翌朝。
目を覚ました瞬間。
一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。
見知らぬ天井。
柔らかすぎるベッド。
綺麗に整えられた寝室。
「……そっか」
ここは。
一ノ瀬紗良の家。
そして。
今の私は――。
ベッド脇に置かれた鏡を見る。
そこには、もう何度も見た綺麗な女性の顔が映っている。
「……おはよう、紗良さん」
なんとなく。
鏡の中の彼女に声をかけた。
もちろん返事はない。
「今日も、身体借ります」
そう言って。
私はゆっくりベッドから起き上がった。
◇◇◇
退院してから数日。
少しずつ、この部屋での生活にも慣れてきた。
冷蔵庫の場所。
洗濯機の使い方。
お風呂の操作。
近所のスーパー。
それでも。
引き出しを開けるたび。
クローゼットを見るたび。
知らないものが出てくる。
そのたびに思う。
ここは。
私の家ではない。
だけど。
いつまでもそう言ってはいられない。
私は今。
ここで生きていかなければならないのだから。
「よし」
朝ご飯を作ろう。
そう思って、冷蔵庫を開ける。
卵。
野菜。
ハム。
それなりに揃っている。
「目玉焼きでいいかな」
いつもの癖で、家族分の卵を取り出そうとして。
手が止まった。
「……一個でいいんだ」
ぽつりと呟く。
今までは。
一人分なんて作ったこと、ほとんどなかった。
誰が何を食べるか。
誰がこれを嫌いか。
誰が朝は少なめなのか。
そんなことを考えながら。
いつも何人分もの食事を作っていた。
なのに今は。
私一人。
「……変なの」
フライパンを出す。
それから。
目玉焼きとトースト。
簡単なサラダ。
出来上がった朝食をテーブルに置く。
「いただきます」
誰もいない部屋に。
自分の声だけが響いた。
寂しい。
でも。
少しだけ楽でもあった。
誰かに、
「これじゃ足りない」
とか。
「今日はこれじゃない」
とか。
何か言われることもない。
自分が食べたいものを。
自分のためだけに作る。
そんな朝。
いつぶりだろう。
「……いただきます」
もう一度言って。
トーストをかじった。
そのとき。
ピンポーン。
「……え?」
インターホンが鳴った。
朝から誰?
画面を見る。
そこに映っていたのは。
キャップを被った陽向。
「……また!?」
慌てて玄関へ向かう。
ドアを開ける。
「おはよ」
「おはよう……じゃなくて」
「ん?」
「なんでいるの?」
昨日。
名前で呼ぶことになったから。
今日は自然に『陽向』と言えた。
……ちょっとだけ心臓は跳ねたけれど。
「近くに来たから」
「昨日も聞いた気がする、その理由」
「今日は本当に近く」
陽向がコンビニの袋を持ち上げる。
「朝飯買ってきた」
「作っちゃった」
「マジ?」
「うん」
「じゃ、俺が食う」
「え?」
あまりにも自然に言われた。
「朝ご飯食べてないの?」
「まだ」
「でも、一人分しか……」
「なんかあるでしょ」
陽向はそう言いながら、当たり前のように靴を脱ぐ。
「……ちょっと待って」
「何?」
「普通に入るんだ」
「ダメ?」
「いや……」
ここ。
紗良の家だから。
陽向にとっては慣れた場所なのかもしれない。
それにしたって。
トップアイドルが。
朝から家に来て。
「朝ご飯食べる」
って。
まだ慣れない。
「……どうぞ」
「お邪魔しまーす」
軽い。
本当に軽い。
私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「陽向って、本当にテレビと変わらないね」
「何が?」
「テンション」
「朝だからまだ低いけど」
「それで?」
「俺、本気出したらもっとすごいよ」
「知ってる」
「そうだった。ファンだった」
陽向が笑った。
◇◇◇
結局。
私はもう一度目玉焼きを焼いた。
「うまそう」
「普通の朝ご飯だけど」
「こういうのでいいんだよ」
陽向が嬉しそうに椅子へ座る。
「いただきます!」
「どうぞ」
向かい側に座って。
私も食事を再開した。
陽向が目玉焼きを一口食べる。
「うまっ」
「本当?」
「うん」
そのリアクションが。
思っていた以上に大きい。
