割れてしまったマグカップをきっかけに。
陽向の中で。
私と一ノ瀬紗良の違いが、少しずつはっきりしていったらしい。
もちろん。
そのときの私は、そんなことに気づいていなかった。
ただ。
陽向と過ごす時間が。
少しずつ『特別なこと』ではなくなり始めていた。
◇◇◇
「美月、今日暇?」
昼過ぎ。
スマートフォンに陽向からメッセージが届いた。
『暇っていうか、仕事ないから家にいるけど』
そう返すと。
すぐに既読がつく。
『じゃあ行く』
「……え?」
声に出してしまった。
そして。
その三十秒後。
『腹減った』
追加で送られてくる。
「知らないよ」
思わず笑う。
『何食べたい?』
聞いてしまう自分も自分だ。
『ハンバーグ』
即答。
「やっぱり」
数日前。
作れる料理の話をしたとき、一番食いついていた。
『分かった』
送信。
すると。
『マジ!?』
『やった!!』
『美月のハンバーグ!!』
大喜びのスタンプまで飛んできた。
「……子どもみたい」
でも。
悪い気はしない。
むしろ。
少し嬉しい。
自分が作るものを。
こんなに楽しみにしてもらえることが。
◇◇◇
夕方。
インターホンが鳴った。
「はーい」
玄関を開ける。
「来た!」
陽向が両手を上げる。
「何そのテンション」
「ハンバーグ!」
「目的そこ?」
「美月にも会いに来たよ」
「ついでみたいに言わないで」
「逆逆」
笑いながら部屋に入ってくる。
本当に。
いつの間にか。
こんなやり取りが自然になっていた。
少し前まで。
『推しが家に来た!』
なんて。
心の中で大騒ぎしていたのに。
今では。
「手洗ってね」
なんて普通に言っている。
「はーい」
陽向も普通に返す。
その姿を見ながら。
ふと。
思う。
家族みたい。
そう思った瞬間。
胸がきゅっとした。
家族。
その言葉は。
まだ少しだけ痛い。
私は慌ててキッチンへ戻った。
◇◇◇
「できたよ」
テーブルにハンバーグを並べる。
「うわっ!」
陽向が目を輝かせた。
「めっちゃうまそう!」
「普通のハンバーグだよ」
「いや、絶対うまいやつ」
「食べてから言って」
「いただきます!」
大きく手を合わせる。
一口。
「……」
陽向の目が丸くなった。
「うまっ!」
「本当?」
「うん!」
「よかった」
自然と笑顔になる。
「これ、美月がよく作ってたやつ?」
「うん」
答えてから。
少しだけ止まる。
「子どもたちが好きだったから」
陽向の表情がほんの少し柔らかくなった。
「そっか」
「特に星がね」
「ひかりちゃん?」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ」
当たり前みたいに言われた。
何気ないこと。
でも。
嬉しかった。
「星、ハンバーグ好きだった?」
「うん。チーズ入れたりするとすごく喜んでた」
「へえ」
陽向がまた一口食べる。
「じゃあ俺、星ちゃんと好み合うわ」
「ふふっ」
笑ってから。
胸の中に。
一瞬だけ。
星の笑顔が浮かぶ。
『ママ、おかわり!』
そんな声まで。
聞こえたような気がした。
私は少しだけ箸を止める。
でも。
陽向は何も言わなかった。
ただ。
さりげなく別の話題に変えた。
「そういえばさ」
「ん?」
「今度、買いに行こうよ」
「何を?」
「マグ」
「あ」
割ってしまったマグカップ。
「本当に私が選んでいいの?」
「だからそう言ったじゃん」
「でも」
「また始まった」
「え?」
「でも、でもって」
陽向が笑う。
「美月が選んだやつ使いたいって言ってんだから、いいの」
「……うん」
こういうところ。
やっぱり慣れない。
自分が選んだものを。
誰かが使いたいと言ってくれること。
私の希望を。
そのまま受け取ってもらえること。
「じゃあ、可愛いの選ぶ」
「ピンク?」
「陽向だから?」
「俺、何でもピンクにされるんだけど」
「似合うからいいじゃん」
「美月まで!」
笑う。
そして。
また。
こういう時間が好きだと思ってしまった。
◇◇◇
食事のあと。
