ラーメンを食べ終えたあと。
陽向の車は、都内の高層マンションの地下駐車場へ入っていった。
「着いたよ」
「……ここ?」
「うん」
私は助手席の窓から外を見る。
広い地下駐車場。
綺麗に並んだ高級車。
入口らしき場所には、オートロックの扉が見える。
「一ノ瀬紗良さんって……」
「ん?」
「すごいところに住んでたんですね」
陽向が吹き出した。
「何その感想」
「だって……」
私が暮らしていた家とは、何もかも違う。
人気女優なんだから当たり前なのかもしれない。
だけど。
今日からここが『自分の家』だと言われても。
まったく実感が湧かなかった。
「行こ」
陽向が車を降りる。
私も慌てて後を追った。
◇◇◇
エレベーターを降り。
陽向が当たり前のように廊下を進んでいく。
その後ろを歩きながら。
私は妙な気分になっていた。
(本当に知ってるんだ……)
紗良の家。
何階なのかも。
どの部屋なのかも。
陽向は迷わない。
幼なじみだったんだから。
当然。
分かっている。
それなのに。
胸の奥がちくっとする。
まただ。
この感覚。
(……これ、私?)
それとも。
紗良?
自分の感情なのか。
この身体に残っている感情なのか。
まだ分からない。
「美月?」
突然呼ばれて顔を上げた。
陽向が少し先で振り返っている。
「通り過ぎるよ」
「あっ」
いつの間にか部屋の前だった。
「すみません」
「考え事?」
「ちょっと」
「また難しいこと考えてそう」
そう言いながら、陽向が私を見る。
「鍵は?」
「……分かりません」
「バッグの中じゃない?」
「あ」
病院から持ってきたバッグを探る。
財布。
化粧ポーチ。
見覚えのないカードケース。
そして。
鍵。
「ありました」
「よかったじゃん」
鍵を開ける。
ガチャ。
ドアを押した瞬間。
知らない匂いがした。
「……」
一歩。
中に入る。
白を基調にした広い部屋。
綺麗に整った玄関。
女性物の靴。
壁に飾られた写真。
全部。
一ノ瀬紗良が生きていた証。
なのに。
私には、何ひとつ懐かしくない。
「……ここが」
声が小さくなる。
「紗良さんの家……」
陽向が何も言わず、後ろから入ってくる。
リビングへ進む。
大きなソファ。
テレビ。
観葉植物。
棚にはトロフィーや台本が並んでいた。
壁には、映画のポスターまで飾られている。
そこに写っている女性。
今の私と同じ顔。
「……本当に女優さんなんだ」
「今さら?」
「実感なかったので」
「テレビ見れば出てるよ」
「自分の顔でドラマ見るの、ちょっと怖いです」
「それは確かに変な感じかも」
陽向が笑う。
私は部屋の中をゆっくり見回した。
すると。
棚の一角で足が止まる。
「……え」
そこには。
ASTERのCD。
DVD。
ライブBlu-ray。
雑誌。
グッズ。
思っていた以上にたくさん並んでいた。
「紗良さん……ASTER好きだったんですね」
「まあな」
陽向が少し照れたように鼻を擦る。
「毎回送ってたし」
「毎回!?」
思わず振り返る。
「そんな驚く?」
「だって初回限定盤とかも!?」
「……何?」
私は棚に駆け寄った。
「これ!」
一枚のBlu-rayを手に取る。
「ASTER LIVE TOUR 2019の初回限定盤ですよね!?」
「そうだけど」
「これ、特典映像のMCがすごくいいんですよ!」
陽向が目を丸くする。
「MC?」
「はい! 天城さんが最後の挨拶で噛んで、メンバー全員に総ツッコミされて、そのあと――」
そこまで言って。
止まった。
「……」
陽向がじっと私を見ている。
「……何ですか?」
「いや」
口元がニヤついている。
「めっちゃ詳しいじゃん」
「……ファンなので」
「そうだった」
危ない。
つい普通にオタクが出た。
私はBlu-rayを棚に戻そうとする。
すると。
別の作品が目に入った。
「あっ!」
「今度は何?」
「これ持ってる!」
「美月が?」
「はい!」
ASTERがまだ今ほど売れていなかった頃に発売したアルバム。
「この曲好きなんですよ」
「どれ?」
「六曲目」
陽向がアルバムを見て。
「あー」
と声を上げた。