「この目玉焼き、半熟ちょうどいい!」
「そんな褒める?」
「美味いもんは美味いって言うでしょ」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何?」
「いや」
「何その笑い」
「嬉しいなって」
「目玉焼き褒められたのが?」
「……うん」
少し恥ずかしくなって。
トーストに視線を落とす。
今までも。
料理を作って。
「美味しい」
と言われたことがなかったわけじゃない。
でも。
こんなふうに。
作った瞬間。
目を輝かせて。
「うまっ!」
って。
それだけで。
こんなに嬉しくなるなんて。
「じゃ、毎朝作ってよ」
陽向が冗談っぽく言った。
「え?」
「嘘嘘」
「……びっくりした」
「顔赤くない?」
「赤くない!」
「赤いって」
「目玉焼き食べて!」
「あははっ!」
朝から。
二人で笑う。
不思議。
少し前まで。
朝は一日の中でも特に忙しい時間だった。
誰かを起こして。
ご飯を出して。
忘れ物がないか確認して。
自分のことは後回し。
なのに今は。
陽向と二人で。
くだらない話をしながら。
ゆっくり朝ご飯を食べている。
同じ朝なのに。
まるで別の世界だった。
◇◇◇
「ごちそうさま!」
陽向が両手を合わせる。
「はい」
「マジでうまかった」
「ありがとう」
「また食いたい」
「……」
嬉しい。
その一言が。
単純に。
すごく嬉しかった。
「じゃあ今度、もうちょっとちゃんとしたの作る」
「マジ?」
陽向の目が輝く。
「何作れんの?」
「普通の家庭料理なら」
「例えば?」
「肉じゃがとか、ハンバーグとか」
「ハンバーグ!」
食いつきがすごい。
思わず笑う。
「子どもみたい」
「ハンバーグは何歳でもテンション上がるだろ!」
「はいはい」
「今の言い方、紗良っぽかった」
「え?」
陽向が言ってから。
一瞬。
空気が止まった。
「あ……」
陽向の表情が少し曇る。
「ごめん」
「……ううん」
以前なら。
胸が痛くなったかもしれない。
でも。
今日は。
少し違った。
紗良の存在を消したいわけじゃない。
陽向にとって。
紗良は大切な人。
それは。
私が美月であることとは別のこと。
「似てるところもあるんだね」
私はそう言った。
陽向が少し意外そうにこちらを見る。
「美月と紗良?」
「うん」
「……あるかも」
「どんなところ?」
「強がるとこ」
「え」
「あと大丈夫って言いすぎる」
「……それは似たくなかった」
「ははっ」
陽向が笑う。
私も笑った。
それから。
食器を片づけ始める。
「置いといていいよ」
「いや、俺もやる」
「大丈夫」
「出た」
「え?」
「大丈夫」
「あ……」
陽向がニヤッとする。
「じゃあお願い」
「最初からそう言えばいいの」
「……はい」
何だろう。
この人といると。
今まで無意識にやっていたことに。
次々気づかされる。
頼らない。
謝る。
我慢する。
大丈夫と言う。
それが。
普通だと思っていた。
◇◇◇
二人で食器を片づける。
私が洗って。
陽向が拭く。
「トップアイドルに食器拭かせてる……」
「まだ言ってんの?」
「だって」
「家では普通にやるから」
「へえ」
「何その意外そうな顔」
「陽向が家事してる姿、テレビであんまり見ないから」
「俺だって生きてんだから皿くらい拭くわ!」
「確かに」
二人で笑う。
そのとき。
「あ」
陽向が棚を開ける。
「これ懐かしい」
一つのマグカップを取り出した。
白地に。
小さな星の模様。
少し使い込まれている。
「それ?」
「昔、紗良にあげたやつ」
「……そうなの?」
「二十歳くらいかな」
陽向が懐かしそうに眺める。
「まだ持ってたんだ」
その声が。
少し優しかった。
私はマグカップを見る。
二人の思い出。
陽向から紗良へ贈ったもの。
「大切にしてたんだね」
「……たぶんな」
陽向が笑う。
「紗良、物持ちいいから」
「へえ」
私はカップを受け取った。
「可愛い」
「だろ?」
「自分で言う?」
「俺が選んだんだから」
「はいはい」
そのときだった。
洗剤で濡れていた私の指が。
つるっと滑った。
「あ――」
ガシャン!
