それから。
数週間が経った。
紗良の記憶は。
少しずつ。
戻ってきていた。
でも。
以前のように。
突然。
意識を持っていかれることは。
ほとんどなくなった。
道を歩いていて。
「あ、この店」
と思う。
入ったことなんて。
私はないのに。
紗良が。
何度も来ていた場所だと分かる。
台本を読むと。
昔共演した俳優の。
癖が分かる。
クローゼットを開けば。
どの服を。
どの仕事で着たのか。
ふっと。
思い出す。
それは。
誰かの記憶を。
外から見せられる感覚ではなく。
自分の中に。
少しずつ。
引き出しが増えていくような。
不思議な感覚だった。
「……」
私は。
鏡を見る。
一ノ瀬紗良。
高瀬美月。
以前なら。
どちらかを。
選ばなければいけないと思っていた。
でも。
今は。
少し違う。
私は。
高瀬美月。
それは。
変わらない。
だけど。
一ノ瀬紗良が。
生きてきた三十四年も。
私の中に。
確かに残っている。
「……おはよう」
鏡の中の自分に。
笑いかけた。
もう。
紗良さん。
とは。
呼ばなかった。
◇◇◇
その日は。
ドラマの撮影だった。
復帰後。
初めて。
大きな役を任された作品。
事故前。
紗良が。
出演を決めていたドラマだった。
役は。
家族にも。
恋人にも。
弱音を吐けず。
何でも一人で抱えてしまう女性。
そして。
物語の終盤。
初めて。
好きな人に。
本音をぶつける。
そんな役。
「本番いきます!」
スタッフの声。
私は。
相手役の俳優と。
向かい合う。
カメラが。
回る。
相手役が。
台詞を言う。
「俺のためだって言って」
「勝手にいなくなるなよ」
胸が。
少し。
揺れた。
陽向。
あの日。
私に。
同じようなことを言った。
――なんで一人で全部決めんだよ。
私は。
役として。
答える。
「だって」
「私がいないほうが」
「あなたは幸せになれると思ったから」
「そんなの」
相手役が。
一歩近づく。
「お前が決めることじゃない」
「……」
「俺が誰といたいか」
「俺が決める」
その瞬間。
目の奥が。
熱くなった。
台詞。
これは。
台本。
なのに。
陽向の声に。
聞こえる。
「……私は」
声が。
震える。
でも。
それすら。
役の感情になる。
「怖かったの」
「何が?」
「好きって言って」
「嫌われるのが」
紗良。
そして。
美月。
二人の感情が。
胸の中で。
重なった。
紗良は。
言えなかった。
好き。
寂しい。
そばにいて。
全部。
飲み込んだ。
美月も。
ずっと。
大丈夫。
気にしてない。
私が我慢すれば。
そうやって。
本当の気持ちを。
隠してきた。
二人とも。
似ていた。
だから。
私は。
今。
この身体で。
この台詞を。
言えるのかもしれない。
「でも」
涙が。
頬を伝う。
「本当は」
相手を見る。
「私も」
「あなたに」
「選んでほしかった」
監督は。
止めない。
カメラが。
回り続ける。
「誰かのためじゃなく」
「何かができるからでもなく」
「ただ」
私は。
胸に手を置いた。
「私だから」
「好きだって」
言ってほしかった。
その言葉が。
台本を越えて。
自分自身の心から。
出た。
「……カット!」
静まり返った。
スタジオ。
数秒。
誰も。
動かなかった。
そして。
監督が。
小さく息を吐く。
「……一ノ瀬さん」
「はい」
「すごくよかったです」
「……ありがとうございます」
「事故前より」
監督は。
少し考えて。
「芝居が変わりましたね」
胸が。
小さく鳴る。
「変わりました?」
「ええ」
「前のあなたは」
「もっと綺麗に演じる人だった」
「……」
「でも今は」
監督が笑う。
「痛いくらい」
「本音が伝わってくる」
私は。
何も言えなかった。
だって。