「懐かし」
「ライブで一回しかやってないですよね?」
「……よく知ってんな」
「しかも、その一回だけ天城さんが二番の入り間違えて――」
「待って待って待って」
陽向が手を上げた。
「なんでそこまで覚えてんの!?」
「だって好きだったから!」
「俺ですら忘れてたんだけど!」
「私は覚えてます」
「怖っ!」
「怖いってなんですか!」
思わず言い返す。
陽向が大笑いする。
「いや、ごめん。すげえなファンって」
「失礼ですよ」
「でもさ」
陽向が棚にもたれながら私を見る。
「美月、俺のことどこまで知ってんの?」
「え?」
「なんか怖くなってきた」
「普通です」
「絶対普通じゃない」
「普通のファンです」
「じゃあ問題」
急に陽向が楽しそうな顔になる。
嫌な予感。
「俺が一番好きな食べ物」
「お寿司」
「……正解」
「好きなアニメのジャンル」
「幅広いですけど、特に王道バトル系と異世界系。あと意外と恋愛ものも見る」
「正解」
「苦手な食べ物」
答えようとして。
止まる。
「……これ、雑誌によって微妙に答え変わってません?」
陽向の目が大きくなる。
「そこまで把握してんの!?」
「だからファンなんです!」
「いや、ファンすげえ!」
完全に面白がられている。
「じゃあ」
陽向が腕を組む。
「俺が昔、ライブ前に必ずやってたこと」
「右足から靴を履く」
「……」
「違いました?」
「合ってる」
「ほら」
「いや、ほらじゃない!」
陽向が頭を抱える。
「何で知ってんだよ!」
「昔の雑誌で言ってました」
「何年前!?」
「七年くらい?」
「そんなの覚えてんの!?」
「覚えてます」
私は胸を張る。
すると。
陽向が何とも言えない顔をした。
「……紗良より俺に詳しいかも」
「え?」
「紗良、俺が出てる番組とか全部見てたわけじゃないし」
胸が少しだけざわつく。
「そうなんですか?」
「うん」
陽向はソファに座る。
「俺がテレビ出てても普通に『見てない』とか言うし」
「……もったいない」
「何が?」
「目の前に天城陽向がいるのに」
陽向が吹き出した。
「美月、そういうとき本当にファンになるよな」
「だって……」
私は少しだけ頬が熱くなる。
「ずっと好きだった人なので」
陽向の表情が止まった。
しまった。
また。
「ファンとしてです!」
慌てて付け足す。
「はいはい」
「本当ですよ!」
「分かってるって」
なぜか楽しそう。
もう。
◇◇◇
荷物を片付けていると。
陽向がキッチンへ向かった。
「コーヒー飲む?」
「はい」
「ブラックでいい?」
「え?」
「……あ」
陽向の動きが止まる。
「紗良はブラック飲めないんだった」
「そうなんですか?」
「砂糖とミルク絶対入れてた」
「私はブラックで大丈夫です」
「へえ」
陽向がコーヒーを淹れる。
しばらくして。
私の前にマグカップが置かれた。
「ありがとうございます」
一口飲む。
「美味しい」
「……」
「?」
陽向がまた私を見ている。
「何ですか?」
「いや」
向かい側に座る。
「本当に違うんだなって」
胸が小さく痛む。
「紗良さんと?」
「うん」
悪い意味ではなさそうだった。
ただ。
確かめるような口調。
「顔は同じなのに」
陽向が私を見つめる。
「食べるもんも違うし」
「……」
「喋り方も違う」
「そうなんですね」
「笑い方も」
心臓が一瞬止まりそうになった。
「笑い方?」
「紗良はもっと静かに笑う」
陽向が少し笑う。
「美月、めっちゃ顔に出るじゃん」
「……そんなに?」
「出る」
「嫌ですか?」
思わず聞いた。
陽向が首を傾げる。
「なんで?」
「だって……紗良さんと違うから」
陽向は少し黙る。
しまった。
また余計なことを。
「すみま――」
「それ」
「え?」
「また謝ろうとした」
「……」
陽向が小さく笑う。
「別に嫌って言ってないじゃん」
「でも」
「違うだけ」
その言葉に。
私は顔を上げた。
「違うことって、悪いこと?」
「……」
すぐには答えられなかった。
私はずっと。
誰かと違う考えを言ったとき。
空気が悪くなるのが怖かった。
自分だけ違うことをしたら。
何か言われる気がして。
