「……結婚」
その言葉を。
口にしてしまってから。
陽向は。
一人。
固まっていた。
「……」
スマートフォンには。
あの日の写真。
美月。
五人の子どもたち。
その父親。
そして。
自分。
「いや」
誰もいない楽屋で。
陽向は。
小さく首を振る。
「待て待て待て」
付き合って。
まだ。
そんなに長くない。
ようやく。
美月が。
子どもたちと。
もう一度。
繋がれたところ。
熱愛報道だって。
出たばかり。
今。
結婚なんて。
早い。
「……早いよな」
なのに。
写真を。
もう一度見る。
数年後。
この写真の中に。
自分が。
当たり前に。
いたら。
そう思う。
付き合いたい。
だけじゃない。
会いたい。
だけでもない。
帰る場所に。
なりたい。
美月が。
嬉しい日も。
しんどい日も。
子どもたちのことで。
泣いた日も。
仕事で。
悩んだ日も。
全部。
一番近くで。
聞きたい。
「……やっぱ」
陽向は。
額を。
机につけた。
「結婚したいんじゃん、俺」
自覚した瞬間。
余計に。
恥ずかしくなった。
◇◇◇
「陽向」
その日の夜。
私の部屋へ来た陽向は。
明らかに。
おかしかった。
「何?」
「……何が?」
「さっきから」
私は。
陽向を見る。
「私の左手ばっかり見てる」
「え!?」
分かりやすい。
「見てない!」
「見てる」
「見てない!」
「じゃあ」
左手を。
後ろに隠す。
陽向の目が。
追う。
「ほら」
「……」
「何?」
「別に」
怪しい。
ものすごく。
怪しい。
でも。
聞いても。
教えてくれなさそう。
私は。
それ以上。
追及しなかった。
「まあいいけど」
「うん」
陽向が。
妙に。
ほっとする。
本当に。
何なんだろう。
◇◇◇
その日は。
二人で。
夕飯を作った。
「玉ねぎお願い」
「俺?」
「他に誰がいるの?」
「美月」
「私ほかのことしてる」
「俺」
「玉ねぎ苦手なんだけど」
「知ってる」
「目痛い」
「頑張れ」
「彼氏に冷たくない?」
「料理中です」
いつもの。
時間。
くだらない。
やり取り。
でも。
陽向は。
何度も。
私を見ていた。
「……ねえ」
「何?」
「本当にどうしたの?」
「いや」
包丁を。
止める。
少し。
迷っている顔。
「美月って」
「うん」
「これから」
「どうなりたい?」
「え?」
急な。
質問。
「何?」
「人生」
「範囲広すぎない?」
「例えば」
陽向が。
少し。
言いにくそうにする。
「仕事とか」
「子どもたちとか」
「俺とか」
最後だけ。
声が。
小さい。
私は。
火を。
少し弱めた。
「そうだなあ」
考える。
以前だったら。
きっと。
子どもたちが。
幸せなら。
陽向が。
幸せなら。
そう。
答えていた。
でも。
今は。
違う。
「仕事は」
「うん」
「続けたい」
「うん」
「女優として」
「まだ」
「できること」
「いっぱいあると思うから」
陽向が。
嬉しそうに。
頷く。
「子どもたちは?」
「会える関係を」
「続けたい」
「……うん」
「前みたいに」
「毎日一緒には」
「いられないけど」
「それでも」
私は。
少し笑う。
「ママでいたい」
「うん」
「で」
陽向が。
少し。
緊張したように。
聞く。
「俺は?」
思わず。
笑った。
「一番聞きたかったのそこ?」
「違う!」
「顔に書いてある」
「書いてない!」
「ふふっ」
でも。
私は。
ちゃんと。
答える。
「陽向とは」
「うん」
「これからも」
「一緒にいたい」
陽向が。
静かになる。
「ずっと?」
「……」
その言葉。
少し。
重い。
でも。
嫌じゃない。
私は。
陽向を見る。
「うん」
「できれば」
「ずっと」
陽向が。
完全に。
黙った。
「陽向?」
「……ヤバい」
「何が?」
「いや」
玉ねぎを。
切りながら。
「目痛い」
「泣いてる?」
「玉ねぎ!」
「本当に?」
「玉ねぎだから!」
絶対。
違う気がする。
◇◇◇
夕飯のあと。
ソファで。
二人。
並んでいた。
陽向は。
まだ。
何か。
考えている。
「美月」
「何?」
「変なこと」
「聞いていい?」
「内容による」
「もし」
少し。
間。
「俺と」
「結婚するとしたら」
