夫から。
『一人、会ってみたいって言い出した』
そう連絡が来た。
その翌日。
私は。
朝から。
落ち着かなかった。
前に会った子は。
自分から。
確かめたいと。
来てくれた。
でも。
今度の子は。
少し違うらしい。
『ママかもしれないなら会いたい』
そう言ったあと。
すぐに。
『でも怖い』
とも。
言ったという。
その気持ち。
当たり前だと思う。
私だって。
鏡の中に。
知らない顔が映ったとき。
怖かった。
その知らない顔の人が。
突然。
『ママだよ』
なんて。
現れる。
子どもからすれば。
もっと。
怖いかもしれない。
「……無理させたくないな」
スマートフォンを。
握りながら呟く。
すると。
陽向から。
メッセージが届いた。
『今日だよな?』
『うん』
『緊張してる?』
私は。
少し考えて。
『してる』
と送る。
すぐ。
『そっか』
それだけ。
以前なら。
『大丈夫』
とか。
『絶対うまくいく』
とか。
言ってほしかったかもしれない。
でも。
今は。
分かる。
陽向が。
簡単に。
大丈夫と言わない理由。
まだ。
分からないから。
代わりに。
少しして。
もう一通。
『終わったら話聞く』
胸が。
温かくなった。
『うん』
私は。
そう返した。
◇◇◇
待ち合わせは。
前と同じように。
人目の少ない場所。
夫から。
『着いた』
と連絡が来る。
私は。
大きく。
息を吸った。
そして。
扉を開けた。
「……」
夫の隣。
小さな身体が。
ぴったりと。
夫にくっついている。
私を見るなり。
一歩。
後ろへ。
下がった。
胸が。
痛む。
でも。
私は。
近づかなかった。
「こんにちは」
なるべく。
優しく。
声をかける。
返事は。
ない。
夫が。
小さく。
「大丈夫」
と。
声をかける。
その子は。
私を。
じっと見たまま。
「……ママじゃない」
小さく。
言った。
「うん」
私は。
頷いた。
夫が。
私を見る。
でも。
私は。
続けた。
「顔はね」
「ママじゃないよね」
その子の目が。
少し。
揺れる。
「ママの顔」
「違うもん」
「うん」
「声も」
「違う」
「うん」
「だから」
私は。
しゃがんだ。
少しでも。
目線を。
近くする。
でも。
距離は。
縮めない。
「怖かったら」
「近くに来なくていいよ」
「……」
「今日は」
「見るだけでもいい」
「……」
「帰りたくなったら」
「帰っていいよ」
夫が。
少し。
驚いた顔をした。
きっと。
以前の私なら。
ここまで来たんだから。
少しは。
話してほしい。
そんなふうに。
焦ったかもしれない。
でも。
今は。
この子の気持ちを。
先にしたい。
その子は。
しばらく。
私を見ていた。
そして。
「……ほんまに?」
「うん」
「帰っても?」
「うん」
私は。
笑った。
「ママは」
一瞬。
その言葉を。
使っていいのか。
迷う。
でも。
続けた。
「会いに来てくれただけで」
「嬉しいから」
「……」
その子が。
夫の服を。
ぎゅっと掴んだ。
◇◇◇
三人で。
少し離れて。
座った。
私は。
何も。
聞かなかった。
学校どう?
元気だった?
ご飯食べた?