だから。
合わせてきた。
「……悪くない、ですよね」
「でしょ?」
陽向は当たり前のように言う。
「紗良は紗良」
そして。
少し間を置いて。
「美月は美月じゃん」
胸が。
強く鳴った。
名前。
また。
ちゃんと私の名前を呼んでくれた。
一ノ瀬紗良ではなく。
高瀬美月として。
「……ありがとうございます」
「だから何のお礼?」
「なんとなく」
「変なの」
陽向が笑う。
私も小さく笑った。
そのとき。
陽向のスマートフォンが鳴った。
「あ、仕事だ」
画面を確認して立ち上がる。
「そろそろ行くわ」
「あ……」
一瞬。
寂しい。
そう思ってしまった。
自分でも驚く。
陽向がいなくなれば。
この広い部屋に。
私は一人になる。
知らない家。
知らない人生。
さっきまであんなに笑っていたのに。
急に心細くなった。
でも。
そんなこと言えるわけがない。
「分かりました」
笑ってみせる。
陽向が玄関へ向かう。
「何かあったら連絡して」
「はい」
「俺でもマネージャーでもいいから」
「大丈夫です」
「その“大丈夫”信用できないんだよな」
「え?」
靴を履きながら。
陽向がこちらを見る。
「美月、大丈夫じゃなくても大丈夫って言うでしょ」
言葉を失った。
どうして。
そんなことまで。
「……まだ数日しか会ってないですよ?」
「分かりやすいもん」
「そんなに?」
「めちゃくちゃ」
陽向が笑う。
「じゃ、また連絡する」
「あの」
ドアに手をかけた陽向を呼び止める。
「ん?」
「今日は……ありがとうございました」
迎えに来てくれたこと。
荷物を持ってくれたこと。
ご飯に連れて行ってくれたこと。
この知らない家まで。
一緒に来てくれたこと。
全部。
陽向は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
そして。
「ちゃんと飯食えよ」
「はい」
「泣くのはいいけど、一人で全部抱えんなよ」
「……はい」
「あと」
突然、陽向がニヤッとする。
「俺の昔の失敗エピソード、そんな覚えてなくていいから」
「え?」
「ライブの入り間違えとか!」
「でも可愛かったですよ」
「忘れろ!」
笑いながらドアが閉まった。
静かになる。
私はしばらく玄関を見つめていた。
「……」
ふっと。
笑いがこぼれる。
さっきまで。
知らない家に帰ることが怖かった。
それなのに。
今は。
ほんの少しだけ。
大丈夫かもしれないと思えた。
陽向が。
私を紗良ではなく。
少しずつ。
『美月』として見てくれている。
そんな気がしたから。
だけど――。
このとき。
私は気づいていなかった。
同じように。
陽向の中にも。
小さな違和感が積み重なり始めていたことを。
紗良なら知っているはずのことを知らない。
紗良ならしないことをする。
なのに。
一ノ瀬紗良よりも。
天城陽向というアイドルのことだけは、異常なほど詳しい。
陽向の中に。
ひとつの疑問が生まれ始めていた。
――本当に。
この人は。
一ノ瀬紗良なのか。
陽向の車は、都内の高層マンションの地下駐車場へ入っていった。
「着いたよ」
「……ここ?」
「うん」
私は助手席の窓から外を見る。
広い地下駐車場。
綺麗に並んだ高級車。
入口らしき場所には、オートロックの扉が見える。
「一ノ瀬紗良さんって……」
「ん?」
「すごいところに住んでたんですね」
陽向が吹き出した。
「何その感想」
「だって……」
私が暮らしていた家とは、何もかも違う。
人気女優なんだから当たり前なのかもしれない。
だけど。
今日からここが『自分の家』だと言われても。
まったく実感が湧かなかった。
「行こ」
陽向が車を降りる。
私も慌てて後を追った。
◇◇◇
エレベーターを降り。
陽向が当たり前のように廊下を進んでいく。
その後ろを歩きながら。
私は妙な気分になっていた。
(本当に知ってるんだ……)
紗良の家。
何階なのかも。
どの部屋なのかも。
陽向は迷わない。
幼なじみだったんだから。
当然。
分かっている。
それなのに。
胸の奥がちくっとする。
まただ。
この感覚。
(……これ、私?)