心臓が。
止まった。
「……」
陽向も。
言ったあとで。
固まる。
「いや!」
急に。
両手を振る。
「今のプロポーズじゃないから!」
「分かってる!」
私の顔も。
一気に。
熱くなる。
「仮定!」
「仮定ね!」
「そう!」
「うん!」
二人。
妙に。
大声。
しばらく。
沈黙。
「……で」
私が。
先に。
口を開く。
「何を」
「聞きたかったの?」
陽向が。
少し。
真面目な顔になる。
「名前」
「……名前?」
「もし」
「結婚することになったら」
陽向が。
ゆっくり。
言う。
「戸籍上は」
「一ノ瀬紗良だろ」
胸が。
少し。
痛んだ。
そう。
今。
社会の中に。
存在しているのは。
一ノ瀬紗良。
高瀬美月は。
死んだことに。
なっている。
「うん」
「だから」
陽向は。
言葉を。
選ぶ。
「俺と結婚したら」
「書類には」
「一ノ瀬紗良って」
「書くことになる」
「……うん」
「それ」
「美月は」
一度。
息を吸う。
「嫌じゃない?」
その質問に。
私は。
すぐには。
答えられなかった。
◇◇◇
一ノ瀬紗良。
この身体を。
生きた人。
陽向を。
ずっと好きだった人。
そして。
私に。
この人生を。
託してくれた人。
私は。
紗良を。
嫌いじゃない。
むしろ。
今は。
とても。
大切に思っている。
でも。
もし。
陽向と。
結婚する日が。
来たとして。
書類に。
『一ノ瀬紗良』
と。
書かれたら。
それは。
誰の結婚なんだろう。
「……ちょっと」
私は。
正直に言った。
「怖いかも」
「うん」
「だって」
自分の手を見る。
「陽向が」
「結婚する相手は」
「私なのに」
「うん」
「書類では」
「紗良になる」
「……」
「それ見たら」
「私」
一瞬。
言葉に詰まる。
「また」
「私は誰なんだろうって」
「思うかもしれない」
陽向は。
黙って。
聞いている。
「紗良が嫌だからじゃないよ」
「分かってる」
「うん」
「でも」
私は。
胸に手を置く。
「私は」
「高瀬美月として」
「陽向を好きになった」
「……うん」
「だから」
「もし」
声が。
少し。
震える。
「結婚するなら」
「高瀬美月として」
「結婚したい」
陽向の目が。
揺れた。
「……そっか」
「無理なのは」
「分かってるけど」
「いや」
陽向が。
すぐに。
首を振る。
「無理って」
「決めなくていい」
「でも」
「書類の名前が」
「紗良でも」
陽向が。
私の手を。
握る。
「俺が」
「プロポーズする相手は」
「高瀬美月だよ」
心臓が。
強く。
鳴った。
「……」
「結婚式するとしても」
「指輪渡すとしても」
「誓うとしても」
真っ直ぐ。
私を見る。
「俺が」
「一緒に生きたいって」
「言うのは」
「美月」
涙が。
滲んだ。
「陽向」
「俺」
少し。
笑う。
「そこ」
「絶対」
「間違えないから」
私は。
泣きながら。
笑った。
「……まだ」
「結婚するって」
「決まってないけどね」
「そう!」
陽向が。
一気に。
慌てる。
「仮定だから!」
「うん」
「今日のは」
「絶対」
「プロポーズじゃないからな!」
「分かったって」
「マジで!」
「しつこい」
「だって!」
陽向が。
頭を抱える。
「俺」
「ちゃんと」
「もっと」
「かっこよくしたいんだよ!」
「……」
私は。
止まった。
陽向も。
止まった。
「……何を?」
「……」
「陽向」
「……」
「今」
「ちゃんと」
「もっとかっこよく」
「何をするって?」
陽向が。
顔を。
真っ赤にする。
「知らない!」
「言ったよね?」
「言ってない!」
「言った!」
「美月!」
「何?」
「忘れて!」
「無理!」
「うわあああ!」
ソファへ。
突っ伏した。
私は。
声を上げて。
笑った。
◇◇◇
でも。
笑いながら。
胸の奥は。
ずっと。
温かかった。
結婚。
考えたこと。
なかった。
今の身体になって。
目を覚ましたころは。
今日を。
生きるだけで。
精一杯だった。
自分が。
誰なのか。
子どもたちに。
会えるのか。
陽向のそばに。
いていいのか。
そればかり。
考えていた。
でも。
いつの間にか。
未来を。
考えられるところまで。
来た。
