それから数日。
検査を重ねても、身体に大きな異常は見つからなかった。
医師からは、
「事故による一時的な記憶障害の可能性があります」
と何度も説明された。
私はそのたびに、
「記憶障害じゃないんです」
と言ったけれど。
当然ながら、信じてもらえるわけもなかった。
一ノ瀬紗良という女性が事故に遭い。
目を覚ましたら、自分を高瀬美月という別人だと思い込んでいる。
医学的に考えるなら。
そう説明するしかないのだろう。
でも。
私は知っている。
私は高瀬美月だ。
夫と子どもたちがいた。
三十四年間。
確かに、その人生を生きていた。
そして――。
高瀬美月は、もう死んでいる。
「……」
ベッドに腰掛けながら、スマートフォンの画面を見る。
あの日以来。
私は何度も、夫のSNSを見てしまっていた。
新しい投稿はない。
それが安心なのか、不安なのか。
自分でも分からない。
子どもたちはどうしているんだろう。
星は。
ちゃんと学校へ行けている?
朝、起きられてる?
夜は眠れてる?
私のことを思い出して、泣いてない?
会いたい。
でも。
今すぐ行っていいのかは分からない。
陽向は、
『退院したら、一緒に考えよう』
と言ってくれた。
だから。
もう少しだけ待とう。
そう自分に言い聞かせる。
コンコン。
病室のドアがノックされた。
「はい」
返事をすると。
「失礼します」
女性が入ってきた。
四十代くらいだろうか。
きっちりとしたスーツ姿。
入院してから何度か会っている。
一ノ瀬紗良のマネージャーだ。
「体調はいかがですか?」
「大丈夫です」
「今日、予定通り退院できますから」
「……はい」
退院。
本来なら嬉しいはずなのに。
不安のほうが大きかった。
ここを出たら。
私は一ノ瀬紗良として生活しなくてはいけない。
住んでいた場所も。
仕事も。
人間関係も。
何ひとつ分からない。
「退院後はしばらくお仕事をお休みにしています」
マネージャーが言う。
「事務所からも、まずは回復を優先するようにと」
「……ありがとうございます」
「それから」
少し間を置く。
「ご自宅で一人というのは心配なので、私もできるだけ連絡を取ります」
自宅。
一ノ瀬紗良の家。
そこに私は帰ることになるらしい。
「ご家族は……?」
何気なく聞いた。
マネージャーの表情がわずかに曇った。
「紗良さん、ご両親はもういらっしゃらないでしょう?」
「あ……」
やっぱり。
私は知らない。
紗良のことを。
「すみません」
「いえ」
マネージャーは、少しだけ寂しそうに笑った。
「事故の影響ですものね」
申し訳なさが込み上げる。
違う。
忘れているんじゃない。
知らない。
でも。
それを言っても仕方がない。
「身の回りのことで分からないことがあったら、いつでも連絡してください」
「はい」
「あと……」
マネージャーが少し困ったような顔をした。
「天城さんが迎えに来るそうです」
「……え?」
聞き間違えたかと思った。
「誰が?」
「天城陽向さんです」
「……」
「昨日、本人から連絡がありまして」
ちょっと待って。
聞いてない。
聞いてないんですけど。
「迎えって……今日?」
「はい」
「ここに?」
「もう来てると思いますよ」
「…………ええっ!?」
思わず大きな声を出した。
マネージャーが目を丸くする。
「あ、すみません」
でも。
無理。
心の準備が。
推しがお迎えに来るって何?
普通ある?
いや。
ない。
「紗良さん?」
「だ、大丈夫です」
全然大丈夫じゃない。
私は慌てて自分の格好を見る。
退院用に用意されていた服。
シンプルなニットにロングスカート。
たぶん紗良の私服なのだろう。
顔は。
ほぼすっぴん。
大丈夫?