陽向はソファに寝転がりながらテレビを見ていた。
「ねえ」
「んー?」
「それ、家みたいにくつろぎすぎじゃない?」
「いいじゃん」
「ここ私の家じゃないんだけど」
言ってから。
少し変な気分になる。
正確には。
紗良の家。
それでも。
今、ここで暮らしているのは私。
陽向が身体を起こした。
「そういえば」
「?」
「紗良、このソファで寝るの嫌いだったな」
「そうなの?」
「『寝るならベッド行きなよ』って絶対言ってた」
「……それは正論」
「美月も言う?」
「風邪引きそうなら言う」
「同じじゃん」
「でも寝ちゃったなら毛布かけるかな」
陽向の動きが止まった。
「何?」
「いや」
少しだけ。
考えるような顔。
「紗良なら毛布かける前に起こすなって」
「そう?」
「うん」
「じゃあ違うね」
私は何気なく答えた。
でも。
陽向はしばらく私を見ていた。
「……何?」
「最近さ」
「うん?」
「美月と紗良の違うとこ、どんどん増えてんなって」
一瞬。
胸がざわついた。
「……やっぱり変?」
「変っていうか」
陽向が言葉を探す。
「前はさ」
「?」
「事故で記憶が飛んで、性格も変わったのかなって思ってた」
「……」
「でも」
そこで。
陽向がこちらを見る。
その目が。
少しだけ真剣だった。
「それだけじゃ説明つかないことも増えてきた」
心臓が小さく跳ねる。
「例えば?」
「食べ物」
「……」
「コーヒー」
「あ」
「紗良、ブラック絶対飲まなかった」
「そうだったね」
「ラーメンもあんまり食べなかった」
「うん」
「ハンバーグも」
「え?」
思わず声が出る。
「嫌いだったの?」
「嫌いじゃないけど、そんなテンション上がるタイプじゃなかった」
「私が?」
「美月、俺が食ってるの見てめっちゃ嬉しそうだったじゃん」
「だって作ったの喜んでもらえたら嬉しいよ」
「そういうとこも」
「え?」
「紗良と違う」
また。
胸の奥がざわつく。
「……そっか」
陽向が。
紗良と私を比べている。
当然だ。
三十四年間。
ずっと紗良を知っている。
その顔をした私が。
まったく違う人間なのだから。
「あと」
陽向が続ける。
「俺のこと」
「……?」
「詳しすぎ」
「またそれ?」
「いや、マジで」
陽向が身体を起こす。
「この前から考えてたんだけど」
嫌な予感。
「俺が雑誌で話したこと、ほぼ覚えてるじゃん」
「全部じゃないよ」
「十分怖い」
「失礼!」
「だってさ」
陽向が笑う。
「俺自身が忘れてることまで知ってるんだよ?」
「ファンってそういうものだから」
「そうなの?」
「そうなの!」
少なくとも私は。
好きな人が話したこと。
意外と覚えている。
「じゃあ」
また。
あの顔。
何か思いついた顔。
「問題」
「また?」
「俺が二十五歳の誕生日のとき」
「うん」
「メンバーから何もらった?」
「え?」
いきなり細かい。
でも。
「えっと……」
記憶を辿る。
「メンバーの一人からゲームソフトで、別のメンバーからスニーカー。それから――」
「待って」
陽向が止める。
「何で分かんの?」
「雑誌で言ってた」
「九年前だよ!?」
「覚えてる」
陽向が。
本気で引いたような顔をする。
「……美月怖い」
「だから失礼だって!」
「いや、すげえけど!」
「ファンなめないで」
「じゃあ次」
完全にゲームになっている。
「俺が初めて一人で買った高い物」
「時計」
「正解」
「好きな季節」
「冬」
「正解」
「初主演したドラマで苦労したシーン」
「最終回の泣くところ」
「……」
「何?」
「マジですごいな」
陽向が笑う。
「紗良より詳しいわ」
また。
その言葉。
「紗良さんは……」
少し迷って聞く。
「陽向の仕事、あんまり見てなかったの?」
「見てたよ」
陽向はすぐに答えた。
「でも、全部じゃない」
「そっか」
「なんていうか」
陽向が少し笑う。
「紗良にとって俺は、アイドルの天城陽向じゃなかったから」
その言葉に。
胸がきゅっとなる。
「幼なじみ?」
「そう」
