『ママってなに?』
夫から届いた。
その一文が。
翌朝になっても。
頭から。
離れなかった。
「……」
目を覚まして。
最初に。
思い出す。
一番小さい子。
私が。
いなくなったとき。
まだ。
あまりにも幼かった。
毎日。
抱っこして。
ご飯を食べさせて。
眠くなったら。
胸に顔を埋めてきて。
泣いたら。
私のところへ。
来てくれていた。
私にとっては。
全部。
はっきり。
覚えている。
でも。
あの子にとっては。
違う。
幼い子どもの。
数年は。
あまりにも大きい。
私が。
いない時間のほうが。
少しずつ。
当たり前になっていった。
だから。
『ママってなに?』
悪気なんて。
ない。
私を。
忘れたかったわけでもない。
ただ。
覚えていない。
「……分かってる」
私は。
自分に言った。
分かってる。
でも。
「……寂しい」
涙が。
一滴。
落ちた。
◇◇◇
その日の昼。
陽向から。
電話が来た。
『起きてた?』
「もうお昼だよ」
『いや』
少し。
言いにくそうな声。
『ちゃんと寝れたかなって』
「……寝たよ」
『そっか』
「うん」
沈黙。
陽向は。
きっと。
私から。
話すのを待っている。
だから。
私は。
言った。
「朝も」
『うん』
「やっぱり」
「考えちゃった」
『昨日の?』
「うん」
私は。
ソファの上で。
膝を抱える。
「忘れられてるんだなって」
『……うん』
「私ね」
「頭では」
「仕方ないって分かってる」
『うん』
「小さかったし」
「私がいなくなってから」
「時間も経ってるし」
『うん』
「でも」
声が。
震える。
「私は」
「全部覚えてるから」
『……』
「初めて抱っこしたときも」
「寝かしつけたときも」
「泣き止まなくて」
「一緒に泣きたくなった日も」
「全部」
涙が。
落ちる。
「私の中には」
「ちゃんとあるのに」
『うん』
「向こうには」
「ないんだって思ったら」
「……」
「寂しい」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
『美月』
「うん」
『思い出してもらわなくても』
「……え?」
『いいんじゃない?』
胸が。
少し。
ざわつく。
「どういうこと?」
『だって』
陽向が。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
『その子にとって』
『昔の美月を思い出すのが難しいなら』
「……」
『今の美月を』
『新しく知ってもらえばいいじゃん』
私は。
何も言えなかった。
『美月は』
『前と同じママに戻らなきゃって』
『思ってない?』
「……」
思っていた。
あの子が。
私の抱き方を。
思い出して。
ママ。
って。
呼んでくれる。
そんな。
再会を。
どこかで。
期待していた。
「……思ってた」
『そっか』
「うん」
『でも』
陽向が。
少し笑う。
『初対面でも』
『これから好きになってもらえるじゃん』
「……」
『ママとして』
「でも」
思わず。
言う。
「覚えてないのに」
『覚えてなくても』
陽向は。
すぐに返した。
『美月がその子のママだったことは』
『消えないでしょ』
胸が。
止まりそうになる。
「……うん」
『で』
『これからまた』
『ママになってけばいい』
涙が。
また。
溢れた。
「……陽向」
『何?』
「それ」
「すごいね」
『俺が?』
「うん」
『もっと褒めて』
「今ので終わり」
『短っ!』
思わず。
笑った。
でも。
胸の中。
昨日までとは。
少し。
違っていた。
思い出してもらう。
じゃない。
これから。
知ってもらう。
私は。
もう一度。
この子の。
ママになればいい。
◇◇◇
数日後。
夫から。
連絡が来た。
『一番下の子やけど』
胸が。
大きく鳴る。
『一ノ瀬紗良さんの写真見せた』
「……」
どうだった?
