「さいしょは グー、じゃんけん、ぽん」
「ぱいなっぷる」
「じゃんけん、ぽん……あ、負けた」
「じゃんけん、ぽん、やった! ち、よ、こ、れ、い、と」
九月の夕暮れはまだ熱く、生き残りのツクツクボウシが、やや弱々しく言葉足らずにオーシツクツクと鳴いている。
赤羽台トンネルの脇、高台にある大きな団地の街につながる階段で、一人の男の子が遊んでいた。
「ハッサク……くん?」
階段をゆっくりと上って来た女性が立ち止まり、男の子に声をかけた。
夏の名残の温かい風がさっと吹き、彼女の紺のワンピースを揺らす。
「ん、だあれ? おばさん」
「おっ、おばさん⁉……あっ……おばさんはね、むかーしこの団地に住んでたのよ。ぼくはここで遊んでるの?」
「うん、ママがもうすぐ帰って来るから、待ってるんだ」
「そうなんだ……『グリコのじゃんけんゲーム』、一人でやってたんだ」
「一人じゃないよ」
「え?」
女性は階段を見上げたが、その子以外、子供の姿はない。
「そうなの?……誰と遊んでたのかな?」
「んー、わかんない」
「あの、もしかして、 女の子のお友達?」
「いないよ、そんな子」
「……そうなんだ」
「おばさん、あのさ、グリコのじゃんけん、いっしょにやらない?」
「私と? ……いいけど」
二人は、階段の一番下まで戻り、じゃんけんを始める。
「さいしょは グー、じゃんけん ぽん!」
グリコのゲームを三回やって、三回とも男の子が勝った。
階段の一番上でガッツポーズする男の子。
その姿を見上げ、涙ぐむ女性。
「……やっぱ強いね……ハッサク」
「おばさん、なんで泣いてるの?」
「ううん、泣いてないわ。泣いてなんかいないのよ」
彼女は慌ててバッグからハンカチを取り出し、涙を拭う。
「そうだ、おばさん、なんでぼくの名前、知ってるの?」
「……い、いやなんとなく……勘かな」
「カン?」
「あ、そうだ。勝ったご褒美に、これをあげるね」
そう言って階段を上がると、女性はバッグからキーホルダーを取り出し、男の子の手に握らせた。
「ありがとう……これ、なーに?」
「コアラ。エリマキしてるから、『エリマキコアラ』かな」
「へんなの」
「……これをね、君に返しに来たんだ」
「え?」
「ううん、なんでもない……ああ、そんなに汗かいて」
女性はハンドタオルを取り出し、男の子の顔や首筋を拭く。
「あっママ、お帰り!」
いつの間にか、階段を上がりきった所で女性が佇んでいる。片手に大きなレジ袋をぶら下げ、もう片方の手は小さな女の子に占領されていた。
男の子が駆け寄り、抱きつく。
「ち、ちょっとハッサク、重いじゃない、暑いじゃないの!」
「オニイ、ジャマ!」
その子の妹は眉を吊り上げ、兄の手を振り払う。
母親は、紺のワンピースの女性を怪訝な表情で見つめる。
「失礼ですが、あなたは?」
「……」
返答に困ったのか、下を向く。代わりに男の子が得意気に答えた。
「あのね、いっしょにグリコじゃんけんやってたんだ。ボクが全部勝ったけどね」
「あの、ごめんなさい、失礼します」
女性は、少し口元をゆがめながらも微笑んで会釈し、階段を下り始めた。
「おばさん、バイバーイ!」
「うん……またね」
振り返り、軽く手を振ると、足早に階段を降りていく。
セミの声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
三人の親子は、団地に向かって歩き出す。
「あの階段で遊ばないでって、いつも言ってるでしょ。下は車通りが多いし……」
「えー、ママを迎えに来ただけだよ」
「それに、知らない人に声かけられても、相手にしちゃだめよ。最近は女の人だって危ないんだから」
「あのおばさん、ボクのこと知ってるみたいだったよ?」
「……それ、ますます怪しいでしょ! ほんと気をつけなさい」
母親に見せると、きっと取り上げられるに違いないと思い、男の子は手に持っていたキーホルダーを、そっとポケットの中にしまった。
夕ご飯のあと。
お風呂に入るとき、半ズボンを脱ぐと、キーホルダーが転がり落ちた。ハッサクはその存在をすっかり忘れていた。
寝る前。買ってもらったばかりの学習机にそれを置く。
顔はコアラだが、首のまわりにぐるりとマフラーが巻かれていて、しかもシッポが生えている。
二本の足とシッポで簡単に立った。
「ねーオニイ、それ、ちょうだい」
いつの間に部屋に忍び込んでいたのか、妹の蜜柑(ミカン)が隣にいた。
「やだ、あげないよ」
「いじわる! そんなキモいの、いらない!」
ミカンはキーホルダーの動物をチョンとつついて倒した。
「こら!」
ハッサクはげんこつでコツンと妹の頭を叩く。
「ママー! オニイが叩いたー!」
大声で叫びながらミカンは部屋を出て行った。



