目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

それから数日。

検査を重ねても、身体に大きな異常は見つからなかった。

医師からは、

「事故による一時的な記憶障害の可能性があります」

と何度も説明された。

私はそのたびに、

「記憶障害じゃないんです」

と言ったけれど。

当然ながら、信じてもらえるわけもなかった。

一ノ瀬紗良という女性が事故に遭い。

目を覚ましたら、自分を高瀬美月という別人だと思い込んでいる。

医学的に考えるなら。

そう説明するしかないのだろう。

でも。

私は知っている。

私は高瀬美月だ。

夫と子どもたちがいた。

三十四年間。

確かに、その人生を生きていた。

そして――。

高瀬美月は、もう死んでいる。

「……」

ベッドに腰掛けながら、スマートフォンの画面を見る。

あの日以来。

私は何度も、夫のSNSを見てしまっていた。

新しい投稿はない。

それが安心なのか、不安なのか。

自分でも分からない。

子どもたちはどうしているんだろう。

星は。

ちゃんと学校へ行けている?

朝、起きられてる?

夜は眠れてる?

私のことを思い出して、泣いてない?

会いたい。

でも。

今すぐ行っていいのかは分からない。

陽向は、

『退院したら、一緒に考えよう』

と言ってくれた。

だから。

もう少しだけ待とう。

そう自分に言い聞かせる。

コンコン。

病室のドアがノックされた。

「はい」

返事をすると。

「失礼します」

女性が入ってきた。

四十代くらいだろうか。

きっちりとしたスーツ姿。

入院してから何度か会っている。

一ノ瀬紗良のマネージャーだ。

「体調はいかがですか?」

「大丈夫です」

「今日、予定通り退院できますから」

「……はい」

退院。

本来なら嬉しいはずなのに。

不安のほうが大きかった。

ここを出たら。

私は一ノ瀬紗良として生活しなくてはいけない。

住んでいた場所も。

仕事も。

人間関係も。

何ひとつ分からない。

「退院後はしばらくお仕事をお休みにしています」

マネージャーが言う。

「事務所からも、まずは回復を優先するようにと」

「……ありがとうございます」

「それから」

少し間を置く。

「ご自宅で一人というのは心配なので、私もできるだけ連絡を取ります」

自宅。

一ノ瀬紗良の家。

そこに私は帰ることになるらしい。

「ご家族は……?」

何気なく聞いた。

マネージャーの表情がわずかに曇った。

「紗良さん、ご両親はもういらっしゃらないでしょう?」

「あ……」

やっぱり。

私は知らない。

紗良のことを。

「すみません」

「いえ」

マネージャーは、少しだけ寂しそうに笑った。

「事故の影響ですものね」

申し訳なさが込み上げる。

違う。

忘れているんじゃない。

知らない。

でも。

それを言っても仕方がない。

「身の回りのことで分からないことがあったら、いつでも連絡してください」

「はい」

「あと……」

マネージャーが少し困ったような顔をした。

「天城さんが迎えに来るそうです」

「……え?」

聞き間違えたかと思った。

「誰が?」

「天城陽向さんです」

「……」

「昨日、本人から連絡がありまして」

ちょっと待って。

聞いてない。

聞いてないんですけど。

「迎えって……今日?」

「はい」

「ここに?」

「もう来てると思いますよ」

「…………ええっ!?」

思わず大きな声を出した。

マネージャーが目を丸くする。

「あ、すみません」

でも。

無理。

心の準備が。

推しがお迎えに来るって何?

普通ある?

いや。

ない。

「紗良さん?」

「だ、大丈夫です」

全然大丈夫じゃない。

私は慌てて自分の格好を見る。

退院用に用意されていた服。

シンプルなニットにロングスカート。

たぶん紗良の私服なのだろう。

顔は。

ほぼすっぴん。

大丈夫?