聞くのが。
怖い。
続けて。
メッセージ。
『「この人がママ?」って聞いとった』
私は。
スマートフォンを。
握りしめた。
そして。
さらに。
『会ってみる?って聞いたら』
一度。
息を止める。
『「お菓子くれる?」って』
「……」
数秒。
固まった。
そして。
「ふふっ」
笑ってしまった。
涙まで。
出てくる。
もう。
なんだろう。
こんなに。
怖がっていたのに。
本人は。
お菓子。
「……そうだよね」
まだ。
小さいんだもん。
ママが。
どうとか。
魂が。
どうとか。
そんな。
複雑なことより。
『知らない人に会う』
くらいの。
感覚なのかもしれない。
私は。
夫へ。
返した。
『あげるよ(笑)』
しばらくして。
『じゃあ会うって』
「……」
会える。
とうとう。
一番小さい子に。
会える。
嬉しい。
でも。
今度は。
少しだけ。
考え方を変える。
ママって。
分かってもらおうとしなくていい。
抱きしめてもらおうと。
しなくていい。
まず。
会う。
それでいい。
◇◇◇
当日。
私は。
小さな。
焼き菓子の袋を持って。
待ち合わせ場所へ向かった。
本当は。
好きだったお菓子を。
買いたかった。
でも。
やめた。
昔。
好きだったものと。
今。
好きなものが。
同じとは限らない。
私は。
あの子が。
今。
何を好きなのか。
知らない。
その事実も。
少し。
寂しい。
でも。
これから。
知ればいい。
「……よし」
私は。
扉の前で。
深呼吸した。
そして。
中へ入る。
「……」
夫がいる。
その隣。
小さな子。
私を見た。
じーっと。
見ている。
警戒しているというより。
不思議そう。
私は。
足を止めた。
大きくなった。
本当に。
大きくなった。
私の中では。
まだ。
抱き上げれば。
腕の中に収まっていた。
あの子。
でも。
今は。
自分の足で立って。
私を。
知らない人を見る目で。
見ている。
涙が。
出そうになる。
でも。
私は。
笑った。
「こんにちは」
その子は。
少し。
夫の後ろへ。
隠れた。
そして。
小さな声で。
「……こんにちは」
「うん」
それだけで。
十分。
「これ」
私は。
持っていた袋を見せる。
「約束のお菓子」
目が。
少し。
輝いた。
「ぼくの?」
「うん」
「全部?」
「全部は今日食べないよ」
反射的に。
言った。
「……」
夫が。
私を見る。
私も。
気づく。
初対面なのに。
もう。
母親。
してしまった。
その子は。
少し。
眉を寄せた。
「なんで?」
「お腹痛くなるから」
「ならん」
「なります」
「ならんもん」
「なったら困るでしょ」
「……」
夫が。
とうとう。
小さく笑った。
「何?」
私が。
見ると。
首を振る。
「いや」
「もう」
少し。
笑う。
「美月やなと思って」
「……」
その子が。
私を見る。
「みづき?」
心臓が。
大きく鳴った。
「うん」
私は。
しゃがむ。
「美月」
自分の胸に。
手を当てる。
「私の名前」
「さらじゃないの?」
「……」
夫から。
聞いていたんだ。
「今は」
少し迷う。
どう説明する?
難しい話は。
まだいらない。
「みんなには」
「紗良って呼ばれてる」
「ふーん」
「でも」
私は。
笑う。
「本当の名前は」
「美月」
その子が。
じっと。
私を見る。
「ママ?」
胸が。
締めつけられた。
でも。
私は。
すぐに。
『そうだよ』
とは。
言わなかった。
「うん」
少し。
間を置く。
「あなたを」
「産んだママ」
その子が。
首を傾げる。
「うんだ?」
「お腹の中に」
私は。
自分のお腹を。
指差す。
「ずっといたの」
「ぼくが?」
「うん」
「ここに?」
「うん」
「せまい」
思わず。
笑ってしまった。
「狭かったと思うよ」
「ぼく」
「おおきかった?」
「生まれたときは」
両手で。
大きさを。
作る。
「これくらい」
「ちっちゃ!」
「ちっちゃかったよ」
「ほんと?」
「ほんと」
その子が。
少し。
笑った。
それを見た瞬間。
胸が。
いっぱいになる。
ああ。
笑う顔。
こんなふうに。
なったんだ。
◇◇◇
三人で。
席に座った。
お菓子を。
一つだけ。
渡す。
「これ好き?」
「うん」
「そっか」
私は。
嬉しくなる。
一つ。
分かった。
今。
好きなもの。
「他に」
聞きたくなる。
でも。
質問攻めに。
しない。
その子が。
お菓子を食べる。
私は。
ただ。
見ていた。
すると。
「なに?」
「え?」
「なんで」
「ぼく見とるん?」
「……」
また。
やってしまった。
ずっと。
子どもを。
見てしまう。
「可愛いなって」
「……」
その子が。
きょとんとする。
「ぼくが?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって」
私は。
少し笑う。
「可愛いから」
「……」
その子は。
照れたのか。
お菓子へ。
視線を戻した。
その仕草まで。
愛しい。
「ねえ」
今度は。
向こうから。
聞かれた。
「うん?」
「ママって」
胸が。
鳴る。
「なにするひと?」
私は。
すぐには。
答えられなかった。
何をする人。
ご飯を作る人?
