ヨットには、マストという長い金属の棒が立っている。
そこへ三角形の白いセールを張る。
シートと呼ばれるロープを結ぶ。
センターボード。
ティラー。
ラダー。
必要な部品を一つずつ取りつける。
こうしてヨットを海へ出られる状態にすることを、
艤装《ぎそう》という。
艤装しているときから、私は風を気にしていた。
マストを前から支えるフォアステイ。
横から支えるサイドステイ。
そこには、風を見るための細い赤いひもが結ばれていた。
そのひものなびき方で、風向きや強さを見る。
マストの上までセールを上げる。
風が強いと、白い帆が激しくばたつく。
セールにつないだシートも暴れる。
まるで生き物みたいだった。
赤いひもが、少しも垂れず、真横へ勢いよく流れている。
風速六メートル。
今なら、それだけで異常な強風とは思わない。
でも、初心者だった私には十分怖かった。
――お願い。
――今日はやめましょう。
――出艇しないで。
顔にも出ていたと思う。
でも、最終的な判断をする上級生は言った。
「八時半、出艇」
決まれば、全員が動く。
山さんは腕を回した。
「おー、いい風だな」
やる気満々だった。
私は麗子や美咲と顔を見合わせる。
これから始まる、気の抜けない海上練習。
とりあえず、深呼吸した。
「せーの! せーの!」
掛け声を合わせて、ヨットを波打ち際まで運ぶ。
私はクルー。
桜田先輩がスキッパーだった。
先に私が艇へ乗り込む。
桜田先輩は海の中で艇を押し、タイミングを見て飛び乗る。
スキッパーはすぐにラダーを取りつけ、ティラーを握る。
舵を取る。
艇が少し沖へ出る。
海底にぶつからない深さになったところで、私がセンターボードを差し込む。
これが重い。
座ったまま、重い板を持ち上げ、艇の中央へ差し込まなくてはいけない。
腕。
肩。
背中。
全部使う。
初めのころは、何度も失敗した。
「入らない!」
「もうちょっと立てて!」
「はい!」
「そこ!」
「入った!」
それだけで一仕事だった。
スキッパーである桜田先輩が言う。
「十一時の方向へ行くよ」
「はい!」
私はジブセールのシートを操作する。
ヨットは、風が吹いてくる方向へ真っすぐには進めない。
でも、風に対しておよそ四十五度の角度なら進むことができる。
だから目的地が風上にある場合、
右へ。
左へ。
また右へ。
ジグザグに進む。
風が強い日は、うまくセールを張れば艇は速い。
海面を切るように進んでいく。
練習海域には、救助艇の瀬戸丸が待っていた。
四年生、三年生、二年生の先輩たちが乗っている。
すでに海上には、
上マーク。
サイドマーク。
下マーク。
レース練習用のブイが設置されていた。
私たちが練習していたレースは、
一斉にスタートし、
上。
サイド。
下。
上。
下。
決められたマークを順に回る。
かかった時間ではなく、着順を競う。
上級者になれば、位置取りの駆け引きもある。
でも、超初心者だった私の目標は別。
――ぶつけない。
――邪魔しない。
――無事に帰る。
これだった。
ヨットは高価な大学の財産だ。
ぶつけて壊せば、自分たちで修理するしかない。
レース用の艇が使えなくなるかもしれない。
だから私は、何より接触が怖かった。
でも風が強いと、
思ったとおりに艇が動かない。
セールの力に艇が引っ張られる。
少し判断が遅れれば、ほかのヨットとの距離が一気に縮まる。
それが怖かった。
「五分前!」
私は腕時計を見る。
スタートラインの手前に、十艇近いヨットが集まっている。
桜田先輩が言った。
「少し離れよう」
つまり、
無理に前へ出ず、少し遅れてスタートする。
私は心の中で大賛成した。
――はい!
――安全第一!
すぐ近くでは、航平先輩の艇もスタート位置を探っていた。
一緒に乗っているスキッパーが前へ出ようとする。
航平先輩が時計を見て言う。
「まだです。早いです!」
声は冷静だった。
その周囲では、艇同士が場所を奪い合っている。
「スターボー!」
怒鳴り声が飛ぶ。
右側から風を受けている艇が優先される。
初心者の私は、その声だけで緊張した。
「アンナ、ジブシート引いて!」
「はい!」
スタートの合図。
一斉に、白い帆が走り出した。
ヨットは上マークへ向かって、ジグザグに進む。
上級生たちは、マークぎりぎりを攻める。
桜田先輩と私は、
大回り。
安全第一。
それでいい。
上マークを回り、今度は風下へ向かう。
「風下へ走るときは、ランニングっていうの」
桜田先輩が教えてくれる。
「ジブもメインも緩めて、風をいっぱいはらませる」
「はい」
私はジブシートを緩める。
白いセールが、ふわっと大きく膨らんだ。
風をいっぱいに受けている。
ちょうどいいところでシートを固定する。
桜田先輩と私は、艇の左右へ分かれて座った。
ランニングは、比較的楽だった。
ヨットが海の上を滑っていく。
私はマークを見る。
ほかの艇を見る。
セールを見上げる。
海原を見渡す。
そして、桜田先輩の真剣な横顔を見る。
小さな波なら、体重移動で艇の揺れを抑える。
少しでも速く走るように。
少しでも安定するように。
怖い。
でも。
ほんの少しだけ。
――楽しい。
そう思える瞬間が、増えていった。
◇◇◇



