目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

消灯後の病室は、昼間とはまるで違う場所みたいに静かだった。

カーテンの隙間から、街の明かりがぼんやりと差し込んでいる。

私はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。

眠れない。

目を閉じれば、いろんなものが浮かんでくる。

雨の日の交差点。

事故の記事。

夫のSNSに書かれていた、

『妻が事故で亡くなりました』

という文字。

そして。

子どもたちの顔。

「……星」

小さく名前を呼んだ。

もちろん、返事はない。

分かっている。

ここに星はいない。

それでも。

名前を呼びたかった。

「……会いたいな」

昼間、陽向の前ではたくさん泣いた。

だからもう涙なんて出ないと思っていたのに。

頬を、一筋の涙が伝った。

子どもたちは今、何をしているんだろう。

ちゃんとご飯を食べただろうか。

眠れているだろうか。

誰かに抱きしめてもらえている?

泣いたとき。

寂しいとき。

私の代わりに、誰かが頭を撫でてくれている?

「ママ……ここにいるのに」

声が震える。

ここにいる。

でも。

もうママじゃない。

少なくとも、あの子たちから見れば。

私は知らない女の人。

一ノ瀬紗良。

スマートフォンで名前を検索すると、いくらでも情報が出てきた。

人気女優。

ドラマ。

映画。

CM。

綺麗なドレスを着て、レッドカーペットを歩く姿。

インタビューで笑っている姿。

どこを見ても。

華やかな人生だった。

なのに。

私は、その人生を何ひとつ知らない。

「……紗良さん」

自分の胸に手を置く。

「あなたは、どこにいるの?」

返事はない。

でも、ときどき流れ込んでくる記憶がある。

陽向と過ごした学生時代。

デビューが決まった日。

駅で交わした会話。

そして。

陽向への恋心。

紗良は、確かにここにいた。

じゃあ。

今は?

私が入ったせいで消えてしまった?

「……ごめんなさい」

また謝っていた。

陽向には「謝らなくていい」と言われたけれど。

紗良には。

謝らずにはいられなかった。

私は生きている。

彼女の身体で。

でも彼女は――。

「私が……奪っちゃったのかな」

怖かった。

もしそうなら。

私は、誰かの人生を奪ってまで生きていることになる。

そんなの。

許されるの?

私だって、子どもたちのところへ帰りたい。

高瀬美月に戻りたい。

でも。

紗良だって。

本当は生きたかったはずだ。

陽向のそばにいたかったはずだ。

「私じゃなくて……」

ぽろぽろと涙が落ちる。

「紗良さんが戻ってきたほうが……」

そのとき。

ガラッ。

病室のドアが静かに開いた。

私は慌てて顔を拭った。

「……え?」

キャップを深く被り、マスクをした男性が顔を覗かせる。

一瞬誰か分からなかった。

でも。

「まだ起きてた」

その声で、すぐに分かった。

「天城さん?」

陽向だった。

「なんで……」

「ちょっと忘れ物」

そう言いながら病室へ入ってくる。

陽向が昼間座っていた椅子の近くに置かれていた、小さなポーチを手に取った。

「あー、あった」

「……それだけですか?」

「え?」

「忘れ物」

「うん」

陽向は答えた。

でも。

帰らない。

ポーチを持ったまま、私を見ている。

「……何ですか?」

「いや」

「……」

「……」

気まずい沈黙。

私は目を逸らした。

「もう寝ます」

「嘘」

「え?」

即答された。

「寝る人、そんな目真っ赤じゃないでしょ」

思わず目元を押さえる。

「……泣いてません」

「それも嘘」

「なんで分かるんですか」

「分かるだろ」

当たり前みたいに言われた。

私は言葉に詰まった。

陽向が椅子を引く。

「座っていい?」

「……どうぞ」

ベッドの横に座る。

それから。

「何があった?」

聞かれた。

「何も」

反射的に答えた。

陽向がじっと私を見る。

「なんでもないです」

「……美月さ」

「はい?」

「なんでもないときに、そんな顔すんの?」

心臓が小さく跳ねた。

「そんな顔って……」

「今にも泣きそうな顔」

「……」

「なんでもない顔じゃねえじゃん」

その言葉に。

昼間から必死に押し込めていたものが、また胸の奥から込み上げてきた。

「……本当に」

声が震える。

「大丈夫ですから」

陽向は何も言わない。

ただ。

「そっか」

それだけ言った。

意外だった。

もっと聞かれると思った。

何があった?