抱っこする人?
お世話する人?
叱る人?
どれも。
そう。
でも。
どれも。
全部じゃない。
私は。
少し考えて。
言った。
「あなたのこと」
「?」
「ずっと」
胸に。
手を当てる。
「大好きな人」
その子が。
不思議そうな顔。
「ぼくのこと?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
「いまも?」
「今も」
「なんで?」
涙が。
出そうになる。
理由なんて。
ない。
「ママだから」
「……」
その子が。
また。
首を傾げる。
きっと。
まだ。
分からない。
それでいい。
私は。
笑った。
「でもね」
「うん」
「今は」
「ママって呼ばなくてもいいよ」
夫が。
少し。
私を見る。
「なんで?」
「だって」
私は。
その子を見る。
「まだ」
「私のこと」
「よく知らないでしょ?」
「うん」
迷いのない。
返事。
ちょっと。
胸に刺さる。
でも。
笑える。
「だから」
「これから」
「いっぱい」
「知ってくれたらいい」
「……」
「私も」
少し。
声が震える。
「今のあなたのこと」
「いっぱい知りたい」
その子が。
お菓子を。
一口。
食べる。
「いいよ」
「……いいの?」
「うん」
「じゃあ」
私は。
笑う。
「今」
「何が一番好き?」
「ゲーム」
即答。
「食べ物は?」
「からあげ」
「色は?」
少し考える。
答えてくれる。
一つ。
また一つ。
私の知らない。
今のこの子が。
増えていく。
それが。
寂しいんじゃなく。
嬉しかった。
◇◇◇
しばらくして。
その子が。
私のバッグを。
指差した。
「それなに?」
「これ?」
小さな。
キーホルダー。
陽向が。
前に。
買ってくれたもの。
「可愛いでしょ」
「うん」
「好き?」
「さわっていい?」
「いいよ」
私は。
バッグを。
少し近くへ。
寄せた。
その子が。
キーホルダーに。
手を伸ばす。
その拍子に。
私との距離が。
ほんの少し。
縮まる。
「……」
近い。
触れたい。
頭を。
撫でたい。
でも。
我慢する。
まだ。
私からは。
触らない。
すると。
突然。
その子が。
私の手を。
掴んだ。
「……っ」
身体が。
固まる。
本人は。
何も。
気にしていない。
キーホルダーを。
見やすくするため。
ただ。
私の手を。
動かしただけ。
それでも。
私は。
泣きそうになった。
久しぶりに。
触れた。
小さな手。
「どうしたん?」
その子が。
私を見る。
「……ううん」
私は。
笑った。
「何でもない」
「泣いとる?」
「ちょっと」
「なんで?」
「嬉しかったから」
「なんで?」
本当に。
なんでばっかり。
でも。
それも。
可愛い。
「手」
「?」
「繋いでくれたから」
その子は。
自分の手を見る。
それから。
私を見る。
「これ?」
もう一度。
ぎゅっと。
私の手を。
握った。
「……うん」
涙が。
落ちた。
「これ」
「嬉しい?」
「すごく」
その子が。
少し。
面白そうに。
笑う。
そして。
何度も。
私の手を。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
と。
握る。
「いっぱい嬉しい?」
「ふふっ」
私は。
涙を拭う。
「いっぱい嬉しい」
「じゃあ」
ぎゅっ。
「これで?」
「うん」
ぎゅっ。
「これも?」
「うん」
「ふふっ」
楽しそうに。
笑っている。
ただ。
それだけ。
ママを。
思い出したわけじゃない。
抱きしめてくれたわけでも。
ない。
でも。
今。
この子は。
私と。
遊んでいる。
それで。
いい。
◇◇◇
帰る時間になった。
「じゃあ」
私は。
立ち上がる。
「今日は」
「会ってくれてありがとう」
その子も。
夫の隣に。
立つ。
