消灯後の病室は、昼間とはまるで違う場所みたいに静かだった。
カーテンの隙間から、街の明かりがぼんやりと差し込んでいる。
私はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
眠れない。
目を閉じれば、いろんなものが浮かんでくる。
雨の日の交差点。
事故の記事。
夫のSNSに書かれていた、
『妻が事故で亡くなりました』
という文字。
そして。
子どもたちの顔。
「……星」
小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
分かっている。
ここに星はいない。
それでも。
名前を呼びたかった。
「……会いたいな」
昼間、陽向の前ではたくさん泣いた。
だからもう涙なんて出ないと思っていたのに。
頬を、一筋の涙が伝った。
子どもたちは今、何をしているんだろう。
ちゃんとご飯を食べただろうか。
眠れているだろうか。
誰かに抱きしめてもらえている?
泣いたとき。
寂しいとき。
私の代わりに、誰かが頭を撫でてくれている?
「ママ……ここにいるのに」
声が震える。
ここにいる。
でも。
もうママじゃない。
少なくとも、あの子たちから見れば。
私は知らない女の人。
一ノ瀬紗良。
スマートフォンで名前を検索すると、いくらでも情報が出てきた。
人気女優。
ドラマ。
映画。
CM。
綺麗なドレスを着て、レッドカーペットを歩く姿。
インタビューで笑っている姿。
どこを見ても。
華やかな人生だった。
なのに。
私は、その人生を何ひとつ知らない。
「……紗良さん」
自分の胸に手を置く。
「あなたは、どこにいるの?」
返事はない。
でも、ときどき流れ込んでくる記憶がある。
陽向と過ごした学生時代。
デビューが決まった日。
駅で交わした会話。
そして。
陽向への恋心。
紗良は、確かにここにいた。
じゃあ。
今は?
私が入ったせいで消えてしまった?
「……ごめんなさい」
また謝っていた。
陽向には「謝らなくていい」と言われたけれど。
紗良には。
謝らずにはいられなかった。
私は生きている。
彼女の身体で。
でも彼女は――。
「私が……奪っちゃったのかな」
怖かった。
もしそうなら。
私は、誰かの人生を奪ってまで生きていることになる。
そんなの。
許されるの?
私だって、子どもたちのところへ帰りたい。
高瀬美月に戻りたい。
でも。
紗良だって。
本当は生きたかったはずだ。
陽向のそばにいたかったはずだ。
「私じゃなくて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「紗良さんが戻ってきたほうが……」
そのとき。
ガラッ。
病室のドアが静かに開いた。
私は慌てて顔を拭った。
「……え?」
キャップを深く被り、マスクをした男性が顔を覗かせる。
一瞬誰か分からなかった。
でも。
「まだ起きてた」
その声で、すぐに分かった。
「天城さん?」
陽向だった。
「なんで……」
「ちょっと忘れ物」
そう言いながら病室へ入ってくる。
陽向が昼間座っていた椅子の近くに置かれていた、小さなポーチを手に取った。
「あー、あった」
「……それだけですか?」
「え?」
「忘れ物」
「うん」
陽向は答えた。
でも。
帰らない。
ポーチを持ったまま、私を見ている。
「……何ですか?」
「いや」
「……」
「……」
気まずい沈黙。
私は目を逸らした。
「もう寝ます」
「嘘」
「え?」
即答された。
「寝る人、そんな目真っ赤じゃないでしょ」
思わず目元を押さえる。
「……泣いてません」
「それも嘘」
「なんで分かるんですか」
「分かるだろ」
当たり前みたいに言われた。
私は言葉に詰まった。
陽向が椅子を引く。
「座っていい?」
「……どうぞ」
ベッドの横に座る。
それから。
「何があった?」
聞かれた。
「何も」
反射的に答えた。
陽向がじっと私を見る。
「なんでもないです」
「……美月さ」
「はい?」
「なんでもないときに、そんな顔すんの?」
心臓が小さく跳ねた。
「そんな顔って……」
「今にも泣きそうな顔」
「……」
「なんでもない顔じゃねえじゃん」
その言葉に。
昼間から必死に押し込めていたものが、また胸の奥から込み上げてきた。
「……本当に」
声が震える。
「大丈夫ですから」
陽向は何も言わない。
ただ。
「そっか」
それだけ言った。
意外だった。
もっと聞かれると思った。
何があった?