今の私は。
前の紗良だけではないから。
紗良が。
積み重ねてきた技術。
私が。
生きてきた感情。
二つが。
今。
一つの芝居になっている。
「……ありがとうございます」
私は。
今度は。
笑って言った。
◇◇◇
撮影を終えると。
スマートフォンに。
陽向から。
メッセージが来ていた。
『終わった?』
『終わったよ』
『迎え行く』
思わず。
笑う。
『毎回じゃなくていいよ』
すぐに。
返信。
『俺が行きたい』
「……もう」
以前の私なら。
遠慮した。
でも。
今は。
違う。
『じゃあお願い』
それだけ。
送った。
◇◇◇
車に乗ると。
陽向が。
すぐに聞いてきた。
「どうだった?」
「今日?」
「うん」
「監督に」
少し。
笑う。
「事故前より芝居変わったって言われた」
陽向が。
一瞬。
表情を変える。
「……そっか」
「うん」
「嫌だった?」
「ううん」
私は。
首を振る。
「前だったら」
「紗良さんじゃなくなってるって」
「怖かったかもしれない」
「……」
「でも今は」
窓の外を見る。
「違っていいのかなって」
「うん」
「紗良さんが」
「積み重ねてきたものも」
「私が生きてきたものも」
「どっちも」
胸に。
手を置く。
「ここにあるから」
陽向が。
静かに聞いている。
「だから」
私は。
少し笑った。
「今の芝居は」
「今の私にしかできないものなんだって」
「思えた」
信号。
赤。
車が止まる。
陽向が。
私を見る。
「……美月」
「何?」
「強くなったな」
「え?」
「最初」
少し笑う。
「ずっと」
「私なんかがここにいていいのかなって」
「言ってたじゃん」
「……言ってた」
「紗良の身体だから」
「子どものところに帰れないから」
「俺にも」
「紗良じゃないって言い続けて」
「……うん」
「でも今」
陽向が。
私を見る。
「ちゃんと」
「ここにいる」
胸が。
温かくなる。
「陽向のおかげもあるよ」
「俺?」
「うん」
「美月って」
「ずっと呼んでくれたから」
「……」
「私が分からなくなっても」
「陽向が」
「美月を覚えててくれた」
陽向は。
少し照れたように。
前を向いた。
「当たり前」
「うん」
「彼氏なんで」
「それ毎回使うね」
「便利だから」
二人で。
笑った。
◇◇◇
その夜。
陽向は。
私の部屋で。
いつものように。
夕食を食べていた。
「うまっ!」
「今日カレーだよ?」
「カレーはうまいだろ」
「誰が作っても?」
「美月が作ったから」
「……」
最近。
こういう言葉に。
少しは慣れた。
でも。
やっぱり。
嬉しい。
「何?」
陽向が。
私を見る。
「嬉しそう」
「……嬉しいよ」
「お」
「何?」
「素直」
「最近はね」
「成長した」
「上から目線」
「あははっ」
笑い合う。
平和。
本当に。
何でもない。
幸せな時間。
でも。
食事の途中。
陽向が。
ふと。
箸を置いた。
「美月」
「何?」
「今日」
少し。
真面目な顔。
「俺も」
「話したいことある」
胸が。
少し。
ざわつく。
「何?」
「病院のこと」
「……?」
「この前」
「先生に」
陽向が。
一人で。
話を聞きに行っていたらしい。
「俺が?」
「うん」
「何て?」
「記憶が戻ってきてても」
「今の美月の人格が」
「突然全部消えるみたいな可能性は」
「今の状態を見る限り」
「かなり低いって」
「……」
私は。
箸を止めた。
「もちろん」
陽向が続ける。
「絶対ってことは」
「誰にも言えない」
「でも」
「記憶が戻ることと」
「今までの記憶が消えることは」
「別だって」
胸の奥が。
じわっと。
温かくなる。
「……そっか」
「うん」
「先生が」
陽向は。
少し笑った。
「人って」
「昨日までの自分に」