「おかし」
「うん?」
「またくれる?」
「会うたびに」
「お菓子目当て?」
「うん」
即答。
夫が。
笑う。
私も。
笑った。
「じゃあ」
「お菓子なくても」
「会いたいって」
「思ってもらえるように」
「ママ頑張る」
その子が。
また。
首を傾げる。
「ママ?」
「あ」
私は。
少し笑う。
「美月」
「みづき」
「うん」
「みづき」
その名前。
子どもの口から。
呼ばれる。
胸が。
少し。
痛くて。
でも。
嬉しい。
「なに?」
「またね」
「……」
私は。
笑った。
「うん」
「またね」
夫と。
その子が。
歩いていく。
そして。
数歩。
行ったところで。
その子が。
急に。
振り返った。
「みづき!」
「何?」
「こんど」
少し考えて。
「ゲームしよ!」
胸が。
いっぱいになる。
「うん!」
私は。
大きく。
頷いた。
「しよう!」
「やった!」
そのまま。
走って。
夫のところへ。
戻る。
私は。
見えなくなるまで。
ずっと。
手を振った。
◇◇◇
帰宅して。
陽向に。
電話をした。
『どうだった?』
「ママって」
『うん』
「呼ばれなかった」
『そっか』
「美月って」
「呼ばれた」
『……うん』
「でもね」
私は。
笑う。
「手」
「繋いでくれた」
『マジ?』
「うん」
「何回も」
『そっか』
陽向の声が。
嬉しそう。
「それから」
「次」
「ゲームしようって」
『いいじゃん!』
「うん」
私は。
ソファに。
座る。
「私ね」
「今日」
「分かった」
『何が?』
「ママって」
「呼んでもらうことが」
「ゴールじゃないんだね」
『うん』
「この子は」
「私を覚えてない」
「……」
「だから」
少し。
涙が滲む。
「思い出させようとするんじゃなくて」
「今から」
「関係作ればいいんだって」
『うん』
「美月から始まっても」
『うん』
「いつか」
私は。
少し笑う。
「この人」
「好きだなって」
「思ってくれたら」
「それでいい」
陽向が。
静かに。
言った。
『それ』
『もうママじゃん』
「え?」
『自分をママって呼ばせることより』
『その子が安心して近づけること』
『考えてる』
「……」
『めっちゃママ』
涙が。
溢れた。
「……そっか」
『うん』
「じゃあ」
私は。
涙を拭う。
「急がない」
『うん』
「何回でも」
「会う」
『うん』
「遊んで」
「話して」
「今のあの子を」
「知る」
『うん』
「それで」
私は。
胸に手を当てる。
「もう一回」
「ママになる」
◇◇◇
その日の夜。
夫から。
一枚の写真が。
届いた。
今日。
私が渡した。
焼き菓子の袋。
その横で。
一番小さい子が。
笑っている。
そして。
メッセージ。
『帰ってから』
『「みづき、また来る?」って聞いとる』
「……」
涙が。
ぽろっと。
落ちた。
まだ。
ママじゃない。
でも。
また。
会いたいと。
思ってくれている。
それだけで。
十分。
私は。
返信する。
『行くよ』
迷わず。
続けた。
『何回でも会いに行く』
送信。
そして。
スマートフォンを。
胸に抱く。
あの日。
生まれたばかりの。
小さな身体を。
初めて抱いたとき。
私は。
心の中で。
言った。
――初めまして。
――ママだよ。
そして今。
もう一度。
同じ場所から。
始める。
顔も違う。
声も違う。
覚えても。
もらえていない。
それでも。
私は。
この子の母親。
だから。
焦らない。
押しつけない。
何度でも。
会って。
何度でも。
笑って。
少しずつ。
この子の。
安心できる人に。
なっていこう。
――初めまして。
――美月だよ。
そして。
いつか。
あなた自身が。
そう呼びたくなった日に。
もう一度。
言わせてね。
――ママだよ。
夫から届いた。
その一文が。
翌朝になっても。