それとも。
紗良?
自分の感情なのか。
この身体に残っている感情なのか。
まだ分からない。
「美月?」
突然呼ばれて顔を上げた。
陽向が少し先で振り返っている。
「通り過ぎるよ」
「あっ」
いつの間にか部屋の前だった。
「すみません」
「考え事?」
「ちょっと」
「また難しいこと考えてそう」
そう言いながら、陽向が私を見る。
「鍵は?」
「……分かりません」
「バッグの中じゃない?」
「あ」
病院から持ってきたバッグを探る。
財布。
化粧ポーチ。
見覚えのないカードケース。
そして。
鍵。
「ありました」
「よかったじゃん」
鍵を開ける。
ガチャ。
ドアを押した瞬間。
知らない匂いがした。
「……」
一歩。
中に入る。
白を基調にした広い部屋。
綺麗に整った玄関。
女性物の靴。
壁に飾られた写真。
全部。
一ノ瀬紗良が生きていた証。
なのに。
私には、何ひとつ懐かしくない。
「……ここが」
声が小さくなる。
「紗良さんの家……」
陽向が何も言わず、後ろから入ってくる。
リビングへ進む。
大きなソファ。
テレビ。
観葉植物。
棚にはトロフィーや台本が並んでいた。
壁には、映画のポスターまで飾られている。
そこに写っている女性。
今の私と同じ顔。
「……本当に女優さんなんだ」
「今さら?」
「実感なかったので」
「テレビ見れば出てるよ」
「自分の顔でドラマ見るの、ちょっと怖いです」
「それは確かに変な感じかも」
陽向が笑う。
私は部屋の中をゆっくり見回した。
すると。
棚の一角で足が止まる。
「……え」
そこには。
ASTERのCD。
DVD。
ライブBlu-ray。
雑誌。
グッズ。
思っていた以上にたくさん並んでいた。
「紗良さん……ASTER好きだったんですね」
「まあな」
陽向が少し照れたように鼻を擦る。
「毎回送ってたし」
「毎回!?」
思わず振り返る。
「そんな驚く?」
「だって初回限定盤とかも!?」
「……何?」
私は棚に駆け寄った。
「これ!」
一枚のBlu-rayを手に取る。
「ASTER LIVE TOUR 2019の初回限定盤ですよね!?」
「そうだけど」
「これ、特典映像のMCがすごくいいんですよ!」
陽向が目を丸くする。
「MC?」
「はい! 天城さんが最後の挨拶で噛んで、メンバー全員に総ツッコミされて、そのあと――」
そこまで言って。
止まった。
「……」
陽向がじっと私を見ている。
「……何ですか?」
「いや」
口元がニヤついている。
「めっちゃ詳しいじゃん」
「……ファンなので」
「そうだった」
危ない。
つい普通にオタクが出た。
私はBlu-rayを棚に戻そうとする。
すると。
別の作品が目に入った。
「あっ!」
「今度は何?」
「これ持ってる!」
「美月が?」
「はい!」
ASTERがまだ今ほど売れていなかった頃に発売したアルバム。
「この曲好きなんですよ」
「どれ?」
「六曲目」
陽向がアルバムを見て。
「あー」
と声を上げた。
「懐かし」
「ライブで一回しかやってないですよね?」
「……よく知ってんな」
「しかも、その一回だけ天城さんが二番の入り間違えて――」
「待って待って待って」
陽向が手を上げた。
「なんでそこまで覚えてんの!?」
「だって好きだったから!」
「俺ですら忘れてたんだけど!」
「私は覚えてます」
「怖っ!」
「怖いってなんですか!」