話して。

なんで泣いてるの?

そう問い詰められると思ったのに。

陽向はそれ以上聞かず、椅子に深く座り直した。

「……帰らないんですか?」

「もうちょいいる」

「なんで?」

「なんとなく」

「忙しいんじゃ……」

「明日、午後からだから」

「でも」

言いかけて。

やめた。

迷惑じゃないですか。

また言いそうになったから。

陽向が口元を緩める。

「今、迷惑って言おうとした?」

「……言ってません」

「絶対言おうとした」

「顔で分かるんですか?」

「分かるようになってきた」

まだ出会って一日も経っていないのに。

そんなことを言われて。

胸の奥が少しだけ温かくなる。

でも。

すぐに罪悪感が押し寄せる。

この人が本当にそばにいてほしいのは。

私じゃない。

紗良なんだ。

「……天城さん」

「ん?」

「紗良さんのこと」

陽向の表情が変わった。

「……うん」

「好きだったんですか?」

聞いてから。

胸が苦しくなった。

何を聞いているんだろう。

でも知りたかった。

この身体の持ち主が。

どんな存在だったのか。

陽向は少し考えた。

「好きっていうか……」

視線を落とす。

「大事だった」

「……」

「めちゃくちゃ長いから。付き合い」

「学生の頃から?」

「うん」

私は、頭の中に流れ込んできた夕暮れの教室を思い出す。

『絶対、アイドルになってね』

あれは。

本当にあったことなのだろうか。

「紗良さんって、どんな人でした?」

陽向が私を見る。

「知りたいの?」

「……はい」

少し迷ってから、頷いた。

陽向は小さく笑った。

「めっちゃ気強い」

「え?」

予想外だった。

「負けず嫌いだし。俺が調子乗ると普通に『うるさい』って言うし」

「……そうなんですか?」

「ゲームやってても俺が勝つまで付き合ってくれない」

「それは天城さんが悪いのでは?」

「え、もう紗良みたいなこと言うじゃん」

「えっ」

陽向が笑った。

ほんの一瞬。

私もつられて笑いそうになる。

「でも」

陽向の笑顔が少しだけ寂しそうになる。

「ずっと応援してくれてた」

「……」

「俺がアイドルやりたいって言ったときも」

胸が鳴る。

「周りが無理だろって言っても、あいつだけは一回も笑わなかった」

やっぱり。

あの記憶は。

本物なんだ。

「『絶対アイドルになってね』って……」

無意識に口から出ていた。

陽向の顔が止まった。

「……なんで」

しまった。

「え?」

「なんでそれ知ってんの?」

心臓が大きく跳ねる。

「それ……」

陽向が身体を起こす。

「紗良が昔言ったやつ」

私は何も言えない。

「テレビで話したことないよ」

陽向の目が、真剣になる。

「紗良から聞いた?」

「違います」

「じゃあ、なんで?」

私は胸元を握った。

「……見えたんです」

「見えた?」

「記憶みたいなものが」

陽向が黙る。

「さっきも言ったけど……たまに、知らない景色が頭に入ってくるんです」

「……」

「制服を着た天城さんと、紗良さんがいて」

私はゆっくり話した。

「夕方の教室で」

「紗良さんが『絶対アイドルになってね』って言って」

陽向の顔から、完全に笑顔が消えていく。

「天城さんが……」

息を整える。

「『俺が売れたら、一番最初に自慢していいから』って」

しん、と静まり返った。

病室には。

機械音だけが響いている。

ピッ。

ピッ。

陽向は何も言わない。

「……合ってますか?」

ようやく聞いた。

陽向が小さく息を吐いた。

「合ってる」

その声は低かった。

「……あれ、誰にも話してない」

「……」

「俺と紗良しか知らない」

陽向が私を見る。

その視線に。

戸惑い。

疑い。

そして。

ほんの少しの期待が混ざっているように見えた。

「じゃあ」

陽向が言う。

「紗良は……まだ中にいるってこと?」

胸が痛んだ。

「分かりません」

「でも記憶があるんでしょ?」

「全部じゃないです」

私は首を振る。

「ほんの少しだけ」

「……」

「しかも突然出てくるだけで、自分では選べないし」

陽向の顔を見る。

「私は……紗良さんじゃないです」

ちゃんと言わなければ。

期待させたくない。

「ごめんなさい」

陽向は黙っていた。

少しして。

「また謝った」

小さく言った。

「え……」

「美月のせいじゃないって言ったじゃん」

「でも……」

