波が高かった。
有名な浮世絵のように、見上げるように大きい白波が端から砕けていく。
四月の海水は、瀬戸内海といえどもまだ冷たい。
アンナは航平先輩とふたり、海の中に投げ出されいた。
頭からまた波をかぶる。
仲間のヨットは、もうすっかり見えなくなっていた。
「げほっ、げほっ……!」
口に入った海水にむせた。
塩辛い。
苦しい。
息を吸おうとした時、次の波を頭からかぶる。
時々、意識が遠のきそうになる。
そのたびに、航平先輩がわたしの手を強く引いた。
「アンナ! しっかりしろ!」
「……はい」
返事をしたつもりだった。
でも、自分の声さえ聞こえない。
暴風。
高波。
速い潮流。
轟音《ごうおん》が鳴る。
このまま海の藻屑になって、わたしたちふたりは消えてしまうのだろう。
そんなことを思った。
ふたり乗りヨットが転覆し、その艇から離れた。
どれほど流されたのだろう。
もうわたしたちのヨットは見えない。
360度、陸も見えない。
広い海原に流されて、生きて戻れるはずがない。
……死ぬんだ。
わたし、
大好きな航平先輩と一緒に。
そのときだった。
トトトト、トトトト――。
何か、小さな音がする。
波の音だろうか。
ううん、違う。
規則正しい。
エンジンの音だ。
航平先輩が顔を上げた。
「アンナ、見ろ」
「え……?」
「……嘘だろ」
先輩が目を見開いた。
そして、かすかに笑った。
「神だ」
西の方角から、何かが近づいてくる。
波の頂点で姿を現し、次の瞬間には見えなくなる。
やがて、また現れる。
「船だ」
「漁船……?!」
大きなうねりにもてあそばれ、海面へ叩きつけられながら、それでもこちらへ近づいてくる。
助かるかもしれない。
航平先輩は、ずっとわたしの手を強く握っていた。
大きな波が来る。
二人とも海中へ沈んだ。
ゴボゴボと水の音がする。
次の瞬間、ライフジャケットの浮力で海面へ押し戻された。
「ぷはっ!」
息を吸う。
先輩も顔を出した。
そして、わたしを見た。
笑った。
こんな状況なのに。
いつもの航平先輩みたいだ。
どんなときも諦めない、いつもの強い先輩。
「アンナ。先に乗れ」
漁船から浮き輪が投げられた。
「おーい、つかまれー!」
漁師の声がする。
わたしは手を伸ばした。
手は、届かなかった。
波が浮き輪をさらっていく。
「もう一回投げるぞ!」
再び浮き輪が飛んできた。
わたしは片腕で必死につかんだ。
「先輩!」
航平先輩を見る。
「助かるかも」
先輩は、大きくうなずいた。
安心したように笑った。
そして――。
目を閉じた。
え?
強く握られていたはずの指から、力が抜けていく。
一本。
また一本。
先輩の指が、わたしの手から離れていく。
「先輩?」
わたしは手を伸ばした。
「待って!」
つかまなきゃ。
先輩をつかまなきゃ。
浮き輪は漁船に引き寄せられる。
先輩が少しずつ離れていく。
大きな波にもまれた漁船が高く持ち上がった。
そして――。
バシャーン!
海面へ落ちた。
ロープが強く引かれた。
浮き輪ごと、わたしの体が漁船へ手繰り寄せられていく。
「待って! 先輩が!」
航平先輩の体が離れた。
ゆっくりと。
潮に流されていく。
「うそ……」
オレンジ色のライフジャケットが遠ざかる。
「行かないで!」
叫んだ。
「航平先輩!」
漁船の船べりから、日に焼けた男たちが手を伸ばしてきた。
「つかまれ!」
「すみません!」
わたしは先輩を指さした。
「あのオレンジ色のライフジャケット! 先輩なんです!」
波に隠れる。
また見える。
見失わないように、わたしは必死に目を凝らした。
「おい、しっかり船に上がれ!」
漁師が叫ぶ。
「もっとがんばれ! お前を助けたら、もう一人も助けるから!」
がんばりたい。
でも、手にも足にも力が入らない。
自分の体なのに、まったく言うことをきかなかった。
「ほら!」
誰かがわたしのライフジャケットをつかんだ。
そのまま持ち上げられる。
体が船べりにぶつかった。
「痛っ!」
次の瞬間、わたしは甲板に転がり込んだ。
「先輩!」
すぐに起き上がろうとした。
でも、できなかった。
体に力が入らない。
それでも顔だけを上げて、東へ流されていく航平先輩を目で追った。
そのときだった。
海の中に、白く滑らかな物体が見えた。
一頭。
また一頭。
「ありゃなんだ? ……スナメリか?」
クジラの仲間、スナメリのようだった。
白波の間から顔を出し、また海へ潜る。
その一頭が、航平先輩の近くを泳いでいる。
まるで寄り添うように。
……神様。
お願い。
わたしの航平先輩を救って。
漁船のエンジン音が大きくなった。
見れば、この船には二人の漁師が乗っていた。
二人とも顔も腕も赤く日焼けしている。
髪は潮に焼けて、金色がかって見えた。
二人は荒れる海の上で、巧みに漁船を操る。
船首を東へ向けた。
航平先輩を追ってくれる。
「お願いします!」
わたしはもう一度叫んだ。
「お願いします!」
そのとき、一人の漁師が後方を見て大声を上げた。
「くるぞ!」
もう一人も叫ぶ。
「くるぞ、くるぞ!」
何が?
わたしは前を見た。
息をのんだ。
これまで見たこともないほど大きな波が、目の前に迫っていた。
漁師たちが身構える。
「つかまれ!」



