タイム アフター タイム 甘夏とハッサクは、ノスタな恋をする。


 私とハッサクは、元いた世界に帰る手がかりをなにも見つけられないまま、1984年の梅雨、夏休み、そして二学期へと次々に突入し、秋を迎えていた。夏はやっぱりこっちも暑かったけど、元いた世界の猛暑?酷暑?に比べれば、だいぶマシだ。九月に入ったら風が急に涼しくなってきた。十月からは冬服でも問題なさそうだ。

 学校での生活では、クラスメイトで幼なじみのアケとトモとヒカリの存在に助けられている。私たちがこの世界に来る少し前に起きていた出来事とか、お店の場所とか、私が知らないことを恥をしのんで聞くと『なに寝ぼけたこと言ってんのよ』とブチブチ言われながらも、ていねいに教えてくれる。
 あ、そうだ。軟式テニスの夏の関東大会で、アケのペアは準優勝という優秀な成績を収めていた。アケに『ソフトテニスの準優勝、おめでとう!』とお祝いの言葉を贈ったら『ありがとう。でもさあ、ソフトテニスってなに?』と聞かれた。
 そんなこんなで、こっちの世界で暮らしていくことに慣れてきた。住めば都かな? スマホが無くても、なんとかやってける自分に驚いている。

 ハッサクとは交換日記と家の電話で連絡を取り合っていた。お母さんからは最近電話が長いんじゃないのとたびたび文句を言われ、お父さんは電話台が置かれている廊下をこっそりとのぞいているみたいで、私が誰と電話をしているのか気になっているみたい。
 ハッサクは、『夜分にすみません、アマナツさんはいらっしゃいますか?』と電話口で言葉を発するとき、無茶苦茶ドキドキ緊張すると以前こぼしていた。それでも、いつも彼から電話してくれる。電話口で私の話をよく聞いてくれ、日記には思ったことをしっかり書いてくれている。スマホなしでも、不便やストレスを感じていない理由は、彼のこういう所にあるのかも知れない。

 お母さんに「これからすぐに涼しくなるから、部屋のタンスの服、秋冬ものに入れ替えておきなさい」と何度も言われていたことを思いだした。多分それらは、押し入れの中の半透明な衣装ケースに入っていたはず。そう言えば、夏服はTシャツにデニムとかばっかり着ていた。この世界に来てから、『部屋の主?』がどんな服が好みなのか、今まで気にしてなかったけど、秋冬モノはどんなアイテムを揃えているのかちょっと興味が湧いてきた。
 土曜の午後、押し入れに四つ積まれている衣装ケースを順に開けてみると、丸襟のフリルブラウス、マドラスチェックのボタンダウンシャツ、よく知らないブランド名のロゴが入ったピンク、ホワイト、ライトブルー各色のトレーナー、襟元にV字のラインが入った紺のニットや雪の結晶の柄が入ったニットなどが綺麗に畳まれて入っていた。ちょっと防虫剤の匂いがする。下に履く物は、ティアードスカートや、キュロット、デニム地のスカートなど、どれもミニスカートの部類に入る。
 元いた世界の自分の秋冬の衣類を思い出し、比べてみる。ひょっとしたら、この部屋の主、私よりもお洒落かも知れない……
 私は衣装ケースに収められていたアイテムを引っぱりだし、色々と組み合わせを変えて試着してみては、整理棚の上に置かれたスタンド型の鏡に自分の姿を映してみた。サイズはぴったりだ。髪型も色々と変えてみた……この「試着&一人ファッションショー」を繰り返せば繰り返すほど、この部屋の元住人に対して敗北感が強まっていく。
 でも。
 どうせなら、こんな私服を着て、外に出かけてみたい。そんな気持ちがムクムクと湧いてきた。
 そうだな、せっかく出かけるなら、私たち女子中学生の人気のスポットがいいな。そうだ、原宿! 原宿と言えば、MILK! 確か、この人気ブランドは昭和の時代からあったはずだ。そう言えば、今私が着ている服は、MILKっぽさもある。とはいえ、普通の女子中学生が手軽に買える値段ではなかったはずだ。少なくとも令和のMILKは。