一年後。
五年後。
十年後。
そこに。
陽向が。
いてほしいと。
思っている。
それが。
嬉しくて。
少し。
怖い。
◇◇◇
「ねえ」
しばらくして。
私は。
陽向へ。
声をかけた。
「何?」
まだ。
ソファに。
顔を埋めている。
「もし」
「……」
「いつか」
少し。
緊張する。
「本当に」
「プロポーズしてくれるなら」
陽向が。
ゆっくり。
顔を上げた。
私は。
笑う。
「一個だけ」
「お願いしていい?」
「……何?」
「紗良じゃなくて」
胸に。
手を置く。
「美月に」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「うん」
「高瀬美月に」
「言って」
陽向は。
迷わず。
頷いた。
「分かった」
「……」
「絶対」
「美月に言う」
その返事。
それだけで。
十分だった。
今は。
◇◇◇
数日後。
陽向は。
ASTERのメンバーの一人と。
二人で。
仕事をしていた。
休憩中。
「なあ」
「何?」
陽向が。
妙に。
真剣な顔で。
聞く。
「プロポーズって」
「……」
相手が。
ゆっくり。
陽向を見る。
「誰がするの?」
「一般論!」
「一般論で」
「そんな真顔する?」
「いいから!」
「いつがいいと思う?」
「知らん」
「場所は?」
「知らん」
「指輪は?」
「自分で考えろ」
「冷た!」
そのメンバーは。
ため息をついた。
「お前」
「もう完全に」
「する気じゃん」
「……」
陽向が。
黙る。
「まだ」
「今すぐじゃない」
「うん」
「美月」
「やっと」
「子どもたちと」
「会えるようになったばっかだし」
「……」
「熱愛報道も」
「まだ」
「完全に落ち着いてない」
「うん」
「だから」
陽向は。
スマートフォンの。
写真を見る。
「ちゃんと」
「タイミングは」
「考えたい」
「……」
メンバーが。
少しだけ。
笑う。
「珍しいな」
「何が?」
「お前」
「勢いで」
「行きそうなのに」
「失礼だな!」
「でも」
相手が。
少し。
真面目になる。
「大事なんだろ」
陽向は。
写真の中の。
美月を見る。
「うん」
迷わなかった。
「めちゃくちゃ」
「じゃあ」
「焦んなきゃいい」
「……」
「結婚って」
「プロポーズした瞬間より」
「そのあと」
「長いんだから」
陽向が。
少し。
目を丸くする。
「……いいこと言うじゃん」
「俺を誰だと思ってんの?」
「分かんない」
「おい」
二人で。
笑った。
でも。
陽向の中には。
もう。
一つの。
はっきりした気持ちが。
あった。
いつか。
その日が。
来たら。
一ノ瀬紗良ではなく。
高瀬美月に。
ちゃんと。
言う。
◇◇◇
その夜。
私は。
鏡の前に。
立っていた。
映っているのは。
一ノ瀬紗良。
でも。
もう。
それだけではない。
この顔で。
泣いた。
笑った。
陽向を。
好きになった。
星に。
ママだと。
伝えた。
五人の子どもたちと。
もう一度。
繋がった。
そして。
今。
未来を。
考えている。
私は。
鏡の中の。
自分に。
小さく。
言った。
「高瀬美月」
以前なら。
違和感が。
あったかもしれない。
でも。
今は。
自然だった。
「三十四歳」
少し。
笑う。
「五人の子どものママ」
そして。
もう一つ。
「天城陽向の」
そこまで。
言って。
顔が。
熱くなる。
「……彼女」
まだ。
妻じゃない。
でも。
いつか。
そういう未来が。
来るかもしれない。
その可能性を。
怖がらずに。
想像できる。
それだけで。
私は。
少し。
幸せだった。
スマートフォンが。
震える。
陽向から。
『おやすみ、美月』
私は。
笑う。
『おやすみ、陽向』
送ったあと。
すぐ。
もう一通。
『ずっと一緒にいような』
胸が。
鳴った。
私は。
少しだけ。
迷って。
でも。
ちゃんと。
返した。
『うん。私もそうしたい』
送信。
今は。
それでいい。
約束でも。
契約でも。
ない。
ただ。
二人が。
同じ未来を。
見始めた。
それだけで。
十分。
そして。
陽向は。
まだ。
私に。
言わない。
あの日から。
ひそかに。
プロポーズの方法を。
本気で。
考え始めていることを。
