陽向が帰ったあと。
急に静かになった部屋で、私は一人ソファに座っていた。
「……広い」
誰に言うでもなく呟く。
さっきまで陽向が座っていた場所。
二人でコーヒーを飲んで。
ASTERの昔のライブの話をして。
たくさん笑った。
その余韻が、まだ部屋に残っているような気がした。
なのに。
一人になった途端。
ここが自分の知らない場所だということを、嫌でも思い知らされる。
壁に飾られた写真。
テーブルの上の小物。
棚に並ぶ台本。
どれも一ノ瀬紗良のもの。
私のものは、ひとつもない。
「……今日から、ここで暮らすんだ」
高瀬美月として暮らしていた家には。
もう帰れない。
あの家には。
私の服も。
私が使っていた食器も。
子どもたちとの写真も。
全部残っているはずなのに。
私は、それに触ることすらできない。
胸が苦しくなりそうになって。
私は慌てて首を振った。
「ダメダメ」
ちゃんと食べて。
ちゃんと休んで。
子どもたちに会いに行けるようにする。
陽向にもそう言われた。
私は立ち上がり、部屋の中を見て回ることにした。
一ノ瀬紗良という人が。
どんなふうに暮らしていたのか。
知らなければいけない気がしたから。
◇◇◇
寝室。
クローゼットを開けた瞬間。
「……すご」
思わず声が出た。
服。
服。
服。
端から端まで、綺麗に並んでいる。
私なら一着買うのにも悩みそうな服ばかり。
バッグも。
靴も。
アクセサリーも。
「女優さんって……すごいな」
何を着ればいいのか分からない。
というより。
これを私が着ていいの?
全部、紗良のものなのに。
そんなことを考えながら、引き出しを開けていく。
すると。
奥のほうから、小さな箱が出てきた。
「……?」
開けてみる。
中に入っていたのは。
古い写真だった。
制服姿の男女。
「……陽向」
思わず名前が出る。
まだ十代だろう。
今より髪も短くて。
あどけない。
隣にいるのは。
紗良。
二人とも楽しそうに笑っていた。
「本当に……ずっと一緒だったんだ」
胸がざわつく。
写真の裏には。
手書きで日付と、
『卒業! 陽向、絶対売れろ!』
と書かれていた。
思わず笑ってしまう。
「紗良さんらしい……のかな」
陽向が言っていた。
気が強くて。
負けず嫌いで。
自分が調子に乗ると、すぐに注意してきた人。
でも。
誰よりも夢を応援してくれた。
私は写真をそっと箱に戻した。
そのとき。
また。
胸の奥が締めつけられた。
――陽向。
一緒にいたい。
ずっと。
その感情が、突然流れ込んでくる。
「……っ」
胸を押さえる。
まただ。
紗良の感情。
でも。
前より少しだけ分かる。
これは私じゃない。
少なくとも。
この写真を見て胸が苦しくなるほどの思い出は、私にはない。
「……好きだったんだね」
写真の中の紗良に話しかける。
「本当に」
返事はない。
私はそっと箱を元の場所に戻した。
◇◇◇
その日の夜。
簡単に夕食を済ませて。
シャワーも浴びて。
いよいよ、することがなくなった。
「テレビでも見ようかな」
リモコンを手に取る。
何気なくテレビをつけた。
ちょうどバラエティー番組が始まったところだった。
そして。
「……あ」
画面に映った人物を見て。
思わず身を乗り出した。
ASTERだ。
しかも。
陽向がいる。
「今日これだったんだ!」
事故に遭う前の私だったら。
この時間は家のことをしながら見ていたか。
録画して、あとから見ていたかもしれない。
でも今は。
一人。
誰にもチャンネルを変えられず。
最初から最後まで見られる。
妙なところで感動してしまう。
画面の中で。
陽向が大きな声で笑っている。
メンバーにツッコまれて。
全力でリアクションして。
好きなアニメの話題になると急に早口になって。
