桜が咲いたら、必ず君に会いにいく

 その日、お兄ちゃんに買い物を頼まれた時点で、悲劇の足音はすぐそこまで迫ってきていたのだと思う。

 学校から帰ってきて、僕が夕飯の献立を考えていると、

「駅前のドーナツが食べたーい」
「おやつがないと死んじゃう〜」

 なんてお兄ちゃんの腹ペコ虫が、またぐずり出した。

 あげくの果て、「お兄ちゃん、これからだぁーじなリモート会議なの〜。お金渡すから買ってきて♡」と、おねだりされる始末。

 僕だって暇じゃないんだけどなぁ。

「あっ、すみません……」

 ドアの取っ手に伸ばした指先が、ふと誰かの手に触れた。

「……ハルくん?」
「えっ……紗雪先輩!?」

 お店の前で、僕らはお互いの顔を見て固まる。

 ふわりと甘い匂いが、店内から流れてきていた。

「先輩、生徒会の帰りだったんですね」
「そうなの、ハルくんは?」
「僕は……お兄ちゃんのお使いで」
「そっか。ここのドーナッツ、人気だよね。私も時々、買いにくるんだ」

 お店に入ると、二人がけの席に紗雪先輩と座り、ドリンクを注文する。
 僕はカフェオレで、紗雪先輩はアイスティー。

 制服を着崩すことなく、ブレザーのボタンを上まできちっと留めた先輩は、まさに優等生って感じがして、ただ座っているだけでもキラキラして見える。

 きっと周りからしたら、僕は中学生の弟みたいに見えてるんだろうな……。

 不安になって、ふと先輩の顔を盗み見る。

 先輩は穏やかに笑っていた。

 ——何があったんだろう。

 おうくんが、あんなに落ちこむなんて。
 
 そんなに酷い別れ方だったんだろうか。

 僕が聞いたら、先輩は本当のことを話してくれるのかな。

 いや……そもそもそれ以前の問題に、僕は先輩にとって、そこまでの信頼に足る相手なんだろうか。

「そろそろ行こっか」
「そう、ですね……」
 
 結局、なにひとつ踏みこめないまま時計の針だけが回り、僕達は店を出た。

「やっぱ、あれ、ハルちゃんだって!」
「マジか……」

 ジャージ姿の男子二人が歩いてくる。

 僕達に気付くと、一人が手を振りながら声をかけてきた。

「やっほー!」
「な、中山くんっ、と、桐生くん……」
「部活の買い出し頼まれちゃってさぁ。いやぁ、参ったよ〜。って、となりにいる女の人だれ!? めっちゃ美人!」
「えぇっと……」

 ……二人とも、僕のクラスメイトだ。

 ニコニコと人懐っこそうな笑顔を浮かべているのが中山くん。
 彼は明るいムードメーカーで、男女問わず親しみやすい男の子。

「おい、颯太(そうた)。いきなり失礼だろ」

 こっちは桐生くん。
 彼は背が高くて、キリッと涼しげな顔立ちをしている。
 性格もクールで落ち着いてて、いつも女子にモテてる。

「あの! よかったら、連絡先交換してくれませんか!?」
「えっ」

 熱烈にアタックし始めた中山くんに、先輩は困ったように僕を見てから、「ま、まぁ……それくらいなら」と、かばんからスマホを取り出した。

「バカ……。挨拶が先だろ」

 桐生くんはため息をつくと、申し訳なさそうに肩をすくめた。

「騒がしくしてごめんな、咲間。……そっちのお友達さんも」
「あ、ううん……全然、大丈夫。気にしないで」

 本当は全然、大丈夫なんかじゃない。

 僕は学校じゃ普通に女の子として生活してるんだ。

 もし、男の子のふりがバレたら……。

 ドクンと、心臓が軋む。

 冷や汗が止まらなかった。

大河(たいが)も交換してもらったら?」
「俺はいい」
「硬いなぁ〜。それとも俺は顔が良いから、そんなことする必要ないって? 憎いねぇ〜。その顔のパーツのひとつくらい、オレにも分けてほしい!」
「うるせぇ……死んでもやらん」