 私は、この部屋の住人の人物像を勝手にイメージしてみる。お洒落はしたいが、お小遣いは限られている。だから、お手頃の値段で買える服を選んでコーディネイトしていた。部屋の整理棚の上に、読み込んで少しボロボロになったOliveが二冊置いてある。そんな女の子を妄想してみたら、だんだん自分がその子だったんじゃないかっていう錯覚におちいる。そう、私は未来から来たんじゃなくて、もともとここにいたんだって。

 その夜、めずらしく私の方からハッサクに連絡してみた。ちょっとドキドキしたけど、ベルが一回だけ鳴って本人がすぐに出た。ひょっとしたら、私からそんなに電話がかかってくることはないのに、いつでも出られるように待機していたのかも知れない。想像したら、笑いがこみ上げてきた。

『もしもし、なに笑ってるの?』
「あ、いや、なんでもない……さっき見たテレビを思い出して」
 とっさにウソをついてしまった……

『めずらしいな、アマナツから電話してくるなんて』
「あ、いやちょっとね……デートのお誘い」
『で、デート⁉』
 動揺するハッサク。私も思わず言ってしまってからドキドキしてきた。それをごまかすように、昼間の一人ファッションショーの話をした。
『へえ、それ見てみたかったな』
「……あの、それ、お世辞で言ってますか?」
『いや、ただ見てみたいって言っただけ。それで可愛いとか、キレイとかいったらお世辞になるんじゃないかな』
 それ、どういう理屈なのか、いまいちわからなかったけど、なんとなく褒められたような気になって、昼に感じたことを続けて話した。

「でね、そのとき思ったんだ。ひょっとしたら私、ううん私たち、もともとこの世界にいたんじゃないかって」

 ハッサクが返答してくるまで、少し間があった。

『……それ、どうかしてるんじゃないかな』
 衝撃の言葉だった。
「ちょ、ちょっとなによその言い草は! 私が変になったっていうの?」
 居間にいるお母さんやお父さんに聞こえるくらい大声を出してしまった。
 そんなことありえないって? 私だけがこっちの世界に馴染んじゃってひどいって? そりゃあ、ハッサクはミカンちゃんのことで頭がいっぱいなんだろうけどさ……そう言いかけたとき、慌てたように彼が否定した。
『いやそうじゃなくて、こう言いたかったんだ……「どうか」の漢字は「同じ」の「同」に「変化」の「化」。つまり、こっちにもともといたかも知れない「アマナツ」と君が、一緒に合わさって一つになってきているのかもってこと』
「……なんだそういうことか」
『なんだって……ずいぶん冷静だな』
「うーん、服を着替えて髪型変えて色々試してたら、鏡に映っている私が、だんだん『もともとここにいた私』に思えてきたの」
『ふーん、なるほど』
 そう言って彼はまた黙ってしまった……ミカンちゃんのことを考えているのだろうか。

「ねえハッサク、気を悪くした? それなら謝る」
「いや、そんなことないよ。ただ考えてただけ。アマナツもぼくも、この世界の『誰か』と同化していくんだったら、そのままこの世界で生きていくしかないんだろうなって」
「……戻れないのは、やっぱり嫌だよね」
『そうは思うけど、こればっかりは自分たちの力だけではどうにもならないような気もする』
「そういうもんかな?」
『今はなんとも言えないな……それよっか、最初に言ってた……で、デートって?』
 話が戻った。ハッサクが戻してくれてよかった。

「えーっとね、明日もし時間があれば、原宿に行ってみない? ……竹下通り」
『原宿? なんでまた』
「原宿って、今も昔も――あれ? 未来も今も、かな――女子中学生の人気の場所でしょ? だから、街の様子とか、そこに集まってくる女の子たちとか、見ておきたいの」
『……ひょっとして、色々と服を着てみたら、お洒落な格好をして、そこに出かけてみたくなったってところかな?』
……ホンネの目的がバレた! ハッサクのくせに! ニブチンのくせに。
「……それ、認めるから!……で、どう?」
『ああ、いいよ……でもなにを着ていけばいいんだろう?』
「あ、君はそんなに悩まなくていいから」
 気合いを入れすぎてハッサクが変な恰好して現れる未来が見えたような気がして牽制した。