話して。
なんで泣いてるの?
そう問い詰められると思ったのに。
陽向はそれ以上聞かず、椅子に深く座り直した。
「……帰らないんですか?」
「もうちょいいる」
「なんで?」
「なんとなく」
「忙しいんじゃ……」
「明日、午後からだから」
「でも」
言いかけて。
やめた。
迷惑じゃないですか。
また言いそうになったから。
陽向が口元を緩める。
「今、迷惑って言おうとした?」
「……言ってません」
「絶対言おうとした」
「顔で分かるんですか?」
「分かるようになってきた」
まだ出会って一日も経っていないのに。
そんなことを言われて。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも。
すぐに罪悪感が押し寄せる。
この人が本当にそばにいてほしいのは。
私じゃない。
紗良なんだ。
「……天城さん」
「ん?」
「紗良さんのこと」
陽向の表情が変わった。
「……うん」
「好きだったんですか?」
聞いてから。
胸が苦しくなった。
何を聞いているんだろう。
でも知りたかった。
この身体の持ち主が。
どんな存在だったのか。
陽向は少し考えた。
「好きっていうか……」
視線を落とす。
「大事だった」
「……」
「めちゃくちゃ長いから。付き合い」
「学生の頃から?」
「うん」
私は、頭の中に流れ込んできた夕暮れの教室を思い出す。
『絶対、アイドルになってね』
あれは。
本当にあったことなのだろうか。
「紗良さんって、どんな人でした?」
陽向が私を見る。
「知りたいの?」
「……はい」
少し迷ってから、頷いた。
陽向は小さく笑った。
「めっちゃ気強い」
「え?」
予想外だった。
「負けず嫌いだし。俺が調子乗ると普通に『うるさい』って言うし」
「……そうなんですか?」
「ゲームやってても俺が勝つまで付き合ってくれない」
「それは天城さんが悪いのでは?」
「え、もう紗良みたいなこと言うじゃん」
「えっ」
陽向が笑った。
ほんの一瞬。
私もつられて笑いそうになる。
「でも」
陽向の笑顔が少しだけ寂しそうになる。
「ずっと応援してくれてた」
「……」
「俺がアイドルやりたいって言ったときも」
胸が鳴る。
「周りが無理だろって言っても、あいつだけは一回も笑わなかった」
やっぱり。
あの記憶は。
本物なんだ。
「『絶対アイドルになってね』って……」
無意識に口から出ていた。
陽向の顔が止まった。
「……なんで」
しまった。
「え?」
「なんでそれ知ってんの?」
心臓が大きく跳ねる。
「それ……」
陽向が身体を起こす。
「紗良が昔言ったやつ」
私は何も言えない。
「テレビで話したことないよ」
陽向の目が、真剣になる。
「紗良から聞いた?」
「違います」
「じゃあ、なんで?」
私は胸元を握った。
「……見えたんです」
「見えた?」
「記憶みたいなものが」
陽向が黙る。
「さっきも言ったけど……たまに、知らない景色が頭に入ってくるんです」
「……」
「制服を着た天城さんと、紗良さんがいて」
私はゆっくり話した。
「夕方の教室で」
「紗良さんが『絶対アイドルになってね』って言って」
陽向の顔から、完全に笑顔が消えていく。
「天城さんが……」
息を整える。
「『俺が売れたら、一番最初に自慢していいから』って」
しん、と静まり返った。
病室には。
機械音だけが響いている。
ピッ。
ピッ。
陽向は何も言わない。
「……合ってますか?」
ようやく聞いた。
陽向が小さく息を吐いた。
「合ってる」
その声は低かった。
「……あれ、誰にも話してない」
「……」
「俺と紗良しか知らない」
陽向が私を見る。
その視線に。
戸惑い。
疑い。
そして。
ほんの少しの期待が混ざっているように見えた。
「じゃあ」
陽向が言う。
「紗良は……まだ中にいるってこと?」
胸が痛んだ。
「分かりません」
「でも記憶があるんでしょ?」
「全部じゃないです」
私は首を振る。
「ほんの少しだけ」
「……」
「しかも突然出てくるだけで、自分では選べないし」
陽向の顔を見る。
「私は……紗良さんじゃないです」
ちゃんと言わなければ。
期待させたくない。
「ごめんなさい」
陽向は黙っていた。
少しして。
「また謝った」
小さく言った。
「え……」
「美月のせいじゃないって言ったじゃん」
「でも……」
「紗良の記憶が残ってるのも、美月が決めたわけじゃないでしょ」
私は俯いた。
「それでも……」
とうとう。
我慢していた気持ちが口からこぼれた。
「怖いんです」
陽向がこちらを見る。
「何が?」
「もし」
唇が震える。
「私が紗良さんの身体を奪ったんだったらって」
言ってしまった。
「私がここにいるせいで」
涙が零れる。
「紗良さんが戻れないんだったら……」
「美月」