思わず言い返す。
陽向が大笑いする。
「いや、ごめん。すげえなファンって」
「失礼ですよ」
「でもさ」
陽向が棚にもたれながら私を見る。
「美月、俺のことどこまで知ってんの?」
「え?」
「なんか怖くなってきた」
「普通です」
「絶対普通じゃない」
「普通のファンです」
「じゃあ問題」
急に陽向が楽しそうな顔になる。
嫌な予感。
「俺が一番好きな食べ物」
「お寿司」
「……正解」
「好きなアニメのジャンル」
「幅広いですけど、特に王道バトル系と異世界系。あと意外と恋愛ものも見る」
「正解」
「苦手な食べ物」
答えようとして。
止まる。
「……これ、雑誌によって微妙に答え変わってません?」
陽向の目が大きくなる。
「そこまで把握してんの!?」
「だからファンなんです!」
「いや、ファンすげえ!」
完全に面白がられている。
「じゃあ」
陽向が腕を組む。
「俺が昔、ライブ前に必ずやってたこと」
「右足から靴を履く」
「……」
「違いました?」
「合ってる」
「ほら」
「いや、ほらじゃない!」
陽向が頭を抱える。
「何で知ってんだよ!」
「昔の雑誌で言ってました」
「何年前!?」
「七年くらい?」
「そんなの覚えてんの!?」
「覚えてます」
私は胸を張る。
すると。
陽向が何とも言えない顔をした。
「……紗良より俺に詳しいかも」
「え?」
「紗良、俺が出てる番組とか全部見てたわけじゃないし」
胸が少しだけざわつく。
「そうなんですか?」
「うん」
陽向はソファに座る。
「俺がテレビ出てても普通に『見てない』とか言うし」
「……もったいない」
「何が?」
「目の前に天城陽向がいるのに」
陽向が吹き出した。
「美月、そういうとき本当にファンになるよな」
「だって……」
私は少しだけ頬が熱くなる。
「ずっと好きだった人なので」
陽向の表情が止まった。
しまった。
また。
「ファンとしてです!」
慌てて付け足す。
「はいはい」
「本当ですよ!」
「分かってるって」
なぜか楽しそう。
もう。
◇◇◇
荷物を片付けていると。
陽向がキッチンへ向かった。
「コーヒー飲む?」
「はい」
「ブラックでいい?」
「え?」
「……あ」
陽向の動きが止まる。
「紗良はブラック飲めないんだった」
「そうなんですか?」
「砂糖とミルク絶対入れてた」
「私はブラックで大丈夫です」
「へえ」
陽向がコーヒーを淹れる。
しばらくして。
私の前にマグカップが置かれた。
「ありがとうございます」
一口飲む。
「美味しい」
「……」
「?」
陽向がまた私を見ている。
「何ですか?」
「いや」
向かい側に座る。
「本当に違うんだなって」
胸が小さく痛む。
「紗良さんと?」
「うん」
悪い意味ではなさそうだった。
ただ。
確かめるような口調。
「顔は同じなのに」
陽向が私を見つめる。
「食べるもんも違うし」
「……」
「喋り方も違う」
「そうなんですね」
「笑い方も」
心臓が一瞬止まりそうになった。
「笑い方?」
「紗良はもっと静かに笑う」
陽向が少し笑う。
「美月、めっちゃ顔に出るじゃん」
「……そんなに?」
「出る」
「嫌ですか?」
思わず聞いた。
陽向が首を傾げる。
「なんで?」
「だって……紗良さんと違うから」
陽向は少し黙る。
しまった。
また余計なことを。
「すみま――」
「それ」
「え?」
「また謝ろうとした」
「……」