「じゃあ、JRじゃなかった国鉄の原宿駅の竹下口で十時に待ち合わせでどう? お昼はどこか良さそうなお店を見つけて食べようよ」
『え、赤羽から一緒に行かないの?』
「それじゃあデートにならないでしょ?」
『そういうもんかな?』
「そういうもんよ」
『じゃあ、わかった……ところでアマナツ、原宿は詳しいの?』
「あっちの世界で二回行ったことがある……あんまり変わんないじゃない?」
『そうだろうか?』
「それに、こないだ買った『ぴあ』で原宿特集やってたし」
『……頼りにしてる。じゃあ、明日』
「あっ、ちょっと待って」
『なに?』

「こっちの世界にもともとハッサクと私の分身?がいたのなら、二人はその……つきあって、いや……友だち……顔見知り……仲がよかったのかな?」
 ついつい言葉を選んでしまった。
『……そうだな、少なくとも顔見知りで、そこそこ仲がよかったんじゃない?』
「どうして? だって、住んでる団地の棟が違うんだし……」
『簡単なことだよ。だって、毎朝一緒に学校に行くくらいだし――アケやトモやヒカリやカズヤも一緒だけど――ときどきあいつら、ボクたちのこと「相変わらず仲いいね」って冷やかすし』

「そうか……確かに。わかった……じゃあまた明日」
『ああ、また明日……おやすみ』

 なんでだかわからないけど嬉しくなって、電話のあとに入ったお風呂では私、ずっと鼻歌を歌っていた。

○

 女子中学生の人気スポット原宿・竹下通りと、そこに集まってくる女の子たちの様子を見ておきたい、という目的はウソではない……決して。
 せっかく1984年の世界に来たのなら、2026年のそことどう違うのか、比べてみたかったし。『比べる』ということなら、以前行ったことがある場所じゃないといけないし。赤羽以外で歩き回ったことがある場所は意外と少なくて――池袋は何度か行ったことがあるけど、もうちょっと華やかな場所がいい――それが原宿というわけだ。でも、こうやって今まで自分が行ったことがある場所を改めて思い起こしてみると……少ない。中学生とはいえ、自分の行動範囲が狭いことに、がく然とした。
 あっちの世界で原宿に一緒に行ったのは、アケとトモとヒカリ。いつものクサレ縁のメンバーだ。雑貨や手袋なんかを買って、ながーい渦巻状のポテトを買い食いして、ちょっと奮発してちっちゃいブタちゃんがいるカフェに入り癒やされたりした。MILK本店は、ウインドウショッピングだけ。とにかくもう人が多くて、中高生や家族連れだけでなく、外国人もいっぱいいて、お店のスタッフとして立っている人の中にも国籍不明?の人がけっこういた。

 さて、1984年の原宿。
 山手線を降りて、ホームの新宿寄りの階段を降りる。
 竹下口の改札を出ると、そこはもう人だらけ。やっぱり赤羽からハッサクと一緒に来た方がよかったかな……
 ここで待ち合わせをしたりお喋りをしている人たちは、中高生が多いみたいだけど、服装はまちまちだ。パステルカラーの乙女なファッションの子、皮ジャンを着たちょっとツッパリ?っぽい恰好の男女。休日なのに制服姿の女子中学生もけっこういる。ハデハデでゆったりとした民族衣装みたいな服を身にまとった若い人の姿もあるが、竹の子族が集まるという代々木公園が近いからだろうか。

 人だかりに圧倒されて立ちすくんでいたら、「前に進んで!」「立ち止まらないでください!」とメガホンで怒鳴りまくられ、ビビってしまった。別に私だけを怒鳴っているわけじゃないと思うけど。

