僕らのノイズ ※最後の願いは、よく考えたうえで送信してください。


 大会には出られたのだから。ダメ金とはいえ、金賞も獲れたのだから。……本来は、それだけで十分じゃないか。――十分じゃないのか?
 代理申請はルールで認められたもので、不正じゃない。
 正しいことしかしていない。
 何に怯える必要があるのだろう、私は、何を怖がっているのだろう。
 深く考えているうちに、不純物がたくさん混ざった濁流にかんたんに飲み込まれて破片が刺さり、溺れてしまいそうになる。
 綺麗な空気を吸おうと、水面に向かって一生懸命に手を伸ばした。でも、なかなか水面の向こうまで手が届かない。

 まだ大丈夫……。
 大丈夫、まだ大丈夫。これぐらいなら耐えられる。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫……。

 おまじないのほうが、まだ有効な気がしてくる。
 けれど、今の私には「大丈夫」以外の言葉は効力をなさない。だから、楽譜を両手で胸に抱え、必死にそれだけを唱えた。
 私も、自分が属するアルトパートの練習に参加するため、既に練習を始めている空き教室に入った。

「夕夏せん、ぱ……」

 一人の後輩が私を見るなり名前を呼び、しまった、と口を小さく開けたまま俯いた。

「ダメだよ、『話しかけるな』って朋美先輩に言われたばっかじゃん」
「馬鹿! 聞こえちゃうって」

 また小声で何かを言われている。
 あからさまに顔の下半分を楽譜で隠して、ひそひそと話している。肘で互いの脇腹をつついて、私がこの場にいること自体、彼らにとっては都合が悪いことみたいだった。
 無駄に私の聴力が優れているせいで、たった二、三センチメートルほどの距離では、小声で話されても全て丸聞こえで。けれども、彼らはおそらく、それどころではないんだろう。

「朋美に何か、" 指示 "されたの?」

 私はあえて、彼らが答えやすいように、「指示」だけ語気を強めてたずねた。
 嫌味たらしい先輩だと思われているんだろうな、こんな風にしか聞けないから。まあ、でも、反省会のときも後ろでこそこそと話していた子達だから、お互い様か。
 私は笑顔のまま、心の中では、鼻で笑った。
 音取り――パートの旋律を覚えるため――をする担当部員が、鍵盤に手を置いたままこちらを真っ直ぐ見つめてきて、ついに口を開いた。

「夕夏先輩とは話すなと……" 指示 "されました」
 それだけです、と言われて壁をつくられた
 返ってきた言葉からは、呆れを通り越して、もはや清々しさまで感じられた。
 後輩の誰か一人でも、私の味方をしようとか、思わないんだ……。
 お腹の底から、堪えきれない笑いが込み上げてくる。

「あはははははははは」

 不安が爆発して、それを悟られないようにするための笑いが弾ける。後輩達の引けた目が、青ざめた顔が、私の視界に入ってくる。

 ねぇ、あなた達も笑いなよ。そうすれば、楽しい雰囲気に変えられるんじゃない? なんでそうやって不安げだったり、血の気の引いた顔で震えているの? なんで――――。

 ひととおり笑いきったら、込み上げてくるような笑いがやっと冷めた。
 でも、体温だけは、笑いすぎたせいで、再び上がり始めている。
 冷え始めた頭とは反対に、血の巡りを感じる手足を動かして、パートの自分の定位置に立った。
 周囲との温度差が、妙に心地良くて、こんな人達なんかもうどうでもいいと、投げやりな気持ちだけ残る。

 次の本番は、三月末の定期演奏会。吹奏楽部と箏曲部と三部合同、二日間に分けて行われる、集大成のイベントが待っている。これ以上、小言をいちいち聞いたり、無暗に笑ったりしている場合じゃない。そんな無駄なことをしている時間はない。
 私は――時間が戻る前の私は、出られなかった。一曲も練習することなく、責任を取るために退部したから。それが今の私なら、出られる、はず。

 また一つ、不安が芽生える。

 これからどうなるか、の予測ができない。大会は、ある種の偶然が重なって、なんとか乗り越えたけれど……。
 定期演奏会は、高一以来――あの時のような感じ、と思えば、また、なんとかなるだろうか。曲目はまだ分からない。けれど、まぁ、なんとかなるよね、きっと、大丈夫……。

 大丈夫。
 その言葉を、また自分に唱えて言い聞かせた。

「じゃ、じゃあ始めます。まず、一曲目通して確認します」

 後輩が白鍵を一度弾いて、全員で冒頭一拍分の酸素を鼻からすぅっと吸った。