聞きたいことは。
いっぱいある。
でも。
今は。
質問される側でいい。
しばらくして。
その子が。
小さく。
口を開いた。
「……ほんまに」
「うん?」
「ママなら」
「うん」
「僕の」
少し。
考える。
「好きな食べ物」
「知っとる?」
胸が。
きゅっとする。
「知ってるよ」
答えると。
すぐ。
警戒するような顔。
「何?」
私は。
少しだけ。
笑った。
「一番って」
「そのときによって」
「変わるでしょ」
「……」
「前は」
私は。
思い出す。
「これが一番って言ってたのに」
「次の週には」
「違うのが一番になってた」
夫が。
吹き出す。
「それはそう」
「パパ笑わんといて!」
少しだけ。
空気が。
柔らかくなる。
私は。
続ける。
「でも」
「ママが最後に覚えてるのは」
その子の。
好きだったものを。
答える。
目が。
少し。
大きくなった。
「……当たり」
「うん」
「でも」
すぐに。
首を振る。
「それくらい」
「パパでも知っとる」
「そうだね」
私は。
頷いた。
「じゃあ」
「もっと」
「難しいの聞いていいよ」
その子が。
眉を寄せる。
本気で。
考えている。
そして。
「僕が」
「うん」
「夜」
「怖くて寝れんかったとき」
胸が。
大きく鳴った。
「ママ」
「何してくれた?」
「……」
覚えてる。
あの日。
怖い夢を見たと。
泣きながら。
私のところへ来た。
抱っこできるくらいの。
まだ。
小さかった頃。
「最初」
私は。
ゆっくり。
話す。
「ママの布団に」
「入ってきた」
その子が。
少し。
息を止める。
「それで」
「ぎゅーって」
私は。
両腕を。
自分の身体に。
回す。
「抱っこみたいにして」
「……」
「背中」
「ずっと」
「さすってた」
「……」
「でも」
私は。
少し笑う。
「寝たと思って」
「手止めたら」
「まだやってって」
「言った」
その子の目が。
大きくなる。
「……」
「だから」
私は。
もう一度。
自分の腕を。
ぎゅっとする。
「寝るまで」
「ずっと」
「よしよししてた」
沈黙。
その子は。
夫を見る。
夫は。
首を振った。
「俺」
「それ知らん」
「……」
その子が。
また。
私を見る。
今度は。
さっきより。
少しだけ。
近い目。
「……何で知っとるん」
「ママだから」
私は。
それだけ。
言った。
◇◇◇
「……でも」
しばらくして。
その子が。
唇を尖らせる。
「ママなら」
「うん」
「なんで」
声が。
震える。
「こんな顔なん」
胸が。
痛い。
「分からない」
私は。
正直に答えた。
「ママも」
「分からない」
「……」
「事故にあって」
「目が覚めたら」
「この顔だった」
「怖くなかったん?」
「怖かったよ」
「……」
「鏡見て」
私は。
小さく笑う。
「誰これって」
「思った」
その子が。
少しだけ。
こちらを見る。
「ママも?」
「うん」
「ママも」
胸に。
手を置く。
「ずっと」
「元の顔に」
「戻りたいって」
「思ってた」
「……」
「だって」
涙が。
少し。
滲む。
「この顔じゃ」
「みんなに」
「ママって」
「分かってもらえないと思ったから」
その子の。
目も。
少し赤くなる。
「でも」
私は。
涙を拭う。
「星も」
「前に会った子も」
「ちゃんと」
「見つけてくれた」
「……」
「だから」
「あなたも」
無理には。
言わない。
「今日」
「ママって思えなくても」
「大丈夫」
その子の顔が。
くしゃっと。
歪んだ。
「……ずるい」
「え?」
「そんなこと」
「……」
「ママも」
「言っとった」
「……」
胸が。
止まりそうになる。
「何て?」
「できんくても」
「今日はできんかっただけって」
「……」
「次できたらいいって」
涙が。
溢れた。
ああ。
言ってた。
子どもが。
何かできなくて。
落ち込んだとき。
何度も。
「できなかったんじゃなくて」
「今日はできなかっただけ」
そう。
言っていた。
「……覚えてたんだ」
「うん」
「そっか」
もう。
泣きそう。
でも。
その子は。
もっと。
泣きそうな顔をしていた。
◇◇◇
「……一個」
その子が。
小さく言う。
「お願いしていい?」
「うん」