「おーい! アマナツ」
 そんな喧噪の中、ハッサクの声がかろうじて聞こえた。改札口を出て少し左側の方で手を振っている。見つけてくれてよかった。待ち合わせの人々の合間を縫って彼に近づく。

「ごめんハッサク、待ち合わせ場所、ミスったかな……あっちの世界でも竹下口は混んでいたけど、こんなだとは思ってもなかった」
「いや大丈夫。だいたいムチャ混みなのは予想してたし……」
 そう言って彼は、私を見て視線を上下に二往復した。

 その日の私のコーディネイトは悩みに悩んだあげく、アイボリー色で大きめのVネックセーターに、赤地でチェック柄のミニスカート。それに短い丈のダッフルを羽織ってみた。
 ハッサクはといえば、ブルーのTシャツにカーキ色のジャンパーを羽織って、ストレートのデニム。意外と似合っている。
「へえ、ハッサクはそういう服持ってるんだ」
「うん、部屋のタンスを漁ってみた。デニムはいつもこれ履いてるけどね」
 ナウシカの映画を観に行ったときなんかは、まだ暑いころでもあったので、お互い、そんなに服装のことなんか意識してなかったけれど、今日は二人ともなんか違う。私が「デート」なんて言ってしまったせいだろうか?

「で、ハッサクから私には、なにかコメントはないのかな?」
「え! そうだな……」
「さっき、私のこと上下に二回見てたでしょ?」
「ああ」
 あっさり認めた……
「スカートが短いな、と思って」
「そんだけ? だいたい黒タイツ履いてるし」

 彼は観念したようにつぶやいた。
「こんなに人がいっぱいいても、アマナツのこと見つけられた……可愛いなと思って」

 こ、これは照れる! 私の部屋の(元)住人さま、可愛い服を揃えてくれていて、ほんとうにありがとう!
「ごめん、なんか私、無理矢理言わせちゃった?」
「そんなことないよ、マジで」
 そう言うとハッサクは「さあ行こう」と言って、横断歩道に向かった。私もあわててそのあとを追い、メガホンの声に追い立てられながら信号を渡った。

○

「へえー、竹下通りに入ったばかりのとこに花屋さんがあったんだ。『花屋さん』って看板に書いてあるけどマジにこれ、お店の名前かな……あっ『ル・ポンテ』って、このころもあったんだ。雰囲気変わんないな。おー、マックもあった。タケたちとここに来たときに入ったお店と同じかな?」

 『ぴあ』のマップで予習してきたものの、いざ実物を見てみると、感動してしまう。2026年にもあるお店が、こっちの世界にもあったり、すっかり雰囲気を変えている場所もあったり。なにせこの時代、『タレントショップ』が大ブームだったらしく、あちらこちらに見たことのあるアイドルや芸能人の看板で出ていた。

「あまりあちこちキョロキョロしてると、迷子になるぞ」
「大丈夫よ、狭い通りを同じ方向に歩いてるんだから、はぐれることなんてないでしょ」

 特になにかを買うというあてもなく、通り沿いの雑貨屋やタレントショップなどを見て回った……と言いつつ、ハッサクはル・ポンテでワニがひっくり返った謎のイラストのTシャツを買っていた……あんなのいつ着るんだ?

「まだお昼前だけど、なにか食べる? 一緒に来てくれたお礼に奢るから。そのあとラフォーレ原宿とか、キデイランドとか行ってみたいな」
「別に割り勘でいいよ……そうだな、竹下通りって言えばクレープのイメージがあるんだけど、その中でも元祖……一番最初にできたお店があれば、そこに行ってみたい」
「じゃあ、マリオンクレープね。確か元いた世界にもあったけど、メニューとか違うのか私も興味あるから食べてみようか」

 マリオンクレープの店先で少し並んで、私はチョコレートバナナをハッサクはハムエッグを注文し、さすがに竹下通りのこの混雑では『食べ歩き』は難しそうなので、お店の脇の方に人通りの邪魔にならないスペースがあったので、そこで二人並んで紙に巻かれたクレープを食べた。
 少し涼しい風が吹いていて肌寒さを感じていたので、温かいクレープは嬉しかった。多分、2026年のこのお店との大きな違いは、この『温かさ』とメニューの数かなと思う。男の子のハッサクでも十分お腹いっぱいになったと満足していた。

