病院で。
『今の自分が、完全になくなるとは決まっていません』
そう言われてから。
私は。
眠るのが。
少し怖くなった。
朝。
目を覚ましたとき。
私は。
まだ。
高瀬美月だろうか。
昨日までのことを。
覚えているだろうか。
陽向のことを。
好きだと。
ちゃんと思えるだろうか。
「……」
ベッドに入って。
目を閉じる。
でも。
すぐに。
目を開ける。
時計。
午前一時三十分。
「寝なきゃ……」
明日は。
仕事。
こんなことをしていたら。
余計に。
身体を壊す。
分かっている。
なのに。
眠れない。
私は。
枕元のスマートフォンへ。
手を伸ばした。
陽向との。
トーク画面。
一番最後。
『おやすみ』
その前には。
『明日起きたら連絡して』
陽向も。
気にしている。
私が。
朝。
ちゃんと。
美月のまま。
目を覚ますか。
「……陽向」
電話。
したい。
でも。
こんな時間。
明日も。
早いと言っていた。
迷惑。
その言葉が。
頭に浮かぶ。
そして。
陽向の声も。
浮かんだ。
――怖くなったら、ちゃんと言う。
――大丈夫じゃないって言えよ。
私は。
数秒。
画面を見つめる。
そして。
通話ボタンを押した。
一回。
二回。
三回。
『もしもし』
「……」
出た。
早い。
「起きてた?」
『寝てた』
「ごめ――」
止める。
『今、謝ろうとした?』
「……した」
『なんかあった?』
寝起きなのに。
声が。
すぐに。
真面目になる。
私は。
布団を。
胸まで引き上げた。
「眠れない」
『……そっか』
「寝るの」
少し。
声が震える。
「怖い」
電話の向こうが。
静かになる。
『朝起きたら?』
「うん」
『美月じゃなくなってたらって?』
「……うん」
陽向は。
分かっていた。
「目閉じたら」
「このまま」
「私が終わっちゃう気がして」
『うん』
「バカみたいだよね」
『バカじゃない』
すぐに。
返ってきた。
『怖いもんは怖いだろ』
「……うん」
『美月』
「何?」
『今』
陽向が。
ゆっくり聞く。
『名前は?』
「……高瀬美月」
『年齢』
「三十四歳」
『子ども』
「五人」
『一番上』
胸が。
少し。
柔らかくなる。
「星」
『読み方』
「ひかり」
『好きな食べ物』
「チーズケーキ」
『色』
「ピンク」
『好きなこと』
「歌うこと」
『彼氏』
「……」
そこで。
止まる。
『美月?』
「それ言わせたいだけでしょ」
電話の向こう。
陽向が。
笑った。
『バレた?』
「天城陽向」
『はい』
「三十四歳」
『はい』
「アイドル」
『はい』
「玉ねぎ切るの下手」
『そこいらない』
私は。
少し笑った。
ほんの少し。
胸の苦しさが。
和らぐ。
『ほら』
陽向が言う。
『ちゃんと美月じゃん』
「……今はね」
『うん』
「でも明日は」
『明日になったら』
「……」
『また俺が聞く』
「え?」
『名前』
『年齢』
『好きなもの』
『全部』
「……」
『一個ずつ確認すればいい』
涙が。
滲んだ。
「毎日?」
『必要なら毎日』
「仕事あるのに?」
『電話一本くらいできる』
「陽向……」
『だから』
少し。
声が柔らかくなる。
『今日の美月まで』
『明日の美月のこと考えて』
『全部背負わなくていい』
「……」
『今日は』
『今日の美月が寝ればいい』
その言葉が。
胸に。
ゆっくり。
落ちてくる。
今日の私。
「……ねえ」
『ん?』
「電話」
「繋いだままでもいい?」
『いいよ』
「陽向寝不足になる」
『じゃ俺も寝る』
「……仕事遅刻しない?」
『アラームある』
「起きなかったら?」
『美月が起こして』
「私が先に起きたらね」
『うん』
「もし」
また。
言いそうになる。
でも。
陽向が。
先に言った。
『明日のことは明日』
「……うん」
私は。
ようやく。
目を閉じた。
耳元。
陽向の。
呼吸。
それだけで。
少し。
安心する。
「陽向」
『んー?』
もう。
半分。
眠そう。
「好き」
『……』
返事がない。
「寝た?」
『いや』
少しして。
低い声。
『今の』
『眠気全部飛んだ』