いや。
そもそも今の顔、一ノ瀬紗良だから。
私が心配することじゃないのか。
でも。
推しに会うのにすっぴんって。
いやいや。
数日前からずっと会ってるし。
抱きしめられたし。
泣いたところも見られた。
もう今さらか。
頭の中で一人ツッコミをしていると。
「何してんの?」
突然。
聞き慣れた声がした。
「っ!?」
振り向く。
病室の入口。
キャップ。
マスク。
大きめのパーカー。
完全に変装しているけれど。
分かる。
陽向だ。
「天城さん!」
「おはよ」
軽く手を上げる。
なんでそんな普通なんですか。
こっちは。
推しが迎えに来たという事実だけで大混乱なんですけど。
「もう準備できた?」
「え、あ……はい」
「じゃ、荷物持つ」
「いやいやいや!」
反射的にバッグを抱えた。
陽向が止まる。
「何?」
「自分で持てます!」
「でも重いでしょ」
「大丈夫です」
「事故後でしょ」
「もう退院できるくらい元気です」
「でも持つ」
「大丈夫ですって!」
バッグを巡って。
なぜか押し問答になる。
陽向が眉を下げた。
「なんでそんな頑ななの?」
「だって……」
あなたに荷物なんて持たせられない。
トップアイドルですよ?
という言葉が喉まで出かかって。
止まった。
今の陽向にとって私は。
ファンではなく。
紗良の身体にいる、美月。
それに。
前に言われた。
迷惑とか、そういうのを気にしすぎるって。
「……じゃあ」
私は少しだけバッグを差し出した。
「お願いします」
「はいよ」
陽向があっさり受け取る。
それだけ。
本当に、それだけだった。
なのに。
少し変な気分だった。
誰かに頼ることを。
こんなふうに自然に受け入れたのは。
いつぶりだろう。
◇◇◇
病院の地下駐車場。
陽向の車の前まで来て。
私は立ち止まった。
「……」
「何?」
「これ……」
「車」
「それは分かります」
高級そう。
というか。
大きい。
芸能人の車だ。
「乗らないの?」
「乗ります」
助手席のドアを開けようとすると。
陽向が先に開けた。
「どうぞ」
「……」
「何?」
「いや……」
推しがドア開けてくれた。
待って。
これ、ファンだった頃の私なら一週間くらい寝込むレベルの出来事では?
「美月?」
「はい!」
「固まってるけど」
「大丈夫です!」
慌てて乗り込む。
陽向が笑った。
「お前さ」
「?」
「たまに俺見てめっちゃ変な顔するよね」
「……」
バレてる。
「ファンだったから仕方ないです」
「まだファンなの?」
「え?」
聞かれて。
答えに困った。
もちろん。
好きだ。
でも。
ここ数日で。
少しずつ変わってきている。
テレビの中の天城陽向と。
今、目の前にいる陽向。
同じ人なのに。
少し違う。
「……好きですよ」
結局、そう答えた。
陽向がシートベルトを締めながら、ちらっとこちらを見る。
「ふーん」
「何ですか?」
「いや」
エンジンをかける。
「本人目の前にして普通に言うんだなと思って」
「……っ!」
そうだった。
本人。
今。
本人に。
好きって。
「違います!」
「何が?」
「ファンとしてです!」
「分かってるって」
陽向が笑う。
絶対、楽しんでる。
「もう……」
顔が熱い。
窓の外を見る。
すると。
陽向の笑い声が聞こえた。
テレビで何度も聞いた笑い声。
でも。
不思議だった。
テレビ越しに聞いていたときより。
ずっと近い。
当たり前だけど。
その近さに。
少しずつ慣れてきている自分が怖い。
◇◇◇
「住所」
「え?」
「紗良ん家」
「……知りません」
「だよね」
陽向が苦笑する。
「俺知ってるからいいけど」
「……」
知ってるんだ。
家。
そりゃ幼なじみなんだから当然か。
少し胸がざわつく。
これは。
私の感情?
それとも紗良?
もう。
分からない。
「そういえば」
陽向が運転しながら言う。
「飯食った?」
「お昼ですか?」
「うん」
「まだです」
「何食べたい?」
「え?」
「退院祝い」
「いや、そんな……」
「また遠慮?」
「……」
図星。
「何でもいいです」
「一番困るやつ」
「じゃあ天城さんが食べたいもの」
「それ退院祝いじゃなくない?」
「でも本当に何でも」
陽向がちらっとこちらを見る。
「じゃ、ラーメン」
「ラーメン?」
「嫌?」
「全然!」
思わず声が大きくなった。
「私、好きです」
「マジ?」
「はい」
陽向が嬉しそうに笑う。
「紗良、ラーメンあんま食わなかったんだよ」
「そうなんですか?」
「太るとか言って」
「女優さんですもんね……」
「美月は?」
「普通に食べます」
「最高じゃん」
たったそれだけの言葉。
なのに。
胸がふわっとした。
何が最高なのか。
ラーメンを食べること?