 なんとなく重いお腹を抱えながらゆっくりとラフォーレ原宿がある明治通り側に向かって歩く。お昼近くなって一層人出が多くなり、中高生が全国から集まったんじゃない?って錯覚するような賑わいぶりになっていた。人々の話し声も、通りに流れる音楽もボリュームアップしている。

 ここに集まっている若者たち。
 よくよく考えてみれば、ときが経ち、2026年になるとみんな、五十歳くらいになっているんだ。
 私やハッサクも、ここにいる人たちと、一緒に歳をとっていくんだろうか。それとも二人は元いた世界に戻って、この人たちを迎えることになるんだろうか。いや、逆に私たちが迎えられる立場?

 そんなことを考えていたら、急に怖くなってきた。人混みの流れの中で立ち止まってしまう。

 私たちは、ここにいる人たちと違うんだ。別の時間の中で生きてきた、浮いた存在。
 この世界に、そしてこの時代の『甘夏』に同化なんてできっこない。

 二人ぼっちだね、ハッサク……

 ……ハッサク?  

 気がついたら、私は人混みの中に呑まれていた。

「ハッサク、ハッサク! どこ? どこ!」
 声に出しても、ノイズにかき消されてしまう。

「ハッサク……私を独りにしないで……」
 声にならない声を振り絞った。

 めまいと耳鳴りでふらふらと倒れてしまいそうになった。

「こっちだ! 甘夏」
 鋭い声が聞こえたのと同時に、私の手がぐいっと引っ張られた。

「ハッサク!」
「ごめん、迷子にしてしまった」
 ハッサクはそのまま私の手を取り、人混みをぐいぐいとかき分けていく。

 やがて、人通りのまばらな裏道に入る。

「……確かここは、ブラームスの小径」
 私は夕べ『ぴあ』で見た一夜漬けの情報を思い出す。
 さっきまでの人混みと喧噪がウソのようだ。

 さらにその先を進むとこじんまりとした広場があって、その真ん中にアンティーク調の噴水があった。

 近くに石造りの建物があり、ハッサクはその階段に私を座らせてくれた。
 「ちょっとここで待ってて」と言うとハッサクは広場から消えてしまった。だめ、独りにしないで、という声は届かなかった。

 ハッサクが戻ってくるまで、どれだけ時間が長く感じられただろう。どれだけ心細かったろう。

「悪い、コンビニが見当たらなくて。自販機にこれしかなくて……ミネラルウォーターって売ってないんだな」
 そう言って私の隣に座ったハッサクは青い缶の飲み物を手渡してくれた。ポカリスエットだった。私がなかなか缶を開けられないでいるとハッサクはもう一回ポカリを持ち、ぐいっとタブを引っぱり上げて口を開け、私の手に持たせてくれた。
 一口含むと、だいぶ落ち着いてきた。

「ごめんね、ハッサク。迷子にならないようにって言ってくれてたのに」
「こっちこそごめん。つい見失ってしまった」

 私は、ハッサクの肩に頭をもたせかける。
「調子がよくなったら、ラフォーレ原宿とか行く?」
「ううん、もういい……少しここで休む……そして帰りたい」
「わかった、そうしよう」

 そのまま二人で噴水の水がチロチロ流れるのを聞いていた。

 ハッサクにもう一度、お礼が言いたかった。
「ありがとう、探してくれて……見つけてくれて」
「……うん、大丈夫だ。ちゃんと探すから。迷ったって、何度でも見つけるから」