「……じゃあ忘れて」
『無理』
「寝て」
『美月も』
「うん」
『好きだよ』
胸が。
温かくなる。
怖さが。
全部消えたわけじゃない。
でも。
その夜。
私は。
ようやく。
眠ることができた。
◇◇◇
朝。
目が覚めた。
カーテンの隙間から。
光。
天井。
「……」
私は。
ゆっくり。
瞬きをする。
ここは。
一ノ瀬紗良の部屋。
いや。
今は。
私が暮らしている部屋。
手を見る。
胸に触れる。
そして。
昨夜のことを。
思い出す。
電話。
陽向。
星。
キス。
デート。
全部。
覚えている。
「……美月」
自分で。
自分の名前を呼ぶ。
ちゃんと。
分かる。
私は。
高瀬美月。
その瞬間。
スマートフォンから。
声がした。
『……起きた?』
「え!?」
びっくりして。
画面を見る。
通話。
まだ。
繋がっていた。
「陽向!?」
『おはよ』
「ずっと繋いでたの!?」
『そう言ったじゃん』
「本当に!?」
『途中で俺一回起きたけど』
「切ればよかったのに」
『嫌だった』
あっさり。
言われる。
「……」
『で?』
「何?」
『今日の名前』
私は。
少し笑った。
「高瀬美月」
『年齢』
「三十四歳」
『子ども』
「五人」
『彼氏』
「しつこい!」
陽向が。
笑う。
『よかった』
その一言だけ。
少し。
声が。
震えていた。
私も。
分かった。
陽向も。
怖かったんだ。
「……うん」
私は。
目元を拭う。
「今日も」
「美月だった」
『うん』
「よかった」
『うん』
今日も。
私は。
ここにいる。
それだけで。
朝が。
少し。
特別に感じた。
◇◇◇
それから。
数日。
何も起きなかった。
頭痛もない。
記憶の混乱もない。
仕事も。
順調。
私は。
少しずつ。
「大丈夫なのかもしれない」
と思い始めていた。
でも。
変化は。
突然だった。
◇◇◇
その日は。
ドラマの。
顔合わせだった。
事故後。
初めて。
演技の仕事へ。
本格的に。
戻る。
「緊張する……」
控室。
台本を持つ手。
少し震える。
演技。
一ノ瀬紗良なら。
できた。
でも。
高瀬美月は。
演技経験なんてない。
ただ。
以前の撮影と同じ。
身体が。
覚えてくれている部分もある。
「……お願いします」
私は。
自分自身に。
言う。
「今日も力貸してね、紗良さん」
返事は。
ない。
当たり前。
台本を開く。
今回。
演じる役は。
仕事一筋で。
周りには。
強い女性に見える。
でも。
本当は。
誰にも言えない孤独を抱えている。
そんな。
三十代の女性。
「……似てる」
少しだけ。
紗良にも。
そして。
昔の私にも。
◇◇◇
撮影テスト。
「一ノ瀬さん」
監督が。
声をかける。
「今日は短いシーンだけいきましょう」
「はい」
相手役の俳優と。
向かい合う。
セリフ。
恋人と。
別れる場面。
相手役が言う。
「お前は一人でも大丈夫だろ」
その瞬間。
胸が。
ざわついた。
台本では。
紗良が演じる役が。
笑う。
『そうね』
『私は大丈夫』
そう。
返す。
私は。
息を吸う。
「……そうね」
その瞬間だった。
頭の中に。
何かが。
流れ込んだ。
――大丈夫。
――私は平気。
紗良。
でも。
以前のような。
映像ではない。
もっと。
近い。
自分の中から。
声がする。
――陽向には言わない。
――寂しいなんて。
「……っ」
一瞬。
意識が。
遠のく。
「一ノ瀬さん?」
相手役の声。
私は。
顔を上げる。
そして。
口から。
勝手に。
言葉が出た。
「……陽向には」
しん。
スタジオが。
静かになる。
「え?」
私は。
自分の口を。
押さえた。
今。
何て?
「一ノ瀬さん?」
監督が。
心配そうに。
近づいてくる。
「すみません」
心臓が。
速い。
「セリフ……間違えました」
「大丈夫ですか?」
「……はい」
違う。
大丈夫じゃない。
「すみません」
私は。
首を振る。
「少し」
正直に。
言う。
「休ませてください」
◇◇◇
控室。
私は。
椅子に座ったまま。
両手を握っていた。
怖い。
何だった?
今の。
紗良の記憶?