「変わらないなぁ……」
つい笑ってしまう。
今日一日。
私の隣にいた陽向。
車を運転していた陽向。
ラーメンを食べていた陽向。
コーヒーを淹れてくれた陽向。
その人と。
今、テレビの中で何万人、何百万人に見られている人が。
同じ人。
「不思議……」
テレビに向かって呟いた。
そのとき。
番組の中で。
陽向がゲームに挑戦する企画が始まった。
失敗したメンバーを散々いじったあと。
自分の番になる。
「いや、絶対失敗するでしょ」
私は思わず言った。
画面の陽向が。
『余裕っしょ!』
と自信満々に笑う。
「ほら、そういうこと言うと……」
失敗。
大きな効果音。
スタジオ中が爆笑する。
「やっぱり!」
私は思わず声を上げて笑った。
「あははっ! もう、絶対そうなると思った!」
画面の中で。
陽向が床に崩れ落ちている。
『ちょっと待って! 今のなし!』
「なしじゃないよ!」
テレビにツッコんで。
また笑う。
笑って。
笑って。
気づけば。
涙が出るくらい笑っていた。
「……ふふっ」
久しぶりだった。
こんなふうに。
何も考えず。
ただ面白くて笑ったのは。
そのとき。
ピンポーン。
「……え?」
インターホンが鳴った。
一気に現実へ引き戻される。
こんな時間に誰?
画面を見る。
帽子を被った男性。
「……陽向?」
慌てて玄関へ向かった。
ドアを開けると。
「よ」
袋を片手に持った陽向が立っていた。
「なんで?」
「近くで仕事だったから」
「仕事?」
「終わった」
陽向がコンビニの袋を持ち上げる。
「差し入れ」
「え?」
「一人で何食ってるか心配だったし」
「ちゃんと食べましたよ」
「何?」
「冷蔵庫にあったもので……」
答えながら。
ふとテレビを見る。
画面には。
今まさに陽向が映っていた。
陽向も気づく。
「……俺見てんじゃん」
「っ!」
なぜか。
ものすごく恥ずかしくなった。
「違っ……!」
「何が違うの?」
「たまたまつけたらやってて!」
「ファンじゃん」
「ファンですから!」
陽向が笑いながら部屋へ入ってくる。
「しかもめっちゃ笑ってたでしょ」
「聞こえてたんですか!?」
「玄関まで」
「……恥ずかしい」
顔を手で覆う。
最悪。
本人に。
本人がテレビで失敗しているところを見て大爆笑していたのがバレた。
「そんな笑うことなくない?」
「だって!」
私はテレビを指さす。
「天城さん、あれ絶対失敗する流れだったじゃないですか!」
「いや、俺は成功すると思ってた」
「それが面白いんですよ!」
「ひど!」
言いながら。
陽向も笑っている。
そのまま二人でソファに座る。
陽向が持ってきた袋の中には。
プリン。
アイス。
飲み物。
ちょっとしたお菓子。
「こんなに?」
「何好きかまだ分かんないから適当に」
その言葉に。
ほんの少しだけ胸が鳴った。
――美月が何を好きなのか。
陽向はまだ知らない。
紗良の好きなものじゃなく。
私の好きなものを知ろうとしている。
「プリン好きです」
「お、正解」
「アイスも好き」
「ほぼ全部正解じゃん」
「甘いもの好きなので」
「覚えとこ」
何気ない一言。
だけど。
私は少しだけ嬉しくなった。
「これ、食べていいですか?」
「そのために買ってきたんだけど」
「じゃあ、いただきます」
プリンを手に取る。
テレビでは、まだ番組が続いている。
陽向は自分が映っているテレビを見ながら。
「うわ、この収録懐かし」
と言った。
「いつ撮ったんですか?」
「一か月くらい前かな」
「そんな前なんだ」
「だいたいそんなもん」
「へえ……」
テレビの中の世界。
私がずっと見ていた世界。
それを。
本人から説明されている。
やっぱり変な感じだ。
「……何?」
陽向がこちらを見る。
「またファンの顔してる」
「どんな顔ですか、それ」