大きな音。
足元。
白いマグカップが。
割れた。
一瞬。
何が起きたのか分からなかった。
「……」
床に散らばる破片。
陽向から。
紗良へ。
昔贈られたもの。
「……嘘」
血の気が引く。
「ごめんなさい!」
反射的にしゃがもうとする。
「待って!」
陽向がすぐに腕を掴んだ。
「触んな!」
強い声。
びくっ。
身体が固まった。
怒られた。
そう思った。
「……ごめんなさい」
喉が締まる。
「本当に、ごめんなさい」
「いや、だから――」
「わざとじゃなくて」
「美月」
「大切なものだったのに……」
胸が苦しくなる。
陽向と。
紗良の思い出。
私が。
壊した。
「ごめんなさい」
何度言っても足りない。
「弁償……」
「美月!」
陽向が私の肩を掴む。
私は。
反射的に身体を縮ませた。
次に来る言葉を。
待つように。
でも。
「怪我してない?」
「……え?」
陽向が。
真剣な顔で。
私の手を見ていた。
「手」
「……」
「切ってない?」
「たぶん……」
「足は?」
「大丈夫……」
「踏んでないよな?」
「うん」
陽向がほっと息を吐いた。
「よかった」
私は。
何も言えなかった。
「そこ動かないで」
陽向が新聞紙と掃除道具を探し始める。
「俺やるから」
「でも……」
「破片危ないから」
「私が割ったのに」
「いいって」
「でも……」
陽向がこちらを見る。
「何?」
「……怒らないの?」
口から。
自然に出ていた。
陽向が目を瞬く。
「……は?」
「大切なマグカップ」
「うん」
「紗良さんとの思い出の」
「うん」
「私が割ったのに」
「……」
「怒らないの?」
陽向が。
本気で分からないという顔をした。
「なんで俺が怒るの?」
その言葉。
胸の奥に。
強く落ちた。
「……なんでって」
「わざとじゃないんでしょ?」
「違うけど……」
「じゃあ仕方ないじゃん」
あまりにも。
簡単に言う。
「でも思い出のものだよ?」
「そりゃ残念だけど」
陽向がしゃがんで。
破片を拾い始める。
「マグカップより美月が怪我するほうが嫌なんだけど」
「……」
「だから動くなって」
何。
それ。
胸が。
ぎゅっと締めつけられる。
「……私」
小さく呟く。
「絶対怒られると思った」
陽向の手が止まった。
「そんな怖かった?」
「……」
私は答えられない。
怖かった。
マグカップが割れた瞬間。
頭の中にあったのは。
どう謝るか。
どうしたら怒られないか。
どうしたら。
これ以上相手を不機嫌にさせないか。
そればかりだった。
「……美月」
陽向が立ち上がる。
「何?」
「俺」
少し困ったように眉を下げる。
「そんな怖い?」
「違う!」
すぐに否定した。
「陽向が怖いんじゃない」
「じゃあ?」
「……」
言葉に詰まる。
「失敗したら」
ゆっくり。
言葉を探す。
「怒られるって……思っちゃうだけ」
「……」
「誰かの大事なもの壊したり」
「迷惑かけたり」
「何か失敗したら」
自分が悪い。
だから。
怒られて当然。
ずっと。
そう思っていた。
陽向はしばらく何も言わなかった。
それから。
「美月さ」
「うん」
「これから俺んとこで何か失敗しても」
「……?」
「まず、ごめんなさいより先に」
床を指す。
「怪我してないか確認して」
「……」
「物は買えるから」
そして。
少しだけ笑う。
「人間は買えないでしょ?」
鼻の奥が。
つんとした。
「……陽向」
「何?」
「それ……」
声が震える。
「普通なの?」
「何が?」
「怒らないこと」
陽向が少し考える。
「場合によるけど」
「……」
「少なくとも、事故で物落として割ったくらいで怒鳴ったりはしない」
当たり前みたいに言われる。
「……そっか」
「うん」
そっか。
それだけなのに。
なぜか。
涙が出そうになった。
「おい」
陽向が慌てる。
「なんで泣くの!?」
「泣いてない」
「いや泣いてるって!」
「これは……」
