「先生! 昨日の夜に怪盗が出たって本当?」
午後の光が差し込む、ハーロウ家の広々としたプレイルーム。子どもたちは家庭教師を見上げる。
「本当よ。でも心配しないで。この家は大人が守ります」
「すごーい! じゃあ、おやつは盗まれない?」
「それは見張らないといけないわね。さあ、おやつの時間にしましょう」
子どもたちを奥の部屋に送り出し、家庭教師は一息ついた。
午後の陽射しは穏やかで、屋敷の中には焼き菓子の甘い匂いが満ちている。
昨日の夜に怪盗が忍び込んだとは思えないほど明るかった。
けれど、机の引き出しの中には一枚のカードがある。
『あなたの一番大切なものをいただきます。怪盗3X』
思い出しただけで胸がざわつく。
家庭教師が何気なくテラスへ目を向けると、欄干に腰をかけた男がこちらを見て笑った。
「お見事!子供のあつかいもお手の物だな」
整えられた髪、射抜くような緑の双眸、誰の目をもうばう顔。怪盗3X、ディオン・オブライエンだ。
無防備な素顔で姿を現したのは、あの気高い瞳を自分に向けたかったからに他ならない。
男は軽やかに歩み寄ってきた。
「やあ元気かい」
彼女は知らず身構えていた。この男は真っ昼間なのに、あまりにも堂々としている!
「泥棒さん、ほんとうに来たのね」
ディオンは昨夜変装した警備員の地味な顔と声ではない。
いくら予告したといっても、この女は一目で「昨夜の男」だと見抜いていた。
――鋭すぎるだろ。だけど、そう来なくっちゃね!
「怪盗だよ、か・い・と・う!」
「どちらでも同じよ」
ディオンは笑った。
「今日も驚かないんだな」
「先ぶれが机にありましたもの。『あなたの一番大切なものをいただきます』って」
「予告状だよ」
「ずいぶん親切ね」
ディオンは笑いながら一歩近づく。
エリーゼはその場を動かない。逃げたくなかったし、逃げれば負ける気がした。
「予告もしたのに、警察がいないなんて拍子抜けだ」
「その価値があるか、考えているところよ」
「ふうん?」
緑の目が、愉快そうに細められる。
昨夜と違って、今日はお互いの顔がよく見えた。相手がどんな顔で何を言うのか、逃げ場なく突きつけられる距離だ。
「エリーゼ」
「……名乗った覚えはありません」
「読ませてもらったからね」
ディオンは昨日盗み出した紙のはしをちらりと見せた。
「エリーゼ・フォン・ツェーリンゲン。
とっくに死んだはずの、亡国の王女様だ」
エリーゼの胸では動揺が渦巻いていた。が、顔には出さない。
「人の素性を勝手に暴くなんて趣味が悪いわ。
ディオンはストーカーの才能もおありね」
「知りたくなる相手っているだろ」
「私はいないわよ」
「いやあ、冷たいなー。あんなに熱い夜を過ごした仲じゃないか」
言葉とは裏腹に、ディオンは棘を向けられることすら喜んでいる。
「最近は王政復古派も新政府派も落ち着かなくてさ。
あんたみたいな証拠が転がり出たら、街ひとつ燃えかねない。あの紙切れはまさに『爆弾』だ」
ディオンは楽しげに言う。
「まさかハーロウ家の金庫の底に眠ってるとは思わなかったな」
「それを売るなら相手は選ぶべきね、ディオン。
うかつな相手に見せて回れば、あなたは消される」
エリーゼは低く言った。
脅すべき相手だ。遠ざけるべき相手。なのに、この男が笑いながら死地へ飛び込む姿を想像すると、落ち着かなかった。
「俺の心配?」
ディオンの胸の奥がわずかに騒いだ。胸の鼓動が少しだけ早くなる。
「いいえ、死なれては気分が悪いでしょう」
「即答か」
笑う声が、少し低くなる。
