桜が咲いたら、必ず君に会いにいく

 お客さんが全員帰った後、片付けを終えた会場で、僕は先輩と一緒にいた。

「お兄さんって、夏月さんのことだったんだね」
「す、すみません……なにかと騒がしい兄で」
「ふふっ。全然、そんなことないよ。とってもユニークなお兄さんじゃない」

 そう言って微笑む先輩は、きっとお兄ちゃんの化けの皮が剥がれた素顔を知らないんだろう。ユニークなんて言葉の領域を、遥か斜め上に凌駕している。

 まぁ……いっそ、知らない方が幸せなのかもしれない。

「あのね、ハルくん。私、本当は気付いてたの。桜雅くんと遊園地に行った日、ハルくん、ずっと私達の後を付けてたでしょ」
「き、気付いてたんですか!?」

 声を詰まらせた僕に、先輩はふふっとお茶目な笑みを見せた。

 じゃあ……おうくんと二人でいた時も、先輩は、ずっと知らないふりをしてくれていたんだ。

「桜雅くんのために尽くす君を見ていたら、私なんて足元にも届かない存在だなって思ったの。……ハルくんって、人たらしだね。あんまりにも君が良い人すぎるから、私、ハルくんのこと……ちょっと好きになっちゃいそうだった」
「えっ!」
「なーんてね、冗談よ」

 先輩は可愛らしく笑って、人差し指を唇に当てた。

「私はもう桜雅くんの恋人じゃない。だから……”ハルちゃん”の好きにしていいんだよ」

先輩の声は胸が痛いくらい優しかった。

だけど、僕は——まだ、怖い。

 自分が傷付くのも……大切な人を傷付けるのも……。

「話は聞かせてもらったわぁっ!」

ガバッと、背後から覆いかぶさってきた怪しい影。

驚いて振り向くと、そこにはお兄ちゃんが立っていた。

「な、夏月さん!?」
「ほんっとうにすみませんっ……! うちの兄、こっちがデフォルトなんです!」

 必死で場を取り持とうとする僕に、先輩は一瞬だけ、きょとんと目を丸くした後、くすりと柔和な笑みを浮かべた。

「ふふ、すごくハートが熱い人なんだね」

 引くどころか、むしろちょっと楽しそうなまなざし。

 先輩……間違っても、お兄ちゃん側の人にだけはなっちゃダメです、絶対に。

「紗雪ちゃんにここまで言わせるなんて、なんて罪な男なのかしら。お兄ちゃん、もう黙って見てられないわ!」
「僕は女だよ!」

 お兄ちゃんの口車に乗せられて、つい大声で公言してしまった。

「ハル! あなたの心が優男なのは、お兄ちゃん、よーく知ってるわ! でも、だからって、いつまでも答えを出さないのは、あなたの優しさに、あなた自身が甘えてるだけなんじゃないの?」

 ぐうの音も出ない。                         
 お兄ちゃんの言葉が、心の奥深いところに突き刺さる。

 このまま逃げ続けても、きっと僕は臆病なまま何も変われない 。

「ねぇ、ハル。あなたは、どうしたい?」
「僕は……僕はっ!」

 ——この想いを、おうくんに伝えたい。

 震える僕の手を、お兄ちゃんがそっと包みこむように握ってくれた。

 大丈夫だよと語りかけるように、アメトリンの瞳が優しく寄り添ってくれる。

 そんな僕らを、先輩は温かなまなざしで見守ってくれていた。

 二人とも、真剣に考えてくれているんだ。
 だったら、僕も——覚悟を決めなきゃ。

「あの、先輩!」

 僕はもう逃げない。ここで、ちゃんとけじめをつけるんだ。
  
「僕、おうくんのことが好きです! だけど……それと同じくらい先輩のことも好きなんです!」
「ハルくん……」
「先輩は綺麗で、優しくて、頭が良い……僕の憧れのお姉さんでした。おうくんがひとめぼれしたっていうのも………悔しいけど、納得しちゃいましたもん」

 もう喉の震えはおさまっていた。

「先輩さえ良ければ……僕と友達になってほしいんです」
「私で、いいの……?」
「はい。わがままかもしれないですけど……」

 わがままを言うなんて、初めてだった。
 
 ずっと胸の中に押しこんでは、ひとりで消化してきた。

 だって、僕がわがままなんて言ったら、家族や周りの人を困らせてしまうから。 

「ううん……全然、わがままなんかじゃないよ」

 だけど、先輩は僕の言葉を優しく否定して、受け入れてくれた。

「よく言ったわ、ハル! さすが、お兄ちゃんの自慢の妹ね!」
「ちょっと、お兄ちゃん……! やめてよ、先輩の前で!」

 お兄ちゃんの大きな手に、髪をぐしゃぐしゃにされる。

「ふふっ、二人とも仲がいいのね」

 そんな僕らの傍らで、先輩は微笑ましげだった。

「でもね、ハル。お兄ちゃん、本当は妹だろうと弟だろうと、どっちだっていいの。ただ……一人の家族として、お兄ちゃんは、いつだってあなたの幸せを願ってるのよ」

 胸の中に根深く刺さっていた氷の針が、すっと溶けて消えていく。
 
 ああ、どうして、今まで気付かなかったんだろう。

 生まれた瞬間から、僕はきっと幸せ者だった。

 お父さんがいないからとか、家が貧乏だからなんて関係ない。

 僕の心を不幸にしていたのは、僕自身の汚れた感情だったんだ。