何でも。
と言いそうになって。
止める。
「できることなら」
そう。
言い直す。
その子は。
しばらく。
迷った。
そして。
両腕を。
ほんの少し。
広げた。
「……抱っこ」
息が。
止まった。
「え?」
「ママなら」
声が。
震える。
「抱っこ」
「してほしい」
涙が。
一気に。
溢れた。
私は。
すぐに。
駆け寄りたかった。
でも。
聞く。
「今?」
その子が。
頷く。
「うん」
「本当に?」
もう一度。
頷く。
「……うん」
私は。
ゆっくり。
近づいた。
そして。
両腕を。
広げる。
一瞬。
迷ったように。
立ち止まる。
でも。
次の瞬間。
小さな身体が。
私の胸に。
飛び込んできた。
「……っ」
抱きしめる。
懐かしい。
身体の。
大きさは。
変わった。
前より。
重い。
前より。
背が高い。
でも。
抱きしめたときの。
感覚。
「……」
腕の中に。
すっぽり。
入ってくる感じ。
頭を。
胸に。
押しつける感じ。
全部。
覚えている。
私は。
背中を。
ゆっくり。
撫でた。
一回。
二回。
何度も。
「……これ」
腕の中から。
声がする。
「うん?」
「ママの抱っこ」
「……」
涙で。
視界が。
ぼやける。
「分かる?」
「うん」
服を。
ぎゅっと。
掴まれる。
「顔」
「違うのに」
「うん」
「声も」
「違うのに」
「うん」
「抱っこ」
声が。
泣き声に。
変わる。
「ママや」
もう。
我慢できなかった。
「うん」
私は。
強く。
抱きしめた。
「ママだよ」
「……」
「ずっと」
「会いたかったよ」
「……ママ」
「うん」
「ほんまに」
「ママなん?」
「うん」
「ほんまに?」
「うん」
何回でも。
答える。
「ママ」
「うん」
「ママ!」
「うん」
そのたび。
腕に。
力が入る。
夫が。
少し離れたところで。
顔を。
手で覆っていた。
◇◇◇
しばらくして。
その子は。
私の腕の中から。
顔を上げた。
涙で。
ぐしゃぐしゃ。
「ママ」
「何?」
「なんで」
「うん」
「もっと早く」
「来てくれんかったん」
胸が。
痛む。
「怖かった」
私は。
正直に答える。
「信じてもらえないのが」
「……」
「みんなを」
「怖がらせるのも」
「嫌だった」
「……」
「でも」
私は。
頬の涙を。
親指で。
そっと拭う。
「会いたかった」
「毎日」
「……」
「みんなのこと」
「考えてた」
「ほんま?」
「ほんと」
「僕も?」
「当たり前でしょ」
私は。
少し笑う。
「一人も」
「忘れたことないよ」
その子が。
また。
泣く。
「……僕」
「うん」
「ママのこと」
「忘れそうで」
胸が。
ぎゅっと。
締めつけられた。
「顔とか」
「うん」
「声とか」
「少しずつ」
「……」
「思い出せんくなったら」
「どうしようって」
私は。
その子を。
もう一度。
抱きしめた。
「忘れてもいいよ」
身体が。
ぴくっと。
動く。
「え?」
「顔」
「忘れてもいい」
「声も」
「……」
「だって」
私は。
背中を。
撫でる。
「今」
「こうして」
「また会えたから」
「……」
「昔のママを」
「全部覚えてなくても」
「ママが」
「あなたのこと」
「覚えてる」
「……」
「それで」
「いいよ」
その子が。
私の胸に。
顔を埋めた。
「……やっぱり」
「何?」
「ママや」
私は。
泣きながら。
笑った。
「うん」
◇◇◇
少し。
落ち着いてから。
三人で。
ジュースを飲んだ。
その子は。
さっきまでの。
警戒が。
嘘みたいに。
私の隣に。
ぴったり。
座っている。
「近いね」
私が笑うと。
「ダメ?」
「ダメじゃない」
「じゃあいいやん」
「ふふっ」
夫が。
向かいから。
その様子を見る。
「……ほんま」
「何?」
「すごいな」
「何が?」
「顔」
「全然違うのに」
「うん」
「子どもら」
「分かるんやな」
私も。
不思議だった。
でも。
星が言っていた。
――ここが、ママだって言ってる。
きっと。
記憶って。
顔だけじゃない。
抱きしめ方。
手の温度。
言葉をかける順番。
心配するときの顔。
間の取り方。
そういう。
何でもないものを。
子どもは。
思っている以上に。