「そんな顔で言われると期待するな」
「失望しても責任は取らないから」
ディオンは不敵な笑みを浮かべ、さらに近づいた。
エリーゼは一歩退き、欄干に背をあてる。逃げ場がない。
顔が近い。
昨夜は闇と霧に紛れていたのに、昼の光の下ではなにもかもが隠れようもなかった。
彼のまなざしも、口元の笑みも、整いすぎている。それよりも分かりやすい表情が、妙に憎めなかった。
「――あいにく俺は、危険な火遊びほど燃える性質(たち)でね」
怖いわけではない。だが、落ち着かない。艷やかな声が近すぎる。
エリーゼは視線をそらさないで言い放った。
「手のかかる子ね」
「なんだって?」
「予告状を出して、真昼間に現れて、自分を見つけて欲しがってる」
彼の顔をまっすぐ見上げた。
「寂しがり屋で、目立ちたがり屋で、誰かに強く覚えていてほしい。
あなたは愛に飢えた子供みたい」
ディオンがわずかにひるむ。
エリーゼはそのひびを見逃さない。
「図星?」
「……ひどい女だな、あんた」
「窓から来て言う言葉かしら?」
「思ったより、ずっと興味がわいたよ」
ディオンはゆっくり笑った。
だが、その笑みはさっきまでより危うく、熱を含んでいる。
「あとで泣いても知らないわよ」
ディオンは一拍遅れて笑った。
「泣くどころか、笑いながらあんたをさらいに来るさ」
強がりめいた声だった。
エリーゼは黙っていた。
追い払うべきなのに、その目を見ると完全には拒みきれない。
この男が本気で自分の前に立っていると知るほど、簡単に視線をきれない。
ディオンが囁く。
「そんな目で煽るなよ。理性が仕事をしなくなるだろ」
「怪盗の理性なんか、信用できないわ」
「手厳しいな」
「堪えていないでしょう」
沈黙が落ちる。
だが気まずくはない。むしろ、ひりつくほど熱い。
風がテラスを吹き抜け、エリーゼの髪を揺らした。
その毛先を追うディオンの視線は、無遠慮で、静かだった。
危険だ。
この男も、この再会も、この先も。
次に彼が来たとして、自分は扉を閉ざせるだろうか。
その答えを、まだ彼女は知らない。
午後の光が差し込む、ハーロウ家の広々としたプレイルーム。子どもたちは家庭教師を見上げる。
「本当よ。でも心配しないで。この家は大人が守ります」
「すごーい! じゃあ、おやつは盗まれない?」
「それは見張らないといけないわね。さあ、おやつの時間にしましょう」
子どもたちを奥の部屋に送り出し、家庭教師は一息ついた。
午後の陽射しは穏やかで、屋敷の中には焼き菓子の甘い匂いが満ちている。
昨日の夜に怪盗が忍び込んだとは思えないほど明るかった。
けれど、机の引き出しの中には一枚のカードがある。
『あなたの一番大切なものをいただきます。怪盗3X』
思い出しただけで胸がざわつく。
家庭教師が何気なくテラスへ目を向けると、欄干に腰をかけた男がこちらを見て笑った。
「お見事!子供のあつかいもお手の物だな」
整えられた髪、射抜くような緑の双眸、誰の目をもうばう顔。怪盗3X、ディオン・オブライエンだ。
無防備な素顔で姿を現したのは、あの気高い瞳を自分に向けたかったからに他ならない。
男は軽やかに歩み寄ってきた。
「やあ元気かい」
彼女は知らず身構えていた。この男は真っ昼間なのに、あまりにも堂々としている!
「泥棒さん、ほんとうに来たのね」
ディオンは昨夜変装した警備員の地味な顔と声ではない。
いくら予告したといっても、この女は一目で「昨夜の男」だと見抜いていた。
――鋭すぎるだろ。だけど、そう来なくっちゃね!