「今日の経験が足されて」
「少しずつ変わってくものでしょって」
「……うん」
「だから」
「事故前の記憶が戻ったとしても」
「事故後に」
「美月が経験したことは」
「なかったことにならないって」
私は。
自分の手を見る。
陽向と。
出会った。
星に。
再び会えた。
歌った。
笑った。
泣いた。
好きになった。
全部。
私が。
生きた時間。
「……よかった」
気づけば。
涙が。
一滴。
落ちていた。
「美月」
「うん」
「怖かったから」
「……」
「ずっと」
「朝起きたら」
「私じゃなくなってるかもって」
「うん」
「でも」
涙を拭う。
「もう」
「大丈夫かもしれない」
「大丈夫じゃなくても」
陽向が。
すぐに。
言い直す。
「俺いるけどな」
私は。
笑った。
「うん」
「いるね」
◇◇◇
食事を片づけ。
二人で。
ソファに座る。
私は。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
「……ねえ」
「ん?」
「陽向は」
「うん」
「今の私」
「どう見えてる?」
「どうって?」
「紗良さんの記憶が」
「かなり戻ってきてる」
「……うん」
「昔より」
「話し方とか」
「癖とか」
「紗良さんに」
「近くなることもあると思う」
「……」
「それでも」
少し。
怖い。
「ちゃんと」
「美月に見える?」
陽向は。
しばらく。
答えなかった。
そして。
「美月」
「うん」
「俺さ」
私の手を。
取る。
「最初」
「紗良の顔してるから」
「紗良だと思った」
「……うん」
「あれは」
「仕方なかったと思う」
「うん」
「それから」
「美月が」
「全然違うことして」
「違うこと言って」
「俺の知らない顔して」
少し笑う。
「紗良じゃないって」
「分かってった」
「……」
「でも今は」
陽向が。
私を。
まっすぐ見る。
「逆」
「逆?」
「美月が」
「紗良っぽいことしても」
「美月にしか見えない」
胸が。
大きく。
鳴った。
「どうして?」
「だって」
陽向が。
少し笑う。
「紗良の記憶があるのも」
「今の美月じゃん」
「……」
「芝居が上手いのも」
「紗良が積み重ねたものが」
「美月の中にあるから」
「うん」
「星ちゃん見ると」
「母親の顔になるのも」
「……」
「俺がキスしたら」
「真っ赤になるのも」
「それは言わなくていい」
陽向が。
笑う。
「全部」
手を。
少し強く握る。
「美月だから」
「……」
涙が。
溢れた。
欲しかった。
この言葉。
ずっと。
ずっと。
私は。
誰かの役割だった。
母親。
妻。
嫁。
そして今は。
一ノ瀬紗良。
でも。
陽向は。
全部まとめて。
美月だと言ってくれる。
「……もう一回」
「え?」
「言って」
「何を?」
「今の」
「全部美月?」
私は。
頷く。
陽向が。
少しだけ。
笑う。
「全部」
私の頬に。
手を触れる。
「美月」
「……」
「泣くとこも」
「笑うとこも」
「星ちゃんのママなとこも」
「紗良の記憶持ってるとこも」
「俺の彼女なとこも」
胸が。
いっぱいになる。
「全部」
「高瀬美月」
私は。
陽向の胸へ。
顔を埋めた。
「……好き」
小さく。
言う。
陽向の腕が。
私を。
優しく抱きしめる。
「俺も」
「……」
「大好き」
◇◇◇
少しして。
私は。
顔を上げた。
陽向と。
目が合う。
何となく。
分かる。
キス。
する。
そう思った。
でも。
今回は。
陽向が。
近づく前に。
私は。
ほんの少し。
自分から。
顔を寄せた。
「……」
陽向が。
固まる。
「美月?」
「何?」
「今」
「うん」
「自分から来た?」
「……」
恥ずかしい。
「やっぱなし」
離れようとすると。
「なしにしない!」
陽向が。