覚えているのかもしれない。
「パパ」
隣から。
声。
「何?」
「他の子にも」
「うん」
「ママやったって」
「言っていい?」
私は。
すぐに。
口を挟まなかった。
夫も。
少し考える。
「お前が」
「言いたいなら」
「ええよ」
「でも」
私は。
優しく言う。
「信じろって」
「言わなくていいよ」
「……」
「怖いって思う子も」
「いるから」
「うん」
「自分が会って」
「どう思ったかだけ」
「話してあげて」
その子が。
考える。
「じゃあ」
「うん」
「抱っこしたら」
「ママやったって言う」
私は。
思わず笑った。
「それでいいの?」
「うん」
そして。
少し。
得意そうな顔。
「ママの抱っこ」
「分かるもん」
また。
泣きそうになった。
◇◇◇
帰り際。
「ママ」
「うん」
その子が。
私の袖を。
掴む。
「次」
「いつ会える?」
胸が。
大きく鳴る。
「会いたいとき」
「え?」
「言って」
私は。
笑った。
「ママ」
「予定合わせるから」
「仕事あっても?」
「仕事ある日は」
「別の日にする」
「……」
「ちゃんと」
「会える日」
「作るよ」
その子が。
嬉しそうに。
頷いた。
そして。
もう一度。
ぎゅっと。
抱きついてくる。
私も。
抱きしめる。
「じゃあね」
「うん」
「ママ」
「またね」
その言葉。
またね。
今度が。
ある。
それだけで。
こんなにも。
嬉しい。
◇◇◇
夜。
陽向が。
私の部屋へ来た。
「どうだった?」
「……」
私は。
何も言わず。
陽向へ。
両腕を広げた。
「え?」
「抱っこ」
「……」
陽向が。
一瞬。
固まる。
「今?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
次の瞬間。
優しく。
抱きしめられる。
私は。
その胸に。
顔を埋めた。
「今日ね」
「うん」
「抱っこしてって」
「言われた」
陽向の腕が。
少し。
強くなる。
「そっか」
「それで」
涙が。
出る。
「抱っこしたら」
「……」
「ママの抱っこだって」
「言ってくれた」
陽向が。
大きく。
息を吐いた。
「よかったな」
「うん」
「顔違うのに」
「うん」
「声も違うのに」
「うん」
私は。
陽向の服を。
握る。
「分かってくれた」
「そっか」
「私ね」
「うん」
「ずっと」
少し。
泣きながら笑う。
「ママって」
「顔とか」
「名前とか」
「そういうものだと」
「思ってたのかも」
「うん」
「でも」
「今日」
「違うんだって」
「思った」
陽向が。
背中を。
ゆっくり撫でてくれる。
「何が?」
「抱きしめ方も」
「声のかけ方も」
「その子を」
「ずっと見てきた時間も」
「……」
「全部」
胸に。
手を置く。
「ママなんだね」
陽向が。
少し笑った。
「うん」
「美月」
「何?」
「俺」
「星ちゃんに会ったときから」
「思ってたけど」
「うん」
「子どもたちの前の美月」
少し。
間。
「すげえ好き」
私は。
顔を上げる。
「急に何?」
「だって」
陽向が。
笑う。
「ちゃんと」
「ママなんだよ」
「……」
「俺が知らなかった」
「美月の三十四年が」
「見える感じする」
胸が。
温かくなる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
「?」
私は。
少し。
意地悪く笑う。
「もっと」
「子どもたちの話」
「聞く?」
陽向の顔が。
ぱっと。
明るくなる。
「聞く!」
「食いつきすごい」
「だって」
「俺」
少し。
照れながら。
「美月のこと」
「全部知りたいし」
また。
胸が。
鳴った。
◇◇◇
その夜。
夫から。
新しいメッセージ。
『今日会った子が、帰ってからずっとママの話しとる』
私は。
思わず。
笑った。
続けて。
『それ聞いて、もう一人が会ってみたいって言っとる』
「……」
また。
一人。
私を。
見つけようとしてくれている。
でも。
その下に。
もう一文。
『ただ、一番小さい子はまだ難しいかもしれん』
指が。
止まった。
一番小さい子。
私がいなくなったとき。
まだ。
あまりにも。
幼かった。
私の顔を。
どれくらい。
覚えているんだろう。