「だったら、私なんか――」
「それ以上言わないで」
陽向の声が遮った。
思っていたより強い声。
私はびくっとして顔を上げる。
陽向がすぐに表情を緩めた。
「……ごめん」
また。
すぐに謝る。
でも。
真剣な目で私を見る。
「俺も紗良に戻ってきてほしいよ」
胸が締めつけられる。
「うん」
「今でも」
陽向は少し視線を逸らした。
「お前が紗良じゃないって、正直まだ受け入れられてない」
「……」
「でもさ」
再び目が合う。
「だからって、美月が消えればいいとは思わない」
息が止まった。
「だって」
陽向が眉を寄せる。
「美月だって生きてるじゃん」
その瞬間。
涙が一気に溢れた。
「……なんで」
「え?」
「なんで……そんなこと言うんですか」
「そんなこと?」
「だって私……」
高瀬美月は死んだ。
家族のところにも帰れない。
今いる身体は、他の女性のもの。
私は一体。
誰なんだろう。
どこにいていいんだろう。
そう思っていた。
でも。
陽向は。
「美月だって生きてる」
と言った。
まるで。
私がここにいることを。
認めてくれたみたいに。
「……もう」
泣きながら顔を覆う。
「今日、泣いてばっかり」
「いいじゃん」
陽向が言う。
「泣きたい日なんじゃね?」
「そんな簡単に……」
「難しく考えすぎ」
「……」
「泣きたいなら泣けばいいじゃん」
誰かがそばにいるのに。
我慢しなくていい。
それが。
不思議だった。
しばらくして。
私は小さく呟いた。
「……本当は」
「うん」
「子どもたちに会いたい」
「うん」
「今すぐ行きたい」
「うん」
「抱きしめたい」
涙がまた落ちる。
「ママだよって言いたい」
陽向は何も否定しなかった。
「でも怖い」
「うん」
「知らない顔で行ったら……星たちを傷つけるかもしれない」
「うん」
「どうしたらいいか分からない……」
それでも。
陽向は答えを押しつけなかった。
ただ。
「そっか」
と聞いてくれた。
それだけだった。
でも。
それだけで。
不思議なくらい、呼吸が少し楽になった。
私は涙を拭いた。
「……天城さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「聞いてくれて」
陽向が少し笑った。
「それくらい普通でしょ」
普通。
その言葉が胸に残った。
私にとっては。
ずっと欲しかったことだったのに。
「じゃ、そろそろ寝る?」
陽向が立ち上がる。
「はい」
「明日また来るから」
「え?」
「何その顔」
「また来るんですか?」
「来ちゃダメ?」
「そうじゃないですけど……」
トップアイドルなのに。
忙しいはずなのに。
「紗良さんのため?」
聞いてしまった。
陽向が少し黙る。
やっぱり。
そうだよね。
そう思ったとき。
「それもある」
陽向が答えた。
「……」
「でも」
病室のドアに手をかけてから。
振り返る。
「美月のことも気になるし」
「……え?」
「じゃ、おやすみ」
「ちょっ……」
そのまま陽向は出て行ってしまった。
私は呆然とドアを見つめる。
美月のことも。
気になる。
「……何それ」
心臓が少しだけ速い。
でも。
さっきまでとは違った。
苦しくない。
胸の奥が。
ほんの少しだけ、温かかった。
私は布団に入り直す。
そして。
目を閉じる直前。
ふと思った。
天城陽向は。
テレビの中で見ていたままの人だった。
明るくて。
人の気持ちにすぐ気づいて。
でも。
テレビで見ていたよりもずっと。
優しかった。
――この人みたいな人が、そばにいたら毎日楽しいんだろうな。
昔。
何度も思った言葉。
まさか。
こんな形で。
本当にそばにいることになるなんて。
このときの私は。
まだ知らなかった。
陽向がこれから少しずつ。
一ノ瀬紗良ではなく、高瀬美月を見るようになっていくことを。
カーテンの隙間から、街の明かりがぼんやりと差し込んでいる。
私はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
眠れない。
目を閉じれば、いろんなものが浮かんでくる。
雨の日の交差点。
事故の記事。
夫のSNSに書かれていた、
『妻が事故で亡くなりました』
という文字。
そして。
子どもたちの顔。
「……星」
小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事はない。
分かっている。
ここに星はいない。
それでも。
名前を呼びたかった。
「……会いたいな」
昼間、陽向の前ではたくさん泣いた。
だからもう涙なんて出ないと思っていたのに。
頬を、一筋の涙が伝った。
子どもたちは今、何をしているんだろう。
ちゃんとご飯を食べただろうか。
眠れているだろうか。
誰かに抱きしめてもらえている?