目元を拭く。
「なんか」
自分でも分からない。
「安心しただけ」
「……」
「怒られないんだって」
そう言った瞬間。
陽向の顔から。
笑顔が消えた。
怒ったわけじゃない。
何かを考えている顔。
「美月」
「うん?」
「前の家で」
心臓が少し跳ねた。
「……怒られてたの?」
私は答えなかった。
どう答えればいいのか分からなかったから。
毎日怒鳴られていたわけじゃない。
幸せな時間だってあった。
夫も。
子どもたちも。
大切だった。
でも。
誰かの機嫌。
誰かの言葉。
誰かの考え。
それを気にしながら生活していたのも。
確かだった。
「……いろいろあっただけ」
私は小さく笑った。
陽向は。
それ以上聞かなかった。
ただ。
「そっか」
と言った。
まただ。
無理に聞かない。
でも。
否定もしない。
「じゃあ」
陽向が割れたカップを指差す。
「これは俺が片づける」
「でも」
「美月はコーヒー淹れて」
「私が?」
「うん」
陽向が笑う。
「新しいマグで飲もうぜ」
私は。
少しだけ目を見開いた。
「……いいの?」
「何が?」
「新しいのにして」
「割れたんだから新しくするしかなくない?」
「……そっか」
また。
笑ってしまった。
陽向は。
思い出に執着していないわけじゃない。
きっと。
このマグカップには。
紗良との大切な時間があった。
それでも。
壊れたものより。
今ここにいる私を。
先に心配してくれた。
それが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
◇◇◇
しばらくして。
新しいマグカップにコーヒーを淹れた。
陽向の前に置く。
「どうぞ」
「ありがと」
私も向かいに座る。
「……陽向」
「ん?」
「本当にごめんね」
陽向が眉を上げる。
「そのごめんは一回だけ?」
「……一回だけ」
「じゃあ許す」
「ありがとう」
「あと」
「?」
「今度、一緒に新しいマグ買いに行こう」
「え?」
「美月が選んで」
胸が。
跳ねた。
「私が?」
「うん」
「でも、紗良さんとの――」
言いかけて。
陽向が首を振った。
「あれは紗良との思い出」
「……」
「新しいのは」
陽向が私を見る。
「美月と選べばいいじゃん」
言葉が。
出てこなかった。
紗良との思い出を。
私が上書きするわけじゃない。
紗良とのものは。
紗良とのもの。
そして。
これから作るものは。
私とのもの。
陽向は。
そう言ってくれた気がした。
「……うん」
私は。
ゆっくり頷いた。
「一緒に選びたい」
「決まり」
陽向が嬉しそうに笑う。
私も笑った。
そして。
思った。
この人といると。
私は知らなかった『普通』を。
ひとつずつ知っていく。
失敗しても。
怒られないことがある。
泣いても。
面倒だと思われないことがある。
頼っても。
嫌な顔をされないことがある。
そして。
壊れてしまったものがあっても。
新しいものを。
誰かと一緒に選んでいい。
そんなことを。
私は今まで。
知らなかった。
でも。
このときの私はまだ。
気づいていなかった。
割れたマグカップをきっかけに。
陽向の中でも。
またひとつ。
一ノ瀬紗良と高瀬美月の違いが。
はっきりと刻まれていたことを。
紗良なら。
こんなふうに怯えたりしない。
紗良なら。
何度も何度も謝ったりしない。
同じ顔。
同じ身体。
それなのに。
目の前にいる女性は。
どう考えても。
陽向が三十四年間知ってきた一ノ瀬紗良とは――
違っていた。
目を覚ました瞬間。
一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。
見知らぬ天井。
柔らかすぎるベッド。
綺麗に整えられた寝室。
「……そっか」
ここは。
一ノ瀬紗良の家。
そして。
今の私は――。
ベッド脇に置かれた鏡を見る。
そこには、もう何度も見た綺麗な女性の顔が映っている。