声を。
抱っこを。
覚えているんだろうか。
もしかしたら。
私を。
母親だと。
分からないかもしれない。
胸が。
少し。
痛む。
でも。
今は。
先に。
結論を出さない。
私は。
夫へ。
返信した。
『うん。無理に会わせなくていいよ』
そして。
少し考えて。
もう一文。
『会いたいって思ってくれたときまで待つ』
送信。
陽向が。
隣から。
画面を見る。
「待てる?」
「……うん」
私は。
少し笑った。
「会いたいけど」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
スマートフォンを。
胸に抱く。
「ママだから」
今度は。
その言葉に。
迷いはなかった。
「待つよ」
顔が違っても。
声が違っても。
抱きしめれば。
分かってくれる子がいる。
でも。
分からない子がいても。
それでいい。
私は。
何度でも。
待つ。
何度でも。
会いに行く。
この子たちが。
自分の気持ちで。
もう一度。
私を。
『ママ』と呼べる日まで。
『一人、会ってみたいって言い出した』
そう連絡が来た。
その翌日。
私は。
朝から。
落ち着かなかった。
前に会った子は。
自分から。
確かめたいと。
来てくれた。
でも。
今度の子は。
少し違うらしい。
『ママかもしれないなら会いたい』
そう言ったあと。
すぐに。
『でも怖い』
とも。
言ったという。
その気持ち。
当たり前だと思う。
私だって。
鏡の中に。
知らない顔が映ったとき。
怖かった。
その知らない顔の人が。
突然。
『ママだよ』
なんて。
現れる。
子どもからすれば。
もっと。
怖いかもしれない。
「……無理させたくないな」
スマートフォンを。
握りながら呟く。
すると。
陽向から。
メッセージが届いた。
『今日だよな?』
『うん』
『緊張してる?』
私は。
少し考えて。
『してる』
と送る。
すぐ。
『そっか』
それだけ。
以前なら。
『大丈夫』
とか。
『絶対うまくいく』
とか。
言ってほしかったかもしれない。
でも。
今は。
分かる。
陽向が。
簡単に。
大丈夫と言わない理由。
まだ。
分からないから。
代わりに。
少しして。
もう一通。
『終わったら話聞く』
胸が。
温かくなった。
『うん』
私は。
そう返した。
◇◇◇
待ち合わせは。
前と同じように。
人目の少ない場所。
夫から。
『着いた』
と連絡が来る。
私は。
大きく。
息を吸った。
そして。
扉を開けた。
「……」
夫の隣。
小さな身体が。
ぴったりと。
夫にくっついている。
私を見るなり。
一歩。
後ろへ。
下がった。
胸が。
痛む。
でも。
私は。
近づかなかった。
「こんにちは」
なるべく。
優しく。
声をかける。
返事は。
ない。
夫が。
小さく。
「大丈夫」
と。
声をかける。
その子は。
私を。
じっと見たまま。
「……ママじゃない」
小さく。
言った。
「うん」
私は。
頷いた。
夫が。
私を見る。
でも。
私は。
続けた。
「顔はね」
「ママじゃないよね」
その子の目が。
少し。
揺れる。
「ママの顔」
「違うもん」
「うん」
「声も」
「違う」
「うん」
「だから」
私は。
しゃがんだ。
少しでも。
目線を。
近くする。
でも。
距離は。
縮めない。
「怖かったら」
「近くに来なくていいよ」
「……」
「今日は」
「見るだけでもいい」
「……」
「帰りたくなったら」
「帰っていいよ」
夫が。
少し。
驚いた顔をした。
きっと。
以前の私なら。
ここまで来たんだから。
少しは。
話してほしい。
そんなふうに。
焦ったかもしれない。
でも。
今は。
この子の気持ちを。
先にしたい。
その子は。
しばらく。
私を見ていた。
そして。
「……ほんまに?」
「うん」
「帰っても?」
「うん」
私は。
笑った。
「ママは」
一瞬。
その言葉を。
使っていいのか。
迷う。
でも。
続けた。
「会いに来てくれただけで」
「嬉しいから」
「……」
その子が。
夫の服を。
ぎゅっと掴んだ。
◇◇◇
三人で。
少し離れて。
座った。
私は。
何も。
聞かなかった。
学校どう?
元気だった?
ご飯食べた?
