あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~



ヨット部の女子の先輩たちが教えてくれたのは、トレーニングだけではなかった。

「アンナ、単位落としたらヨットどころじゃないからね」
教育学部の履修の仕方。
試験対策。
ノートの取り方。

料理も教わった。
安い食材。
簡単な料理。
運動した日に何を食べればいいか。

先輩のアパートへ遊びに行けば、
「アンナ、化粧したことある?」
「ほとんどないです」
「じゃあ、座って」
「え?」
「教えてあげる」
薄い化粧まで教えてもらった。

今思えば、本当に、よく面倒を見てもらった。
もちろん先輩たちには、
――今年は一年女子が三人も入った。
――絶対、辞めないでほしい。
そんな思いもあったのだと思う。

それでも。
全部、うれしかった。
私には、初めてできた女性の先輩たちだった。
憧れられる女性たちだった。

◇◇◇

ある日。
スーパーで五キロの米袋を買おうとした。
いつものように両手で持とうとして、
「あれ?」
片手で持ち上がった。

ひょい。

自分でも驚いた。
もう一度、持つ。
軽い。

以前なら、両腕で抱えていたのに。
思わず笑った。

「私、強くなってる」
その言葉が、なんだかうれしかった。

もちろん、トレーニングそのものが楽になったわけではない。
できるようになれば、もっと負荷が増える。

おもりが重くなる。
走る距離が増える。
もっと鍛える。

だから、いつだってきつい。
でも、
できることは、確実に増えていった。

昨日より、少し長く走れる。
昨日より、少し重いものを持てる。
昨日できなかったことが、今日はできる。

力がつく。
ばてにくくなる。
自分が変わっていく。
それが、うれしかった。

気づけばもう、
――航平先輩の足、折れないかな。
なんて祈ることもなくなっていた。

私は少しずつ、
ヨット部を中心に回るこの生活を、好きになっていた。

◇◇◇

――現在・保健室。

「五キロの米袋、持てなかったの?」
ナオが目を丸くした。
アンナは思わず笑った。

「そこに食いつく?」
「だって、五キロだよ?」
「当時の私には重かったの」

ヒカルが腕を曲げ、力こぶを作る真似をした。
「じゃあ、だんだんムキムキになった?」
「ムキムキではありません」
「でも、強くなったんだ」
「うん」
アンナはうなずいた。

「体はね。でも、それだけじゃなかった」
「何が?」
「自信がついた」
ナオが静かに聞いている。

「昨日できなかったことが、今日できる。走れなかった距離を走れる。持てなかったものが持てる」
アンナは少し笑った。
「そういうのってね、すごくうれしいんだよ」

ナオは黙った。
でも。
少しだけ、わかる気がした。

昨日までできなかったことが、今日はできる。
そのうれしさなら。
自分にも、ひとつだけある。

ずっと教室に行けなかった。
学校そのものにも来られない日があった。
でも今は。

朝、制服を着る。

家を出る。
学校まで来る。
そして、保健室の扉を開ける。
教室には、まだ行けない。

それでも、
以前はできなかったことが、今日はできている。

――それって、もしかして。
少しくらいは、すごいことなのかもしれない。

ナオは壁に飾られたヨットの写真を見た。
青い海。
白い帆。
笑っている若いアンナ先生。

「じゃあ、そのころは楽しかったんだ」
「うん」
アンナは迷わず答えた。
「すごく楽しかった」
その言葉だけは、
昔のことなのに、
少しも迷いがなかった。