目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

翌朝。

目を覚ました瞬間。

一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。

見知らぬ天井。

柔らかすぎるベッド。

綺麗に整えられた寝室。

「……そっか」

ここは。

一ノ瀬紗良の家。

そして。

今の私は――。

ベッド脇に置かれた鏡を見る。

そこには、もう何度も見た綺麗な女性の顔が映っている。

「……おはよう、紗良さん」

なんとなく。

鏡の中の彼女に声をかけた。

もちろん返事はない。

「今日も、身体借ります」

そう言って。

私はゆっくりベッドから起き上がった。

◇◇◇

退院してから数日。

少しずつ、この部屋での生活にも慣れてきた。

冷蔵庫の場所。

洗濯機の使い方。

お風呂の操作。

近所のスーパー。

それでも。

引き出しを開けるたび。

クローゼットを見るたび。

知らないものが出てくる。

そのたびに思う。

ここは。

私の家ではない。

だけど。

いつまでもそう言ってはいられない。

私は今。

ここで生きていかなければならないのだから。

「よし」

朝ご飯を作ろう。

そう思って、冷蔵庫を開ける。

卵。

野菜。

ハム。

それなりに揃っている。

「目玉焼きでいいかな」

いつもの癖で、家族分の卵を取り出そうとして。

手が止まった。

「……一個でいいんだ」

ぽつりと呟く。

今までは。

一人分なんて作ったこと、ほとんどなかった。

誰が何を食べるか。

誰がこれを嫌いか。

誰が朝は少なめなのか。

そんなことを考えながら。

いつも何人分もの食事を作っていた。

なのに今は。

私一人。

「……変なの」

フライパンを出す。

それから。

目玉焼きとトースト。

簡単なサラダ。

出来上がった朝食をテーブルに置く。

「いただきます」

誰もいない部屋に。

自分の声だけが響いた。

寂しい。

でも。

少しだけ楽でもあった。

誰かに、

「これじゃ足りない」

とか。

「今日はこれじゃない」

とか。

何か言われることもない。

自分が食べたいものを。

自分のためだけに作る。

そんな朝。

いつぶりだろう。

「……いただきます」

もう一度言って。

トーストをかじった。

そのとき。

ピンポーン。

「……え?」

インターホンが鳴った。

朝から誰?