泣いたとき。
寂しいとき。
私の代わりに、誰かが頭を撫でてくれている?
「ママ……ここにいるのに」
声が震える。
ここにいる。
でも。
もうママじゃない。
少なくとも、あの子たちから見れば。
私は知らない女の人。
一ノ瀬紗良。
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ドラマ。
映画。
CM。
綺麗なドレスを着て、レッドカーペットを歩く姿。
インタビューで笑っている姿。
どこを見ても。
華やかな人生だった。
なのに。
私は、その人生を何ひとつ知らない。
「……紗良さん」
自分の胸に手を置く。
「あなたは、どこにいるの?」
返事はない。
でも、ときどき流れ込んでくる記憶がある。
陽向と過ごした学生時代。
デビューが決まった日。
駅で交わした会話。
そして。
陽向への恋心。
紗良は、確かにここにいた。
じゃあ。
今は?
私が入ったせいで消えてしまった?
「……ごめんなさい」
また謝っていた。
陽向には「謝らなくていい」と言われたけれど。
紗良には。
謝らずにはいられなかった。
私は生きている。
彼女の身体で。
でも彼女は――。
「私が……奪っちゃったのかな」
怖かった。
もしそうなら。
私は、誰かの人生を奪ってまで生きていることになる。
そんなの。
許されるの?
私だって、子どもたちのところへ帰りたい。
高瀬美月に戻りたい。
でも。
紗良だって。
本当は生きたかったはずだ。
陽向のそばにいたかったはずだ。
「私じゃなくて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「紗良さんが戻ってきたほうが……」
そのとき。
ガラッ。
病室のドアが静かに開いた。
私は慌てて顔を拭った。
「……え?」
キャップを深く被り、マスクをした男性が顔を覗かせる。
一瞬誰か分からなかった。
でも。
「まだ起きてた」
その声で、すぐに分かった。
「天城さん?」
陽向だった。
「なんで……」
「ちょっと忘れ物」
そう言いながら病室へ入ってくる。
陽向が昼間座っていた椅子の近くに置かれていた、小さなポーチを手に取った。
「あー、あった」
「……それだけですか?」
「え?」
「忘れ物」
「うん」
陽向は答えた。
でも。
帰らない。
ポーチを持ったまま、私を見ている。
「……何ですか?」
「いや」
「……」
「……」
気まずい沈黙。
私は目を逸らした。
「もう寝ます」
「嘘」
「え?」
即答された。
「寝る人、そんな目真っ赤じゃないでしょ」
思わず目元を押さえる。
「……泣いてません」
「それも嘘」
「なんで分かるんですか」
「分かるだろ」
当たり前みたいに言われた。
私は言葉に詰まった。
陽向が椅子を引く。
「座っていい?」
「……どうぞ」
ベッドの横に座る。
それから。
「何があった?」
聞かれた。
「何も」
反射的に答えた。
陽向がじっと私を見る。
「なんでもないです」
「……美月さ」
「はい?」
「なんでもないときに、そんな顔すんの?」
心臓が小さく跳ねた。
「そんな顔って……」
「今にも泣きそうな顔」
「……」
「なんでもない顔じゃねえじゃん」
その言葉に。
昼間から必死に押し込めていたものが、また胸の奥から込み上げてきた。
「……本当に」
声が震える。
「大丈夫ですから」
陽向は何も言わない。
ただ。
「そっか」
それだけ言った。
意外だった。
もっと聞かれると思った。
何があった?
話して。
なんで泣いてるの?