「怪盗だよ、か・い・と・う!」
「どちらでも同じよ」
ディオンは笑った。
「今日も驚かないんだな」
「先ぶれが机にありましたもの。『あなたの一番大切なものをいただきます』って」
「予告状だよ」
「ずいぶん親切ね」
ディオンは笑いながら一歩近づく。
エリーゼはその場を動かない。逃げたくなかったし、逃げれば負ける気がした。
「予告もしたのに、警察がいないなんて拍子抜けだ」
「その価値があるか、考えているところよ」
「ふうん?」
緑の目が、愉快そうに細められる。
昨夜と違って、今日はお互いの顔がよく見えた。相手がどんな顔で何を言うのか、逃げ場なく突きつけられる距離だ。
「エリーゼ」
「……名乗った覚えはありません」
「読ませてもらったからね」
ディオンは昨日盗み出した紙のはしをちらりと見せた。
「エリーゼ・フォン・ツェーリンゲン。
とっくに死んだはずの、亡国の王女様だ」
エリーゼの胸では動揺が渦巻いていた。が、顔には出さない。
「人の素性を勝手に暴くなんて趣味が悪いわ。
ディオンはストーカーの才能もおありね」
「知りたくなる相手っているだろ」
「私はいないわよ」
「いやあ、冷たいなー。あんなに熱い夜を過ごした仲じゃないか」
言葉とは裏腹に、ディオンは棘を向けられることすら喜んでいる。
「最近は王政復古派も新政府派も落ち着かなくてさ。
あんたみたいな証拠が転がり出たら、街ひとつ燃えかねない。あの紙切れはまさに『爆弾』だ」
ディオンは楽しげに言う。
「まさかハーロウ家の金庫の底に眠ってるとは思わなかったな」
「それを売るなら相手は選ぶべきね、ディオン。
うかつな相手に見せて回れば、あなたは消される」
エリーゼは低く言った。
脅すべき相手だ。遠ざけるべき相手。なのに、この男が笑いながら死地へ飛び込む姿を想像すると、落ち着かなかった。
「俺の心配?」
ディオンの胸の奥がわずかに騒いだ。胸の鼓動が少しだけ早くなる。
「いいえ、死なれては気分が悪いでしょう」
「即答か」
笑う声が、少し低くなる。
「そんな顔で言われると期待するな」
「失望しても責任は取らないから」
ディオンは不敵な笑みを浮かべ、さらに近づいた。
エリーゼは一歩退き、欄干に背をあてる。逃げ場がない。
顔が近い。
昨夜は闇と霧に紛れていたのに、昼の光の下ではなにもかもが隠れようもなかった。
彼のまなざしも、口元の笑みも、整いすぎている。それよりも分かりやすい表情が、妙に憎めなかった。
「――あいにく俺は、危険な火遊びほど燃える性質(たち)でね」
怖いわけではない。だが、落ち着かない。艷やかな声が近すぎる。
エリーゼは視線をそらさないで言い放った。
「手のかかる子ね」
「なんだって?」
「予告状を出して、真昼間に現れて、自分を見つけて欲しがってる」
彼の顔をまっすぐ見上げた。
「寂しがり屋で、目立ちたがり屋で、誰かに強く覚えていてほしい。
あなたは愛に飢えた子供みたい」
ディオンがわずかにひるむ。
エリーゼはそのひびを見逃さない。
「図星?」
「……ひどい女だな、あんた」
「窓から来て言う言葉かしら?」
「思ったより、ずっと興味がわいたよ」
ディオンはゆっくり笑った。
だが、その笑みはさっきまでより危うく、熱を含んでいる。
「あとで泣いても知らないわよ」
ディオンは一拍遅れて笑った。
「泣くどころか、笑いながらあんたをさらいに来るさ」
強がりめいた声だった。
エリーゼは黙っていた。
追い払うべきなのに、その目を見ると完全には拒みきれない。
この男が本気で自分の前に立っていると知るほど、簡単に視線をきれない。
ディオンが囁く。
「そんな目で煽るなよ。理性が仕事をしなくなるだろ」
「怪盗の理性なんか、信用できないわ」
「手厳しいな」
「堪えていないでしょう」
沈黙が落ちる。
だが気まずくはない。むしろ、ひりつくほど熱い。
風がテラスを吹き抜け、エリーゼの髪を揺らした。
その毛先を追うディオンの視線は、無遠慮で、静かだった。
危険だ。
この男も、この再会も、この先も。
次に彼が来たとして、自分は扉を閉ざせるだろうか。
その答えを、まだ彼女は知らない。