 人の少ない場所で休んでいたら落ち着いてきたので、ハッサクに、もう平気みたいと伝えると、私の目をじっと見てうなずいた。ポカリの缶を私から受け取ると、まだ少し残っていたので一瞬どうするか考えたみたいだけど、ゴクゴクと自分で飲み干し、缶を空っぽにして自販機の方まで捨てにいった。
 戻って来ると、石段に腰かけていた私に黙って手を伸ばす。私より少しだけ大きい彼の手をつかみ、立ち上がった。
「竹下通りにあまり戻らない方がいいな」
 そう言ってハッサクは私の手を取ったまま、細い道をゆっくりと歩く。やがて『モーツァルト通り』と書かれた白い塀に行き当たり、その脇を真っ直ぐ進んだ。ハッサクは私と手をつないだまま、ほんの少しだけ私より少し前を歩き、いつものように時々振り返っては私の様子を見る。
 さっきの竹下通りの喧騒がウソみたいに、ひっそりと静まりかえっていて、すれ違う人もほとんどいない。私たちはやっぱり『二人ぼっち』だ。でもさっきみたいな淋しさや怖さはまったく感じなかった。むしろ、二人でいられるこの時間が愛おしかった。

 教会の脇の小径を通りすぎると、大通りに出た。ここは確か表参道だ。人通りは多かったけれど、道行く人はどことなく落ち着いていて、気分が悪くなることはなかった……ハッサクがずっと手をつないでくれていたのがよかったんだと思う。
「これが同潤会アパートか」
 少し黄色から茶色がかった色あいの壁は、所どころ黒ずんでいて、蔦がからまっている。今の私たちが住んでいる団地よりもずっと古ぼけているのに不思議と都会っぽさを感じるアパートが通り沿いにずらりと並んでいる。窓にブティックなどの看板が出ている部屋もいくつかあった。確かここは表参道ヒルズになる場所だ。私も一度だけそこに行ったことがある。さすがにそこで買物はしなかったけど。
「ハッサクはさ、こういう建物好きでしょ?」
「うん、よくわかったな」
 と少し驚いたように私に顔を向ける。
「そりゃあ、つき合い長いもの」
 そう言って笑うと、照れたのか、ハッサクは前に向き直った。

 うん、私はもう大丈夫。原宿駅で切符を買うまで、ハッサクがずっと手をつないでいてくれたから。赤羽に着くと、さすがにいつもの通り、彼は私の前を歩いたけど、アパートの階段の所まで送ってくれ、お互いにバイバイと手を振り合った。

〇

 私の家の中は、かすかにだけど、いつもラベンダーの香りが漂っている。
「ねえお母さん、なんでラベンダーがそんなに好きなの?」

 ハッサクと原宿に出かけたその日の夜。
 夕ご飯を食べ、シャワーを済ませたあと髪をタオルで乾かしながら、居間でテレビを見ているお母さんに聞いてみた。お父さんは土曜出勤とかで、まだ帰っていなかった。
「もう! 何度も話してるじゃない……まあいいけど」
「ゴメン、でも、もう一度聞きたいな……『そもそも』のところから」
 お母さんはテレビを消した。きっと話したかったに違いない。
「そもそもまで戻っちゃうの?……まあいいけどさ……新婚旅行は北海道だったって、知ってるよね?」
「え? も、もちろん知ってる知ってる!」
「お父さんさ、会社にヒンシュクを買いながらも、結婚式のあと、七日も会社の休みをとってね」
 お母さんが遠い目をして語りだした。

「北海道をあちこち回ったの……『乗り捨て』でレンタカーを借りて……函館、登別、札幌の時計台、そして、日高の襟裳岬、美瑛、富良野ってね」
「……旭川の旭山動物園は行かなかったの?」
「え、どうして? そこは普通の動物園でしょ? それに新婚旅行で動物園に行くって、変じゃない? 一応、旭川空港から帰ったから、最終日は旭川には一泊したけど」
 そうか。その頃はまだ旭山動物園はブレイクしていなかったのか。

「でね、美瑛から富良野をレンタカーで走ったときに見た風景……それに惚れこんでしまったの……一面ムラサキ色。そんな丘がいくつも連なってて」
 一面のラベンダー畑に佇み、嬉しそうにぐるりと見回している、「若き」お母さんを妄想した。
「そこはいい匂いがしたの?」
「そうね……一応、車を降りて畑の中に入ったんだけど、風が吹くと、土や草の香りに混じって、なんとなくお花の香りはしたっていう感じかな。それに近くで見ると、ラベンダーって『まあ可愛いお花!』ってほどではなかったかな」