「キラキラしてる」
「してません」
「してるって」
笑いながら番組を見る。
画面の中の陽向に。
隣にいる陽向がツッコむ。
「いや俺、そこでそれ言う!?」
「自分のことなのに忘れてるんですか?」
「収録中テンション上がってるから」
「そんなことあります?」
「あるある」
「ふふっ」
また笑ってしまう。
すると。
陽向が急に静かになった。
「……?」
視線を感じて。
振り返る。
陽向が私を見ている。
「何ですか?」
「いや」
「?」
「久しぶりに見たなと思って」
「何を?」
陽向が少しだけ目を細めた。
「そんな笑ってんの」
私は動きを止めた。
「……え?」
「事故る前の紗良さ」
陽向がテレビへ視線を戻す。
「最近、あんまり笑ってなかったから」
胸が。
少しだけ冷たくなった。
ああ。
そうだ。
この人が見ている顔は。
一ノ瀬紗良の顔。
私が笑っても。
陽向にとっては。
紗良が笑っているように見える。
「……紗良さん」
「ん?」
「何かあったんですか?」
陽向の表情が少し変わった。
「分かんない」
「……」
「仕事忙しかったし」
「そうなんですね」
「聞いても『大丈夫』って言ってた」
その言葉に。
私は反応した。
「大丈夫……」
「うん」
陽向が苦笑する。
「今思えば、美月と同じだな」
「え?」
「大丈夫じゃないのに大丈夫って言うところ」
胸の奥がざわつく。
紗良と。
私。
まったく違う人生を送った二人。
でも。
似ているところがあった?
「……陽向は」
名前が自然に出た。
言ってから。
はっとする。
「……あ」
今まで。
ずっと『天城さん』だった。
陽向も固まっている。
「今……」
「す、すみません!」
慌てる。
「なんか……紗良さんの話聞いてたら、つい……」
違う。
本当に?
一瞬。
紗良の感情に引っ張られた?
それとも。
私が。
陽向と呼びたかった?
「……いいけど」
陽向が言った。
「え?」
「陽向で」
「でも」
「同い年じゃん」
さらっと言われる。
「それに」
陽向が少し笑う。
「美月だけずっと『天城さん』なの距離あるし」
胸が大きく跳ねた。
「……距離?」
「俺、美月って呼んでんのに」
「あ……」
確かに。
もう何度も。
陽向は私を美月と呼んでいる。
それなのに私は。
いつまでも『天城さん』。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないです!」
即答してしまった。
陽向が目を丸くする。
「そんな勢いで言う?」
「……」
恥ずかしい。
「じゃあ」
陽向が楽しそうに笑う。
「呼んでみて」
「え?」
「陽向」
「今?」
「今」
無理。
推しを名前呼び。
しかも本人から要求される。
ファン時代の私なら。
絶対耐えられない。
「……ひ」
「ひ?」
「陽……向」
やっと言った。
陽向がニヤッと笑う。
「はい」
「……何ですか、その返事」
「いや、呼ばれたから」
「もう!」
からかわれている。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
嬉しい。
「美月」
「はい?」
「もう一回」
「何で!?」
「面白いから」
「絶対嫌です!」
「じゃあ俺も高瀬さんって呼ぼっかな」
「それは嫌!」
「じゃあ陽向」
「……陽向」
「はい」
また笑う。
「もう知らない!」
私も笑った。
そのとき。
ふと。
陽向の表情が止まった。
私をじっと見ている。
「……何?」
今度は。
自然に聞けた。
敬語すら取れている。
陽向は少しだけ驚いたような顔をして。
それから。
柔らかく笑った。
「いや」
「?」
「やっぱ笑ってるほうがいいなって」
胸が鳴った。
でも。
すぐに思う。
それは。
紗良の顔だから?
