受験勉強から解放された大学一年生。
本当なら、うれしくてたまらないはずだった。
もう毎日、何時間勉強したかを気にしなくていい。
模試の判定に一喜一憂しなくていい。
参考書を何ページ進めたか、数えなくてもいい。
授業が終われば自由。
なのに、その自由が、なぜか落ち着かなかった。
「勉強しなくていいんだから、ラッキーじゃん」
美咲はそう言って笑った。
彼女はもう、大学生活という次のステージを楽しみ始めていた。
でも、私は違った。
――せっかく大学生になったんだから、何かを頑張りたい。
受験勉強みたいに、努力した分だけ何かが積み上がっていくようなもの。
ゲームでいえば、経験値をためてレベルを上げるような。
自分を、今より少し上のステージへ連れていってくれる何か。
そんなものを探していた。
ヨット部に入部して初めての日。
ミーティングで航平先輩が言った。
「俺たちの目標は、インカレで勝つこと。そのために、心と体を鍛え上げる」
「インカレって何ですか?」
麗子が聞くと、航平先輩は答えた。
「大学の全国大会。高校でいうインターハイみたいなものだよ。ヨットは決められたコースを回って、着順を競う」
――インカレで勝つ。
そのために、心と体を鍛える。
心と体を鍛えて、経験値をためる。
そして、今より強い自分になる。
――これだ。
受験勉強の次は、心と体を鍛えるんだ。
これをやっていこう。
わたしは、そう決めた。
◇◇◇
大学の近くには、大内川という川が流れていた。
ゆるやかで、きれいな川だった。
大学から河川敷までは、およそ二キロ。
月曜、水曜、金曜。
授業が終わると、ヨット部員は大学構内のグラウンドにある部室へ集合する。
航平先輩は、サブトレーナーだった。
本当のトレーナーは三年生だったが、教育学部で授業や実習が忙しい。
そのため、普段の練習では経済学部の航平先輩がメニューを組み、みんなに指示を出すらしい。
「よし、行くぞ!」
航平先輩の声で、全員が走り出す。
ただし、黙って走るわけではない。
「瀬戸大、ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!」」
掛け声を繰り返しながら走る。
先輩も一年生も一緒だった。
私は最初、麗子や美咲と話しながら走ればいいと思っていた。
甘かった。
すぐに、そんな余裕はなくなった。
きつい。
とにかく、きつい。
受験勉強ですっかりなまった体。
そもそも私は、中学も高校も運動部経験ゼロ。
二キロも走る。
「たった二キロだ」と先輩たちは言う。
でも私には、
――二キロも!
だった。
息が上がる。
足が重い。
胸が苦しい。
なのに、航平先輩は先頭を軽々と走っている。
速い。
速すぎる。
――心と体を鍛える?
私の頭の中では、早くも別の言葉が浮かび始めていた。
――やっぱり無理。
――やめようかな。
――今ならまだ間に合う。
ようやく河川敷に着いた。
私は膝に手をつき、ぜえぜえ息をしていた。
ところが航平先輩は、さわやかな顔で言った。
「よし! サーキット練習、始めるぞ!」
――まだやるの?
本気でそう思った。
「まずは握力!
両腕を前に伸ばして」
手のひらを握って開く運動。
グーパー、グーパーと握力を鍛える。
そして、一人ずつ十まで数えるというのだ。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅう!」
十回。
――終わった。
そう思った。
甘かった。
次の人が数え始める。
「いーち、にーい……」
え?
また十回?
そして、その次の人。
さらに、その次。
その場に十人いれば百回。
二十人いれば二百回。
私は周りを見回した。
ええっと――。
二十四人。
二百四十回?
もちろん私も麗子も美咲も数える。
長い。
とにかく長い。
ようやく終わった。
今度こそ終わった。
そう思った瞬間。
「腕回し!」
航平先輩が叫んだ。
――今度は腕を鍛えるの?