聞きたいことは。
いっぱいある。
でも。
今は。
質問される側でいい。
しばらくして。
その子が。
小さく。
口を開いた。
「……ほんまに」
「うん?」
「ママなら」
「うん」
「僕の」
少し。
考える。
「好きな食べ物」
「知っとる?」
胸が。
きゅっとする。
「知ってるよ」
答えると。
すぐ。
警戒するような顔。
「何?」
私は。
少しだけ。
笑った。
「一番って」
「そのときによって」
「変わるでしょ」
「……」
「前は」
私は。
思い出す。
「これが一番って言ってたのに」
「次の週には」
「違うのが一番になってた」
夫が。
吹き出す。
「それはそう」
「パパ笑わんといて!」
少しだけ。
空気が。
柔らかくなる。
私は。
続ける。
「でも」
「ママが最後に覚えてるのは」
その子の。
好きだったものを。
答える。
目が。
少し。
大きくなった。
「……当たり」
「うん」
「でも」
すぐに。
首を振る。
「それくらい」
「パパでも知っとる」
「そうだね」
私は。
頷いた。
「じゃあ」
「もっと」
「難しいの聞いていいよ」
その子が。
眉を寄せる。
本気で。
考えている。
そして。
「僕が」
「うん」
「夜」
「怖くて寝れんかったとき」
胸が。
大きく鳴った。
「ママ」
「何してくれた?」
「……」
覚えてる。
あの日。
怖い夢を見たと。
泣きながら。
私のところへ来た。
抱っこできるくらいの。
まだ。
小さかった頃。
「最初」
私は。
ゆっくり。
話す。
「ママの布団に」
「入ってきた」
その子が。
少し。
息を止める。
「それで」
「ぎゅーって」
私は。
両腕を。
自分の身体に。
回す。
「抱っこみたいにして」
「……」
「背中」
「ずっと」
「さすってた」
「……」
「でも」
私は。
少し笑う。
「寝たと思って」
「手止めたら」
「まだやってって」
「言った」
その子の目が。
大きくなる。
「……」
「だから」
私は。
もう一度。
自分の腕を。
ぎゅっとする。
「寝るまで」
「ずっと」
「よしよししてた」
沈黙。
その子は。
夫を見る。
夫は。
首を振った。
「俺」
「それ知らん」
「……」
その子が。
また。
私を見る。
今度は。
さっきより。
少しだけ。
近い目。
「……何で知っとるん」
「ママだから」
私は。
それだけ。
言った。
◇◇◇
「……でも」
しばらくして。
その子が。
唇を尖らせる。
「ママなら」
「うん」
「なんで」
声が。
震える。
「こんな顔なん」
胸が。
痛い。
「分からない」
私は。
正直に答えた。
「ママも」
「分からない」
「……」
「事故にあって」
「目が覚めたら」
「この顔だった」
「怖くなかったん?」
「怖かったよ」
「……」
「鏡見て」
私は。
小さく笑う。
「誰これって」
「思った」
その子が。
少しだけ。
こちらを見る。
「ママも?」
「うん」
「ママも」
胸に。
手を置く。
「ずっと」
「元の顔に」
「戻りたいって」
「思ってた」
「……」
「だって」
涙が。
少し。
滲む。
「この顔じゃ」
「みんなに」
「ママって」
「分かってもらえないと思ったから」
その子の。
目も。
少し赤くなる。
「でも」
私は。
涙を拭う。
「星も」
「前に会った子も」
「ちゃんと」
「見つけてくれた」
「……」
「だから」
「あなたも」
無理には。
言わない。
「今日」
「ママって思えなくても」
「大丈夫」
その子の顔が。
くしゃっと。
歪んだ。
「……ずるい」
「え?」
「そんなこと」
「……」
「ママも」
「言っとった」
「……」
胸が。
止まりそうになる。
「何て?」
「できんくても」
「今日はできんかっただけって」
「……」
「次できたらいいって」
涙が。
溢れた。
ああ。
言ってた。
子どもが。
何かできなくて。
落ち込んだとき。
何度も。
「できなかったんじゃなくて」
「今日はできなかっただけ」
そう。
言っていた。
「……覚えてたんだ」
「うん」
「そっか」
もう。
泣きそう。
でも。
その子は。
もっと。
泣きそうな顔をしていた。
◇◇◇
「……一個」
その子が。
小さく言う。
「お願いしていい?」
「うん」
何でも。
と言いそうになって。
止める。
「できることなら」
そう。
言い直す。
その子は。
しばらく。
迷った。
そして。
両腕を。
ほんの少し。
広げた。
「……抱っこ」
息が。
止まった。
「え?」
「ママなら」
声が。
震える。
「抱っこ」
「してほしい」
涙が。