でも。
誰かに。
自分の好きなことを否定されない。
むしろ。
「最高じゃん」
なんて言ってもらえる。
それが。
こんなに嬉しいとは思わなかった。
「じゃあ決まり」
陽向が楽しそうに言う。
「俺の好きな店連れてく」
「え!」
「何?」
「天城さんの好きなお店!?」
「そうだけど」
「それってファンが知っていいんですか?」
「だからもうファン目線やめろって!」
陽向が笑う。
私も。
つられて笑った。
◇◇◇
結局。
芸能人がよく利用するらしい個室のある店へ向かった。
ラーメンというより。
少しおしゃれな中華料理店。
「ここなら人目気にしなくていいから」
そう言って。
陽向が当然のように向かい側に座る。
夢みたい。
本当に。
夢みたいなのに。
ふとした瞬間。
胸の奥が冷たくなる。
子どもたち。
私。
こんなことしてていいのかな。
あの子たちは。
母親を亡くして泣いているかもしれないのに。
私は。
推しとラーメンなんて。
箸が止まる。
「……」
「美月」
「はい」
「止まってる」
「え?」
「さっきまでうまそうに食ってたのに」
陽向は本当に。
よく見ている。
「……ごめんなさい」
「また」
「……」
「何考えてた?」
一瞬。
「なんでもない」
と言いそうになった。
でも。
昨夜。
陽向に言われたことを思い出す。
――なんでもない顔じゃねえじゃん。
私は。
少しだけ迷ってから。
口を開いた。
「子どもたちのこと」
陽向の表情が柔らかくなる。
「そっか」
「私だけ、こんなことしてていいのかなって」
「こんなこと?」
「美味しいもの食べて」
箸を見る。
「笑って」
「……」
「子どもたちは、今も辛いかもしれないのに」
陽向はしばらく黙っていた。
そして。
「美月が笑ったら、子どもがもっと辛くなんの?」
「え?」
「美味いもん食ったら、子どもが悲しくなんの?」
「……ならないです」
「じゃあいいじゃん」
簡単に言う。
「でも」
「子どものこと心配するのと、美月が飯食うのは別じゃん」
「……」
「ずっと泣いてなきゃ母親じゃないとか、そんなことないでしょ」
言葉が胸に落ちてくる。
「……そうですね」
「あと」
陽向がラーメンをすすってから言った。
「ちゃんと食わないと、会いに行くとき倒れるよ」
「……」
「見に行くんでしょ?」
私は顔を上げた。
陽向がこちらを見る。
「子どもたち」
忘れてなかった。
「……はい」
「じゃあ元気になっとかないと」
「……はい」
少し。
涙が出そうになる。
でも。
今度は泣かなかった。
代わりに。
もう一口、ラーメンを食べる。
「……美味しい」
「でしょ?」
陽向が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら。
ふと思った。
同じ三十四歳。
私が子どもを育て。
毎日の暮らしに追われていた間。
この人は。
歌って。
踊って。
何万人もの人の前に立っていた。
同じ年月なのに。
まるで違う人生。
「何?」
陽向が聞く。
「いえ」
「またなんか考えてる」
「……同い年なんだなって」
「今さら?」
「なんか不思議で」
陽向が笑う。
「俺も不思議」
「え?」
「だって紗良の顔してるのに」
私を見る。
「中身、俺と同い年の主婦なんでしょ?」
「……そうです」
「子どももいて」
「はい」
「俺がライブやってる間、美月は何してたんだろ」
「え?」
その言葉に。
以前想像したことが蘇る。
「……たぶん」
少し笑う。
「天城さんがライブしてる時間に、子ども寝かしつけてたかもしれません」
「マジで?」
「夜泣きしてた頃なら、抱っこしながらテレビ見てたかも」
「すげえな」
「何がですか?」
「同じ三十四年なのに、全然違う」
「本当ですね」
二人で笑う。
そのとき。
陽向がふっと言った。
「でも」
「?」
「今は一緒に飯食ってんだよな」
胸が。
小さく跳ねた。
「……そうですね」
「人生って分かんねえな」
陽向は笑った。
私は。
その笑顔を見ながら。
心の中で思う。
本当に。
分からない。
だって。
数日前まで。
この人はテレビの向こうにいた。
私とは。
絶対に交わることのない人だった。
なのに今。
目の前でラーメンを食べて。
私の話を聞いて。
笑っている。
そして。
私はまだ気づいていなかった。
この日から。
私にとって天城陽向が少しずつ。
『最推し』だけではなくなっていくことを。
検査を重ねても、身体に大きな異常は見つからなかった。
医師からは、
「事故による一時的な記憶障害の可能性があります」
と何度も説明された。
私はそのたびに、
「記憶障害じゃないんです」
と言ったけれど。
当然ながら、信じてもらえるわけもなかった。
一ノ瀬紗良という女性が事故に遭い。
目を覚ましたら、自分を高瀬美月という別人だと思い込んでいる。
医学的に考えるなら。
そう説明するしかないのだろう。
でも。
私は知っている。
私は高瀬美月だ。
夫と子どもたちがいた。
三十四年間。
確かに、その人生を生きていた。
そして――。
高瀬美月は、もう死んでいる。
「……」
ベッドに腰掛けながら、スマートフォンの画面を見る。
あの日以来。
私は何度も、夫のSNSを見てしまっていた。
新しい投稿はない。
それが安心なのか、不安なのか。
自分でも分からない。
子どもたちはどうしているんだろう。
星は。
ちゃんと学校へ行けている?