「……おはよう、紗良さん」
なんとなく。
鏡の中の彼女に声をかけた。
もちろん返事はない。
「今日も、身体借ります」
そう言って。
私はゆっくりベッドから起き上がった。
◇◇◇
退院してから数日。
少しずつ、この部屋での生活にも慣れてきた。
冷蔵庫の場所。
洗濯機の使い方。
お風呂の操作。
近所のスーパー。
それでも。
引き出しを開けるたび。
クローゼットを見るたび。
知らないものが出てくる。
そのたびに思う。
ここは。
私の家ではない。
だけど。
いつまでもそう言ってはいられない。
私は今。
ここで生きていかなければならないのだから。
「よし」
朝ご飯を作ろう。
そう思って、冷蔵庫を開ける。
卵。
野菜。
ハム。
それなりに揃っている。
「目玉焼きでいいかな」
いつもの癖で、家族分の卵を取り出そうとして。
手が止まった。
「……一個でいいんだ」
ぽつりと呟く。
今までは。
一人分なんて作ったこと、ほとんどなかった。
誰が何を食べるか。
誰がこれを嫌いか。
誰が朝は少なめなのか。
そんなことを考えながら。
いつも何人分もの食事を作っていた。
なのに今は。
私一人。
「……変なの」
フライパンを出す。
それから。
目玉焼きとトースト。
簡単なサラダ。
出来上がった朝食をテーブルに置く。
「いただきます」
誰もいない部屋に。
自分の声だけが響いた。
寂しい。
でも。
少しだけ楽でもあった。
誰かに、
「これじゃ足りない」
とか。
「今日はこれじゃない」
とか。
何か言われることもない。
自分が食べたいものを。
自分のためだけに作る。
そんな朝。
いつぶりだろう。
「……いただきます」
もう一度言って。
トーストをかじった。
そのとき。
ピンポーン。
「……え?」
インターホンが鳴った。
朝から誰?
画面を見る。
そこに映っていたのは。
キャップを被った陽向。
「……また!?」
慌てて玄関へ向かう。
ドアを開ける。
「おはよ」
「おはよう……じゃなくて」
「ん?」
「なんでいるの?」
昨日。
名前で呼ぶことになったから。
今日は自然に『陽向』と言えた。
……ちょっとだけ心臓は跳ねたけれど。
「近くに来たから」
「昨日も聞いた気がする、その理由」
「今日は本当に近く」
陽向がコンビニの袋を持ち上げる。
「朝飯買ってきた」
「作っちゃった」
「マジ?」
「うん」
「じゃ、俺が食う」
「え?」
あまりにも自然に言われた。
「朝ご飯食べてないの?」
「まだ」
「でも、一人分しか……」
「なんかあるでしょ」
陽向はそう言いながら、当たり前のように靴を脱ぐ。
「……ちょっと待って」
「何?」
「普通に入るんだ」
「ダメ?」
「いや……」
ここ。
紗良の家だから。
陽向にとっては慣れた場所なのかもしれない。
それにしたって。
トップアイドルが。
朝から家に来て。
「朝ご飯食べる」
って。
まだ慣れない。
「……どうぞ」
「お邪魔しまーす」
軽い。
本当に軽い。
私は思わず笑ってしまった。
「何?」
「陽向って、本当にテレビと変わらないね」
「何が?」
「テンション」
「朝だからまだ低いけど」
「それで?」
「俺、本気出したらもっとすごいよ」
「知ってる」
「そうだった。ファンだった」
陽向が笑った。
◇◇◇
結局。
私はもう一度目玉焼きを焼いた。
「うまそう」
「普通の朝ご飯だけど」
「こういうのでいいんだよ」
陽向が嬉しそうに椅子へ座る。
「いただきます!」
「どうぞ」
向かい側に座って。
私も食事を再開した。
陽向が目玉焼きを一口食べる。
「うまっ」
「本当?」
「うん」
そのリアクションが。
思っていた以上に大きい。
「この目玉焼き、半熟ちょうどいい!」
「そんな褒める?」
「美味いもんは美味いって言うでしょ」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何?」