でも。
映像じゃない。
まるで。
自分自身が。
紗良になったみたいに。
自然に。
陽向の名前が。
口から出た。
「……私」
自分の手を見る。
「美月だよね?」
高瀬美月。
三十四歳。
子ども五人。
星。
陽向。
チーズケーキ。
歌。
全部。
覚えている。
でも。
一瞬。
紗良だった。
気がした。
私は。
震える手で。
スマートフォンを取った。
陽向。
通話。
『もしもし?』
「……陽向」
声を聞いた瞬間。
泣きそうになる。
『何あった?』
「今」
「私」
『うん』
「紗良さんに」
「なったかもしれない」
電話の向こうが。
静かになった。
◇◇◇
一時間後。
陽向が。
仕事の合間を縫って。
来てくれた。
人目があるから。
控室には。
入れない。
事務所の車。
後部座席。
私は。
そこに座っていた。
「美月」
陽向が。
隣へ乗り込む。
「……」
私は。
すぐに。
顔を上げられなかった。
「何があった?」
全部。
話した。
セリフ。
頭の中の声。
そして。
勝手に。
陽向の名前が出たこと。
陽向は。
途中で。
何も口を挟まなかった。
「……怖かった」
最後。
私は。
そう言った。
「うん」
「本当に」
「私じゃなくなるって」
「こういうことなのかなって」
「……」
「陽向」
顔を上げる。
「私」
「今」
「美月に見える?」
陽向が。
私を見る。
長い。
一秒。
二秒。
怖い。
その顔。
何を。
見てる?
「……美月」
陽向が言った。
「本当に?」
「うん」
「何で分かるの?」
「今」
「?」
「怖いって」
陽向が。
私の手を見る。
「左手の親指」
「握り込んでる」
「……」
見る。
確かに。
拳の中。
左の親指を。
ぎゅっと握っている。
「美月」
陽向が。
少し笑った。
「不安になると」
「それやる」
「……知らなかった」
「俺は知ってる」
涙が。
滲む。
「あと」
陽向が。
私を見る。
「今」
「俺に」
「美月って言ってほしい顔してる」
「……そんな顔ある?」
「ある」
「どんな?」
「めっちゃ不安そう」
私は。
泣きながら。
少し笑った。
「それだけ?」
「あと」
「?」
「来た瞬間」
「俺の服」
陽向が。
自分の袖を見る。
「掴みそうになって」
「我慢した」
「……」
図星。
「美月」
陽向は。
優しく。
私の手を取った。
「今ここにいるの」
「ちゃんと美月」
「……うん」
「紗良の何かが」
「出てきても」
「それで」
「美月全部が消えたわけじゃない」
医師の。
言葉。
――人は新しく経験したことも含めて、その後の自分になる。
「……混ざるのかな」
私が。
小さく言う。
「え?」
「紗良さんと」
「私」
「……」
「どっちかが消えるんじゃなくて」
「記憶とか」
「感情とか」
「少しずつ」
「一つになるのかな」
陽向は。
少し考える。
「分かんない」
「うん」
「でも」
私の手を。
握る。
「もしそうなら」
「?」
「俺が」
「美月のこと」
「ちゃんと覚えてる」
「……」
「美月が」
「分かんなくなったとき」
「俺が教える」
胸が。
ぎゅっとなる。
「高瀬美月は」
陽向が。
指を折る。
「チーズケーキ好き」
「うん」
「歌好き」
「うん」
「俺の飯には厳しい」
「陽向の料理が雑なの」
「俺のこと大好き」
「……それ毎回入れる?」
「重要」
「もう」
陽向が。
笑う。
そして。
少し。
真面目な顔になる。
「星ちゃんのママ」
「……うん」
「五人の子どもを」
「めちゃくちゃ大事にしてる」
「……うん」
「人に気使いすぎて」
「自分のこと後回しにする」
「……」
「でも最近」
「少しずつ」
「自分がどうしたいか」
「言えるようになった」
涙が。
一滴。
落ちた。
「俺の前で」
「疲れたって」
「言えるようになった」
「うん」
「怖いって」
「言えるようになった」
「……うん」
「幸せになりたいって」
「言った」
「うん」
陽向が。
私の手を。
胸の前で。
包む。
「それ」
「全部」
「俺が知ってる美月」
涙が。
止まらなくなった。
「だから」
「?」
「もし」
陽向の声が。
少し震えた。
「明日」
「美月が」
「自分のこと」
「分かんなくなっても」
「……」
「俺は」
「美月のこと」
「忘れない」
「陽向……」
「何回でも」
「教える」
「……うん」
「何回でも」
「美月って呼ぶ」
私は。
とうとう。