朝、起きられてる?
夜は眠れてる?
私のことを思い出して、泣いてない?
会いたい。
でも。
今すぐ行っていいのかは分からない。
陽向は、
『退院したら、一緒に考えよう』
と言ってくれた。
だから。
もう少しだけ待とう。
そう自分に言い聞かせる。
コンコン。
病室のドアがノックされた。
「はい」
返事をすると。
「失礼します」
女性が入ってきた。
四十代くらいだろうか。
きっちりとしたスーツ姿。
入院してから何度か会っている。
一ノ瀬紗良のマネージャーだ。
「体調はいかがですか?」
「大丈夫です」
「今日、予定通り退院できますから」
「……はい」
退院。
本来なら嬉しいはずなのに。
不安のほうが大きかった。
ここを出たら。
私は一ノ瀬紗良として生活しなくてはいけない。
住んでいた場所も。
仕事も。
人間関係も。
何ひとつ分からない。
「退院後はしばらくお仕事をお休みにしています」
マネージャーが言う。
「事務所からも、まずは回復を優先するようにと」
「……ありがとうございます」
「それから」
少し間を置く。
「ご自宅で一人というのは心配なので、私もできるだけ連絡を取ります」
自宅。
一ノ瀬紗良の家。
そこに私は帰ることになるらしい。
「ご家族は……?」
何気なく聞いた。
マネージャーの表情がわずかに曇った。
「紗良さん、ご両親はもういらっしゃらないでしょう?」
「あ……」
やっぱり。
私は知らない。
紗良のことを。
「すみません」
「いえ」
マネージャーは、少しだけ寂しそうに笑った。
「事故の影響ですものね」
申し訳なさが込み上げる。
違う。
忘れているんじゃない。
知らない。
でも。
それを言っても仕方がない。
「身の回りのことで分からないことがあったら、いつでも連絡してください」
「はい」
「あと……」
マネージャーが少し困ったような顔をした。
「天城さんが迎えに来るそうです」
「……え?」
聞き間違えたかと思った。
「誰が?」
「天城陽向さんです」
「……」
「昨日、本人から連絡がありまして」
ちょっと待って。
聞いてない。
聞いてないんですけど。
「迎えって……今日?」
「はい」
「ここに?」
「もう来てると思いますよ」
「…………ええっ!?」
思わず大きな声を出した。
マネージャーが目を丸くする。
「あ、すみません」
でも。
無理。
心の準備が。
推しがお迎えに来るって何?
普通ある?
いや。
ない。
「紗良さん?」
「だ、大丈夫です」
全然大丈夫じゃない。
私は慌てて自分の格好を見る。
退院用に用意されていた服。
シンプルなニットにロングスカート。
たぶん紗良の私服なのだろう。
顔は。
ほぼすっぴん。
大丈夫?