「いや」
「何その笑い」
「嬉しいなって」
「目玉焼き褒められたのが?」
「……うん」
少し恥ずかしくなって。
トーストに視線を落とす。
今までも。
料理を作って。
「美味しい」
と言われたことがなかったわけじゃない。
でも。
こんなふうに。
作った瞬間。
目を輝かせて。
「うまっ!」
って。
それだけで。
こんなに嬉しくなるなんて。
「じゃ、毎朝作ってよ」
陽向が冗談っぽく言った。
「え?」
「嘘嘘」
「……びっくりした」
「顔赤くない?」
「赤くない!」
「赤いって」
「目玉焼き食べて!」
「あははっ!」
朝から。
二人で笑う。
不思議。
少し前まで。
朝は一日の中でも特に忙しい時間だった。
誰かを起こして。
ご飯を出して。
忘れ物がないか確認して。
自分のことは後回し。
なのに今は。
陽向と二人で。
くだらない話をしながら。
ゆっくり朝ご飯を食べている。
同じ朝なのに。
まるで別の世界だった。
◇◇◇
「ごちそうさま!」
陽向が両手を合わせる。
「はい」
「マジでうまかった」
「ありがとう」
「また食いたい」
「……」
嬉しい。
その一言が。
単純に。
すごく嬉しかった。
「じゃあ今度、もうちょっとちゃんとしたの作る」
「マジ?」
陽向の目が輝く。
「何作れんの?」
「普通の家庭料理なら」
「例えば?」
「肉じゃがとか、ハンバーグとか」
「ハンバーグ!」
食いつきがすごい。
思わず笑う。
「子どもみたい」
「ハンバーグは何歳でもテンション上がるだろ!」
「はいはい」
「今の言い方、紗良っぽかった」
「え?」
陽向が言ってから。
一瞬。
空気が止まった。
「あ……」
陽向の表情が少し曇る。
「ごめん」
「……ううん」
以前なら。
胸が痛くなったかもしれない。
でも。
今日は。
少し違った。
紗良の存在を消したいわけじゃない。
陽向にとって。
紗良は大切な人。
それは。
私が美月であることとは別のこと。
「似てるところもあるんだね」
私はそう言った。
陽向が少し意外そうにこちらを見る。
「美月と紗良?」
「うん」
「……あるかも」
「どんなところ?」
「強がるとこ」
「え」
「あと大丈夫って言いすぎる」
「……それは似たくなかった」
「ははっ」
陽向が笑う。
私も笑った。
それから。
食器を片づけ始める。
「置いといていいよ」
「いや、俺もやる」
「大丈夫」
「出た」
「え?」
「大丈夫」
「あ……」
陽向がニヤッとする。
「じゃあお願い」
「最初からそう言えばいいの」
「……はい」
何だろう。
この人といると。
今まで無意識にやっていたことに。
次々気づかされる。
頼らない。
謝る。
我慢する。
大丈夫と言う。
それが。
普通だと思っていた。
◇◇◇
二人で食器を片づける。
私が洗って。
陽向が拭く。
「トップアイドルに食器拭かせてる……」
「まだ言ってんの?」
「だって」
「家では普通にやるから」
「へえ」
「何その意外そうな顔」
「陽向が家事してる姿、テレビであんまり見ないから」
「俺だって生きてんだから皿くらい拭くわ!」
「確かに」
二人で笑う。
そのとき。
「あ」
陽向が棚を開ける。
「これ懐かしい」
一つのマグカップを取り出した。
白地に。
小さな星の模様。
少し使い込まれている。
「それ?」
「昔、紗良にあげたやつ」
「……そうなの?」
「二十歳くらいかな」
陽向が懐かしそうに眺める。
「まだ持ってたんだ」
その声が。
少し優しかった。
私はマグカップを見る。
二人の思い出。
陽向から紗良へ贈ったもの。
「大切にしてたんだね」
「……たぶんな」
陽向が笑う。
「紗良、物持ちいいから」
「へえ」
私はカップを受け取った。
「可愛い」
「だろ?」
「自分で言う?」
「俺が選んだんだから」
「はいはい」
そのときだった。
洗剤で濡れていた私の指が。
つるっと滑った。
「あ――」
ガシャン!
