怪盗は二度盗む

「陛下。もはや猶予はありません」

​​ 黒いスーツを隙なく着こなした男が、淡々と言った。
 王政復古派の使者――そう名乗ったその男は、丁寧な言葉遣いの奥に、こちらへ命令する気配を隠そうともしない。
 エリーゼはティーカップを置き、静かに問い返した。

​「財産の管理ですか」

​「左様でございます」

 使者は一礼しながら、冷えた目を上げた。

「例の『出生証明』――あれがあれば、旧王室の海外資産は正当な継承者のものとなります。
 加えて、正統な統治権を示す証ともなる。
 新政府の手に渡れば、我が国の経済も政治も好きに操られかねません」

 ​つまり――あの書類ひとつで、金も地位も大義名分も動く。
 彼らが欲しいのは、書類そのものだけではない。

 エリーゼという名の、王女、失われた王家の正統な生き残り。
 そして、その肩書きの先にぶら下がる莫大な富。

――とうとう来たのね

 胸の奥が、ひやりと冷えた。

 この屋敷での穏やかな日々は、仮初めのものだとわかっていた。
 子どもたちに勉強を教え、おやつの話で笑い、先生と呼ばれて過ごす毎日。
 そんな時間がいつまでも続くはずがないことくらい、最初から知っている。

 けれど、それでも。

 要求を呑めば、この暮らしは終わる。
 恩人であるハーロウ卿も、きっと巻き込むだろう。

 しかも、肝心の書類は手元にない。
 数日前にあの怪盗が盗み出してしまった。

 もしこの事実を王政復古派が知れば。
 あるいは新政府に先に嗅ぎつけられれば。
 自分だけでは済まない。

「ご決断はお早めに」

 使者が穏やかに言う。

「時機を誤れば、ハーロウ家にも余計なご迷惑が及びましょう」

 脅しだった。
 やはり、そう来る。

 エリーゼは微笑みを崩さずに応じた。

「忠告、痛み入ります」

 使者が去ってからも、部屋の空気は重かった。
 ひとりになると、ようやく息が少しだけ深くなる。

 だが、その息もすぐに止まることになる。

 廊下へ出た途端、使用人たちの浮き立ったざわめきが耳に飛び込んできたのだ。

​ 「見た!? 新しい警備の人、制服の着こなしが反則すぎ!」

 「すれ違っただけで心臓が止まるかと思った……」

「知ってる?その人城守(カステラン)候補かもしれないって」

​ 嫌な予感しかしない!

 エリーゼは足早にホールへ向かった。
 人垣の中心で予感は見事に当たっていた。
 黒髪に染め、目の色を変えていても、その男の美貌は目立っていた。
 ディオン・オブライエン。
 怪盗3X。

 どう見ても、ほとんど変装になっていなかった。

「やあ、先生」

 男はにこやかに笑った。

「新人には温かい目を向けてくださいよ。俺は真面目に働く善良な市民なんですから」

 その笑顔に、遠巻きの使用人たちがさらに色めき立つ。

――この男、無犯罪証明をどうやって用意したのかしら!

 エリーゼは一気に倦怠感を感じた。
 呆れるべきか、感心すべきか。
 どちらでもない。警戒すべきなのだ。

 この男は危険だ。
 書類を盗んだだけでは飽き足らず、今度は自分の生活の内側にまで入り込んできた。

 エリーゼは小さく息をつき、冷ややかに彼を見据えた。

 平穏な日常を守るための城に、
 もっとも厄介で、もっとも目立つ爆弾が、自分から飛び込んできたのだった。

 そしてある日の夕暮れ、屋敷の窓辺にはもうひとつ、見過ごせない影が差し込むことになる。