私の腰に。
腕を回す。
「ちょっと!」
「今のは逃がさない」
「陽向!」
「美月から来た!」
嬉しそう。
本当に。
子どもみたい。
「そんな喜ばなくても」
「喜ぶ!」
「もう」
でも。
私も。
笑っていた。
陽向が。
今度は。
ゆっくり。
近づく。
「していい?」
「……うん」
唇が。
重なる。
最初のキスより。
少し。
長い。
でも。
優しい。
怖くない。
離れたあと。
私は。
陽向の肩に。
額をつけた。
「……ねえ」
「何?」
「私」
「うん」
「今」
少し。
笑う。
「すごく幸せ」
陽向が。
一瞬。
息を止めた。
それから。
私の頭を。
抱き寄せる。
「……そっか」
「うん」
「よかった」
「陽向は?」
聞く。
陽向が。
少し笑った。
「俺も」
「本当に?」
「うん」
そして。
耳元で。
囁く。
「美月といる今が」
「今までで」
少し。
間を置いて。
「一番幸せかも」
胸が。
痛いほど。
温かくなった。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
鏡の前に立った。
一ノ瀬紗良の顔。
でも。
もう。
名前を。
確認しなくてもいい。
私は。
高瀬美月。
紗良の記憶を持っていて。
五人の子どもの母親で。
女優として。
新しい仕事をして。
歌が好きで。
チーズケーキが好きで。
そして。
天城陽向を。
好きな人。
全部。
私。
「……美月」
鏡の中の自分へ。
呼びかける。
違和感は。
なかった。
むしろ。
初めて。
この顔で。
自分の名前を呼ぶことが。
自然に思えた。
そして。
私は。
鏡に映る自分へ。
少し笑った。
「おやすみ」
高瀬美月。
明日も。
私として。
生きていこう。
もう。
誰かになるのではなく。
誰かの代わりでもなく。
私が。
私として。
選んだ人生を。
歩いていくために。
数週間が経った。
紗良の記憶は。
少しずつ。
戻ってきていた。
でも。
以前のように。
突然。
意識を持っていかれることは。
ほとんどなくなった。
道を歩いていて。
「あ、この店」
と思う。
入ったことなんて。
私はないのに。
紗良が。
何度も来ていた場所だと分かる。
台本を読むと。
昔共演した俳優の。
癖が分かる。
クローゼットを開けば。
どの服を。
どの仕事で着たのか。
ふっと。
思い出す。
それは。
誰かの記憶を。
外から見せられる感覚ではなく。
自分の中に。
少しずつ。
引き出しが増えていくような。
不思議な感覚だった。
「……」
私は。
鏡を見る。
一ノ瀬紗良。
高瀬美月。
以前なら。
どちらかを。
選ばなければいけないと思っていた。
でも。
今は。
少し違う。
私は。
高瀬美月。
それは。
変わらない。
だけど。
一ノ瀬紗良が。
生きてきた三十四年も。
私の中に。
確かに残っている。
「……おはよう」
鏡の中の自分に。
笑いかけた。
もう。
紗良さん。
とは。
呼ばなかった。
◇◇◇
その日は。
ドラマの撮影だった。
復帰後。
初めて。
大きな役を任された作品。
事故前。
紗良が。
出演を決めていたドラマだった。
役は。
家族にも。
恋人にも。
弱音を吐けず。
何でも一人で抱えてしまう女性。
そして。
物語の終盤。
初めて。
好きな人に。
本音をぶつける。
そんな役。
「本番いきます!」
スタッフの声。
私は。
相手役の俳優と。
向かい合う。
カメラが。
回る。
相手役が。
台詞を言う。
「俺のためだって言って」
「勝手にいなくなるなよ」
胸が。
少し。
揺れた。
陽向。
あの日。
私に。
同じようなことを言った。
――なんで一人で全部決めんだよ。
私は。
役として。
答える。
「だって」
「私がいないほうが」