頭から。
離れなかった。
「……」
目を覚まして。
最初に。
思い出す。
一番小さい子。
私が。
いなくなったとき。
まだ。
あまりにも幼かった。
毎日。
抱っこして。
ご飯を食べさせて。
眠くなったら。
胸に顔を埋めてきて。
泣いたら。
私のところへ。
来てくれていた。
私にとっては。
全部。
はっきり。
覚えている。
でも。
あの子にとっては。
違う。
幼い子どもの。
数年は。
あまりにも大きい。
私が。
いない時間のほうが。
少しずつ。
当たり前になっていった。
だから。
『ママってなに?』
悪気なんて。
ない。
私を。
忘れたかったわけでもない。
ただ。
覚えていない。
「……分かってる」
私は。
自分に言った。
分かってる。
でも。
「……寂しい」
涙が。
一滴。
落ちた。
◇◇◇
その日の昼。
陽向から。
電話が来た。
『起きてた?』
「もうお昼だよ」
『いや』
少し。
言いにくそうな声。
『ちゃんと寝れたかなって』
「……寝たよ」
『そっか』
「うん」
沈黙。
陽向は。
きっと。
私から。
話すのを待っている。
だから。
私は。
言った。
「朝も」
『うん』
「やっぱり」
「考えちゃった」
『昨日の?』
「うん」
私は。
ソファの上で。
膝を抱える。
「忘れられてるんだなって」
『……うん』
「私ね」
「頭では」
「仕方ないって分かってる」
『うん』
「小さかったし」
「私がいなくなってから」
「時間も経ってるし」
『うん』
「でも」
声が。
震える。
「私は」
「全部覚えてるから」
『……』
「初めて抱っこしたときも」
「寝かしつけたときも」
「泣き止まなくて」
「一緒に泣きたくなった日も」
「全部」
涙が。
落ちる。
「私の中には」
「ちゃんとあるのに」
『うん』
「向こうには」
「ないんだって思ったら」
「……」
「寂しい」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
そして。
『美月』
「うん」
『思い出してもらわなくても』
「……え?」
『いいんじゃない?』
胸が。
少し。
ざわつく。
「どういうこと?」
『だって』
陽向が。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
『その子にとって』
『昔の美月を思い出すのが難しいなら』
「……」
『今の美月を』
『新しく知ってもらえばいいじゃん』
私は。
何も言えなかった。
『美月は』
『前と同じママに戻らなきゃって』
『思ってない?』
「……」
思っていた。
あの子が。
私の抱き方を。
思い出して。
ママ。
って。
呼んでくれる。
そんな。
再会を。
どこかで。
期待していた。
「……思ってた」
『そっか』
「うん」
『でも』
陽向が。
少し笑う。
『初対面でも』
『これから好きになってもらえるじゃん』
「……」
『ママとして』
「でも」
思わず。
言う。
「覚えてないのに」
『覚えてなくても』
陽向は。
すぐに返した。
『美月がその子のママだったことは』
『消えないでしょ』
胸が。
止まりそうになる。
「……うん」
『で』
『これからまた』
『ママになってけばいい』
涙が。
また。
溢れた。
「……陽向」
『何?』
「それ」
「すごいね」
『俺が?』
「うん」
『もっと褒めて』
「今ので終わり」
『短っ!』
思わず。
笑った。
でも。
胸の中。
昨日までとは。
少し。
違っていた。
思い出してもらう。
じゃない。
これから。
知ってもらう。
私は。
もう一度。
この子の。
ママになればいい。
◇◇◇
数日後。
夫から。
連絡が来た。
『一番下の子やけど』
胸が。
大きく鳴る。
『一ノ瀬紗良さんの写真見せた』
「……」
どうだった?