いや。

そもそも今の顔、一ノ瀬紗良だから。

私が心配することじゃないのか。

でも。

推しに会うのにすっぴんって。

いやいや。

数日前からずっと会ってるし。

抱きしめられたし。

泣いたところも見られた。

もう今さらか。

頭の中で一人ツッコミをしていると。

「何してんの?」

突然。

聞き慣れた声がした。

「っ!?」

振り向く。

病室の入口。

キャップ。

マスク。

大きめのパーカー。

完全に変装しているけれど。

分かる。

陽向だ。

「天城さん!」

「おはよ」

軽く手を上げる。

なんでそんな普通なんですか。

こっちは。

推しが迎えに来たという事実だけで大混乱なんですけど。

「もう準備できた?」

「え、あ……はい」

「じゃ、荷物持つ」

「いやいやいや!」

反射的にバッグを抱えた。

陽向が止まる。

「何?」

「自分で持てます!」

「でも重いでしょ」

「大丈夫です」

「事故後でしょ」

「もう退院できるくらい元気です」

「でも持つ」

「大丈夫ですって!」

バッグを巡って。

なぜか押し問答になる。

陽向が眉を下げた。

「なんでそんな頑ななの?」

「だって……」

あなたに荷物なんて持たせられない。

トップアイドルですよ?

という言葉が喉まで出かかって。

止まった。

今の陽向にとって私は。

ファンではなく。

紗良の身体にいる、美月。

それに。

前に言われた。

迷惑とか、そういうのを気にしすぎるって。

「……じゃあ」

私は少しだけバッグを差し出した。

「お願いします」

「はいよ」

陽向があっさり受け取る。

それだけ。

本当に、それだけだった。

なのに。

少し変な気分だった。

誰かに頼ることを。

こんなふうに自然に受け入れたのは。

いつぶりだろう。

◇◇◇

病院の地下駐車場。

陽向の車の前まで来て。

私は立ち止まった。

「……」

「何?」

「これ……」

「車」

「それは分かります」

高級そう。

というか。

大きい。

芸能人の車だ。

「乗らないの?」

「乗ります」

助手席のドアを開けようとすると。

陽向が先に開けた。

「どうぞ」

「……」

「何?」

「いや……」

推しがドア開けてくれた。

待って。

これ、ファンだった頃の私なら一週間くらい寝込むレベルの出来事では?

「美月?」

「はい!」

「固まってるけど」

「大丈夫です!」

慌てて乗り込む。

陽向が笑った。

「お前さ」

「?」

「たまに俺見てめっちゃ変な顔するよね」

「……」

バレてる。

「ファンだったから仕方ないです」

「まだファンなの?」

「え?」

聞かれて。

答えに困った。

もちろん。

好きだ。

でも。

ここ数日で。

少しずつ変わってきている。

テレビの中の天城陽向と。

今、目の前にいる陽向。

同じ人なのに。

少し違う。

「……好きですよ」

結局、そう答えた。

陽向がシートベルトを締めながら、ちらっとこちらを見る。

「ふーん」

「何ですか?」

「いや」

エンジンをかける。

「本人目の前にして普通に言うんだなと思って」

「……っ!」

そうだった。

本人。

今。

本人に。

好きって。

「違います!」

「何が?」

「ファンとしてです!」

「分かってるって」

陽向が笑う。

絶対、楽しんでる。

「もう……」

顔が熱い。

窓の外を見る。

すると。

陽向の笑い声が聞こえた。

テレビで何度も聞いた笑い声。

でも。

不思議だった。

テレビ越しに聞いていたときより。

ずっと近い。

当たり前だけど。

その近さに。

少しずつ慣れてきている自分が怖い。

◇◇◇

「住所」

「え?」

「紗良ん家」

「……知りません」

「だよね」

陽向が苦笑する。

「俺知ってるからいいけど」

「……」

知ってるんだ。

家。

そりゃ幼なじみなんだから当然か。

少し胸がざわつく。

これは。

私の感情?

それとも紗良?

もう。

分からない。

「そういえば」

陽向が運転しながら言う。

「飯食った?」

「お昼ですか?」

「うん」

「まだです」

「何食べたい?」

「え?」

「退院祝い」

「いや、そんな……」

「また遠慮?」

「……」

図星。

「何でもいいです」

「一番困るやつ」

「じゃあ天城さんが食べたいもの」

「それ退院祝いじゃなくない?」

「でも本当に何でも」

陽向がちらっとこちらを見る。

「じゃ、ラーメン」

「ラーメン?」

「嫌?」

「全然!」

思わず声が大きくなった。

「私、好きです」

「マジ?」

「はい」

陽向が嬉しそうに笑う。

「紗良、ラーメンあんま食わなかったんだよ」

「そうなんですか?」

「太るとか言って」

「女優さんですもんね……」

「美月は?」

「普通に食べます」

「最高じゃん」

たったそれだけの言葉。

なのに。

胸がふわっとした。

何が最高なのか。

ラーメンを食べること?