陽向に。
抱きついた。
陽向も。
すぐに。
抱きしめ返す。
「……怖かった」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
陽向の胸。
ちゃんと。
知っている。
匂いも。
声も。
鼓動も。
「陽向が」
「分かってくれるなら」
涙を。
拭う。
「少し」
「大丈夫かも」
「大丈夫じゃなくてもいい」
「……」
「俺いるし」
胸が。
温かくなる。
「……うん」
◇◇◇
その日の夜。
仕事を終え。
私は。
自宅へ戻った。
鏡。
一ノ瀬紗良の顔。
「……紗良さん」
今日。
一瞬。
あなたに。
近づいた気がした。
怖かった。
でも。
考えてみる。
私は。
あなたの身体で。
生きている。
あなたが。
三十四年間。
積み重ねてきた。
身体。
癖。
技術。
そして。
記憶。
全部を。
完全に。
切り離せるわけじゃない。
「……一緒に」
鏡の中へ。
話しかける。
「生きるのかな」
紗良でもなく。
昔の美月だけでもなく。
紗良の人生を。
無視しない。
美月の人生も。
消さない。
両方を。
抱えながら。
私は。
これから。
生きていく。
それが。
二度目の人生。
なのかもしれない。
◇◇◇
スマートフォンが。
鳴る。
陽向。
『名前』
私は。
笑った。
返信。
『高瀬美月』
すぐに。
『年齢』
『34歳』
『好きな食べ物』
『チーズケーキ』
『子ども』
『5人』
少しして。
『好きな男』
「……」
私は。
画面を見ながら。
笑う。
『天城陽向』
送信。
既読。
そして。
しばらく。
返事がない。
「……?」
一分後。
電話。
「もしもし?」
『美月』
「何?」
『今のスクショした』
「消して!」
『一生保存する』
「やめて!」
『だって美月証明じゃん』
「何それ」
『明日も聞く』
「毎日はいいよ」
『ダメ』
「どうして?」
少し。
間。
『俺が聞きたいから』
「……」
やっぱり。
ずるい。
「じゃあ」
私は。
ベッドに座る。
「陽向も」
『何?』
「名前」
『天城陽向』
「年齢」
『三十四』
「好きな食べ物」
『肉、ラーメン、美月の飯』
「最後料理じゃない」
『好きな女』
「……」
聞いておいて。
自分が。
恥ずかしくなる。
でも。
陽向は。
迷わなかった。
『高瀬美月』
胸が。
大きく。
鳴る。
『五人の子どものママで』
「……」
『今は一ノ瀬紗良の身体で生きてて』
「うん」
『泣き虫で』
「余計」
『すぐ我慢して』
「……」
『でも』
声が。
優しくなる。
『俺が好きになった』
『美月』
涙が。
また。
出た。
「……うん」
『だから』
「何?」
『明日も』
少し。
笑う声。
『ちゃんと美月でいて』
私は。
涙を拭った。
「……うん」
でも。
そのあと。
首を振る。
「違う」
『え?』
「明日」
「何か変わっても」
「……」
私は。
鏡の中の。
自分を見る。
「私」
「私でいる」
『……うん』
「紗良さんの記憶が」
「もっと戻っても」
「私は」
胸に。
手を置く。
「高瀬美月として生きる」
陽向が。
静かに。
『うん』
と。
答えた。
私は。
もう。
消えることだけを。
怖がるのをやめた。
未来は。
分からない。
明日。
何が起きるのかも。
分からない。
でも。
たとえ。
紗良の記憶が。
全部戻ったとしても。
陽向と過ごした時間。
星と。
再び出会った時間。
そして。
私が。
自分自身を。
大切にしようと。
初めて思えた時間。
それは。
もう。
誰にも。
消せない。
「陽向」
『ん?』
「明日も」
少し笑う。
「美月って呼んでね」
電話の向こう。
陽向が。
笑った。
『明日だけじゃない』
「え?」
『これからも』
そして。
はっきり。
言った。
『ずっと呼ぶ』
その言葉を。
私は。
今度こそ。
怖がらずに。
受け取った。
『今の自分が、完全になくなるとは決まっていません』
そう言われてから。
私は。
眠るのが。
少し怖くなった。
朝。
目を覚ましたとき。
私は。
まだ。
高瀬美月だろうか。
昨日までのことを。
覚えているだろうか。
陽向のことを。
好きだと。
ちゃんと思えるだろうか。
「……」
ベッドに入って。
目を閉じる。
でも。
すぐに。
目を開ける。
時計。
午前一時三十分。
「寝なきゃ……」
明日は。
仕事。
こんなことをしていたら。
余計に。