聞くのが。
怖い。
続けて。
メッセージ。
『「この人がママ?」って聞いとった』
私は。
スマートフォンを。
握りしめた。
そして。
さらに。
『会ってみる?って聞いたら』
一度。
息を止める。
『「お菓子くれる?」って』
「……」
数秒。
固まった。
そして。
「ふふっ」
笑ってしまった。
涙まで。
出てくる。
もう。
なんだろう。
こんなに。
怖がっていたのに。
本人は。
お菓子。
「……そうだよね」
まだ。
小さいんだもん。
ママが。
どうとか。
魂が。
どうとか。
そんな。
複雑なことより。
『知らない人に会う』
くらいの。
感覚なのかもしれない。
私は。
夫へ。
返した。
『あげるよ(笑)』
しばらくして。
『じゃあ会うって』
「……」
会える。
とうとう。
一番小さい子に。
会える。
嬉しい。
でも。
今度は。
少しだけ。
考え方を変える。
ママって。
分かってもらおうとしなくていい。
抱きしめてもらおうと。
しなくていい。
まず。
会う。
それでいい。
◇◇◇
当日。
私は。
小さな。
焼き菓子の袋を持って。
待ち合わせ場所へ向かった。
本当は。
好きだったお菓子を。
買いたかった。
でも。
やめた。
昔。
好きだったものと。
今。
好きなものが。
同じとは限らない。
私は。
あの子が。
今。
何を好きなのか。
知らない。
その事実も。
少し。
寂しい。
でも。
これから。
知ればいい。
「……よし」
私は。
扉の前で。
深呼吸した。
そして。
中へ入る。
「……」
夫がいる。
その隣。
小さな子。
私を見た。
じーっと。
見ている。
警戒しているというより。
不思議そう。
私は。
足を止めた。
大きくなった。
本当に。
大きくなった。
私の中では。
まだ。
抱き上げれば。
腕の中に収まっていた。
あの子。
でも。
今は。
自分の足で立って。
私を。
知らない人を見る目で。
見ている。
涙が。
出そうになる。
でも。
私は。
笑った。
「こんにちは」
その子は。
少し。
夫の後ろへ。
隠れた。
そして。
小さな声で。
「……こんにちは」
「うん」
それだけで。
十分。
「これ」
私は。
持っていた袋を見せる。
「約束のお菓子」
目が。
少し。
輝いた。
「ぼくの?」
「うん」
「全部?」
「全部は今日食べないよ」
反射的に。
言った。
「……」
夫が。
私を見る。
私も。
気づく。
初対面なのに。
もう。
母親。
してしまった。
その子は。
少し。
眉を寄せた。
「なんで?」
「お腹痛くなるから」
「ならん」
「なります」
「ならんもん」
「なったら困るでしょ」
「……」
夫が。
とうとう。
小さく笑った。
「何?」
私が。
見ると。
首を振る。
「いや」
「もう」
少し。
笑う。
「美月やなと思って」
「……」
その子が。
私を見る。
「みづき?」
心臓が。
大きく鳴った。
「うん」
私は。
しゃがむ。
「美月」
自分の胸に。
手を当てる。
「私の名前」
「さらじゃないの?」
「……」
夫から。
聞いていたんだ。
「今は」
少し迷う。
どう説明する?
難しい話は。
まだいらない。
「みんなには」
「紗良って呼ばれてる」
「ふーん」
「でも」
私は。
笑う。
「本当の名前は」
「美月」
その子が。
じっと。
私を見る。
「ママ?」
胸が。
締めつけられた。
でも。
私は。
すぐに。
『そうだよ』
とは。
言わなかった。
「うん」
少し。
間を置く。
「あなたを」
「産んだママ」
その子が。
首を傾げる。
「うんだ?」
「お腹の中に」
私は。
自分のお腹を。
指差す。
「ずっといたの」
「ぼくが?」
「うん」
「ここに?」
「うん」
「せまい」
思わず。
笑ってしまった。
「狭かったと思うよ」
「ぼく」
「おおきかった?」
「生まれたときは」
両手で。
大きさを。
作る。
「これくらい」
「ちっちゃ!」
「ちっちゃかったよ」
「ほんと?」
「ほんと」
その子が。
少し。
笑った。
それを見た瞬間。
胸が。
いっぱいになる。
ああ。
笑う顔。
こんなふうに。
なったんだ。
◇◇◇
三人で。
席に座った。
お菓子を。
一つだけ。
渡す。
「これ好き?」
「うん」
「そっか」
私は。
嬉しくなる。
一つ。
分かった。
今。
好きなもの。
「他に」
聞きたくなる。
でも。
質問攻めに。
しない。
その子が。
お菓子を食べる。
私は。
ただ。
見ていた。
すると。
「なに?」
「え?」
「なんで」
「ぼく見とるん?」
「……」
また。
やってしまった。
ずっと。
子どもを。
見てしまう。
「可愛いなって」
「……」
その子が。
きょとんとする。
「ぼくが?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって」
私は。
少し笑う。
「可愛いから」
「……」
その子は。
照れたのか。
お菓子へ。
視線を戻した。
その仕草まで。
愛しい。
「ねえ」
今度は。
向こうから。
聞かれた。
「うん?」
「ママって」
胸が。
鳴る。
「なにするひと?」
私は。
すぐには。
答えられなかった。
何をする人。
ご飯を作る人?