久しぶりに。
大切な幼なじみの笑顔を見られたから?
そう思ったら。
嬉しかった気持ちが。
ほんの少しだけ曇った。
「……紗良さんが?」
思わず聞いた。
陽向が眉を寄せる。
「え?」
「さっき言ってたから」
私はプリンのカップに視線を落とす。
「紗良さんが最近笑ってなかったって」
「……」
「だから、今この顔が笑ってるのが嬉しいのかなって」
自分で言って。
嫌になる。
何を期待しているんだろう。
私は。
この人のファンだっただけなのに。
陽向は、少し黙った。
そして。
「それもあるかもしれないけど」
「……」
「今笑ってたの、美月でしょ?」
顔を上げる。
陽向が。
真っ直ぐ私を見ていた。
「紗良のこと考えて笑ってたわけじゃないし」
「……」
「テレビ見て、プリン食って」
少し笑う。
「俺の失敗見て爆笑してたの、美月じゃん」
「爆笑は余計です」
「してたじゃん」
「……してたけど」
「じゃあ」
陽向が言った。
「俺が今見てたのは、美月でいいんじゃない?」
胸の奥で。
何かが弾けた。
私は。
何も言えなかった。
一ノ瀬紗良の顔をしている私。
それでも。
陽向は今。
私を。
美月として見た。
たったそれだけのことが。
どうしてこんなに。
嬉しいんだろう。
「……ありがとう」
小さく言う。
陽向がまた笑う。
「またお礼言ってる」
「今日はいいの」
「何それ」
二人でまた笑った。
テレビの中でも。
陽向が笑っている。
テレビの中の最推し。
そのすぐ隣に。
本人がいる。
でも。
今の私は。
画面の中の陽向より。
隣で笑っている陽向のほうを。
ずっと近く感じていた。
そして。
その夜。
初めて思った。
私は。
一ノ瀬紗良だからではなく。
高瀬美月として、この人に笑っていてほしいのかもしれない。
まだ。
それが何という感情なのか。
私は知らなかった。
急に静かになった部屋で、私は一人ソファに座っていた。
「……広い」
誰に言うでもなく呟く。
さっきまで陽向が座っていた場所。
二人でコーヒーを飲んで。
ASTERの昔のライブの話をして。
たくさん笑った。
その余韻が、まだ部屋に残っているような気がした。
なのに。
一人になった途端。
ここが自分の知らない場所だということを、嫌でも思い知らされる。
壁に飾られた写真。
テーブルの上の小物。
棚に並ぶ台本。
どれも一ノ瀬紗良のもの。
私のものは、ひとつもない。
「……今日から、ここで暮らすんだ」
高瀬美月として暮らしていた家には。
もう帰れない。
あの家には。
私の服も。
私が使っていた食器も。
子どもたちとの写真も。
全部残っているはずなのに。
私は、それに触ることすらできない。
胸が苦しくなりそうになって。
私は慌てて首を振った。
「ダメダメ」
ちゃんと食べて。
ちゃんと休んで。
子どもたちに会いに行けるようにする。
陽向にもそう言われた。
私は立ち上がり、部屋の中を見て回ることにした。
一ノ瀬紗良という人が。
どんなふうに暮らしていたのか。
知らなければいけない気がしたから。
◇◇◇
寝室。
クローゼットを開けた瞬間。
「……すご」
思わず声が出た。
服。
服。
服。
端から端まで、綺麗に並んでいる。
私なら一着買うのにも悩みそうな服ばかり。
バッグも。
靴も。
アクセサリーも。
「女優さんって……すごいな」
何を着ればいいのか分からない。
というより。
これを私が着ていいの?