一気に。
溢れた。
私は。
すぐに。
駆け寄りたかった。
でも。
聞く。
「今?」
その子が。
頷く。
「うん」
「本当に?」
もう一度。
頷く。
「……うん」
私は。
ゆっくり。
近づいた。
そして。
両腕を。
広げる。
一瞬。
迷ったように。
立ち止まる。
でも。
次の瞬間。
小さな身体が。
私の胸に。
飛び込んできた。
「……っ」
抱きしめる。
懐かしい。
身体の。
大きさは。
変わった。
前より。
重い。
前より。
背が高い。
でも。
抱きしめたときの。
感覚。
「……」
腕の中に。
すっぽり。
入ってくる感じ。
頭を。
胸に。
押しつける感じ。
全部。
覚えている。
私は。
背中を。
ゆっくり。
撫でた。
一回。
二回。
何度も。
「……これ」
腕の中から。
声がする。
「うん?」
「ママの抱っこ」
「……」
涙で。
視界が。
ぼやける。
「分かる?」
「うん」
服を。
ぎゅっと。
掴まれる。
「顔」
「違うのに」
「うん」
「声も」
「違うのに」
「うん」
「抱っこ」
声が。
泣き声に。
変わる。
「ママや」
もう。
我慢できなかった。
「うん」
私は。
強く。
抱きしめた。
「ママだよ」
「……」
「ずっと」
「会いたかったよ」
「……ママ」
「うん」
「ほんまに」
「ママなん?」
「うん」
「ほんまに?」
「うん」
何回でも。
答える。
「ママ」
「うん」
「ママ!」
「うん」
そのたび。
腕に。
力が入る。
夫が。
少し離れたところで。
顔を。
手で覆っていた。
◇◇◇
しばらくして。
その子は。
私の腕の中から。
顔を上げた。
涙で。
ぐしゃぐしゃ。
「ママ」
「何?」
「なんで」
「うん」
「もっと早く」
「来てくれんかったん」
胸が。
痛む。
「怖かった」
私は。
正直に答える。
「信じてもらえないのが」
「……」
「みんなを」
「怖がらせるのも」
「嫌だった」
「……」
「でも」
私は。
頬の涙を。
親指で。
そっと拭う。
「会いたかった」
「毎日」
「……」
「みんなのこと」
「考えてた」
「ほんま?」
「ほんと」
「僕も?」
「当たり前でしょ」
私は。
少し笑う。
「一人も」
「忘れたことないよ」
その子が。
また。
泣く。
「……僕」
「うん」
「ママのこと」
「忘れそうで」
胸が。
ぎゅっと。
締めつけられた。
「顔とか」
「うん」
「声とか」
「少しずつ」
「……」
「思い出せんくなったら」
「どうしようって」
私は。
その子を。
もう一度。
抱きしめた。
「忘れてもいいよ」
身体が。
ぴくっと。
動く。
「え?」
「顔」
「忘れてもいい」
「声も」
「……」
「だって」
私は。
背中を。
撫でる。
「今」
「こうして」
「また会えたから」
「……」
「昔のママを」
「全部覚えてなくても」
「ママが」
「あなたのこと」
「覚えてる」
「……」
「それで」
「いいよ」
その子が。
私の胸に。
顔を埋めた。
「……やっぱり」
「何?」
「ママや」
私は。
泣きながら。
笑った。
「うん」
◇◇◇
少し。
落ち着いてから。
三人で。
ジュースを飲んだ。
その子は。
さっきまでの。
警戒が。
嘘みたいに。
私の隣に。
ぴったり。
座っている。
「近いね」
私が笑うと。
「ダメ?」
「ダメじゃない」
「じゃあいいやん」
「ふふっ」
夫が。
向かいから。
その様子を見る。
「……ほんま」
「何?」
「すごいな」
「何が?」
「顔」
「全然違うのに」
「うん」
「子どもら」
「分かるんやな」
私も。
不思議だった。
でも。
星が言っていた。
――ここが、ママだって言ってる。
きっと。
記憶って。
顔だけじゃない。
抱きしめ方。
手の温度。
言葉をかける順番。
心配するときの顔。
間の取り方。
そういう。
何でもないものを。
子どもは。
思っている以上に。
覚えているのかもしれない。
「パパ」
隣から。
声。
「何?」
「他の子にも」
「うん」
「ママやったって」
「言っていい?」
私は。
すぐに。
口を挟まなかった。
夫も。
少し考える。
「お前が」
「言いたいなら」
「ええよ」
「でも」
私は。
優しく言う。
「信じろって」
「言わなくていいよ」
「……」
「怖いって思う子も」
「いるから」
「うん」
「自分が会って」
「どう思ったかだけ」
「話してあげて」
その子が。
考える。
「じゃあ」
「うん」
「抱っこしたら」
「ママやったって言う」
私は。
思わず笑った。
「それでいいの?」
「うん」
そして。