その言葉を。
口にしてしまってから。
陽向は。
一人。
固まっていた。
「……」
スマートフォンには。
あの日の写真。
美月。
五人の子どもたち。
その父親。
そして。
自分。
「いや」
誰もいない楽屋で。
陽向は。
小さく首を振る。
「待て待て待て」
付き合って。
まだ。
そんなに長くない。
ようやく。
美月が。
子どもたちと。
もう一度。
繋がれたところ。
熱愛報道だって。
出たばかり。
今。
結婚なんて。
早い。
「……早いよな」
なのに。
写真を。
もう一度見る。
数年後。
この写真の中に。
自分が。
当たり前に。
いたら。
そう思う。
付き合いたい。
だけじゃない。
会いたい。
だけでもない。
帰る場所に。
なりたい。
美月が。
嬉しい日も。
しんどい日も。
子どもたちのことで。
泣いた日も。
仕事で。
悩んだ日も。
全部。
一番近くで。
聞きたい。
「……やっぱ」
陽向は。
額を。
机につけた。
「結婚したいんじゃん、俺」
自覚した瞬間。
余計に。
恥ずかしくなった。
◇◇◇
「陽向」
その日の夜。
私の部屋へ来た陽向は。
明らかに。
おかしかった。
「何?」
「……何が?」
「さっきから」
私は。
陽向を見る。
「私の左手ばっかり見てる」
「え!?」
分かりやすい。
「見てない!」
「見てる」
「見てない!」
「じゃあ」
左手を。
後ろに隠す。
陽向の目が。
追う。
「ほら」
「……」
「何?」
「別に」
怪しい。
ものすごく。
怪しい。
でも。
聞いても。
教えてくれなさそう。
私は。
それ以上。
追及しなかった。
「まあいいけど」
「うん」
陽向が。
妙に。
ほっとする。
本当に。
何なんだろう。
◇◇◇
その日は。
二人で。
夕飯を作った。
「玉ねぎお願い」
「俺?」
「他に誰がいるの?」
「美月」
「私ほかのことしてる」
「俺」
「玉ねぎ苦手なんだけど」
「知ってる」
「目痛い」
「頑張れ」
「彼氏に冷たくない?」
「料理中です」
いつもの。
時間。
くだらない。
やり取り。
でも。
陽向は。
何度も。
私を見ていた。
「……ねえ」
「何?」
「本当にどうしたの?」
「いや」
包丁を。
止める。
少し。
迷っている顔。
「美月って」
「うん」
「これから」
「どうなりたい?」
「え?」
急な。
質問。
「何?」
「人生」
「範囲広すぎない?」
「例えば」
陽向が。
少し。
言いにくそうにする。
「仕事とか」
「子どもたちとか」
「俺とか」
最後だけ。
声が。
小さい。
私は。
火を。
少し弱めた。
「そうだなあ」
考える。
以前だったら。
きっと。
子どもたちが。
幸せなら。
陽向が。
幸せなら。
そう。
答えていた。
でも。
今は。
違う。
「仕事は」
「うん」
「続けたい」
「うん」
「女優として」
「まだ」
「できること」
「いっぱいあると思うから」
陽向が。
嬉しそうに。
頷く。
「子どもたちは?」
「会える関係を」
「続けたい」
「……うん」
「前みたいに」
「毎日一緒には」
「いられないけど」
「それでも」
私は。
少し笑う。
「ママでいたい」
「うん」
「で」
陽向が。
少し。
緊張したように。
聞く。
「俺は?」
思わず。
笑った。
「一番聞きたかったのそこ?」
「違う!」
「顔に書いてある」
「書いてない!」
「ふふっ」
でも。
私は。
ちゃんと。
答える。
「陽向とは」
「うん」
「これからも」
「一緒にいたい」
陽向が。
静かになる。
「ずっと?」
「……」
その言葉。
少し。
重い。
でも。
嫌じゃない。
私は。
陽向を見る。
「うん」
「できれば」
「ずっと」
陽向が。
完全に。
黙った。
「陽向?」
「……ヤバい」
「何が?」
「いや」
玉ねぎを。
切りながら。
「目痛い」
「泣いてる?」
「玉ねぎ!」
「本当に?」
「玉ねぎだから!」
絶対。
違う気がする。
◇◇◇
夕飯のあと。
ソファで。
二人。
並んでいた。
陽向は。
まだ。
何か。
考えている。
「美月」
「何?」
「変なこと」
「聞いていい?」
「内容による」
「もし」
少し。
間。
「俺と」
「結婚するとしたら」
心臓が。