でも。

誰かに。

自分の好きなことを否定されない。

むしろ。

「最高じゃん」

なんて言ってもらえる。

それが。

こんなに嬉しいとは思わなかった。

「じゃあ決まり」

陽向が楽しそうに言う。

「俺の好きな店連れてく」

「え!」

「何?」

「天城さんの好きなお店!?」

「そうだけど」

「それってファンが知っていいんですか?」

「だからもうファン目線やめろって!」

陽向が笑う。

私も。

つられて笑った。

◇◇◇

結局。

芸能人がよく利用するらしい個室のある店へ向かった。

ラーメンというより。

少しおしゃれな中華料理店。

「ここなら人目気にしなくていいから」

そう言って。

陽向が当然のように向かい側に座る。

夢みたい。

本当に。

夢みたいなのに。

ふとした瞬間。

胸の奥が冷たくなる。

子どもたち。

私。

こんなことしてていいのかな。

あの子たちは。

母親を亡くして泣いているかもしれないのに。

私は。

推しとラーメンなんて。

箸が止まる。

「……」

「美月」

「はい」

「止まってる」

「え?」

「さっきまでうまそうに食ってたのに」

陽向は本当に。

よく見ている。

「……ごめんなさい」

「また」

「……」

「何考えてた?」

一瞬。

「なんでもない」

と言いそうになった。

でも。

昨夜。

陽向に言われたことを思い出す。

――なんでもない顔じゃねえじゃん。

私は。

少しだけ迷ってから。

口を開いた。

「子どもたちのこと」

陽向の表情が柔らかくなる。

「そっか」

「私だけ、こんなことしてていいのかなって」

「こんなこと?」

「美味しいもの食べて」

箸を見る。

「笑って」

「……」

「子どもたちは、今も辛いかもしれないのに」

陽向はしばらく黙っていた。

そして。

「美月が笑ったら、子どもがもっと辛くなんの?」

「え?」

「美味いもん食ったら、子どもが悲しくなんの?」

「……ならないです」

「じゃあいいじゃん」

簡単に言う。

「でも」

「子どものこと心配するのと、美月が飯食うのは別じゃん」

「……」

「ずっと泣いてなきゃ母親じゃないとか、そんなことないでしょ」

言葉が胸に落ちてくる。

「……そうですね」

「あと」

陽向がラーメンをすすってから言った。

「ちゃんと食わないと、会いに行くとき倒れるよ」

「……」

「見に行くんでしょ?」

私は顔を上げた。

陽向がこちらを見る。

「子どもたち」

忘れてなかった。

「……はい」

「じゃあ元気になっとかないと」

「……はい」

少し。

涙が出そうになる。

でも。

今度は泣かなかった。

代わりに。

もう一口、ラーメンを食べる。

「……美味しい」

「でしょ?」

陽向が嬉しそうに笑った。

その笑顔を見ながら。

ふと思った。

同じ三十四歳。

私が子どもを育て。

毎日の暮らしに追われていた間。

この人は。

歌って。

踊って。

何万人もの人の前に立っていた。

同じ年月なのに。

まるで違う人生。

「何?」

陽向が聞く。

「いえ」

「またなんか考えてる」

「……同い年なんだなって」

「今さら?」

「なんか不思議で」

陽向が笑う。

「俺も不思議」

「え?」

「だって紗良の顔してるのに」

私を見る。

「中身、俺と同い年の主婦なんでしょ?」

「……そうです」

「子どももいて」

「はい」

「俺がライブやってる間、美月は何してたんだろ」

「え?」

その言葉に。

以前想像したことが蘇る。

「……たぶん」

少し笑う。

「天城さんがライブしてる時間に、子ども寝かしつけてたかもしれません」

「マジで?」

「夜泣きしてた頃なら、抱っこしながらテレビ見てたかも」

「すげえな」

「何がですか?」

「同じ三十四年なのに、全然違う」

「本当ですね」

二人で笑う。

そのとき。

陽向がふっと言った。

「でも」

「?」

「今は一緒に飯食ってんだよな」

胸が。

小さく跳ねた。

「……そうですね」

「人生って分かんねえな」

陽向は笑った。

私は。

その笑顔を見ながら。

心の中で思う。

本当に。

分からない。

だって。

数日前まで。

この人はテレビの向こうにいた。

私とは。

絶対に交わることのない人だった。

なのに今。

目の前でラーメンを食べて。

私の話を聞いて。

笑っている。

そして。

私はまだ気づいていなかった。

この日から。

私にとって天城陽向が少しずつ。

『最推し』だけではなくなっていくことを。