画面を見る。

そこに映っていたのは。

キャップを被った陽向。

「……また!?」

慌てて玄関へ向かう。

ドアを開ける。

「おはよ」

「おはよう……じゃなくて」

「ん?」

「なんでいるの?」

昨日。

名前で呼ぶことになったから。

今日は自然に『陽向』と言えた。

……ちょっとだけ心臓は跳ねたけれど。

「近くに来たから」

「昨日も聞いた気がする、その理由」

「今日は本当に近く」

陽向がコンビニの袋を持ち上げる。

「朝飯買ってきた」

「作っちゃった」

「マジ?」

「うん」

「じゃ、俺が食う」

「え?」

あまりにも自然に言われた。

「朝ご飯食べてないの?」

「まだ」

「でも、一人分しか……」

「なんかあるでしょ」

陽向はそう言いながら、当たり前のように靴を脱ぐ。

「……ちょっと待って」

「何?」

「普通に入るんだ」

「ダメ?」

「いや……」

ここ。

紗良の家だから。

陽向にとっては慣れた場所なのかもしれない。

それにしたって。

トップアイドルが。

朝から家に来て。

「朝ご飯食べる」

って。

まだ慣れない。

「……どうぞ」

「お邪魔しまーす」

軽い。

本当に軽い。

私は思わず笑ってしまった。

「何?」

「陽向って、本当にテレビと変わらないね」

「何が?」

「テンション」

「朝だからまだ低いけど」

「それで?」

「俺、本気出したらもっとすごいよ」

「知ってる」

「そうだった。ファンだった」

陽向が笑った。

◇◇◇

結局。

私はもう一度目玉焼きを焼いた。

「うまそう」

「普通の朝ご飯だけど」

「こういうのでいいんだよ」

陽向が嬉しそうに椅子へ座る。

「いただきます!」

「どうぞ」

向かい側に座って。

私も食事を再開した。

陽向が目玉焼きを一口食べる。

「うまっ」

「本当?」

「うん」

そのリアクションが。

思っていた以上に大きい。

「この目玉焼き、半熟ちょうどいい!」

「そんな褒める?」

「美味いもんは美味いって言うでしょ」

「……」

思わず。

笑ってしまった。

「何?」

「いや」

「何その笑い」

「嬉しいなって」

「目玉焼き褒められたのが?」

「……うん」

少し恥ずかしくなって。

トーストに視線を落とす。

今までも。

料理を作って。

「美味しい」

と言われたことがなかったわけじゃない。

でも。

こんなふうに。

作った瞬間。

目を輝かせて。

「うまっ!」

って。

それだけで。

こんなに嬉しくなるなんて。

「じゃ、毎朝作ってよ」

陽向が冗談っぽく言った。

「え?」

「嘘嘘」

「……びっくりした」

「顔赤くない?」

「赤くない!」

「赤いって」

「目玉焼き食べて!」

「あははっ!」

朝から。

二人で笑う。

不思議。

少し前まで。

朝は一日の中でも特に忙しい時間だった。

誰かを起こして。

ご飯を出して。

忘れ物がないか確認して。

自分のことは後回し。

なのに今は。

陽向と二人で。

くだらない話をしながら。

ゆっくり朝ご飯を食べている。

同じ朝なのに。

まるで別の世界だった。

◇◇◇

「ごちそうさま!」

陽向が両手を合わせる。

「はい」

「マジでうまかった」

「ありがとう」

「また食いたい」

「……」

嬉しい。

その一言が。

単純に。

すごく嬉しかった。

「じゃあ今度、もうちょっとちゃんとしたの作る」

「マジ?」

陽向の目が輝く。

「何作れんの?」

「普通の家庭料理なら」

「例えば?」

「肉じゃがとか、ハンバーグとか」

「ハンバーグ!」

食いつきがすごい。

思わず笑う。

「子どもみたい」

「ハンバーグは何歳でもテンション上がるだろ!」

「はいはい」

「今の言い方、紗良っぽかった」

「え?」

陽向が言ってから。

一瞬。

空気が止まった。

「あ……」

陽向の表情が少し曇る。

「ごめん」

「……ううん」

以前なら。

胸が痛くなったかもしれない。

でも。

今日は。

少し違った。

紗良の存在を消したいわけじゃない。

陽向にとって。

紗良は大切な人。

それは。

私が美月であることとは別のこと。

「似てるところもあるんだね」

私はそう言った。

陽向が少し意外そうにこちらを見る。

「美月と紗良?」

「うん」

「……あるかも」

「どんなところ?」

「強がるとこ」

「え」

「あと大丈夫って言いすぎる」

「……それは似たくなかった」

「ははっ」

陽向が笑う。

私も笑った。

それから。

食器を片づけ始める。

「置いといていいよ」

「いや、俺もやる」

「大丈夫」

「出た」

「え?」

「大丈夫」

「あ……」

陽向がニヤッとする。

「じゃあお願い」

「最初からそう言えばいいの」

「……はい」

何だろう。

この人といると。

今まで無意識にやっていたことに。

次々気づかされる。

頼らない。

謝る。

我慢する。

大丈夫と言う。

それが。

普通だと思っていた。

◇◇◇

二人で食器を片づける。

私が洗って。

陽向が拭く。

「トップアイドルに食器拭かせてる……」

「まだ言ってんの?」

「だって」

「家では普通にやるから」

「へえ」

「何その意外そうな顔」

「陽向が家事してる姿、テレビであんまり見ないから」

「俺だって生きてんだから皿くらい拭くわ!」

「確かに」

二人で笑う。

そのとき。

「あ」

陽向が棚を開ける。

「これ懐かしい」

一つのマグカップを取り出した。

白地に。

小さな星の模様。

少し使い込まれている。

「それ?」

「昔、紗良にあげたやつ」

「……そうなの?」

「二十歳くらいかな」

陽向が懐かしそうに眺める。

「まだ持ってたんだ」

その声が。

少し優しかった。

私はマグカップを見る。

二人の思い出。

陽向から紗良へ贈ったもの。

「大切にしてたんだね」

「……たぶんな」

陽向が笑う。

「紗良、物持ちいいから」

「へえ」

私はカップを受け取った。

「可愛い」

「だろ?」

「自分で言う?」

「俺が選んだんだから」

「はいはい」

そのときだった。

洗剤で濡れていた私の指が。

つるっと滑った。

「あ――」

ガシャン!