止まった。
「……」
陽向も。
言ったあとで。
固まる。
「いや!」
急に。
両手を振る。
「今のプロポーズじゃないから!」
「分かってる!」
私の顔も。
一気に。
熱くなる。
「仮定!」
「仮定ね!」
「そう!」
「うん!」
二人。
妙に。
大声。
しばらく。
沈黙。
「……で」
私が。
先に。
口を開く。
「何を」
「聞きたかったの?」
陽向が。
少し。
真面目な顔になる。
「名前」
「……名前?」
「もし」
「結婚することになったら」
陽向が。
ゆっくり。
言う。
「戸籍上は」
「一ノ瀬紗良だろ」
胸が。
少し。
痛んだ。
そう。
今。
社会の中に。
存在しているのは。
一ノ瀬紗良。
高瀬美月は。
死んだことに。
なっている。
「うん」
「だから」
陽向は。
言葉を。
選ぶ。
「俺と結婚したら」
「書類には」
「一ノ瀬紗良って」
「書くことになる」
「……うん」
「それ」
「美月は」
一度。
息を吸う。
「嫌じゃない?」
その質問に。
私は。
すぐには。
答えられなかった。
◇◇◇
一ノ瀬紗良。
この身体を。
生きた人。
陽向を。
ずっと好きだった人。
そして。
私に。
この人生を。
託してくれた人。
私は。
紗良を。
嫌いじゃない。
むしろ。
今は。
とても。
大切に思っている。
でも。
もし。
陽向と。
結婚する日が。
来たとして。
書類に。
『一ノ瀬紗良』
と。
書かれたら。
それは。
誰の結婚なんだろう。
「……ちょっと」
私は。
正直に言った。
「怖いかも」
「うん」
「だって」
自分の手を見る。
「陽向が」
「結婚する相手は」
「私なのに」
「うん」
「書類では」
「紗良になる」
「……」
「それ見たら」
「私」
一瞬。
言葉に詰まる。
「また」
「私は誰なんだろうって」
「思うかもしれない」
陽向は。
黙って。
聞いている。
「紗良が嫌だからじゃないよ」
「分かってる」
「うん」
「でも」
私は。
胸に手を置く。
「私は」
「高瀬美月として」
「陽向を好きになった」
「……うん」
「だから」
「もし」
声が。
少し。
震える。
「結婚するなら」
「高瀬美月として」
「結婚したい」
陽向の目が。
揺れた。
「……そっか」
「無理なのは」
「分かってるけど」
「いや」
陽向が。
すぐに。
首を振る。
「無理って」
「決めなくていい」
「でも」
「書類の名前が」
「紗良でも」
陽向が。
私の手を。
握る。
「俺が」
「プロポーズする相手は」
「高瀬美月だよ」
心臓が。
強く。
鳴った。
「……」
「結婚式するとしても」
「指輪渡すとしても」
「誓うとしても」
真っ直ぐ。
私を見る。
「俺が」
「一緒に生きたいって」
「言うのは」
「美月」
涙が。
滲んだ。
「陽向」
「俺」
少し。
笑う。
「そこ」
「絶対」
「間違えないから」
私は。
泣きながら。
笑った。
「……まだ」
「結婚するって」
「決まってないけどね」
「そう!」
陽向が。
一気に。
慌てる。
「仮定だから!」
「うん」
「今日のは」
「絶対」
「プロポーズじゃないからな!」
「分かったって」
「マジで!」
「しつこい」
「だって!」
陽向が。
頭を抱える。
「俺」
「ちゃんと」
「もっと」
「かっこよくしたいんだよ!」
「……」
私は。
止まった。
陽向も。
止まった。
「……何を?」
「……」
「陽向」
「……」
「今」
「ちゃんと」
「もっとかっこよく」
「何をするって?」
陽向が。
顔を。
真っ赤にする。
「知らない!」
「言ったよね?」
「言ってない!」
「言った!」
「美月!」
「何?」
「忘れて!」
「無理!」
「うわあああ!」
ソファへ。
突っ伏した。
私は。
声を上げて。
笑った。
◇◇◇
でも。
笑いながら。
胸の奥は。
ずっと。
温かかった。
結婚。
考えたこと。
なかった。
今の身体になって。
目を覚ましたころは。
今日を。
生きるだけで。
精一杯だった。
自分が。
誰なのか。
子どもたちに。
会えるのか。
陽向のそばに。
いていいのか。
そればかり。
考えていた。
でも。
いつの間にか。
未来を。
考えられるところまで。
来た。
一年後。