「あなたは幸せになれると思ったから」
「そんなの」
相手役が。
一歩近づく。
「お前が決めることじゃない」
「……」
「俺が誰といたいか」
「俺が決める」
その瞬間。
目の奥が。
熱くなった。
台詞。
これは。
台本。
なのに。
陽向の声に。
聞こえる。
「……私は」
声が。
震える。
でも。
それすら。
役の感情になる。
「怖かったの」
「何が?」
「好きって言って」
「嫌われるのが」
紗良。
そして。
美月。
二人の感情が。
胸の中で。
重なった。
紗良は。
言えなかった。
好き。
寂しい。
そばにいて。
全部。
飲み込んだ。
美月も。
ずっと。
大丈夫。
気にしてない。
私が我慢すれば。
そうやって。
本当の気持ちを。
隠してきた。
二人とも。
似ていた。
だから。
私は。
今。
この身体で。
この台詞を。
言えるのかもしれない。
「でも」
涙が。
頬を伝う。
「本当は」
相手を見る。
「私も」
「あなたに」
「選んでほしかった」
監督は。
止めない。
カメラが。
回り続ける。
「誰かのためじゃなく」
「何かができるからでもなく」
「ただ」
私は。
胸に手を置いた。
「私だから」
「好きだって」
言ってほしかった。
その言葉が。
台本を越えて。
自分自身の心から。
出た。
「……カット!」
静まり返った。
スタジオ。
数秒。
誰も。
動かなかった。
そして。
監督が。
小さく息を吐く。
「……一ノ瀬さん」
「はい」
「すごくよかったです」
「……ありがとうございます」
「事故前より」
監督は。
少し考えて。
「芝居が変わりましたね」
胸が。
小さく鳴る。
「変わりました?」
「ええ」
「前のあなたは」
「もっと綺麗に演じる人だった」
「……」
「でも今は」
監督が笑う。
「痛いくらい」
「本音が伝わってくる」
私は。
何も言えなかった。
だって。
今の私は。
前の紗良だけではないから。
紗良が。
積み重ねてきた技術。
私が。
生きてきた感情。
二つが。
今。
一つの芝居になっている。
「……ありがとうございます」
私は。
今度は。
笑って言った。
◇◇◇
撮影を終えると。
スマートフォンに。
陽向から。
メッセージが来ていた。
『終わった?』
『終わったよ』
『迎え行く』
思わず。
笑う。
『毎回じゃなくていいよ』
すぐに。
返信。
『俺が行きたい』
「……もう」
以前の私なら。
遠慮した。
でも。
今は。
違う。
『じゃあお願い』
それだけ。
送った。
◇◇◇
車に乗ると。
陽向が。
すぐに聞いてきた。
「どうだった?」
「今日?」
「うん」
「監督に」
少し。
笑う。
「事故前より芝居変わったって言われた」
陽向が。
一瞬。
表情を変える。
「……そっか」
「うん」
「嫌だった?」
「ううん」
私は。
首を振る。
「前だったら」
「紗良さんじゃなくなってるって」
「怖かったかもしれない」
「……」
「でも今は」
窓の外を見る。
「違っていいのかなって」
「うん」
「紗良さんが」
「積み重ねてきたものも」
「私が生きてきたものも」
「どっちも」
胸に。
手を置く。
「ここにあるから」
陽向が。
静かに聞いている。
「だから」
私は。
少し笑った。
「今の芝居は」
「今の私にしかできないものなんだって」
「思えた」
信号。
赤。
車が止まる。
陽向が。
私を見る。
「……美月」
「何?」
「強くなったな」
「え?」
「最初」
少し笑う。
「ずっと」
「私なんかがここにいていいのかなって」
「言ってたじゃん」
「……言ってた」
「紗良の身体だから」
「子どものところに帰れないから」
「俺にも」
「紗良じゃないって言い続けて」
「……うん」
「でも今」
陽向が。
私を見る。
「ちゃんと」
「ここにいる」