大きな音。

足元。

白いマグカップが。

割れた。

一瞬。

何が起きたのか分からなかった。

「……」

床に散らばる破片。

陽向から。

紗良へ。

昔贈られたもの。

「……嘘」

血の気が引く。

「ごめんなさい!」

反射的にしゃがもうとする。

「待って!」

陽向がすぐに腕を掴んだ。

「触んな!」

強い声。

びくっ。

身体が固まった。

怒られた。

そう思った。

「……ごめんなさい」

喉が締まる。

「本当に、ごめんなさい」

「いや、だから――」

「わざとじゃなくて」

「美月」

「大切なものだったのに……」

胸が苦しくなる。

陽向と。

紗良の思い出。

私が。

壊した。

「ごめんなさい」

何度言っても足りない。

「弁償……」

「美月!」

陽向が私の肩を掴む。

私は。

反射的に身体を縮ませた。

次に来る言葉を。

待つように。

でも。

「怪我してない?」

「……え?」

陽向が。

真剣な顔で。

私の手を見ていた。

「手」

「……」

「切ってない?」

「たぶん……」

「足は?」

「大丈夫……」

「踏んでないよな?」

「うん」

陽向がほっと息を吐いた。

「よかった」

私は。

何も言えなかった。

「そこ動かないで」

陽向が新聞紙と掃除道具を探し始める。

「俺やるから」

「でも……」

「破片危ないから」

「私が割ったのに」

「いいって」

「でも……」

陽向がこちらを見る。

「何?」

「……怒らないの?」

口から。

自然に出ていた。

陽向が目を瞬く。

「……は?」

「大切なマグカップ」

「うん」

「紗良さんとの思い出の」

「うん」

「私が割ったのに」

「……」

「怒らないの?」

陽向が。

本気で分からないという顔をした。

「なんで俺が怒るの?」

その言葉。

胸の奥に。

強く落ちた。

「……なんでって」

「わざとじゃないんでしょ?」

「違うけど……」

「じゃあ仕方ないじゃん」

あまりにも。

簡単に言う。

「でも思い出のものだよ?」

「そりゃ残念だけど」

陽向がしゃがんで。

破片を拾い始める。

「マグカップより美月が怪我するほうが嫌なんだけど」

「……」

「だから動くなって」

何。

それ。

胸が。

ぎゅっと締めつけられる。

「……私」

小さく呟く。

「絶対怒られると思った」

陽向の手が止まった。

「そんな怖かった?」

「……」

私は答えられない。

怖かった。

マグカップが割れた瞬間。

頭の中にあったのは。

どう謝るか。

どうしたら怒られないか。

どうしたら。

これ以上相手を不機嫌にさせないか。

そればかりだった。

「……美月」

陽向が立ち上がる。

「何?」

「俺」

少し困ったように眉を下げる。

「そんな怖い?」

「違う!」

すぐに否定した。

「陽向が怖いんじゃない」

「じゃあ?」

「……」

言葉に詰まる。

「失敗したら」

ゆっくり。

言葉を探す。

「怒られるって……思っちゃうだけ」

「……」

「誰かの大事なもの壊したり」

「迷惑かけたり」

「何か失敗したら」

自分が悪い。

だから。

怒られて当然。

ずっと。

そう思っていた。

陽向はしばらく何も言わなかった。

それから。

「美月さ」

「うん」

「これから俺んとこで何か失敗しても」

「……?」

「まず、ごめんなさいより先に」

床を指す。

「怪我してないか確認して」

「……」

「物は買えるから」

そして。

少しだけ笑う。

「人間は買えないでしょ?」

鼻の奥が。

つんとした。

「……陽向」

「何?」

「それ……」

声が震える。

「普通なの?」

「何が?」

「怒らないこと」

陽向が少し考える。

「場合によるけど」

「……」

「少なくとも、事故で物落として割ったくらいで怒鳴ったりはしない」