両腕を前へ伸ばし、ぐるぐる回す。
これも、一人ずつ十まで数える。
全員分。
さらに今度は腕を横へ伸ばして、またぐるぐる。
これも全員分。
だんだん肩が熱くなってくる。
腕が重い。
私は小柄で、腕なんて骨と皮みたいなものだった。
なのに、その細い腕が鉄の棒みたいに重くなる。
下ろしたい。
今すぐ下ろしたい。
でも、誰も下ろさない。
先輩も。
同期も。
麗子も。
美咲も。
だから私も下ろせない。
そして、とうとう数を数える順番が回ってきた。
「い……いち、にっ、さん、しぃ……」
声まで震える。
なんとか十まで数えた。
目の前では、航平先輩が相変わらず平気な顔をしている。
しかも、笑っている。
爽やかに。
――なんで笑えるの?
試乗会では、あんなに素敵に見えたその笑顔が。
少し憎かった。
いや。
かなり憎かった。
そして練習が進むにつれて、憎しみは順調に大きく育っていった。
麗子を見る。
疲れ切った顔をしている。
――仲間だ。
少し安心する。
美咲を見る。
まだ平気そう。
――なんで?
私だけ、もう限界だった。
そこへ航平先輩の声が飛ぶ。
「次! 腹筋、背筋!」
――嘘でしょ。
まだやるの?
二年生の桜田先輩とペアになった。
「アンナ、まず腹筋ね。やってみよう」
桜田先輩が私の足を押さえてくれる。
二十回。
そのはずだった。
「いち……に……さん……」
三回しかできない。
終了。
いや、正式には終了していない。
私が勝手に終了した。
今度は交代。
桜田先輩が腹筋を始める。
一、二、三、四――。
軽い。
あっという間に二十回。
――同じ人間?
「次、背筋!」
二十回。
私は十回を過ぎたあたりで、うつ伏せになったまま動かなくなった。
完全に、死体のポーズ。
「アンナ、大丈夫?」
桜田先輩が笑っている。
大丈夫ではない。
「次、腕立て!」
――もう聞きたくない。
二十回。
私は構えた。
腕を曲げる。
……上がらない。
一回もできなかった。
桜田先輩はにっこり笑った。
「まあ、これからだね」
そう言いながら、普通に腕立て伏せを二十回やった。
私は本当に体力がなかった。
桜田先輩は余裕。
麗子は、なんとか頑張っている。
そして美咲。
――すごい。
全部できている。
そのあとも、ストレッチが続いた。
開脚。
右。
左。
中央。
桜田先輩はものすごく体が柔らかくて、開脚したまま地面に頭がつく。
私は真逆だった。
かたい。
とにかく、かたい。
先輩に背中を押される。
「はい、もうちょっと」
「痛い、痛い、いたたたたた!」
悲鳴しか出ない。
そして。
ようやく、すべてのメニューが終わった。
全身が悲鳴を上げていた。
私はその場に座り込み、大内川を見た。
夕方の風が、火照った頬をなでる。
川の水がゆっくり流れている。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸った。
――終わった。
やった。
生き延びた。
そう思った。
そのとき。
航平先輩が言った。
「よし! 戻るぞ!」
私は耳を疑った。
――戻る?
何で?
どうやって?
まさか。
「瀬戸大、ファイト!」
「オー!」
「ファイト!」
「オー!」
――走って戻るんだ。
また二キロ。
声を出していないと、本当に倒れそうだった。
当然、私は列から遅れた。
どんどん離される。
最後は走っているのか歩いているのかわからないような速さで、よたよたと大学へ戻った。
ようやく部室前に到着。
これで終わり。
――ではなかった。
全員で円になる。
整理体操。
そして最後に、もう一度。
「瀬戸大、ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!!!!!」」
ようやく、本当に終わった。
私はその場で思った。
――これを、またやるの?