陽向が頷く。
「俺がどんだけ売れても、普通に『陽向』だった」
「……」
「テレビ出てても『ふーん』って感じだし」
「贅沢……」
「美月、それ前も言ってたよな」
「だって贅沢だもん」
陽向が笑う。
でも。
私は少しだけ羨ましかった。
ファンでは絶対に知ることのできない。
陽向。
テレビに映っていない陽向。
紗良は。
ずっと知っていた。
「……いいな」
思わず呟く。
「何が?」
「紗良さん」
「え?」
「昔から陽向のこと知ってて」
自分でも驚くほど。
素直な気持ちだった。
「私がテレビでしか知らなかった頃の陽向も」
「……」
「全部知ってたんだね」
言った瞬間。
また。
胸の奥に。
知らない感情が流れ込んできた。
――でも。
私は。
テレビの向こうに行ってしまったあなたを。
誰より近くで知っているはずなのに。
だんだん遠く感じるようになった。
「……っ」
頭が痛む。
「美月?」
陽向がすぐに気づく。
「大丈夫」
額を押さえる。
「また?」
「うん」
断片的な映像。
楽屋らしき場所。
陽向が誰かと話している。
その姿を。
少し離れた場所から見ている紗良。
『陽向、すごく遠くに行っちゃったな』
心の声。
『隣にいるのに』
胸が苦しい。
「……紗良さん」
思わず呟く。
「何見えた?」
陽向の声。
私はゆっくり顔を上げる。
「……寂しかったみたい」
「え?」
「紗良さん」
胸に残る感情。
「陽向が有名になって」
「……」
「嬉しかった」
「……」
「でも、少し寂しかった」
陽向の顔が変わる。
「そんなこと……」
「言ってなかった?」
「……聞いたことない」
「そっか」
そうだよね。
言えなかったんだ。
好きだったから。
応援したかったから。
自分の寂しさで。
陽向の夢に水を差したくなかった。
その気持ちは。
なんとなく。
分かる。
「紗良さんも」
私は小さく言った。
「我慢する人だったんだね」
「……」
陽向は何も答えなかった。
しばらく。
静かな時間が流れる。
それから。
陽向がぽつりと言った。
「俺」
「?」
「紗良のこと、結構知ってるつもりだった」
「うん」
「でも」
自嘲するように笑う。
「知らないこともあったんだな」
私は何も言えなかった。
そして。
陽向はまた。
私の顔を見る。
紗良と同じ顔。
でも。
中にいるのは。
高瀬美月。
「……なあ、美月」
「何?」
「美月って」
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「本当に高瀬美月なんだよな?」
心臓が。
大きく跳ねた。
今までとは違う。
どこか。
確かめるような口調。
「……そうだよ」
「三十四歳」
「うん」
「結婚してて」
「うん」
「子どもがいる」
「……いる」
『いる』。
今も。
私の中では。
あの子たちは。
私の子ども。
たとえ。
もう母親としてそばにいられなくても。
「……そっか」
陽向は。
それ以上何も言わなかった。
でも。
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は知らなかった。
彼が一人。
車の中で。
長い間。
考え込んでいたことを。
一ノ瀬紗良。
三十四歳。
幼なじみ。
自分がずっと知ってきた女性。
そして。
高瀬美月。
三十四歳。
自分を十年以上応援していたという。
夫と子どもがいた女性。
事故の日。
同じ時刻に。
一人は重体。
一人は死亡。
そして。
目を覚ました紗良が。
高瀬美月を名乗った。
最初は。
事故の影響だと思った。
記憶が混乱しているだけ。
そう思いたかった。
だけど。
一ノ瀬紗良なら。
絶対に知らないこと。
絶対にしないこと。
絶対に見せない表情。
それが。
増えすぎている。
なのに。
紗良しか知らない記憶も。
少しだけ持っている。
「……なんなんだよ」
車の中。
陽向は一人。
呟いた。
もし。
本当に。
目の前にいる人が。
一ノ瀬紗良ではないとしたら。
じゃあ。
紗良は。
どこにいる?