当たり前みたいに言われる。

「……そっか」

「うん」

そっか。

それだけなのに。

なぜか。

涙が出そうになった。

「おい」

陽向が慌てる。

「なんで泣くの!?」

「泣いてない」

「いや泣いてるって!」

「これは……」

目元を拭く。

「なんか」

自分でも分からない。

「安心しただけ」

「……」

「怒られないんだって」

そう言った瞬間。

陽向の顔から。

笑顔が消えた。

怒ったわけじゃない。

何かを考えている顔。

「美月」

「うん?」

「前の家で」

心臓が少し跳ねた。

「……怒られてたの?」

私は答えなかった。

どう答えればいいのか分からなかったから。

毎日怒鳴られていたわけじゃない。

幸せな時間だってあった。

夫も。

子どもたちも。

大切だった。

でも。

誰かの機嫌。

誰かの言葉。

誰かの考え。

それを気にしながら生活していたのも。

確かだった。

「……いろいろあっただけ」

私は小さく笑った。

陽向は。

それ以上聞かなかった。

ただ。

「そっか」

と言った。

まただ。

無理に聞かない。

でも。

否定もしない。

「じゃあ」

陽向が割れたカップを指差す。

「これは俺が片づける」

「でも」

「美月はコーヒー淹れて」

「私が?」

「うん」

陽向が笑う。

「新しいマグで飲もうぜ」

私は。

少しだけ目を見開いた。

「……いいの?」

「何が?」

「新しいのにして」

「割れたんだから新しくするしかなくない?」

「……そっか」

また。

笑ってしまった。

陽向は。

思い出に執着していないわけじゃない。

きっと。

このマグカップには。

紗良との大切な時間があった。

それでも。

壊れたものより。

今ここにいる私を。

先に心配してくれた。

それが。

どうしようもなく。

嬉しかった。

◇◇◇

しばらくして。

新しいマグカップにコーヒーを淹れた。

陽向の前に置く。

「どうぞ」

「ありがと」

私も向かいに座る。

「……陽向」

「ん?」

「本当にごめんね」

陽向が眉を上げる。

「そのごめんは一回だけ?」

「……一回だけ」

「じゃあ許す」

「ありがとう」

「あと」

「?」

「今度、一緒に新しいマグ買いに行こう」

「え?」

「美月が選んで」

胸が。

跳ねた。

「私が?」

「うん」

「でも、紗良さんとの――」

言いかけて。

陽向が首を振った。

「あれは紗良との思い出」

「……」

「新しいのは」

陽向が私を見る。

「美月と選べばいいじゃん」

言葉が。

出てこなかった。

紗良との思い出を。

私が上書きするわけじゃない。

紗良とのものは。

紗良とのもの。

そして。

これから作るものは。

私とのもの。

陽向は。

そう言ってくれた気がした。

「……うん」

私は。

ゆっくり頷いた。

「一緒に選びたい」

「決まり」

陽向が嬉しそうに笑う。

私も笑った。

そして。

思った。

この人といると。

私は知らなかった『普通』を。

ひとつずつ知っていく。

失敗しても。

怒られないことがある。

泣いても。

面倒だと思われないことがある。

頼っても。

嫌な顔をされないことがある。

そして。

壊れてしまったものがあっても。

新しいものを。

誰かと一緒に選んでいい。

そんなことを。

私は今まで。

知らなかった。

でも。

このときの私はまだ。

気づいていなかった。

割れたマグカップをきっかけに。

陽向の中でも。

またひとつ。

一ノ瀬紗良と高瀬美月の違いが。

はっきりと刻まれていたことを。

紗良なら。

こんなふうに怯えたりしない。

紗良なら。

何度も何度も謝ったりしない。

同じ顔。

同じ身体。

それなのに。

目の前にいる女性は。

どう考えても。

陽向が三十四年間知ってきた一ノ瀬紗良とは――

違っていた。