抱っこする人?
お世話する人?
叱る人?
どれも。
そう。
でも。
どれも。
全部じゃない。
私は。
少し考えて。
言った。
「あなたのこと」
「?」
「ずっと」
胸に。
手を当てる。
「大好きな人」
その子が。
不思議そうな顔。
「ぼくのこと?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
「いまも?」
「今も」
「なんで?」
涙が。
出そうになる。
理由なんて。
ない。
「ママだから」
「……」
その子が。
また。
首を傾げる。
きっと。
まだ。
分からない。
それでいい。
私は。
笑った。
「でもね」
「うん」
「今は」
「ママって呼ばなくてもいいよ」
夫が。
少し。
私を見る。
「なんで?」
「だって」
私は。
その子を見る。
「まだ」
「私のこと」
「よく知らないでしょ?」
「うん」
迷いのない。
返事。
ちょっと。
胸に刺さる。
でも。
笑える。
「だから」
「これから」
「いっぱい」
「知ってくれたらいい」
「……」
「私も」
少し。
声が震える。
「今のあなたのこと」
「いっぱい知りたい」
その子が。
お菓子を。
一口。
食べる。
「いいよ」
「……いいの?」
「うん」
「じゃあ」
私は。
笑う。
「今」
「何が一番好き?」
「ゲーム」
即答。
「食べ物は?」
「からあげ」
「色は?」
少し考える。
答えてくれる。
一つ。
また一つ。
私の知らない。
今のこの子が。
増えていく。
それが。
寂しいんじゃなく。
嬉しかった。
◇◇◇
しばらくして。
その子が。
私のバッグを。
指差した。
「それなに?」
「これ?」
小さな。
キーホルダー。
陽向が。
前に。
買ってくれたもの。
「可愛いでしょ」
「うん」
「好き?」
「さわっていい?」
「いいよ」
私は。
バッグを。
少し近くへ。
寄せた。
その子が。
キーホルダーに。
手を伸ばす。
その拍子に。
私との距離が。
ほんの少し。
縮まる。
「……」
近い。
触れたい。
頭を。
撫でたい。
でも。
我慢する。
まだ。
私からは。
触らない。
すると。
突然。
その子が。
私の手を。
掴んだ。
「……っ」
身体が。
固まる。
本人は。
何も。
気にしていない。
キーホルダーを。
見やすくするため。
ただ。
私の手を。
動かしただけ。
それでも。
私は。
泣きそうになった。
久しぶりに。
触れた。
小さな手。
「どうしたん?」
その子が。
私を見る。
「……ううん」
私は。
笑った。
「何でもない」
「泣いとる?」
「ちょっと」
「なんで?」
「嬉しかったから」
「なんで?」
本当に。
なんでばっかり。
でも。
それも。
可愛い。
「手」
「?」
「繋いでくれたから」
その子は。
自分の手を見る。
それから。
私を見る。
「これ?」
もう一度。
ぎゅっと。
私の手を。
握った。
「……うん」
涙が。
落ちた。
「これ」
「嬉しい?」
「すごく」
その子が。
少し。
面白そうに。
笑う。
そして。
何度も。
私の手を。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
と。
握る。
「いっぱい嬉しい?」
「ふふっ」
私は。
涙を拭う。
「いっぱい嬉しい」
「じゃあ」
ぎゅっ。
「これで?」
「うん」
ぎゅっ。
「これも?」
「うん」
「ふふっ」
楽しそうに。
笑っている。
ただ。
それだけ。
ママを。
思い出したわけじゃない。
抱きしめてくれたわけでも。
ない。
でも。
今。
この子は。
私と。
遊んでいる。
それで。
いい。
◇◇◇
帰る時間になった。
「じゃあ」
私は。
立ち上がる。
「今日は」
「会ってくれてありがとう」
その子も。