その疑問が。
陽向の胸の中で。
少しずつ。
大きくなり始めていた。
陽向の中で。
私と一ノ瀬紗良の違いが、少しずつはっきりしていったらしい。
もちろん。
そのときの私は、そんなことに気づいていなかった。
ただ。
陽向と過ごす時間が。
少しずつ『特別なこと』ではなくなり始めていた。
◇◇◇
「美月、今日暇?」
昼過ぎ。
スマートフォンに陽向からメッセージが届いた。
『暇っていうか、仕事ないから家にいるけど』
そう返すと。
すぐに既読がつく。
『じゃあ行く』
「……え?」
声に出してしまった。
そして。
その三十秒後。
『腹減った』
追加で送られてくる。
「知らないよ」
思わず笑う。
『何食べたい?』
聞いてしまう自分も自分だ。
『ハンバーグ』
即答。
「やっぱり」
数日前。
作れる料理の話をしたとき、一番食いついていた。
『分かった』
送信。
すると。
『マジ!?』
『やった!!』
『美月のハンバーグ!!』
大喜びのスタンプまで飛んできた。
「……子どもみたい」
でも。
悪い気はしない。
むしろ。
少し嬉しい。
自分が作るものを。
こんなに楽しみにしてもらえることが。
◇◇◇
夕方。
インターホンが鳴った。
「はーい」
玄関を開ける。
「来た!」
陽向が両手を上げる。
「何そのテンション」
「ハンバーグ!」
「目的そこ?」
「美月にも会いに来たよ」
「ついでみたいに言わないで」
「逆逆」
笑いながら部屋に入ってくる。
本当に。
いつの間にか。
こんなやり取りが自然になっていた。
少し前まで。
『推しが家に来た!』
なんて。
心の中で大騒ぎしていたのに。
今では。
「手洗ってね」
なんて普通に言っている。
「はーい」
陽向も普通に返す。
その姿を見ながら。
ふと。
思う。
家族みたい。
そう思った瞬間。
胸がきゅっとした。
家族。
その言葉は。
まだ少しだけ痛い。
私は慌ててキッチンへ戻った。
◇◇◇
「できたよ」
テーブルにハンバーグを並べる。
「うわっ!」
陽向が目を輝かせた。
「めっちゃうまそう!」
「普通のハンバーグだよ」
「いや、絶対うまいやつ」
「食べてから言って」
「いただきます!」
大きく手を合わせる。
一口。
「……」
陽向の目が丸くなった。
「うまっ!」
「本当?」
「うん!」
「よかった」
自然と笑顔になる。
「これ、美月がよく作ってたやつ?」
「うん」
答えてから。
少しだけ止まる。
「子どもたちが好きだったから」
陽向の表情がほんの少し柔らかくなった。
「そっか」
「特に星がね」
「ひかりちゃん?」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ」
当たり前みたいに言われた。
何気ないこと。
でも。
嬉しかった。
「星、ハンバーグ好きだった?」
「うん。チーズ入れたりするとすごく喜んでた」
「へえ」
陽向がまた一口食べる。
「じゃあ俺、星ちゃんと好み合うわ」
「ふふっ」
笑ってから。
胸の中に。
一瞬だけ。
星の笑顔が浮かぶ。
『ママ、おかわり!』
そんな声まで。
聞こえたような気がした。
私は少しだけ箸を止める。
でも。
陽向は何も言わなかった。
ただ。
さりげなく別の話題に変えた。
「そういえばさ」
「ん?」
「今度、買いに行こうよ」
「何を?」
「マグ」
「あ」
割ってしまったマグカップ。
「本当に私が選んでいいの?」
「だからそう言ったじゃん」
「でも」
「また始まった」
「え?」
「でも、でもって」
陽向が笑う。
「美月が選んだやつ使いたいって言ってんだから、いいの」
「……うん」
こういうところ。
やっぱり慣れない。
自分が選んだものを。
誰かが使いたいと言ってくれること。
私の希望を。
そのまま受け取ってもらえること。
「じゃあ、可愛いの選ぶ」
「ピンク?」
「陽向だから?」
「俺、何でもピンクにされるんだけど」
「似合うからいいじゃん」
「美月まで!」
笑う。
そして。
また。
こういう時間が好きだと思ってしまった。
