横顔を見ながら、私はまた笑った。
放課後の校舎から流れてくる生徒たちの声が、開け放された窓を通って遠くまで響いている。吹奏楽部の音が風に乗って聞こえ、校庭の反対側では野球部の掛け声が重なっていた。
その中で、陸上部の練習場所だけは、どこか張り詰めた空気があった。
トラックを走る選手たちの足音。
砂を踏みしめる音。
短く飛び交う掛け声。
そして、高跳びのバーが落ちる乾いた音。
カンッ。
「……っ」
私はマットの上に背中から落ちて、悔しさに唇を噛んだ。
見上げた空は、薄い雲の向こうに淡い青を残している。
息を整えながら身体を起こすと、少し離れたところに立っていた翔と目が合った。
「惜しかった」
「……また?」
「いや、今のは本当に」
「でも落ちたじゃん」
「バーに当たっただけだろ」
「それを落ちたって言うの」
翔が苦笑する。
私たちは中学三年生。
同じ陸上部で、同じ高跳びをしている。
そして今、私たちが競っている高さは、私が先に越えていた。
ほんの数センチ。
たったそれだけの差なのに、翔にとっては大きな差だった。
「次、俺」
翔が言った。
「うん」
私はマットの端に座り、翔が助走を始めるのを見た。
翔はバーから少し離れた場所で立ち止まる。
いつもそうだった。
跳ぶ前だけは、余計なことを言わない。
さっきまで笑っていた顔から表情が消えて、視線がバーだけを捉える。
風が吹く。
翔の練習着の裾がわずかに揺れた。
次の瞬間、翔が走り出した。
一定のリズムで足音が近づいてくる。
トン、トン、トン――。
最後の数歩で速度が上がる。
踏み切り。
身体が浮く。
背中がバーに近づいて――
カンッ。
バーが落ちた。
「……くそ」
翔がマットに落ちる。
いつもの悔しそうな顔。
私は立ち上がって、転がったバーを拾った。
「惜しかったよ」
「瑠夏に言われても嬉しくない」
「なんでよ」
「だって、俺より高く跳んでるじゃん」
「……それは」
私は言葉に詰まった。
翔が悔しそうにバーを見る。
その顔を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになる。
でも、私だってわざと高く跳んでいるわけじゃない。
「もう一回?」
「うん」
翔は即答した。
私はバーを戻した。
翔はまた助走位置へ向かう。
「無理しないでね」
「無理してない」
「でも、さっきから何回も跳んでる」
「越えたいから」
短い言葉だった。
私は黙った。
翔は、私が跳んだ高さを越えたい。
その気持ちは、ずっと知っていた。
練習のときも。
大会のときも。
私がバーを越えるたびに、翔は笑って「すごい」と言ってくれる。
でも、その目の奥にはいつも悔しさがあった。
私はそれを知っていた。
だからこそ、翔がもう一度走り出す姿を、黙って見つめた。
助走。
踏み切り。
跳躍。
今度は――。
バーは落ちなかった。
「……!」
私は思わず身を乗り出した。
翔の身体がマットに落ちる。
バーは、まだそこにある。
「翔!」
私が叫ぶと、翔はすぐに起き上がった。
「……越えた?」
「うん!」
「ほんと?」
「ほんと!」
翔が振り返る。
バーを見て、それから私を見る。
一瞬、目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「やった」
その笑顔が、あまりにも嬉しそうだったから。
私まで嬉しくなった。
「すごいじゃん」
「……でも」
翔がバーを見た。
「瑠夏の高さじゃない」
私は笑った。
「まだ?」
「まだ」
「欲張り」
「だって、越えたいから」
翔はそう言って笑った。
その笑顔を見ながら、私は思った。
翔は、負けず嫌いだ。
特に高跳びになると、それがよく分かる。
私より高く跳べないことが悔しくて、何度でも挑戦する。
転んでも。
失敗しても。
バーを落としても。
また助走位置に戻っていく。
そんな翔を見ているのが、私は好きだった。
高跳びをしているときの翔は、普段より少しだけ遠いところにいるような気がする。
走って。
踏み切って。
一瞬だけ空へ身体を預ける。
その瞬間だけ、誰にも触れられない場所へ行ってしまうみたいだった。
「瑠夏」
「ん?」
「次、跳んで」
「私?」
「うん」
「なんで?」
「もう一回見たい」
私は少しだけ笑った。
「何それ」
「いいから」
「翔、さっきまで自分が跳ぶって言ってたじゃん」
「今は瑠夏」
「……分かった」
私は助走位置へ向かった。
スパイクの紐を確認する。
足元の土を踏む。
顔を上げると、バーの向こうに夕方の空が見えた。
春の終わりの空は、まだ夏ほど濃くない。
西のほうだけが少しずつ橙色に染まり、校舎の窓には夕陽が細く反射している。
風は昼間より涼しくなっていた。
私は一度、深く息を吸った。
「瑠夏!」
翔の声が飛んでくる。
「いける!」
その声に背中を押されるように、私は走った。
一歩。
二歩。
三歩。
踏み切る。
身体が浮く。
視界の端にバーが見えた。
背中を反らす。
そのまま――。
越える。
着地。
マットが身体を受け止める。
「よし!」
翔の声が聞こえた。
私は起き上がって、バーを見る。
落ちていない。
成功。
翔が駆け寄ってくる。
「やっぱりすげえ」
「そう?」
「うん」
翔はバーを見上げた。
そして、少しだけ悔しそうに笑った。
「いつか絶対、越えるから」
その言葉を聞いたとき、私は何も考えずに笑った。
「うん」
それだけ答えた。
このときの私は、まだ知らなかった。
翔が私を越えようとしていたことが、ただの競技の話だけではなかったことも。
私たちが何度も同じ場所で跳び、同じ空を見上げた時間が、いつか大切な記憶になることも。
そして――。
この日の「いつか」が、何年も先まで続いていくことも。
ただ私は、もう一度だけバーを見上げた。
翔はその隣に立っていた。
少し悔しそうで。
でも、どこか楽しそうで。
そんな翔の横顔を見ながら、私はまた笑った。