全部、紗良のものなのに。
そんなことを考えながら、引き出しを開けていく。
すると。
奥のほうから、小さな箱が出てきた。
「……?」
開けてみる。
中に入っていたのは。
古い写真だった。
制服姿の男女。
「……陽向」
思わず名前が出る。
まだ十代だろう。
今より髪も短くて。
あどけない。
隣にいるのは。
紗良。
二人とも楽しそうに笑っていた。
「本当に……ずっと一緒だったんだ」
胸がざわつく。
写真の裏には。
手書きで日付と、
『卒業! 陽向、絶対売れろ!』
と書かれていた。
思わず笑ってしまう。
「紗良さんらしい……のかな」
陽向が言っていた。
気が強くて。
負けず嫌いで。
自分が調子に乗ると、すぐに注意してきた人。
でも。
誰よりも夢を応援してくれた。
私は写真をそっと箱に戻した。
そのとき。
また。
胸の奥が締めつけられた。
――陽向。
一緒にいたい。
ずっと。
その感情が、突然流れ込んでくる。
「……っ」
胸を押さえる。
まただ。
紗良の感情。
でも。
前より少しだけ分かる。
これは私じゃない。
少なくとも。
この写真を見て胸が苦しくなるほどの思い出は、私にはない。
「……好きだったんだね」
写真の中の紗良に話しかける。
「本当に」
返事はない。
私はそっと箱を元の場所に戻した。
◇◇◇
その日の夜。
簡単に夕食を済ませて。
シャワーも浴びて。
いよいよ、することがなくなった。
「テレビでも見ようかな」
リモコンを手に取る。
何気なくテレビをつけた。
ちょうどバラエティー番組が始まったところだった。
そして。
「……あ」
画面に映った人物を見て。
思わず身を乗り出した。
ASTERだ。
しかも。
陽向がいる。
「今日これだったんだ!」
事故に遭う前の私だったら。
この時間は家のことをしながら見ていたか。
録画して、あとから見ていたかもしれない。
でも今は。
一人。
誰にもチャンネルを変えられず。
最初から最後まで見られる。
妙なところで感動してしまう。
画面の中で。
陽向が大きな声で笑っている。
メンバーにツッコまれて。
全力でリアクションして。
好きなアニメの話題になると急に早口になって。
「変わらないなぁ……」
つい笑ってしまう。
今日一日。
私の隣にいた陽向。
車を運転していた陽向。
ラーメンを食べていた陽向。
コーヒーを淹れてくれた陽向。
その人と。
今、テレビの中で何万人、何百万人に見られている人が。
同じ人。
「不思議……」
テレビに向かって呟いた。
そのとき。
番組の中で。
陽向がゲームに挑戦する企画が始まった。
失敗したメンバーを散々いじったあと。
自分の番になる。
「いや、絶対失敗するでしょ」
私は思わず言った。
画面の陽向が。
『余裕っしょ!』
と自信満々に笑う。
「ほら、そういうこと言うと……」
失敗。
大きな効果音。
スタジオ中が爆笑する。
「やっぱり!」
私は思わず声を上げて笑った。
「あははっ! もう、絶対そうなると思った!」
画面の中で。
陽向が床に崩れ落ちている。
『ちょっと待って! 今のなし!』
「なしじゃないよ!」
テレビにツッコんで。
また笑う。
笑って。
笑って。
気づけば。
涙が出るくらい笑っていた。
「……ふふっ」
久しぶりだった。
こんなふうに。
何も考えず。
ただ面白くて笑ったのは。
そのとき。
ピンポーン。
「……え?」
インターホンが鳴った。
一気に現実へ引き戻される。
こんな時間に誰?