「紗良の記憶が残ってるのも、美月が決めたわけじゃないでしょ」

私は俯いた。

「それでも……」

とうとう。

我慢していた気持ちが口からこぼれた。

「怖いんです」

陽向がこちらを見る。

「何が?」

「もし」

唇が震える。

「私が紗良さんの身体を奪ったんだったらって」

言ってしまった。

「私がここにいるせいで」

涙が零れる。

「紗良さんが戻れないんだったら……」

「美月」

「だったら、私なんか――」

「それ以上言わないで」

陽向の声が遮った。

思っていたより強い声。

私はびくっとして顔を上げる。

陽向がすぐに表情を緩めた。

「……ごめん」

また。

すぐに謝る。

でも。

真剣な目で私を見る。

「俺も紗良に戻ってきてほしいよ」

胸が締めつけられる。

「うん」

「今でも」

陽向は少し視線を逸らした。

「お前が紗良じゃないって、正直まだ受け入れられてない」

「……」

「でもさ」

再び目が合う。

「だからって、美月が消えればいいとは思わない」

息が止まった。

「だって」

陽向が眉を寄せる。

「美月だって生きてるじゃん」

その瞬間。

涙が一気に溢れた。

「……なんで」

「え?」

「なんで……そんなこと言うんですか」

「そんなこと?」

「だって私……」

高瀬美月は死んだ。

家族のところにも帰れない。

今いる身体は、他の女性のもの。

私は一体。

誰なんだろう。

どこにいていいんだろう。

そう思っていた。

でも。

陽向は。

「美月だって生きてる」

と言った。

まるで。

私がここにいることを。

認めてくれたみたいに。

「……もう」

泣きながら顔を覆う。

「今日、泣いてばっかり」

「いいじゃん」

陽向が言う。

「泣きたい日なんじゃね?」

「そんな簡単に……」

「難しく考えすぎ」

「……」

「泣きたいなら泣けばいいじゃん」

誰かがそばにいるのに。

我慢しなくていい。

それが。

不思議だった。

しばらくして。

私は小さく呟いた。

「……本当は」

「うん」

「子どもたちに会いたい」

「うん」

「今すぐ行きたい」

「うん」

「抱きしめたい」

涙がまた落ちる。

「ママだよって言いたい」

陽向は何も否定しなかった。

「でも怖い」

「うん」

「知らない顔で行ったら……星たちを傷つけるかもしれない」

「うん」

「どうしたらいいか分からない……」

それでも。

陽向は答えを押しつけなかった。

ただ。

「そっか」

と聞いてくれた。

それだけだった。

でも。

それだけで。

不思議なくらい、呼吸が少し楽になった。

私は涙を拭いた。

「……天城さん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「何が?」

「聞いてくれて」

陽向が少し笑った。

「それくらい普通でしょ」

普通。

その言葉が胸に残った。

私にとっては。

ずっと欲しかったことだったのに。

「じゃ、そろそろ寝る?」

陽向が立ち上がる。

「はい」

「明日また来るから」

「え?」

「何その顔」

「また来るんですか?」

「来ちゃダメ?」

「そうじゃないですけど……」

トップアイドルなのに。

忙しいはずなのに。

「紗良さんのため?」

聞いてしまった。

陽向が少し黙る。

やっぱり。

そうだよね。

そう思ったとき。

「それもある」

陽向が答えた。

「……」

「でも」

病室のドアに手をかけてから。

振り返る。

「美月のことも気になるし」

「……え?」

「じゃ、おやすみ」

「ちょっ……」

そのまま陽向は出て行ってしまった。

私は呆然とドアを見つめる。

美月のことも。

気になる。

「……何それ」

心臓が少しだけ速い。

でも。

さっきまでとは違った。

苦しくない。

胸の奥が。

ほんの少しだけ、温かかった。

私は布団に入り直す。

そして。

目を閉じる直前。

ふと思った。

天城陽向は。

テレビの中で見ていたままの人だった。

明るくて。

人の気持ちにすぐ気づいて。

でも。

テレビで見ていたよりもずっと。

優しかった。

――この人みたいな人が、そばにいたら毎日楽しいんだろうな。

昔。

何度も思った言葉。

まさか。

こんな形で。

本当にそばにいることになるなんて。

このときの私は。

まだ知らなかった。

陽向がこれから少しずつ。

一ノ瀬紗良ではなく、高瀬美月を見るようになっていくことを。