あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~


「おう、一年!」

背後から声がした。

「げ」

誰の声だったのかはわからない。

たぶん三人ともだった。

振り返る。

三年生の主将・前田先輩と、航平先輩が歩いてきた。

「頑張ってるな」

前田先輩が笑う。

「その調子でいけよ」

航平先輩も、爽やかな笑顔だった。

「この前、OBさんが言ってたぞ」

「なんですか?」

「『社会の波は、瀬戸の波より荒い』って」

さらに前田主将が、満面の笑みで言った。

「瀬戸の海は体力で乗り越えるんだぞ。だから今のうちにトレーニング!」

「はっはっは!」

先輩たちは楽しそうに笑いながら去っていった。

「はは……」

私たちも愛想笑いで見送る。

姿が見えなくなった瞬間。

三人そろってため息をついた。

――社会に出る前から、もう十分荒波です。

◇◇◇

ところが。

本当に恐ろしかったのは、月水金ではなかった。

火曜と木曜だった。

大学の体育館脇に、トレーニングルームがあった。

初めてそこへ入った日。

私の目に飛び込んできたのは――

鉄。

鉄。

鉄。

そして。

バーベル。

私はしばらく、その物体を見つめた。

「……これ、私もやるんですか?」

女性の先輩が笑った。

「やるよ」

「何のために?」

「強くなるため」

即答だった。

いや。

意味がわからない。

目の前にあるのは、長い鉄の棒。

その左右に、丸いおもりをつける。

これを持ち上げるらしい。

私が高校時代に持っていたものといえば、

教科書。

参考書。

バンドで弾いていたキーボード。

あとは、家でお好み焼きをひっくり返すコテ。

そんなものだった。

運動部経験、ゼロ。

筋力、ほぼゼロ。

そんな私が今、

バーベルを握ろうとしている。

人生というのは、わからない。

十八歳の私にとって、バーベルというものは、筋肉むきむきの男の人だけが喜んで持ち上げる謎の物体だった。

まさか自分が、それと戦う日が来るとは思ってもみなかった。

「まず、カールね」

桜田先輩が見本を見せる。

バーベルを腰の前で持ち、肘を曲げて胸のあたりまで持ち上げる。

「こう」

すいっ。

簡単そうに上げる。

「アンナ、やってみて」

「はい……」

バーベルを握った。

重い。

持っただけで、もう帰りたい。

「じゃあ、二十回!」

「二十?」

聞き返したが、もう始まっていた。

女子部員のみんなが数えてくれる。

「いーち、にーい、さーん!」

私は必死に持ち上げる。

「……十八!」

腕が震える。

「十九!」

もう無理。

「二十!」

上がった。

「はい、できた!」

バーベルを置く。

両腕が、ぷるぷる震えていた。

――終わった。

と思ったら。

「次、スクワット!」

今度はバーベルを肩にかつぐ。

そこから腰を落として、立ち上がる。

また腰を落とす。

また立つ。

「十八、十九、二十!」

太ももが悲鳴を上げる。

「次、オーバーヘッドプレス!」

今度は頭の上へ押し上げる。

――まだ腕を使うの?

もちろん使う。

私たち一年生は、おもりを軽くしてもらっていた。

桜田先輩たち二年、三年、四年になると、もっと重い。

だから、文句は言えない。

言えないけれど。

重いものは重い。

筋肉なんてほとんどない私が、おもりのついた鉄の棒と本気で戦う。

腕が震える。

「もう無理……」

「アンナ、あと一回!」

「むりぃ……」

「できる、できる!」

先輩たちが声をかける。

歯を食いしばる。

上げる。

動かない。

「あと少し!」

上げる。

上がった。

「はい、できた!」

バーベルを下ろした瞬間、腕がぶるぶる震えた。

自分の腕ではないみたいだった。

それで終わりではない。

最後はランジ。

片足を大きく前へ踏み出す。

腰を落とす。

戻る。

反対の足を出す。

また腰を落とす。

これを二十回。

見た目は地味。

なのに、とんでもなくきつい。

脚だけではない。

おなかも背中も使う。

体全部が疲れる。

信じられない運動量だった。

私はもう、汗だくだった。

ところが。

女性の先輩たちは、それを難なくこなしていく。

しかも、みんな姿勢がいい。

背筋が伸びている。

肩がきれいに開いている。

立っているだけで、かっこいい。

桜田先輩が言った。

「大丈夫。続けてたら、その重さも重く感じなくなるから」

爽やかな笑顔だった。

私は思った。

――嘘でしょう。

絶対に嘘。

こんなものが軽く感じる日なんて来るはずがない。

なのに。

バーベルを持ち上げる先輩たちを見ていると、少しだけ思った。

――でも。

かっこいいな。

こんなふうになれたら、素敵かもしれない。

十八年間生きてきて、私は初めて、

自分の体を鍛える、

というミッションに挑み始めた。