◇◇◇
食事のあと。
陽向はソファに寝転がりながらテレビを見ていた。
「ねえ」
「んー?」
「それ、家みたいにくつろぎすぎじゃない?」
「いいじゃん」
「ここ私の家じゃないんだけど」
言ってから。
少し変な気分になる。
正確には。
紗良の家。
それでも。
今、ここで暮らしているのは私。
陽向が身体を起こした。
「そういえば」
「?」
「紗良、このソファで寝るの嫌いだったな」
「そうなの?」
「『寝るならベッド行きなよ』って絶対言ってた」
「……それは正論」
「美月も言う?」
「風邪引きそうなら言う」
「同じじゃん」
「でも寝ちゃったなら毛布かけるかな」
陽向の動きが止まった。
「何?」
「いや」
少しだけ。
考えるような顔。
「紗良なら毛布かける前に起こすなって」
「そう?」
「うん」
「じゃあ違うね」
私は何気なく答えた。
でも。
陽向はしばらく私を見ていた。
「……何?」
「最近さ」
「うん?」
「美月と紗良の違うとこ、どんどん増えてんなって」
一瞬。
胸がざわついた。
「……やっぱり変?」
「変っていうか」
陽向が言葉を探す。
「前はさ」
「?」
「事故で記憶が飛んで、性格も変わったのかなって思ってた」
「……」
「でも」
そこで。
陽向がこちらを見る。
その目が。
少しだけ真剣だった。
「それだけじゃ説明つかないことも増えてきた」
心臓が小さく跳ねる。
「例えば?」
「食べ物」
「……」
「コーヒー」
「あ」
「紗良、ブラック絶対飲まなかった」
「そうだったね」
「ラーメンもあんまり食べなかった」
「うん」
「ハンバーグも」
「え?」
思わず声が出る。
「嫌いだったの?」
「嫌いじゃないけど、そんなテンション上がるタイプじゃなかった」
「私が?」
「美月、俺が食ってるの見てめっちゃ嬉しそうだったじゃん」
「だって作ったの喜んでもらえたら嬉しいよ」
「そういうとこも」
「え?」
「紗良と違う」
また。
胸の奥がざわつく。
「……そっか」
陽向が。
紗良と私を比べている。
当然だ。
三十四年間。
ずっと紗良を知っている。
その顔をした私が。
まったく違う人間なのだから。
「あと」
陽向が続ける。
「俺のこと」
「……?」
「詳しすぎ」
「またそれ?」
「いや、マジで」
陽向が身体を起こす。
「この前から考えてたんだけど」
嫌な予感。
「俺が雑誌で話したこと、ほぼ覚えてるじゃん」
「全部じゃないよ」
「十分怖い」
「失礼!」
「だってさ」
陽向が笑う。
「俺自身が忘れてることまで知ってるんだよ?」
「ファンってそういうものだから」
「そうなの?」
「そうなの!」
少なくとも私は。
好きな人が話したこと。
意外と覚えている。
「じゃあ」
また。
あの顔。
何か思いついた顔。
「問題」
「また?」
「俺が二十五歳の誕生日のとき」
「うん」
「メンバーから何もらった?」
「え?」
いきなり細かい。
でも。
「えっと……」
記憶を辿る。
「メンバーの一人からゲームソフトで、別のメンバーからスニーカー。それから――」
「待って」
陽向が止める。
「何で分かんの?」
「雑誌で言ってた」
「九年前だよ!?」
「覚えてる」
陽向が。
本気で引いたような顔をする。
「……美月怖い」
「だから失礼だって!」
「いや、すげえけど!」
「ファンなめないで」
「じゃあ次」
完全にゲームになっている。
「俺が初めて一人で買った高い物」
「時計」
「正解」
「好きな季節」
「冬」
「正解」
「初主演したドラマで苦労したシーン」
「最終回の泣くところ」
「……」
「何?」
「マジですごいな」
陽向が笑う。
「紗良より詳しいわ」
また。
その言葉。
「紗良さんは……」
少し迷って聞く。
「陽向の仕事、あんまり見てなかったの?」
「見てたよ」
陽向はすぐに答えた。
「でも、全部じゃない」
「そっか」
「なんていうか」
陽向が少し笑う。
「紗良にとって俺は、アイドルの天城陽向じゃなかったから」
その言葉に。
胸がきゅっとなる。
「幼なじみ?」
