あの日、青い海に君を置いてきた


そのときだった。
トトトト、トトトト――。
何か、小さな音がする。
最初は波の音だと思った。

けれど違う。
規則正しい。
エンジンの音だ。

航平先輩が顔を上げた。
「アンナ、見ろ」
「え……?」
「……嘘だろ」
先輩が目を見開いた。

そして、かすかに笑った。
「神だ」
西の方角から、何かが近づいてくる。
波の頂点に姿を現し、次の瞬間には見えなくなる。
また現れる。

船だ。
「漁船……!」
漁船だった。

大きなうねりにもてあそばれ、海面へ叩きつけられながら、それでもこちらへ近づいてくる。
助かる。
その言葉が初めて頭に浮かんだ。

航平先輩は、ずっとわたしの手を強く握っていた。
大きな波が来る。
二人とも海中へ沈んだ。
ゴボゴボと水の音がする。
次の瞬間、ライフジャケットの浮力で海面へ押し戻された。

「ぷはっ!」
息を吸う。
先輩も顔を出した。
そして、わたしを見た。
笑った。
こんな状況なのに。

いつもの航平先輩みたいに。
それから言った。
「アンナ。乗れ」