陽向が小さく笑う。
「別に嫌って言ってないじゃん」
「でも」
「違うだけ」
その言葉に。
私は顔を上げた。
「違うことって、悪いこと?」
「……」
すぐには答えられなかった。
私はずっと。
誰かと違う考えを言ったとき。
空気が悪くなるのが怖かった。
自分だけ違うことをしたら。
何か言われる気がして。
だから。
合わせてきた。
「……悪くない、ですよね」
「でしょ?」
陽向は当たり前のように言う。
「紗良は紗良」
そして。
少し間を置いて。
「美月は美月じゃん」
胸が。
強く鳴った。
名前。
また。
ちゃんと私の名前を呼んでくれた。
一ノ瀬紗良ではなく。
高瀬美月として。
「……ありがとうございます」
「だから何のお礼?」
「なんとなく」
「変なの」
陽向が笑う。
私も小さく笑った。
そのとき。
陽向のスマートフォンが鳴った。
「あ、仕事だ」
画面を確認して立ち上がる。
「そろそろ行くわ」
「あ……」
一瞬。
寂しい。
そう思ってしまった。
自分でも驚く。
陽向がいなくなれば。
この広い部屋に。
私は一人になる。
知らない家。
知らない人生。
さっきまであんなに笑っていたのに。
急に心細くなった。
でも。
そんなこと言えるわけがない。
「分かりました」
笑ってみせる。
陽向が玄関へ向かう。
「何かあったら連絡して」
「はい」
「俺でもマネージャーでもいいから」
「大丈夫です」
「その“大丈夫”信用できないんだよな」
「え?」
靴を履きながら。
陽向がこちらを見る。
「美月、大丈夫じゃなくても大丈夫って言うでしょ」
言葉を失った。
どうして。
そんなことまで。
「……まだ数日しか会ってないですよ?」
「分かりやすいもん」
「そんなに?」
「めちゃくちゃ」
陽向が笑う。
「じゃ、また連絡する」
「あの」
ドアに手をかけた陽向を呼び止める。
「ん?」
「今日は……ありがとうございました」
迎えに来てくれたこと。
荷物を持ってくれたこと。
ご飯に連れて行ってくれたこと。
この知らない家まで。
一緒に来てくれたこと。
全部。
陽向は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
そして。
「ちゃんと飯食えよ」
「はい」
「泣くのはいいけど、一人で全部抱えんなよ」
「……はい」
「あと」
突然、陽向がニヤッとする。
「俺の昔の失敗エピソード、そんな覚えてなくていいから」
「え?」
「ライブの入り間違えとか!」
「でも可愛かったですよ」
「忘れろ!」
笑いながらドアが閉まった。
静かになる。
私はしばらく玄関を見つめていた。
「……」
ふっと。
笑いがこぼれる。
さっきまで。
知らない家に帰ることが怖かった。
それなのに。
今は。
ほんの少しだけ。
大丈夫かもしれないと思えた。
陽向が。
私を紗良ではなく。
少しずつ。
『美月』として見てくれている。
そんな気がしたから。
だけど――。
このとき。
私は気づいていなかった。
同じように。
陽向の中にも。
小さな違和感が積み重なり始めていたことを。
紗良なら知っているはずのことを知らない。
紗良ならしないことをする。
なのに。
一ノ瀬紗良よりも。
天城陽向というアイドルのことだけは、異常なほど詳しい。
陽向の中に。
ひとつの疑問が生まれ始めていた。
――本当に。
この人は。
一ノ瀬紗良なのか。