「そう」
陽向が頷く。
「俺がどんだけ売れても、普通に『陽向』だった」
「……」
「テレビ出てても『ふーん』って感じだし」
「贅沢……」
「美月、それ前も言ってたよな」
「だって贅沢だもん」
陽向が笑う。
でも。
私は少しだけ羨ましかった。
ファンでは絶対に知ることのできない。
陽向。
テレビに映っていない陽向。
紗良は。
ずっと知っていた。
「……いいな」
思わず呟く。
「何が?」
「紗良さん」
「え?」
「昔から陽向のこと知ってて」
自分でも驚くほど。
素直な気持ちだった。
「私がテレビでしか知らなかった頃の陽向も」
「……」
「全部知ってたんだね」
言った瞬間。
また。
胸の奥に。
知らない感情が流れ込んできた。
――でも。
私は。
テレビの向こうに行ってしまったあなたを。
誰より近くで知っているはずなのに。
だんだん遠く感じるようになった。
「……っ」
頭が痛む。
「美月?」
陽向がすぐに気づく。
「大丈夫」
額を押さえる。
「また?」
「うん」
断片的な映像。
楽屋らしき場所。
陽向が誰かと話している。
その姿を。
少し離れた場所から見ている紗良。
『陽向、すごく遠くに行っちゃったな』
心の声。
『隣にいるのに』
胸が苦しい。
「……紗良さん」
思わず呟く。
「何見えた?」
陽向の声。
私はゆっくり顔を上げる。
「……寂しかったみたい」
「え?」
「紗良さん」
胸に残る感情。
「陽向が有名になって」
「……」
「嬉しかった」
「……」
「でも、少し寂しかった」
陽向の顔が変わる。
「そんなこと……」
「言ってなかった?」
「……聞いたことない」
「そっか」
そうだよね。
言えなかったんだ。
好きだったから。
応援したかったから。
自分の寂しさで。
陽向の夢に水を差したくなかった。
その気持ちは。
なんとなく。
分かる。
「紗良さんも」
私は小さく言った。
「我慢する人だったんだね」
「……」
陽向は何も答えなかった。
しばらく。
静かな時間が流れる。
それから。
陽向がぽつりと言った。
「俺」
「?」
「紗良のこと、結構知ってるつもりだった」
「うん」
「でも」
自嘲するように笑う。
「知らないこともあったんだな」
私は何も言えなかった。
そして。
陽向はまた。
私の顔を見る。
紗良と同じ顔。
でも。
中にいるのは。
高瀬美月。
「……なあ、美月」
「何?」
「美月って」
少しだけ。
言葉を選ぶ。
「本当に高瀬美月なんだよな?」
心臓が。
大きく跳ねた。
今までとは違う。
どこか。
確かめるような口調。
「……そうだよ」
「三十四歳」
「うん」
「結婚してて」
「うん」
「子どもがいる」
「……いる」
『いる』。
今も。
私の中では。
あの子たちは。
私の子ども。
たとえ。
もう母親としてそばにいられなくても。
「……そっか」
陽向は。
それ以上何も言わなかった。
でも。
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は知らなかった。
彼が一人。
車の中で。
長い間。
考え込んでいたことを。
一ノ瀬紗良。
三十四歳。
幼なじみ。
自分がずっと知ってきた女性。
そして。
高瀬美月。
三十四歳。
自分を十年以上応援していたという。
夫と子どもがいた女性。
事故の日。
同じ時刻に。
一人は重体。
一人は死亡。
そして。
目を覚ました紗良が。
高瀬美月を名乗った。
最初は。
事故の影響だと思った。
記憶が混乱しているだけ。
そう思いたかった。
だけど。
一ノ瀬紗良なら。
絶対に知らないこと。
絶対にしないこと。
絶対に見せない表情。
それが。
増えすぎている。
なのに。
紗良しか知らない記憶も。
少しだけ持っている。
「……なんなんだよ」
車の中。
陽向は一人。
呟いた。
もし。
本当に。
目の前にいる人が。
一ノ瀬紗良ではないとしたら。
じゃあ。
紗良は。
どこにいる?
その疑問が。
陽向の胸の中で。
少しずつ。
大きくなり始めていた。