いや。
そもそも今の顔、一ノ瀬紗良だから。
私が心配することじゃないのか。
でも。
推しに会うのにすっぴんって。
いやいや。
数日前からずっと会ってるし。
抱きしめられたし。
泣いたところも見られた。
もう今さらか。
頭の中で一人ツッコミをしていると。
「何してんの?」
突然。
聞き慣れた声がした。
「っ!?」
振り向く。
病室の入口。
キャップ。
マスク。
大きめのパーカー。
完全に変装しているけれど。
分かる。
陽向だ。
「天城さん!」
「おはよ」
軽く手を上げる。
なんでそんな普通なんですか。
こっちは。
推しが迎えに来たという事実だけで大混乱なんですけど。
「もう準備できた?」
「え、あ……はい」
「じゃ、荷物持つ」
「いやいやいや!」
反射的にバッグを抱えた。
陽向が止まる。
「何?」
「自分で持てます!」
「でも重いでしょ」
「大丈夫です」
「事故後でしょ」
「もう退院できるくらい元気です」
「でも持つ」
「大丈夫ですって!」
バッグを巡って。
なぜか押し問答になる。
陽向が眉を下げた。
「なんでそんな頑ななの?」
「だって……」
あなたに荷物なんて持たせられない。
トップアイドルですよ?
という言葉が喉まで出かかって。
止まった。
今の陽向にとって私は。
ファンではなく。
紗良の身体にいる、美月。
それに。
前に言われた。
迷惑とか、そういうのを気にしすぎるって。
「……じゃあ」
私は少しだけバッグを差し出した。
「お願いします」
「はいよ」
陽向があっさり受け取る。
それだけ。
本当に、それだけだった。
なのに。
少し変な気分だった。
誰かに頼ることを。
こんなふうに自然に受け入れたのは。
いつぶりだろう。
◇◇◇
病院の地下駐車場。
陽向の車の前まで来て。
私は立ち止まった。
「……」
「何?」
「これ……」
「車」
「それは分かります」
高級そう。
というか。
大きい。
芸能人の車だ。
「乗らないの?」
「乗ります」
助手席のドアを開けようとすると。
陽向が先に開けた。
「どうぞ」
「……」
「何?」
「いや……」
推しがドア開けてくれた。
待って。
これ、ファンだった頃の私なら一週間くらい寝込むレベルの出来事では?
「美月?」
「はい!」
「固まってるけど」
「大丈夫です!」
慌てて乗り込む。
陽向が笑った。
「お前さ」
「?」
「たまに俺見てめっちゃ変な顔するよね」
「……」
バレてる。
「ファンだったから仕方ないです」
「まだファンなの?」
「え?」
聞かれて。
答えに困った。
もちろん。
好きだ。
でも。
ここ数日で。
少しずつ変わってきている。
テレビの中の天城陽向と。
今、目の前にいる陽向。
同じ人なのに。
少し違う。
「……好きですよ」
結局、そう答えた。
陽向がシートベルトを締めながら、ちらっとこちらを見る。
「ふーん」
「何ですか?」
「いや」
エンジンをかける。
「本人目の前にして普通に言うんだなと思って」
「……っ!」
そうだった。
本人。
今。
本人に。
好きって。
「違います!」
「何が?」
「ファンとしてです!」
「分かってるって」
陽向が笑う。
絶対、楽しんでる。
「もう……」
顔が熱い。
窓の外を見る。
すると。
陽向の笑い声が聞こえた。
テレビで何度も聞いた笑い声。
でも。
不思議だった。
テレビ越しに聞いていたときより。
ずっと近い。
当たり前だけど。
その近さに。
少しずつ慣れてきている自分が怖い。
◇◇◇
「住所」
「え?」
「紗良ん家」
「……知りません」
「だよね」
陽向が苦笑する。
「俺知ってるからいいけど」
「……」
知ってるんだ。
家。
そりゃ幼なじみなんだから当然か。
少し胸がざわつく。
これは。
私の感情?
それとも紗良?
もう。
分からない。
「そういえば」
陽向が運転しながら言う。
「飯食った?」
「お昼ですか?」
「うん」
「まだです」
「何食べたい?」
「え?」
「退院祝い」
「いや、そんな……」
「また遠慮?」
「……」
図星。
「何でもいいです」
「一番困るやつ」
「じゃあ天城さんが食べたいもの」
「それ退院祝いじゃなくない?」
「でも本当に何でも」
陽向がちらっとこちらを見る。
「じゃ、ラーメン」
「ラーメン?」
「嫌?」
「全然!」
思わず声が大きくなった。
「私、好きです」
「マジ?」
「はい」
陽向が嬉しそうに笑う。
「紗良、ラーメンあんま食わなかったんだよ」
「そうなんですか?」
「太るとか言って」
「女優さんですもんね……」
「美月は?」
「普通に食べます」
「最高じゃん」
たったそれだけの言葉。
なのに。
胸がふわっとした。
何が最高なのか。
ラーメンを食べること?