画面を見る。
帽子を被った男性。
「……陽向?」
慌てて玄関へ向かった。
ドアを開けると。
「よ」
袋を片手に持った陽向が立っていた。
「なんで?」
「近くで仕事だったから」
「仕事?」
「終わった」
陽向がコンビニの袋を持ち上げる。
「差し入れ」
「え?」
「一人で何食ってるか心配だったし」
「ちゃんと食べましたよ」
「何?」
「冷蔵庫にあったもので……」
答えながら。
ふとテレビを見る。
画面には。
今まさに陽向が映っていた。
陽向も気づく。
「……俺見てんじゃん」
「っ!」
なぜか。
ものすごく恥ずかしくなった。
「違っ……!」
「何が違うの?」
「たまたまつけたらやってて!」
「ファンじゃん」
「ファンですから!」
陽向が笑いながら部屋へ入ってくる。
「しかもめっちゃ笑ってたでしょ」
「聞こえてたんですか!?」
「玄関まで」
「……恥ずかしい」
顔を手で覆う。
最悪。
本人に。
本人がテレビで失敗しているところを見て大爆笑していたのがバレた。
「そんな笑うことなくない?」
「だって!」
私はテレビを指さす。
「天城さん、あれ絶対失敗する流れだったじゃないですか!」
「いや、俺は成功すると思ってた」
「それが面白いんですよ!」
「ひど!」
言いながら。
陽向も笑っている。
そのまま二人でソファに座る。
陽向が持ってきた袋の中には。
プリン。
アイス。
飲み物。
ちょっとしたお菓子。
「こんなに?」
「何好きかまだ分かんないから適当に」
その言葉に。
ほんの少しだけ胸が鳴った。
――美月が何を好きなのか。
陽向はまだ知らない。
紗良の好きなものじゃなく。
私の好きなものを知ろうとしている。
「プリン好きです」
「お、正解」
「アイスも好き」
「ほぼ全部正解じゃん」
「甘いもの好きなので」
「覚えとこ」
何気ない一言。
だけど。
私は少しだけ嬉しくなった。
「これ、食べていいですか?」
「そのために買ってきたんだけど」
「じゃあ、いただきます」
プリンを手に取る。
テレビでは、まだ番組が続いている。
陽向は自分が映っているテレビを見ながら。
「うわ、この収録懐かし」
と言った。
「いつ撮ったんですか?」
「一か月くらい前かな」
「そんな前なんだ」
「だいたいそんなもん」
「へえ……」
テレビの中の世界。
私がずっと見ていた世界。
それを。
本人から説明されている。
やっぱり変な感じだ。
「……何?」
陽向がこちらを見る。
「またファンの顔してる」
「どんな顔ですか、それ」
「キラキラしてる」
「してません」
「してるって」
笑いながら番組を見る。
画面の中の陽向に。
隣にいる陽向がツッコむ。
「いや俺、そこでそれ言う!?」
「自分のことなのに忘れてるんですか?」
「収録中テンション上がってるから」
「そんなことあります?」
「あるある」
「ふふっ」
また笑ってしまう。
すると。
陽向が急に静かになった。
「……?」
視線を感じて。
振り返る。
陽向が私を見ている。
「何ですか?」
「いや」
「?」
「久しぶりに見たなと思って」
「何を?」
陽向が少しだけ目を細めた。
「そんな笑ってんの」
私は動きを止めた。
「……え?」
「事故る前の紗良さ」
陽向がテレビへ視線を戻す。
「最近、あんまり笑ってなかったから」
胸が。
少しだけ冷たくなった。
ああ。
そうだ。
この人が見ている顔は。
一ノ瀬紗良の顔。
私が笑っても。
陽向にとっては。
紗良が笑っているように見える。
「……紗良さん」
「ん?」
「何かあったんですか?」
陽向の表情が少し変わった。
「分かんない」
「……」
「仕事忙しかったし」
「そうなんですね」
「聞いても『大丈夫』って言ってた」
その言葉に。
私は反応した。
「大丈夫……」
「うん」
陽向が苦笑する。
「今思えば、美月と同じだな」
「え?」
「大丈夫じゃないのに大丈夫って言うところ」
胸の奥がざわつく。
紗良と。
私。
まったく違う人生を送った二人。
でも。
似ているところがあった?
「……陽向は」
名前が自然に出た。
言ってから。
はっとする。
「……あ」
今まで。
ずっと『天城さん』だった。
陽向も固まっている。
「今……」
「す、すみません!」
慌てる。
「なんか……紗良さんの話聞いてたら、つい……」
違う。
本当に?