少し。
得意そうな顔。
「ママの抱っこ」
「分かるもん」
また。
泣きそうになった。
◇◇◇
帰り際。
「ママ」
「うん」
その子が。
私の袖を。
掴む。
「次」
「いつ会える?」
胸が。
大きく鳴る。
「会いたいとき」
「え?」
「言って」
私は。
笑った。
「ママ」
「予定合わせるから」
「仕事あっても?」
「仕事ある日は」
「別の日にする」
「……」
「ちゃんと」
「会える日」
「作るよ」
その子が。
嬉しそうに。
頷いた。
そして。
もう一度。
ぎゅっと。
抱きついてくる。
私も。
抱きしめる。
「じゃあね」
「うん」
「ママ」
「またね」
その言葉。
またね。
今度が。
ある。
それだけで。
こんなにも。
嬉しい。
◇◇◇
夜。
陽向が。
私の部屋へ来た。
「どうだった?」
「……」
私は。
何も言わず。
陽向へ。
両腕を広げた。
「え?」
「抱っこ」
「……」
陽向が。
一瞬。
固まる。
「今?」
「うん」
「いいの?」
「うん」
次の瞬間。
優しく。
抱きしめられる。
私は。
その胸に。
顔を埋めた。
「今日ね」
「うん」
「抱っこしてって」
「言われた」
陽向の腕が。
少し。
強くなる。
「そっか」
「それで」
涙が。
出る。
「抱っこしたら」
「……」
「ママの抱っこだって」
「言ってくれた」
陽向が。
大きく。
息を吐いた。
「よかったな」
「うん」
「顔違うのに」
「うん」
「声も違うのに」
「うん」
私は。
陽向の服を。
握る。
「分かってくれた」
「そっか」
「私ね」
「うん」
「ずっと」
少し。
泣きながら笑う。
「ママって」
「顔とか」
「名前とか」
「そういうものだと」
「思ってたのかも」
「うん」
「でも」
「今日」
「違うんだって」
「思った」
陽向が。
背中を。
ゆっくり撫でてくれる。
「何が?」
「抱きしめ方も」
「声のかけ方も」
「その子を」
「ずっと見てきた時間も」
「……」
「全部」
胸に。
手を置く。
「ママなんだね」
陽向が。
少し笑った。
「うん」
「美月」
「何?」
「俺」
「星ちゃんに会ったときから」
「思ってたけど」
「うん」
「子どもたちの前の美月」
少し。
間。
「すげえ好き」
私は。
顔を上げる。
「急に何?」
「だって」
陽向が。
笑う。
「ちゃんと」
「ママなんだよ」
「……」
「俺が知らなかった」
「美月の三十四年が」
「見える感じする」
胸が。
温かくなる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
「?」
私は。
少し。
意地悪く笑う。
「もっと」
「子どもたちの話」
「聞く?」
陽向の顔が。
ぱっと。
明るくなる。
「聞く!」
「食いつきすごい」
「だって」
「俺」
少し。
照れながら。
「美月のこと」
「全部知りたいし」
また。
胸が。
鳴った。
◇◇◇
その夜。
夫から。
新しいメッセージ。
『今日会った子が、帰ってからずっとママの話しとる』
私は。
思わず。
笑った。
続けて。
『それ聞いて、もう一人が会ってみたいって言っとる』
「……」
また。
一人。
私を。
見つけようとしてくれている。
でも。
その下に。
もう一文。
『ただ、一番小さい子はまだ難しいかもしれん』
指が。
止まった。
一番小さい子。
私がいなくなったとき。
まだ。
あまりにも。
幼かった。
私の顔を。
どれくらい。
覚えているんだろう。
声を。
抱っこを。
覚えているんだろうか。
もしかしたら。
私を。
母親だと。
分からないかもしれない。
胸が。
少し。
痛む。
でも。
今は。
先に。
結論を出さない。
私は。
夫へ。
返信した。
『うん。無理に会わせなくていいよ』
そして。
少し考えて。
もう一文。
『会いたいって思ってくれたときまで待つ』
送信。
陽向が。
隣から。
画面を見る。
「待てる?」
「……うん」
私は。
少し笑った。
「会いたいけど」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
スマートフォンを。
胸に抱く。
「ママだから」
今度は。
その言葉に。
迷いはなかった。
「待つよ」
顔が違っても。
声が違っても。
抱きしめれば。
分かってくれる子がいる。
でも。
分からない子がいても。
それでいい。
私は。
何度でも。
待つ。
何度でも。
会いに行く。
この子たちが。
自分の気持ちで。
もう一度。
私を。
『ママ』と呼べる日まで。



