あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~



艇庫は、海のすぐそばにあった。
建てられてまだ五年ほど。

一階にはヨットが並び、
ライフジャケット。
セール。
工具。
修理道具。
そして、お風呂。

二階にはキッチンと小さな会議室。
その奥に、食堂にも寝室にもなる広い部屋があった。
夜になると、そこへ寝袋をずらりと並べて眠る。

一年生の最初の仕事は、陸《おか》当番と食事当番だった。
正直、このころの私はまだ、

――早くヨットに乗りたい!

とは思っていなかった。
むしろ、
「今日は海に出るよ」
と言われるほうが怖かった。

海はきれい。
ヨットはかっこいい。
見るだけなら。
自分が乗るとなると、話は別だ。

だから私は、陸当番の日には少しほっとしていた。
もちろん、陸にいても暇ではない。

ヨットを海へ出す。
戻ってきた艇を引き上げる。
掃除する。
壊れた艇を修理する。
海の上にいる救助艇「瀬戸丸」と、トランシーバーで連絡を取る。

艇庫は海のすぐそばだから、砂と塩ですぐ汚れた。
手が空けば掃除。

そしてヨットが出艇すると、食事当番は買い出しへ行く。
先輩の車に一年生が乗り込み、スーパーへ向かう。

「今日の昼、カレー!」
「じゃがいも!」
「人参!」
「玉ねぎ!」
「肉!」
「サラダもいるよね?」
「いる!」

カートは、あっという間に山盛りになった。
問題は、ここからだった。

三十人分。
艇庫へ戻った瞬間、戦争が始まる。
米を研ぐ。
野菜を切る。
肉を炒める。
鍋を煮る。

「人参足りない!」
「玉ねぎもっと!」
「米、炊飯器入れた?」
「鍋ふいてる!」
「火、弱めて!」

最初は大混乱だった。
でも、不思議なもので。
何度もやるうちに、少しずつうまくなる。
そして練習を終えた先輩たちが戻ってくる。

「腹減ったー!」
「おお、カレー!」
「うまそう!」

その声を聞くと、疲れが吹き飛んだ。

私は、いつもその中から航平先輩を探していた。

一口食べて、
「おう。食当《しょくとう》、うまいぞ」
そう言ってくれる。

それだけで、その日の努力が全部報われた。
航平先輩は、思ってもいないことを言わない。
だから、余計にうれしかった。

食べ終われば、今度は片づけ。
ここで一番頼りになったのが美咲だ。

「私、皿洗うね。山さん、すすいで」
「えー」
「アンナは片づけ。麗子はテーブル」
美咲が時計を見る。

「三十分で終わらせよう」
「はい!」
「山さん、ぼーっとしない!」
「俺さあ」
山本くん――通称、山さんがぼやく。

「ヨット部に入ったのに、なんで人の飯作ってんだろ」
「じゃあ、何したいの?」
私が聞く。
「ヨット乗りたい」
「それはみんな同じ」
「米研ぐために大学来たんじゃないんだけどな」
そう言いながら、結局ちゃんと米を研ぐ。

山さんには、
米を研ぐ。
食器をすすぐ。
人参の皮をむく。
そんな、やることがはっきりした仕事を任せると早かった。

人には、向いている仕事がある。
一人ひとりができることを増やすと、全体が早くなる。
私はこのころ、初めて知った。

――段取りって、大事なんだ。
美咲は、もっと先まで考えていた。
「これってさ、結構すごいことやってるよね」
「何が?」
「三十人分のご飯を時間どおりに出すこと」
「料理でしょ?」
「量を計算して、時間を逆算して、人に仕事振って、途中で何か起きたら変更する」

なるほど。
「会社みたい」
「そう。たぶん社会人になっても使う」
私は笑った。

「ヨット部なのに?」
「ヨット以外のことばっかり覚えるね」
でも。
その「ヨット以外」が楽しかった。