 和やかな会話。

 中山くんがはっちゃけて、それを桐生くんがいなす。

「そういえば、気になってたんだけどさ。ハルちゃん、それ私服?」
ピキリと、空気がヒビ割れる音がした。

「めっちゃ似合うね! 普段のスカートのハルちゃんも可愛いけどさぁー。今は、かわカッコイイって感じ?」
「……スカート?」

 戸惑い揺れた翠緑(すいりょく)の瞳が、ゆっくりと僕に向けられる。

 大きな石が、喉を塞いだ。

「おい、颯太」
「大河だって、さっき見惚れてたんじゃーん。あれは間違いなく雄の顔だったね」
「調子に乗るな」

 桐生くんが、中山くんの頭を小突く。

 けれど、今は笑ってみていられる余裕なんて僕にはない。

「やっべ! そろそろ戻らないと、みんなに怒られちゃう!」
「もうこんな時間か」
「先輩、後で連絡くださいね!」
「じゃあな」
「……」
「ハルちゃん?」

 顔を覗きこまれて、ハッとする。

「あっ……う、うん……」

 去っていく二人の背中が、ぼんやりと霞んで見えた。

 ——バレた……終わりだ……。

 指先に力が入らず、ドーナツの袋が手から地面へ滑り落ちる。 

「……ハルくん」

 静かに見つめ返してくる目に映っているのは、侮蔑か、憐憫か……。

「女の子……だったんだね」

 言い訳なんて、なにひとつ思い浮かばなかった。

 ガクガクと震える足が、一歩後ろに引く。

「逃げないで……! ハルくんっ!」

 次の瞬間、視界が暗転し、僕は先輩の胸に包まれていた。
 
「ハルくんが……女の子だって知ってもね……。それでも——私の気持ちは何も変わらないよ」

 先輩の指先が、僕の顎に触れ、そっと頬をなでる。

 押し付けられた体温と、甘い香りが混ざり合い、頭がぼやっとした。
 
「辛い嘘をつかせて、ごめんねっ……! ずっと苦しかったよね……」

 耳元でささやかれた吐息。

 僕は両手を先輩の背中に回すこともできず、暗い雲に埋もれていく空の一点を呆然と見つめていた。

 ——ガチャン!

 鋭い金属音が、静寂を破る。

 立ち尽くす人物の傍らで、運転手のいない自転車が倒れていた。

 視線を上にずらしていくと、そこにいたのは。

「二人でくっついて……何してんだよ……?」

 低い声が、心臓を潰した。

 最悪だ……。

「違うの、桜雅くん……これはっ!」

 まるで僕の醜態(しゅうたい)を嘲笑うかのように、雨が降り出す。

 あんなに晴れていたはずなのに……。

 おうくんの視線が、肌に突き立てられた(やいば)のように痛くて、僕は逃げるようにパーカーのフードを被った。

「あの言葉は全部……嘘だったんですね……。オレ……最後まで信じたかったです、紗雪先輩のこと」
「お願い、桜雅くんっ! 話を聞いて!」

 ——僕のせいだ。 

 誤解なんだよ、おうくんっ……!

 嘘をついてたのは先輩じゃない。ここにいる僕こそが……本当の嘘つきだ。

 先輩は、何も悪くない。僕の嘘に、先輩を巻きこまないで……!

 僕が報いを受けるから……。

 嫌われ役は、僕一人だけで十分だから……。

 もうこれ以上、先輩を傷付けないでよっ……!
  
「バカ……だなぁ……」

 声の震えは、雨が上手くかき消してくれた。

「自惚れすぎなんだよ、おうくんは」
「……は?」
「僕ね……ずっと待ってたんだよ。二人の関係がこじれるのを」
「今……なんつった……?」
「聞こえなかった? 二人が別れてくれて、清々したって言ったんだよ」
「なんだとっ……!」
「おうくんなんかより、僕の方がよっぽど先輩を幸せにできる。先輩がつまらなそうにしてたの、気付かなかった? ああ、でも、しょうがないかぁ……。脳みそ筋肉の、ポンコツゴリラだもんね?」
「ハル、お前っ……!」

 本当は、ちっとも思ってない。

 幸せになりたかったのは……きっと僕だ。

 君の一番の友達でいたかった。

 君を独り占めしたかった。

 僕だけを見ていてほしかった。

 自分の心の醜さを思い知る。……僕は卑怯だ。

「ハル、お前っ……!」
「桜雅くん、だめっ!」

 おうくんの手が、僕の胸元に伸びてくる。

 だけど、目をつむった瞬間、先輩が僕の前に立ち塞がった。

「はははは……」

 なんで……なんでですか、先輩っ!

「先輩は僕の味方だってさ……残念だったね」

 おうくんだけじゃない。

 僕はあなたのことだって騙していたんですよ、先輩……!
 
「もうやめて、二人とも!」

 それにあなたは僕のせいで、おうくんに悪者にされようとしている。

 嘘つきの僕を庇う意味なんて……。

「ねぇ、ハルくん……! どうして、そんなこと言うの!?」

 世界の音が遠ざかり、雨が静かになる。
 
「僕だって……好きだったんだよ……」

 気付けば、閉じこめていた声があふれ出していた。

「ずっと羨ましかった……。なんで、僕じゃないんだって……!」
「だったら……もっと早く言えば良かっただろ!?」
「言えるわけないじゃんっ!」

 そうだ、言えるわけがないんだ……。

「だって、僕達……友達なんだからっ!」

 ずっとわかっていた。

 しょせん、僕とおうくんは幼馴染。

 僕らの間には、あらかじめ明確な線が引いてあって、それを越えることはない。

「でも……それももう無理だね。全部……バレちゃったんだもん……」

 男の子のふりをし続けていたことも、この気持ちも、先輩に知られてしまった。

 おうくんにバレるのだって、きっと時間の問題だ。

 だったら、いっそ……僕の方から断ち切ってしまおう。

 雨が降ってくれて良かった。

 そうじゃなきゃ、嘘で作った僕の鎧は、自分の涙で脆く崩れてしまっただろうから。

「——さようなら、おうくん」

 僕の大好きな……最高にかっこ悪い王子様。