麗子が小さな声で言った。
「わたし、ひとりっ子でしょ」
「上利家の家系図の最後なの」
「だから、わたしのところで終わらせちゃいけないでしょ」
「……うん」
「次につなげなきゃいけないの」
麗子は海を見た。
「卒業して、地元で就職して、二年目に結婚することまで決まってる」
「そこまで?」
「家を建てる場所も、整地が始まった」
「家?!」
「庭に池を掘るんだって」
「池?!」
「車庫には三台入るって」
「わかったわかった、もういいよ」
わたし言葉を失った。
美咲が口を開いた。
「相手は誰なの?」
「聞いてもわからないよ」
「いいから、教えて」
「相手は県庁の職員。今、二十四歳。」
麗子は続けた。
「彼は、そのうちわたしの父の選挙基盤を継いで、市議会議員になって、いずれ市長になるって言われてる」
「じゃあ……」
「わたしは市長の妻になるかも」
麗子の顔はひきつっていた。
「でも子どもが生まれたら、家系図に名前が続く。そうなったら、大きな荷物がおろせるの」
波が寄せては返す。
ザザーっという音が、時折会話をかき消す。
麗子はつぶやいた。
「本当は嫌」
小さな声だった。
「自由に恋愛したい」
「うん」
「好きなことしたい」
「うん」
「ヨット部だって続けたい。でも、家族はみんな大反対」
麗子は駐車場を見上げた。
「彼が今夜見に来るの」
「監視?」
「心配なんだと思う。お小遣いもくれるし、優しい人よ」
そして、少し間を置いた。
「でも、その優しさが、息苦しいとも思えてきて」
わたしは何も言えなかった。
麗子は海を見た。
「海で死んだら、自由になれるかな」
「だめ」
思わず強い声が出た。
「それはだめ」
「……」
「死んだら自由とか、そういうのはだめだよ」
麗子が少し笑った。
「そうだね」
そのとき。
駐車場にヘッドライトが差し込んだ。
麗子が立ち上がる。
「来た」
そして一人で坂道を上がっていった。
しばらくして戻ってきた麗子の手には、大きな菓子箱があった。
車は静かに駐車場を出ていった。
「これ、もらった」
箱を開ける。
「うわ」
美咲が声を上げた。
「これ、有名なお菓子じゃん」
「これ、とっても高いんだよ。こんなにたくさん。
うわあ、いくらかかってんのよ、これ。 食べていい?」
「いいよ」
「麗子は?」
「いらない」
麗子はスーパーで買ったチョコレートを開けた。
わたしと美咲は顔を見合わせた。
ふたりで食べた。
「うわ、おいしい!!」
高級菓子は信じられないほどおいしかった。
菓子を食べながら、わたしたちは話した。
「いい人じゃない。こんなおいしいお菓子」
「いやいや、お菓子につられる年じゃない」
美咲が言った。
「じゃあ、婚約、やめちゃえば?」
「そうだよ。婚約破棄」
「ううん、だめ」
麗子は首を振った。
「わたしが家系図の続きを作らなきゃ。
そう決まってるの。わたしの運命なの」
「そんなの残酷だよ。十八歳で自由に恋愛もできないなんて」
わたしはその時、なぜか航平先輩を思っていた。
そして、一年の男子の顔を次々と思い出した。
みんな面白い人たち。
同じ釜の飯を食っている大好きな仲間。
同じトレーニングをして汗を流している頼もしい仲間。
この中の誰かと恋愛するかもしれない。
どきどきやきゅんきゅんがこれから訪れるかわからない。
先のことがわからないって、つまり自由。
自由だと思うと、体の中がほわっとあったかくなる。
母親に管理されて受験勉強していた時は、いつも頭も体がきゅーっと引き締まるような感覚だった。
今は、すべての時間が、ほわあっとしている。
好きなものを選べるんだという感覚。
自由という言葉で表すには物足りないくらい。
どこまでも光が広がっていくような感覚。
わたしはこの地方の大学で、思い切り解放された時間を味わっていた。
潮騒、月の光、誰と恋をするかわからない明日のわたし。
麗子の存在がまた、一段と自由を感じさせてくれた。



