あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~



平日のトレーニングが終わったあと。
女子の先輩たちは、いつもよく笑っていた。

「今日もきつかったねー」
「ほんと。脚、もう動かない」
「でもこれから帰って、ご飯作らなきゃ」
「私も。ヨット部、お金かかるし。外食してたら破産する」

汗だくなのに、みんな明るかった。
悪口は言わない。
仲間外れにしない。
疲れていても、前を向いている。

そして一年生の私たちにも、よく声をかけてくれた。
「アンナ、ちゃんとご飯食べてる?」
「はい」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶんって何よ」

先輩が笑った。

「困ったらうち来な。カレーとか親子丼くらいなら食べさせるから」
「ありがとうございます」
ぽん、と肩をたたかれる。

「明日、一限から授業でしょ?」
「はい」
「寝坊しないようにね」
「はい」
「じゃあ、また夕方。トレーニングで会おうね」
「……はい」
私の返事が明らかに弱くなる。
「あはは。頑張れ、アンナ」

強い。
あたたかい。
そして、かっこいい。
――私も、こんな女性になりたい。

先輩たちを見るたびに、そう思った。
ヨット部、もう少し頑張ろう。
この人たちみたいになりたい。
そんな気持ちになれた。
ただし。
一人だけ、良くも悪くも特別な人がいた。
男性だけど。

トレーニングを直接指示する航平先輩。

あの人だけは、別。
私の頭に浮かぶ言葉は、
――鬼。
だった。
もちろん、気になる先輩ではあった。

試乗会で初めて会ったときは、素敵だと思った。
笑顔も好きだった。
日焼けした顔も。
肩までまくり上げた白いTシャツの袖からのぞく、太い腕も。
見ると、ちょっとだけ胸がきゅんとする。
なのに、その口が開くと。

「あと二十回!」
「もう一本!」
「走るぞ!」

きゅん。
ではなく。
――鬼。
に変わる。

本気ではない。
本気ではないけれど。
――足、折れないかな。
そう思ったことも、一度や二度ではなかった。

不思議なものだ。
憎らしい。
でも、気になる。
尊敬もする。
やっぱり、ちょっと好き。
腹も立つ。

航平先輩に対する感情は、いつも忙しかった。
そして気がつけば、航平先輩は私の頭の隅に、ずっといる人になっていた。

高校生まで、そこにいたのは母だった。
何か迷うと、心の中で、
――ねえ、お母さん。どう思う?
と話しかける。
実際に母がそばにいるわけではない。
ただ、そうやって心の中で問いかけると、自分の考えがまとまった。

大学に入ってから、その相手が少しずつ変わっていった。
――ねえ、航平先輩。どう思う?
そんな言葉が、頭の中に浮かぶようになった。

ある日の夕方。
一人暮らしのアパートで冷蔵庫を開けながら、私はつぶやいた。
「ねえ、航平先輩。今日の夕飯、トマト食べたほうがいいかな。栄養あるし」
言ってから、自分で気づいた。

――私、何やってるんだろ。
航平先輩本人とは、まだそれほど親しく話すわけではない。
遠くから見ている人。
それなのに。
いつの間にか、私の心の中には航平先輩が住み始めていた。

◇◇◇