でも。
誰かに。
自分の好きなことを否定されない。
むしろ。
「最高じゃん」
なんて言ってもらえる。
それが。
こんなに嬉しいとは思わなかった。
「じゃあ決まり」
陽向が楽しそうに言う。
「俺の好きな店連れてく」
「え!」
「何?」
「天城さんの好きなお店!?」
「そうだけど」
「それってファンが知っていいんですか?」
「だからもうファン目線やめろって!」
陽向が笑う。
私も。
つられて笑った。
◇◇◇
結局。
芸能人がよく利用するらしい個室のある店へ向かった。
ラーメンというより。
少しおしゃれな中華料理店。
「ここなら人目気にしなくていいから」
そう言って。
陽向が当然のように向かい側に座る。
夢みたい。
本当に。
夢みたいなのに。
ふとした瞬間。
胸の奥が冷たくなる。
子どもたち。
私。
こんなことしてていいのかな。
あの子たちは。
母親を亡くして泣いているかもしれないのに。
私は。
推しとラーメンなんて。
箸が止まる。
「……」
「美月」
「はい」
「止まってる」
「え?」
「さっきまでうまそうに食ってたのに」
陽向は本当に。
よく見ている。
「……ごめんなさい」
「また」
「……」
「何考えてた?」
一瞬。
「なんでもない」
と言いそうになった。
でも。
昨夜。
陽向に言われたことを思い出す。
――なんでもない顔じゃねえじゃん。
私は。
少しだけ迷ってから。
口を開いた。
「子どもたちのこと」
陽向の表情が柔らかくなる。
「そっか」
「私だけ、こんなことしてていいのかなって」
「こんなこと?」
「美味しいもの食べて」
箸を見る。
「笑って」
「……」
「子どもたちは、今も辛いかもしれないのに」
陽向はしばらく黙っていた。
そして。
「美月が笑ったら、子どもがもっと辛くなんの?」
「え?」
「美味いもん食ったら、子どもが悲しくなんの?」
「……ならないです」
「じゃあいいじゃん」
簡単に言う。
「でも」
「子どものこと心配するのと、美月が飯食うのは別じゃん」
「……」
「ずっと泣いてなきゃ母親じゃないとか、そんなことないでしょ」
言葉が胸に落ちてくる。
「……そうですね」
「あと」
陽向がラーメンをすすってから言った。
「ちゃんと食わないと、会いに行くとき倒れるよ」
「……」
「見に行くんでしょ?」
私は顔を上げた。
陽向がこちらを見る。
「子どもたち」
忘れてなかった。
「……はい」
「じゃあ元気になっとかないと」
「……はい」
少し。
涙が出そうになる。
でも。
今度は泣かなかった。
代わりに。
もう一口、ラーメンを食べる。
「……美味しい」
「でしょ?」
陽向が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら。
ふと思った。
同じ三十四歳。
私が子どもを育て。
毎日の暮らしに追われていた間。
この人は。
歌って。
踊って。
何万人もの人の前に立っていた。
同じ年月なのに。
まるで違う人生。
「何?」
陽向が聞く。
「いえ」
「またなんか考えてる」
「……同い年なんだなって」
「今さら?」
「なんか不思議で」
陽向が笑う。
「俺も不思議」
「え?」
「だって紗良の顔してるのに」
私を見る。
「中身、俺と同い年の主婦なんでしょ?」
「……そうです」
「子どももいて」
「はい」
「俺がライブやってる間、美月は何してたんだろ」
「え?」
その言葉に。
以前想像したことが蘇る。
「……たぶん」
少し笑う。
「天城さんがライブしてる時間に、子ども寝かしつけてたかもしれません」
「マジで?」
「夜泣きしてた頃なら、抱っこしながらテレビ見てたかも」
「すげえな」
「何がですか?」
「同じ三十四年なのに、全然違う」
「本当ですね」
二人で笑う。
そのとき。
陽向がふっと言った。
「でも」
「?」
「今は一緒に飯食ってんだよな」
胸が。
小さく跳ねた。
「……そうですね」
「人生って分かんねえな」
陽向は笑った。
私は。
その笑顔を見ながら。
心の中で思う。
本当に。
分からない。
だって。
数日前まで。
この人はテレビの向こうにいた。
私とは。
絶対に交わることのない人だった。
なのに今。
目の前でラーメンを食べて。
私の話を聞いて。
笑っている。
そして。
私はまだ気づいていなかった。
この日から。
私にとって天城陽向が少しずつ。
『最推し』だけではなくなっていくことを。