「……そんなので、ラベンダーの香りが好きになれたの?」
「確かに当時はそうでもなかったかな……でもほら、ナッちゃんも一緒に行ったじゃない? 幼稚園のとき、富良野に。たった二泊三日だけど」
「そ、そうだった?……まだ小さかったからよく憶えてないかも」
 知らなかった。憶えてないふりをするしかなかった。そのころは北海道旅行はずっとブームが続いていて、テレビの特集を見てお母さんが『富良野にまた行きたい病』を発症し、家族旅行で訪れた……そうだ。そういえば、この夏、『北の国から 84夏』というテレビドラマをやっていて、家族みんなで見た。

「そのとき、お父さんが、ファーム富田っていう場所に連れていってくれたじゃない? そこには『ポプリの舎(いえ)』っていうログハウスがあって、そこでラベンダーのポプリやら、匂い袋やら、小瓶に入ったオイルやら、石鹸やらを買ってくれてね……それからかな。ラベンダーの香りが本格的に好きになったのは」
「へー、そうだったんだ……でも、お土産で買っただけなら、すぐになくなっちゃうんじゃないの?」
「そうなんだけど、お父さん、私がすごく喜んでたのが嬉しかったみたいで、北海道の物産展とかでラベンダーのグッズを見つけたら、ちょくちょく買ってきてくれてるのよ」

 私は今、両親のおのろけ話を聞かされているのだろうか?
 でもお母さんがどうしてラベンダーの香りが好きで、お葬式のときも、どうしてお父さんが線香やお花までラベンダーにこだわって手配したのかがわかってよかったと思う。お仏壇の線香もずっとラベンダーだし。
 ……いや、まてまてまてまてまてまて!
 お母さんはこの通り私の目の前にいるし、お葬式も仏壇も違う世界の話だ。いっしょにしちゃいけない!

「ただいま」

 お父さんが帰ってきた。片手にいつもの通勤カバン、もう片方には紙の手提げをぶら下げていた。
「あら、土曜出勤とはいえ、遅かったわね、ナッちゃんも私もご飯済ませちゃったわよ……温め直さなきゃ」
「いやね、東京駅の大丸で北海道物産展をやってたんだ。だから、ラベンダーと名のつくもの、片っ端から買ってきた」
 そう言って嬉しそうに紙の手提げを持ち上げた。
 ほらね、とお母さんが私に目配せする。そして「もうそんなにたくさん買ってきちゃって」と言いながら困ったように微笑んだ。

 ……そうだったのか。お母さんを思うお父さんの気持ちは、こっちの世界でも、あっちの世界でも変わらない。でも決定的に大きく違うのは……

 このラベンダーの香りに包まれていたい。お母さんとお父さんと一緒に……ずっと。

 でも。
 昼間のことを思い出す。
 ハッサクと一緒の『二人ぼっち』が嬉しかったことを。

 最近憶えたばかりの『葛藤』という漢字が、絵になって動き出す。今と未来の間で、その文字が植物のツルのようになり私にまとわりつく。からめとられもがきながら、どっちにも行けなくて、ただ揺れ動いている私。

 涙が流れてしまう。

「ナッちゃん、急にどうしたの?」
「……なんでもない……富良野に行ったこと、なんとなく思い出してた」
 大ウソだ。そんな記憶、ホントはどこにもない。
「この子、そんなに泣き虫さんだっけ」
「……違うもん。泣き虫なんかじゃないもん」
 ……この世界に来てから私、変になっちゃったんだ。
「わかったわ、じゃあ、そういうことにしておこうね」
 と微笑むお母さんを見て、また涙があふれた。

 こっちの世界の私は確かに泣き虫だ……でも、そんな私の背中を撫で、いたわってくれるお母さんが隣に座っている。