胸が。
温かくなる。
「陽向のおかげもあるよ」
「俺?」
「うん」
「美月って」
「ずっと呼んでくれたから」
「……」
「私が分からなくなっても」
「陽向が」
「美月を覚えててくれた」
陽向は。
少し照れたように。
前を向いた。
「当たり前」
「うん」
「彼氏なんで」
「それ毎回使うね」
「便利だから」
二人で。
笑った。
◇◇◇
その夜。
陽向は。
私の部屋で。
いつものように。
夕食を食べていた。
「うまっ!」
「今日カレーだよ?」
「カレーはうまいだろ」
「誰が作っても?」
「美月が作ったから」
「……」
最近。
こういう言葉に。
少しは慣れた。
でも。
やっぱり。
嬉しい。
「何?」
陽向が。
私を見る。
「嬉しそう」
「……嬉しいよ」
「お」
「何?」
「素直」
「最近はね」
「成長した」
「上から目線」
「あははっ」
笑い合う。
平和。
本当に。
何でもない。
幸せな時間。
でも。
食事の途中。
陽向が。
ふと。
箸を置いた。
「美月」
「何?」
「今日」
少し。
真面目な顔。
「俺も」
「話したいことある」
胸が。
少し。
ざわつく。
「何?」
「病院のこと」
「……?」
「この前」
「先生に」
陽向が。
一人で。
話を聞きに行っていたらしい。
「俺が?」
「うん」
「何て?」
「記憶が戻ってきてても」
「今の美月の人格が」
「突然全部消えるみたいな可能性は」
「今の状態を見る限り」
「かなり低いって」
「……」
私は。
箸を止めた。
「もちろん」
陽向が続ける。
「絶対ってことは」
「誰にも言えない」
「でも」
「記憶が戻ることと」
「今までの記憶が消えることは」
「別だって」
胸の奥が。
じわっと。
温かくなる。
「……そっか」
「うん」
「先生が」
陽向は。
少し笑った。
「人って」
「昨日までの自分に」
「今日の経験が足されて」
「少しずつ変わってくものでしょって」
「……うん」
「だから」
「事故前の記憶が戻ったとしても」
「事故後に」
「美月が経験したことは」
「なかったことにならないって」
私は。
自分の手を見る。
陽向と。
出会った。
星に。
再び会えた。
歌った。
笑った。
泣いた。
好きになった。
全部。
私が。
生きた時間。
「……よかった」
気づけば。
涙が。
一滴。
落ちていた。
「美月」
「うん」
「怖かったから」
「……」
「ずっと」
「朝起きたら」
「私じゃなくなってるかもって」
「うん」
「でも」
涙を拭う。
「もう」
「大丈夫かもしれない」
「大丈夫じゃなくても」
陽向が。
すぐに。
言い直す。
「俺いるけどな」
私は。
笑った。
「うん」
「いるね」
◇◇◇
食事を片づけ。
二人で。
ソファに座る。
私は。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
「……ねえ」
「ん?」
「陽向は」
「うん」
「今の私」
「どう見えてる?」
「どうって?」
「紗良さんの記憶が」
「かなり戻ってきてる」
「……うん」
「昔より」
「話し方とか」
「癖とか」
「紗良さんに」
「近くなることもあると思う」
「……」
「それでも」
少し。
怖い。
「ちゃんと」
「美月に見える?」
陽向は。
しばらく。
答えなかった。
そして。
「美月」
「うん」
「俺さ」
私の手を。
取る。
「最初」
「紗良の顔してるから」
「紗良だと思った」
「……うん」
「あれは」
「仕方なかったと思う」
「うん」
「それから」
「美月が」
「全然違うことして」
「違うこと言って」
「俺の知らない顔して」
少し笑う。
「紗良じゃないって」
「分かってった」
「……」
「でも今は」
陽向が。
私を。
まっすぐ見る。