そう問い詰められると思ったのに。
陽向はそれ以上聞かず、椅子に深く座り直した。
「……帰らないんですか?」
「もうちょいいる」
「なんで?」
「なんとなく」
「忙しいんじゃ……」
「明日、午後からだから」
「でも」
言いかけて。
やめた。
迷惑じゃないですか。
また言いそうになったから。
陽向が口元を緩める。
「今、迷惑って言おうとした?」
「……言ってません」
「絶対言おうとした」
「顔で分かるんですか?」
「分かるようになってきた」
まだ出会って一日も経っていないのに。
そんなことを言われて。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも。
すぐに罪悪感が押し寄せる。
この人が本当にそばにいてほしいのは。
私じゃない。
紗良なんだ。
「……天城さん」
「ん?」
「紗良さんのこと」
陽向の表情が変わった。
「……うん」
「好きだったんですか?」
聞いてから。
胸が苦しくなった。
何を聞いているんだろう。
でも知りたかった。
この身体の持ち主が。
どんな存在だったのか。
陽向は少し考えた。
「好きっていうか……」
視線を落とす。
「大事だった」
「……」
「めちゃくちゃ長いから。付き合い」
「学生の頃から?」
「うん」
私は、頭の中に流れ込んできた夕暮れの教室を思い出す。
『絶対、アイドルになってね』
あれは。
本当にあったことなのだろうか。
「紗良さんって、どんな人でした?」
陽向が私を見る。
「知りたいの?」
「……はい」
少し迷ってから、頷いた。
陽向は小さく笑った。
「めっちゃ気強い」
「え?」
予想外だった。
「負けず嫌いだし。俺が調子乗ると普通に『うるさい』って言うし」
「……そうなんですか?」
「ゲームやってても俺が勝つまで付き合ってくれない」
「それは天城さんが悪いのでは?」
「え、もう紗良みたいなこと言うじゃん」
「えっ」
陽向が笑った。
ほんの一瞬。
私もつられて笑いそうになる。
「でも」
陽向の笑顔が少しだけ寂しそうになる。
「ずっと応援してくれてた」
「……」
「俺がアイドルやりたいって言ったときも」
胸が鳴る。
「周りが無理だろって言っても、あいつだけは一回も笑わなかった」
やっぱり。
あの記憶は。
本物なんだ。
「『絶対アイドルになってね』って……」
無意識に口から出ていた。
陽向の顔が止まった。
「……なんで」
しまった。
「え?」
「なんでそれ知ってんの?」
心臓が大きく跳ねる。
「それ……」
陽向が身体を起こす。
「紗良が昔言ったやつ」
私は何も言えない。
「テレビで話したことないよ」
陽向の目が、真剣になる。
「紗良から聞いた?」
「違います」
「じゃあ、なんで?」
私は胸元を握った。
「……見えたんです」
「見えた?」
「記憶みたいなものが」
陽向が黙る。
「さっきも言ったけど……たまに、知らない景色が頭に入ってくるんです」
「……」
「制服を着た天城さんと、紗良さんがいて」
私はゆっくり話した。
「夕方の教室で」
「紗良さんが『絶対アイドルになってね』って言って」
陽向の顔から、完全に笑顔が消えていく。
「天城さんが……」
息を整える。
「『俺が売れたら、一番最初に自慢していいから』って」
しん、と静まり返った。
病室には。
機械音だけが響いている。
ピッ。
ピッ。
陽向は何も言わない。
「……合ってますか?」
ようやく聞いた。
陽向が小さく息を吐いた。
「合ってる」
その声は低かった。
「……あれ、誰にも話してない」
「……」
「俺と紗良しか知らない」
陽向が私を見る。
その視線に。
戸惑い。
疑い。
そして。
ほんの少しの期待が混ざっているように見えた。
「じゃあ」
陽向が言う。
「紗良は……まだ中にいるってこと?」
胸が痛んだ。
「分かりません」
「でも記憶があるんでしょ?」
「全部じゃないです」
私は首を振る。
「ほんの少しだけ」
「……」
「しかも突然出てくるだけで、自分では選べないし」
陽向の顔を見る。
「私は……紗良さんじゃないです」
ちゃんと言わなければ。
期待させたくない。
「ごめんなさい」
陽向は黙っていた。
少しして。
「また謝った」
小さく言った。
「え……」
「美月のせいじゃないって言ったじゃん」