一瞬。
紗良の感情に引っ張られた?
それとも。
私が。
陽向と呼びたかった?
「……いいけど」
陽向が言った。
「え?」
「陽向で」
「でも」
「同い年じゃん」
さらっと言われる。
「それに」
陽向が少し笑う。
「美月だけずっと『天城さん』なの距離あるし」
胸が大きく跳ねた。
「……距離?」
「俺、美月って呼んでんのに」
「あ……」
確かに。
もう何度も。
陽向は私を美月と呼んでいる。
それなのに私は。
いつまでも『天城さん』。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないです!」
即答してしまった。
陽向が目を丸くする。
「そんな勢いで言う?」
「……」
恥ずかしい。
「じゃあ」
陽向が楽しそうに笑う。
「呼んでみて」
「え?」
「陽向」
「今?」
「今」
無理。
推しを名前呼び。
しかも本人から要求される。
ファン時代の私なら。
絶対耐えられない。
「……ひ」
「ひ?」
「陽……向」
やっと言った。
陽向がニヤッと笑う。
「はい」
「……何ですか、その返事」
「いや、呼ばれたから」
「もう!」
からかわれている。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
嬉しい。
「美月」
「はい?」
「もう一回」
「何で!?」
「面白いから」
「絶対嫌です!」
「じゃあ俺も高瀬さんって呼ぼっかな」
「それは嫌!」
「じゃあ陽向」
「……陽向」
「はい」
また笑う。
「もう知らない!」
私も笑った。
そのとき。
ふと。
陽向の表情が止まった。
私をじっと見ている。
「……何?」
今度は。
自然に聞けた。
敬語すら取れている。
陽向は少しだけ驚いたような顔をして。
それから。
柔らかく笑った。
「いや」
「?」
「やっぱ笑ってるほうがいいなって」
胸が鳴った。
でも。
すぐに思う。
それは。
紗良の顔だから?
久しぶりに。
大切な幼なじみの笑顔を見られたから?
そう思ったら。
嬉しかった気持ちが。
ほんの少しだけ曇った。
「……紗良さんが?」
思わず聞いた。
陽向が眉を寄せる。
「え?」
「さっき言ってたから」
私はプリンのカップに視線を落とす。
「紗良さんが最近笑ってなかったって」
「……」
「だから、今この顔が笑ってるのが嬉しいのかなって」
自分で言って。
嫌になる。
何を期待しているんだろう。
私は。
この人のファンだっただけなのに。
陽向は、少し黙った。
そして。
「それもあるかもしれないけど」
「……」
「今笑ってたの、美月でしょ?」
顔を上げる。
陽向が。
真っ直ぐ私を見ていた。
「紗良のこと考えて笑ってたわけじゃないし」
「……」
「テレビ見て、プリン食って」
少し笑う。
「俺の失敗見て爆笑してたの、美月じゃん」
「爆笑は余計です」
「してたじゃん」
「……してたけど」
「じゃあ」
陽向が言った。
「俺が今見てたのは、美月でいいんじゃない?」
胸の奥で。
何かが弾けた。
私は。
何も言えなかった。
一ノ瀬紗良の顔をしている私。
それでも。
陽向は今。
私を。
美月として見た。
たったそれだけのことが。
どうしてこんなに。
嬉しいんだろう。
「……ありがとう」
小さく言う。
陽向がまた笑う。
「またお礼言ってる」
「今日はいいの」
「何それ」
二人でまた笑った。
テレビの中でも。
陽向が笑っている。
テレビの中の最推し。
そのすぐ隣に。
本人がいる。
でも。
今の私は。
画面の中の陽向より。
隣で笑っている陽向のほうを。
ずっと近く感じていた。
そして。
その夜。
初めて思った。
私は。
一ノ瀬紗良だからではなく。
高瀬美月として、この人に笑っていてほしいのかもしれない。
まだ。
それが何という感情なのか。
私は知らなかった。