月曜日。
水曜日。
金曜日。
週三回。
心と体を鍛えて、次のステージへ上がる。
数時間前まで、そんなことを考えていた自分に言ってやりたかった。
――アンナ。
ハードル、上げすぎたかもしれないよ。
本当なら、うれしくてたまらないはずだった。
もう毎日、何時間勉強したかを気にしなくていい。
模試の判定に一喜一憂しなくていい。
参考書を何ページ進めたか、数えなくてもいい。
授業が終われば自由。
なのに、その自由が、なぜか落ち着かなかった。
「勉強しなくていいんだから、ラッキーじゃん」
美咲はそう言って笑った。
彼女はもう、大学生活という次のステージを楽しみ始めていた。
でも、私は違った。
――せっかく大学生になったんだから、何かを頑張りたい。
受験勉強みたいに、努力した分だけ何かが積み上がっていくようなもの。
ゲームでいえば、経験値をためてレベルを上げるような。
自分を、今より少し上のステージへ連れていってくれる何か。
そんなものを探していた。
ヨット部に入部して初めての日。
ミーティングで航平先輩が言った。
「俺たちの目標は、インカレで勝つこと。そのために、心と体を鍛え上げる」
「インカレって何ですか?」
麗子が聞くと、航平先輩は答えた。
「大学の全国大会。高校でいうインターハイみたいなものだよ。ヨットは決められたコースを回って、着順を競う」
――インカレで勝つ。
そのために、心と体を鍛える。
心と体を鍛えて、経験値をためる。
そして、今より強い自分になる。
――これだ。
受験勉強の次は、心と体を鍛えるんだ。
これをやっていこう。
わたしは、そう決めた。
◇◇◇
大学の近くには、大内川という川が流れていた。
ゆるやかで、きれいな川だった。
大学から河川敷までは、およそ二キロ。
月曜、水曜、金曜。
授業が終わると、ヨット部員は大学構内のグラウンドにある部室へ集合する。
航平先輩は、サブトレーナーだった。
本当のトレーナーは三年生だったが、教育学部で授業や実習が忙しい。
そのため、普段の練習では経済学部の航平先輩がメニューを組み、みんなに指示を出すらしい。
「よし、行くぞ!」
航平先輩の声で、全員が走り出す。
ただし、黙って走るわけではない。
「瀬戸大、ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!」」
掛け声を繰り返しながら走る。
先輩も一年生も一緒だった。
私は最初、麗子や美咲と話しながら走ればいいと思っていた。
甘かった。
すぐに、そんな余裕はなくなった。
きつい。
とにかく、きつい。
受験勉強ですっかりなまった体。
そもそも私は、中学も高校も運動部経験ゼロ。
二キロも走る。
「たった二キロだ」と先輩たちは言う。
でも私には、
――二キロも!
だった。
息が上がる。
足が重い。
胸が苦しい。
なのに、航平先輩は先頭を軽々と走っている。
速い。
速すぎる。
――心と体を鍛える?
私の頭の中では、早くも別の言葉が浮かび始めていた。
――やっぱり無理。
――やめようかな。
――今ならまだ間に合う。
ようやく河川敷に着いた。
私は膝に手をつき、ぜえぜえ息をしていた。
ところが航平先輩は、さわやかな顔で言った。
「よし! サーキット練習、始めるぞ!」
――まだやるの?
本気でそう思った。
「まずは握力!
両腕を前に伸ばして」
手のひらを握って開く運動。
グーパー、グーパーと握力を鍛える。
そして、一人ずつ十まで数えるというのだ。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅう!」
十回。
――終わった。
そう思った。
甘かった。
次の人が数え始める。
「いーち、にーい……」
え?
また十回?
そして、その次の人。
さらに、その次。
その場に十人いれば百回。
二十人いれば二百回。
私は周りを見回した。
ええっと――。
二十四人。
二百四十回?
もちろん私も麗子も美咲も数える。
長い。
とにかく長い。
ようやく終わった。
今度こそ終わった。
そう思った瞬間。
「腕回し!」
航平先輩が叫んだ。
――今度は腕を鍛えるの?