大きな音。
足元。
白いマグカップが。
割れた。
一瞬。
何が起きたのか分からなかった。
「……」
床に散らばる破片。
陽向から。
紗良へ。
昔贈られたもの。
「……嘘」
血の気が引く。
「ごめんなさい!」
反射的にしゃがもうとする。
「待って!」
陽向がすぐに腕を掴んだ。
「触んな!」
強い声。
びくっ。
身体が固まった。
怒られた。
そう思った。
「……ごめんなさい」
喉が締まる。
「本当に、ごめんなさい」
「いや、だから――」
「わざとじゃなくて」
「美月」
「大切なものだったのに……」
胸が苦しくなる。
陽向と。
紗良の思い出。
私が。
壊した。
「ごめんなさい」
何度言っても足りない。
「弁償……」
「美月!」
陽向が私の肩を掴む。
私は。
反射的に身体を縮ませた。
次に来る言葉を。
待つように。
でも。
「怪我してない?」
「……え?」
陽向が。
真剣な顔で。
私の手を見ていた。
「手」
「……」
「切ってない?」
「たぶん……」
「足は?」
「大丈夫……」
「踏んでないよな?」
「うん」
陽向がほっと息を吐いた。
「よかった」
私は。
何も言えなかった。
「そこ動かないで」
陽向が新聞紙と掃除道具を探し始める。
「俺やるから」
「でも……」
「破片危ないから」
「私が割ったのに」
「いいって」
「でも……」
陽向がこちらを見る。
「何?」
「……怒らないの?」
口から。
自然に出ていた。
陽向が目を瞬く。
「……は?」
「大切なマグカップ」
「うん」
「紗良さんとの思い出の」
「うん」
「私が割ったのに」
「……」
「怒らないの?」
陽向が。
本気で分からないという顔をした。
「なんで俺が怒るの?」
その言葉。
胸の奥に。
強く落ちた。
「……なんでって」
「わざとじゃないんでしょ?」
「違うけど……」
「じゃあ仕方ないじゃん」
あまりにも。
簡単に言う。
「でも思い出のものだよ?」
「そりゃ残念だけど」
陽向がしゃがんで。
破片を拾い始める。
「マグカップより美月が怪我するほうが嫌なんだけど」
「……」
「だから動くなって」
何。
それ。
胸が。
ぎゅっと締めつけられる。
「……私」
小さく呟く。
「絶対怒られると思った」
陽向の手が止まった。
「そんな怖かった?」
「……」
私は答えられない。
怖かった。
マグカップが割れた瞬間。
頭の中にあったのは。
どう謝るか。
どうしたら怒られないか。
どうしたら。
これ以上相手を不機嫌にさせないか。
そればかりだった。
「……美月」
陽向が立ち上がる。
「何?」
「俺」
少し困ったように眉を下げる。
「そんな怖い?」
「違う!」
すぐに否定した。
「陽向が怖いんじゃない」
「じゃあ?」
「……」
言葉に詰まる。
「失敗したら」
ゆっくり。
言葉を探す。
「怒られるって……思っちゃうだけ」
「……」
「誰かの大事なもの壊したり」
「迷惑かけたり」
「何か失敗したら」
自分が悪い。
だから。
怒られて当然。
ずっと。
そう思っていた。
陽向はしばらく何も言わなかった。
それから。
「美月さ」
「うん」
「これから俺んとこで何か失敗しても」
「……?」
「まず、ごめんなさいより先に」
床を指す。
「怪我してないか確認して」
「……」
「物は買えるから」
そして。
少しだけ笑う。
「人間は買えないでしょ?」
鼻の奥が。
つんとした。
「……陽向」
「何?」
「それ……」
声が震える。
「普通なの?」
「何が?」
「怒らないこと」
陽向が少し考える。
「場合によるけど」
「……」
「少なくとも、事故で物落として割ったくらいで怒鳴ったりはしない」
当たり前みたいに言われる。
「……そっか」
「うん」