「でも……」
「紗良の記憶が残ってるのも、美月が決めたわけじゃないでしょ」
私は俯いた。
「それでも……」
とうとう。
我慢していた気持ちが口からこぼれた。
「怖いんです」
陽向がこちらを見る。
「何が?」
「もし」
唇が震える。
「私が紗良さんの身体を奪ったんだったらって」
言ってしまった。
「私がここにいるせいで」
涙が零れる。
「紗良さんが戻れないんだったら……」
「美月」
「だったら、私なんか――」
「それ以上言わないで」
陽向の声が遮った。
思っていたより強い声。
私はびくっとして顔を上げる。
陽向がすぐに表情を緩めた。
「……ごめん」
また。
すぐに謝る。
でも。
真剣な目で私を見る。
「俺も紗良に戻ってきてほしいよ」
胸が締めつけられる。
「うん」
「今でも」
陽向は少し視線を逸らした。
「お前が紗良じゃないって、正直まだ受け入れられてない」
「……」
「でもさ」
再び目が合う。
「だからって、美月が消えればいいとは思わない」
息が止まった。
「だって」
陽向が眉を寄せる。
「美月だって生きてるじゃん」
その瞬間。
涙が一気に溢れた。
「……なんで」
「え?」
「なんで……そんなこと言うんですか」
「そんなこと?」
「だって私……」
高瀬美月は死んだ。
家族のところにも帰れない。
今いる身体は、他の女性のもの。
私は一体。
誰なんだろう。
どこにいていいんだろう。
そう思っていた。
でも。
陽向は。
「美月だって生きてる」
と言った。
まるで。
私がここにいることを。
認めてくれたみたいに。
「……もう」
泣きながら顔を覆う。
「今日、泣いてばっかり」
「いいじゃん」
陽向が言う。
「泣きたい日なんじゃね?」
「そんな簡単に……」
「難しく考えすぎ」
「……」
「泣きたいなら泣けばいいじゃん」
誰かがそばにいるのに。
我慢しなくていい。
それが。
不思議だった。
しばらくして。
私は小さく呟いた。
「……本当は」
「うん」
「子どもたちに会いたい」
「うん」
「今すぐ行きたい」
「うん」
「抱きしめたい」
涙がまた落ちる。
「ママだよって言いたい」
陽向は何も否定しなかった。
「でも怖い」
「うん」
「知らない顔で行ったら……星たちを傷つけるかもしれない」
「うん」
「どうしたらいいか分からない……」
それでも。
陽向は答えを押しつけなかった。
ただ。
「そっか」
と聞いてくれた。
それだけだった。
でも。
それだけで。
不思議なくらい、呼吸が少し楽になった。
私は涙を拭いた。
「……天城さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「聞いてくれて」
陽向が少し笑った。
「それくらい普通でしょ」
普通。
その言葉が胸に残った。
私にとっては。
ずっと欲しかったことだったのに。
「じゃ、そろそろ寝る?」
陽向が立ち上がる。
「はい」
「明日また来るから」
「え?」
「何その顔」
「また来るんですか?」
「来ちゃダメ?」
「そうじゃないですけど……」
トップアイドルなのに。
忙しいはずなのに。
「紗良さんのため?」
聞いてしまった。
陽向が少し黙る。
やっぱり。
そうだよね。
そう思ったとき。
「それもある」
陽向が答えた。
「……」
「でも」
病室のドアに手をかけてから。
振り返る。
「美月のことも気になるし」
「……え?」
「じゃ、おやすみ」
「ちょっ……」
そのまま陽向は出て行ってしまった。
私は呆然とドアを見つめる。
美月のことも。
気になる。
「……何それ」
心臓が少しだけ速い。
でも。
さっきまでとは違った。
苦しくない。
胸の奥が。
ほんの少しだけ、温かかった。
私は布団に入り直す。
そして。
目を閉じる直前。
ふと思った。
天城陽向は。
テレビの中で見ていたままの人だった。
明るくて。
人の気持ちにすぐ気づいて。
でも。
テレビで見ていたよりもずっと。
優しかった。
――この人みたいな人が、そばにいたら毎日楽しいんだろうな。
昔。
何度も思った言葉。
まさか。
こんな形で。
本当にそばにいることになるなんて。
このときの私は。
まだ知らなかった。
陽向がこれから少しずつ。
一ノ瀬紗良ではなく、高瀬美月を見るようになっていくことを。