両腕を前へ伸ばし、ぐるぐる回す。
これも、一人ずつ十まで数える。
全員分。
さらに今度は腕を横へ伸ばして、またぐるぐる。
これも全員分。
だんだん肩が熱くなってくる。
腕が重い。
私は小柄で、腕なんて骨と皮みたいなものだった。
なのに、その細い腕が鉄の棒みたいに重くなる。
下ろしたい。
今すぐ下ろしたい。
でも、誰も下ろさない。
先輩も。
同期も。
麗子も。
美咲も。
だから私も下ろせない。
そして、とうとう数を数える順番が回ってきた。
「い……いち、にっ、さん、しぃ……」
声まで震える。
なんとか十まで数えた。
目の前では、航平先輩が相変わらず平気な顔をしている。
しかも、笑っている。
爽やかに。
――なんで笑えるの?
試乗会では、あんなに素敵に見えたその笑顔が。
少し憎かった。
いや。
かなり憎かった。
そして練習が進むにつれて、憎しみは順調に大きく育っていった。
麗子を見る。
疲れ切った顔をしている。
――仲間だ。
少し安心する。
美咲を見る。
まだ平気そう。
――なんで?
私だけ、もう限界だった。
そこへ航平先輩の声が飛ぶ。
「次! 腹筋、背筋!」
――嘘でしょ。
まだやるの?
二年生の桜田先輩とペアになった。
「アンナ、まず腹筋ね。やってみよう」
桜田先輩が私の足を押さえてくれる。
二十回。
そのはずだった。
「いち……に……さん……」
三回しかできない。
終了。
いや、正式には終了していない。
私が勝手に終了した。
今度は交代。
桜田先輩が腹筋を始める。
一、二、三、四――。
軽い。
あっという間に二十回。
――同じ人間?
「次、背筋!」
二十回。
私は十回を過ぎたあたりで、うつ伏せになったまま動かなくなった。
完全に、死体のポーズ。
「アンナ、大丈夫?」
桜田先輩が笑っている。
大丈夫ではない。
「次、腕立て!」
――もう聞きたくない。
二十回。
私は構えた。
腕を曲げる。
……上がらない。
一回もできなかった。
桜田先輩はにっこり笑った。
「まあ、これからだね」
そう言いながら、普通に腕立て伏せを二十回やった。
私は本当に体力がなかった。
桜田先輩は余裕。
麗子は、なんとか頑張っている。
そして美咲。
――すごい。
全部できている。
そのあとも、ストレッチが続いた。
開脚。
右。
左。
中央。
桜田先輩はものすごく体が柔らかくて、開脚したまま地面に頭がつく。
私は真逆だった。
かたい。
とにかく、かたい。
先輩に背中を押される。
「はい、もうちょっと」
「痛い、痛い、いたたたたた!」
悲鳴しか出ない。
そして。
ようやく、すべてのメニューが終わった。
全身が悲鳴を上げていた。
私はその場に座り込み、大内川を見た。
夕方の風が、火照った頬をなでる。
川の水がゆっくり流れている。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸った。
――終わった。
やった。
生き延びた。
そう思った。
そのとき。
航平先輩が言った。
「よし! 戻るぞ!」
私は耳を疑った。
――戻る?
何で?
どうやって?
まさか。
「瀬戸大、ファイト!」
「オー!」
「ファイト!」
「オー!」
――走って戻るんだ。
また二キロ。
声を出していないと、本当に倒れそうだった。
当然、私は列から遅れた。
どんどん離される。
最後は走っているのか歩いているのかわからないような速さで、よたよたと大学へ戻った。
ようやく部室前に到着。
これで終わり。
――ではなかった。
全員で円になる。
整理体操。
そして最後に、もう一度。
「瀬戸大、ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!」」
「ファイト!」
「「オー!!!!!」」
ようやく、本当に終わった。
私はその場で思った。
――これを、またやるの?
月曜日。
水曜日。
金曜日。
週三回。
心と体を鍛えて、次のステージへ上がる。
数時間前まで、そんなことを考えていた自分に言ってやりたかった。
――アンナ。
ハードル、上げすぎたかもしれないよ。