そっか。
それだけなのに。
なぜか。
涙が出そうになった。
「おい」
陽向が慌てる。
「なんで泣くの!?」
「泣いてない」
「いや泣いてるって!」
「これは……」
目元を拭く。
「なんか」
自分でも分からない。
「安心しただけ」
「……」
「怒られないんだって」
そう言った瞬間。
陽向の顔から。
笑顔が消えた。
怒ったわけじゃない。
何かを考えている顔。
「美月」
「うん?」
「前の家で」
心臓が少し跳ねた。
「……怒られてたの?」
私は答えなかった。
どう答えればいいのか分からなかったから。
毎日怒鳴られていたわけじゃない。
幸せな時間だってあった。
夫も。
子どもたちも。
大切だった。
でも。
誰かの機嫌。
誰かの言葉。
誰かの考え。
それを気にしながら生活していたのも。
確かだった。
「……いろいろあっただけ」
私は小さく笑った。
陽向は。
それ以上聞かなかった。
ただ。
「そっか」
と言った。
まただ。
無理に聞かない。
でも。
否定もしない。
「じゃあ」
陽向が割れたカップを指差す。
「これは俺が片づける」
「でも」
「美月はコーヒー淹れて」
「私が?」
「うん」
陽向が笑う。
「新しいマグで飲もうぜ」
私は。
少しだけ目を見開いた。
「……いいの?」
「何が?」
「新しいのにして」
「割れたんだから新しくするしかなくない?」
「……そっか」
また。
笑ってしまった。
陽向は。
思い出に執着していないわけじゃない。
きっと。
このマグカップには。
紗良との大切な時間があった。
それでも。
壊れたものより。
今ここにいる私を。
先に心配してくれた。
それが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
◇◇◇
しばらくして。
新しいマグカップにコーヒーを淹れた。
陽向の前に置く。
「どうぞ」
「ありがと」
私も向かいに座る。
「……陽向」
「ん?」
「本当にごめんね」
陽向が眉を上げる。
「そのごめんは一回だけ?」
「……一回だけ」
「じゃあ許す」
「ありがとう」
「あと」
「?」
「今度、一緒に新しいマグ買いに行こう」
「え?」
「美月が選んで」
胸が。
跳ねた。
「私が?」
「うん」
「でも、紗良さんとの――」
言いかけて。
陽向が首を振った。
「あれは紗良との思い出」
「……」
「新しいのは」
陽向が私を見る。
「美月と選べばいいじゃん」
言葉が。
出てこなかった。
紗良との思い出を。
私が上書きするわけじゃない。
紗良とのものは。
紗良とのもの。
そして。
これから作るものは。
私とのもの。
陽向は。
そう言ってくれた気がした。
「……うん」
私は。
ゆっくり頷いた。
「一緒に選びたい」
「決まり」
陽向が嬉しそうに笑う。
私も笑った。
そして。
思った。
この人といると。
私は知らなかった『普通』を。
ひとつずつ知っていく。
失敗しても。
怒られないことがある。
泣いても。
面倒だと思われないことがある。
頼っても。
嫌な顔をされないことがある。
そして。
壊れてしまったものがあっても。
新しいものを。
誰かと一緒に選んでいい。
そんなことを。
私は今まで。
知らなかった。
でも。
このときの私はまだ。
気づいていなかった。
割れたマグカップをきっかけに。
陽向の中でも。
またひとつ。
一ノ瀬紗良と高瀬美月の違いが。
はっきりと刻まれていたことを。
紗良なら。
こんなふうに怯えたりしない。
紗良なら。
何度も何度も謝ったりしない。
同じ顔。
同じ身体。
それなのに。
目の前にいる女性は。
どう考えても。
陽向が三十四年間知ってきた一ノ瀬紗良とは――
違っていた。