「逆」
「逆?」
「美月が」
「紗良っぽいことしても」
「美月にしか見えない」
胸が。
大きく。
鳴った。
「どうして?」
「だって」
陽向が。
少し笑う。
「紗良の記憶があるのも」
「今の美月じゃん」
「……」
「芝居が上手いのも」
「紗良が積み重ねたものが」
「美月の中にあるから」
「うん」
「星ちゃん見ると」
「母親の顔になるのも」
「……」
「俺がキスしたら」
「真っ赤になるのも」
「それは言わなくていい」
陽向が。
笑う。
「全部」
手を。
少し強く握る。
「美月だから」
「……」
涙が。
溢れた。
欲しかった。
この言葉。
ずっと。
ずっと。
私は。
誰かの役割だった。
母親。
妻。
嫁。
そして今は。
一ノ瀬紗良。
でも。
陽向は。
全部まとめて。
美月だと言ってくれる。
「……もう一回」
「え?」
「言って」
「何を?」
「今の」
「全部美月?」
私は。
頷く。
陽向が。
少しだけ。
笑う。
「全部」
私の頬に。
手を触れる。
「美月」
「……」
「泣くとこも」
「笑うとこも」
「星ちゃんのママなとこも」
「紗良の記憶持ってるとこも」
「俺の彼女なとこも」
胸が。
いっぱいになる。
「全部」
「高瀬美月」
私は。
陽向の胸へ。
顔を埋めた。
「……好き」
小さく。
言う。
陽向の腕が。
私を。
優しく抱きしめる。
「俺も」
「……」
「大好き」
◇◇◇
少しして。
私は。
顔を上げた。
陽向と。
目が合う。
何となく。
分かる。
キス。
する。
そう思った。
でも。
今回は。
陽向が。
近づく前に。
私は。
ほんの少し。
自分から。
顔を寄せた。
「……」
陽向が。
固まる。
「美月?」
「何?」
「今」
「うん」
「自分から来た?」
「……」
恥ずかしい。
「やっぱなし」
離れようとすると。
「なしにしない!」
陽向が。
私の腰に。
腕を回す。
「ちょっと!」
「今のは逃がさない」
「陽向!」
「美月から来た!」
嬉しそう。
本当に。
子どもみたい。
「そんな喜ばなくても」
「喜ぶ!」
「もう」
でも。
私も。
笑っていた。
陽向が。
今度は。
ゆっくり。
近づく。
「していい?」
「……うん」
唇が。
重なる。
最初のキスより。
少し。
長い。
でも。
優しい。
怖くない。
離れたあと。
私は。
陽向の肩に。
額をつけた。
「……ねえ」
「何?」
「私」
「うん」
「今」
少し。
笑う。
「すごく幸せ」
陽向が。
一瞬。
息を止めた。
それから。
私の頭を。
抱き寄せる。
「……そっか」
「うん」
「よかった」
「陽向は?」
聞く。
陽向が。
少し笑った。
「俺も」
「本当に?」
「うん」
そして。
耳元で。
囁く。
「美月といる今が」
「今までで」
少し。
間を置いて。
「一番幸せかも」
胸が。
痛いほど。
温かくなった。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
鏡の前に立った。
一ノ瀬紗良の顔。
でも。
もう。
名前を。
確認しなくてもいい。
私は。
高瀬美月。
紗良の記憶を持っていて。
五人の子どもの母親で。
女優として。
新しい仕事をして。
歌が好きで。
チーズケーキが好きで。
そして。
天城陽向を。
好きな人。
全部。
私。
「……美月」
鏡の中の自分へ。
呼びかける。
違和感は。
なかった。
むしろ。
初めて。
この顔で。
自分の名前を呼ぶことが。
自然に思えた。
そして。
私は。
鏡に映る自分へ。
少し笑った。
「おやすみ」
高瀬美月。
明日も。
私として。
生きていこう。
もう。
誰かになるのではなく。
誰かの代わりでもなく。
私が。
私として。
選んだ人生を。
歩いていくために。