五年後。
十年後。
そこに。
陽向が。
いてほしいと。
思っている。
それが。
嬉しくて。
少し。
怖い。
◇◇◇
「ねえ」
しばらくして。
私は。
陽向へ。
声をかけた。
「何?」
まだ。
ソファに。
顔を埋めている。
「もし」
「……」
「いつか」
少し。
緊張する。
「本当に」
「プロポーズしてくれるなら」
陽向が。
ゆっくり。
顔を上げた。
私は。
笑う。
「一個だけ」
「お願いしていい?」
「……何?」
「紗良じゃなくて」
胸に。
手を置く。
「美月に」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「うん」
「高瀬美月に」
「言って」
陽向は。
迷わず。
頷いた。
「分かった」
「……」
「絶対」
「美月に言う」
その返事。
それだけで。
十分だった。
今は。
◇◇◇
数日後。
陽向は。
ASTERのメンバーの一人と。
二人で。
仕事をしていた。
休憩中。
「なあ」
「何?」
陽向が。
妙に。
真剣な顔で。
聞く。
「プロポーズって」
「……」
相手が。
ゆっくり。
陽向を見る。
「誰がするの?」
「一般論!」
「一般論で」
「そんな真顔する?」
「いいから!」
「いつがいいと思う?」
「知らん」
「場所は?」
「知らん」
「指輪は?」
「自分で考えろ」
「冷た!」
そのメンバーは。
ため息をついた。
「お前」
「もう完全に」
「する気じゃん」
「……」
陽向が。
黙る。
「まだ」
「今すぐじゃない」
「うん」
「美月」
「やっと」
「子どもたちと」
「会えるようになったばっかだし」
「……」
「熱愛報道も」
「まだ」
「完全に落ち着いてない」
「うん」
「だから」
陽向は。
スマートフォンの。
写真を見る。
「ちゃんと」
「タイミングは」
「考えたい」
「……」
メンバーが。
少しだけ。
笑う。
「珍しいな」
「何が?」
「お前」
「勢いで」
「行きそうなのに」
「失礼だな!」
「でも」
相手が。
少し。
真面目になる。
「大事なんだろ」
陽向は。
写真の中の。
美月を見る。
「うん」
迷わなかった。
「めちゃくちゃ」
「じゃあ」
「焦んなきゃいい」
「……」
「結婚って」
「プロポーズした瞬間より」
「そのあと」
「長いんだから」
陽向が。
少し。
目を丸くする。
「……いいこと言うじゃん」
「俺を誰だと思ってんの?」
「分かんない」
「おい」
二人で。
笑った。
でも。
陽向の中には。
もう。
一つの。
はっきりした気持ちが。
あった。
いつか。
その日が。
来たら。
一ノ瀬紗良ではなく。
高瀬美月に。
ちゃんと。
言う。
◇◇◇
その夜。
私は。
鏡の前に。
立っていた。
映っているのは。
一ノ瀬紗良。
でも。
もう。
それだけではない。
この顔で。
泣いた。
笑った。
陽向を。
好きになった。
星に。
ママだと。
伝えた。
五人の子どもたちと。
もう一度。
繋がった。
そして。
今。
未来を。
考えている。
私は。
鏡の中の。
自分に。
小さく。
言った。
「高瀬美月」
以前なら。
違和感が。
あったかもしれない。
でも。
今は。
自然だった。
「三十四歳」
少し。
笑う。
「五人の子どものママ」
そして。
もう一つ。
「天城陽向の」
そこまで。
言って。
顔が。
熱くなる。
「……彼女」
まだ。
妻じゃない。
でも。
いつか。
そういう未来が。
来るかもしれない。
その可能性を。
怖がらずに。
想像できる。
それだけで。
私は。
少し。
幸せだった。
スマートフォンが。
震える。
陽向から。
『おやすみ、美月』
私は。
笑う。
『おやすみ、陽向』
送ったあと。
すぐ。
もう一通。
『ずっと一緒にいような』
胸が。
鳴った。
私は。
少しだけ。
迷って。
でも。
ちゃんと。
返した。
『うん。私もそうしたい』
送信。
今は。
それでいい。
約束でも。
契約でも。
ない。
ただ。
二人が。
同じ未来を。
見始めた。
それだけで。
十分。
そして。
陽向は。
まだ。
私に。
言わない。
あの日から。
ひそかに。
プロポーズの方法を。
本気で。
考え始めていることを。