夫の隣に。
立つ。
「おかし」
「うん?」
「またくれる?」
「会うたびに」
「お菓子目当て?」
「うん」
即答。
夫が。
笑う。
私も。
笑った。
「じゃあ」
「お菓子なくても」
「会いたいって」
「思ってもらえるように」
「ママ頑張る」
その子が。
また。
首を傾げる。
「ママ?」
「あ」
私は。
少し笑う。
「美月」
「みづき」
「うん」
「みづき」
その名前。
子どもの口から。
呼ばれる。
胸が。
少し。
痛くて。
でも。
嬉しい。
「なに?」
「またね」
「……」
私は。
笑った。
「うん」
「またね」
夫と。
その子が。
歩いていく。
そして。
数歩。
行ったところで。
その子が。
急に。
振り返った。
「みづき!」
「何?」
「こんど」
少し考えて。
「ゲームしよ!」
胸が。
いっぱいになる。
「うん!」
私は。
大きく。
頷いた。
「しよう!」
「やった!」
そのまま。
走って。
夫のところへ。
戻る。
私は。
見えなくなるまで。
ずっと。
手を振った。
◇◇◇
帰宅して。
陽向に。
電話をした。
『どうだった?』
「ママって」
『うん』
「呼ばれなかった」
『そっか』
「美月って」
「呼ばれた」
『……うん』
「でもね」
私は。
笑う。
「手」
「繋いでくれた」
『マジ?』
「うん」
「何回も」
『そっか』
陽向の声が。
嬉しそう。
「それから」
「次」
「ゲームしようって」
『いいじゃん!』
「うん」
私は。
ソファに。
座る。
「私ね」
「今日」
「分かった」
『何が?』
「ママって」
「呼んでもらうことが」
「ゴールじゃないんだね」
『うん』
「この子は」
「私を覚えてない」
「……」
「だから」
少し。
涙が滲む。
「思い出させようとするんじゃなくて」
「今から」
「関係作ればいいんだって」
『うん』
「美月から始まっても」
『うん』
「いつか」
私は。
少し笑う。
「この人」
「好きだなって」
「思ってくれたら」
「それでいい」
陽向が。
静かに。
言った。
『それ』
『もうママじゃん』
「え?」
『自分をママって呼ばせることより』
『その子が安心して近づけること』
『考えてる』
「……」
『めっちゃママ』
涙が。
溢れた。
「……そっか」
『うん』
「じゃあ」
私は。
涙を拭う。
「急がない」
『うん』
「何回でも」
「会う」
『うん』
「遊んで」
「話して」
「今のあの子を」
「知る」
『うん』
「それで」
私は。
胸に手を当てる。
「もう一回」
「ママになる」
◇◇◇
その日の夜。
夫から。
一枚の写真が。
届いた。
今日。
私が渡した。
焼き菓子の袋。
その横で。
一番小さい子が。
笑っている。
そして。
メッセージ。
『帰ってから』
『「みづき、また来る?」って聞いとる』
「……」
涙が。
ぽろっと。
落ちた。
まだ。
ママじゃない。
でも。
また。
会いたいと。
思ってくれている。
それだけで。
十分。
私は。
返信する。
『行くよ』
迷わず。
続けた。
『何回でも会いに行く』
送信。
そして。
スマートフォンを。
胸に抱く。
あの日。
生まれたばかりの。
小さな身体を。
初めて抱いたとき。
私は。
心の中で。
言った。
――初めまして。
――ママだよ。
そして今。
もう一度。
同じ場所から。
始める。
顔も違う。
声も違う。
覚えても。
もらえていない。
それでも。
私は。
この子の母親。
だから。
焦らない。
押しつけない。
何度でも。
会って。
何度でも。
笑って。
少しずつ。
この子の。
安心できる人に。
なっていこう。
――初めまして。
――美月だよ。
そして。
いつか。
あなた自身が。
そう呼びたくなった日に。
もう一度。
言わせてね。
――ママだよ。