身体を壊す。
分かっている。
なのに。
眠れない。
私は。
枕元のスマートフォンへ。
手を伸ばした。
陽向との。
トーク画面。
一番最後。
『おやすみ』
その前には。
『明日起きたら連絡して』
陽向も。
気にしている。
私が。
朝。
ちゃんと。
美月のまま。
目を覚ますか。
「……陽向」
電話。
したい。
でも。
こんな時間。
明日も。
早いと言っていた。
迷惑。
その言葉が。
頭に浮かぶ。
そして。
陽向の声も。
浮かんだ。
――怖くなったら、ちゃんと言う。
――大丈夫じゃないって言えよ。
私は。
数秒。
画面を見つめる。
そして。
通話ボタンを押した。
一回。
二回。
三回。
『もしもし』
「……」
出た。
早い。
「起きてた?」
『寝てた』
「ごめ――」
止める。
『今、謝ろうとした?』
「……した」
『なんかあった?』
寝起きなのに。
声が。
すぐに。
真面目になる。
私は。
布団を。
胸まで引き上げた。
「眠れない」
『……そっか』
「寝るの」
少し。
声が震える。
「怖い」
電話の向こうが。
静かになる。
『朝起きたら?』
「うん」
『美月じゃなくなってたらって?』
「……うん」
陽向は。
分かっていた。
「目閉じたら」
「このまま」
「私が終わっちゃう気がして」
『うん』
「バカみたいだよね」
『バカじゃない』
すぐに。
返ってきた。
『怖いもんは怖いだろ』
「……うん」
『美月』
「何?」
『今』
陽向が。
ゆっくり聞く。
『名前は?』
「……高瀬美月」
『年齢』
「三十四歳」
『子ども』
「五人」
『一番上』
胸が。
少し。
柔らかくなる。
「星」
『読み方』
「ひかり」
『好きな食べ物』
「チーズケーキ」
『色』
「ピンク」
『好きなこと』
「歌うこと」
『彼氏』
「……」
そこで。
止まる。
『美月?』
「それ言わせたいだけでしょ」
電話の向こう。
陽向が。
笑った。
『バレた?』
「天城陽向」
『はい』
「三十四歳」
『はい』
「アイドル」
『はい』
「玉ねぎ切るの下手」
『そこいらない』
私は。
少し笑った。
ほんの少し。
胸の苦しさが。
和らぐ。
『ほら』
陽向が言う。
『ちゃんと美月じゃん』
「……今はね」
『うん』
「でも明日は」
『明日になったら』
「……」
『また俺が聞く』
「え?」
『名前』
『年齢』
『好きなもの』
『全部』
「……」
『一個ずつ確認すればいい』
涙が。
滲んだ。
「毎日?」
『必要なら毎日』
「仕事あるのに?」
『電話一本くらいできる』
「陽向……」
『だから』
少し。
声が柔らかくなる。
『今日の美月まで』
『明日の美月のこと考えて』
『全部背負わなくていい』
「……」
『今日は』
『今日の美月が寝ればいい』
その言葉が。
胸に。
ゆっくり。
落ちてくる。
今日の私。
「……ねえ」
『ん?』
「電話」
「繋いだままでもいい?」
『いいよ』
「陽向寝不足になる」
『じゃ俺も寝る』
「……仕事遅刻しない?」
『アラームある』
「起きなかったら?」
『美月が起こして』
「私が先に起きたらね」
『うん』
「もし」
また。
言いそうになる。
でも。
陽向が。
先に言った。
『明日のことは明日』
「……うん」
私は。
ようやく。
目を閉じた。
耳元。
陽向の。
呼吸。
それだけで。
少し。
安心する。
「陽向」
『んー?』
もう。
半分。
眠そう。
「好き」
『……』
返事がない。
「寝た?」
『いや』
少しして。
低い声。
『今の』
『眠気全部飛んだ』
「……じゃあ忘れて」
『無理』
「寝て」
『美月も』
「うん」
『好きだよ』
胸が。
温かくなる。
怖さが。
全部消えたわけじゃない。
でも。
その夜。
私は。
ようやく。
眠ることができた。
◇◇◇
朝。
目が覚めた。
カーテンの隙間から。
光。
天井。
「……」
私は。
ゆっくり。
瞬きをする。
ここは。
一ノ瀬紗良の部屋。
いや。
今は。
私が暮らしている部屋。
手を見る。
胸に触れる。
そして。
昨夜のことを。
思い出す。
電話。
陽向。
星。
キス。
デート。
全部。
覚えている。
「……美月」
自分で。
自分の名前を呼ぶ。
ちゃんと。
分かる。
私は。
高瀬美月。
その瞬間。
スマートフォンから。
声がした。
『……起きた?』
「え!?」
びっくりして。
画面を見る。
通話。
まだ。
繋がっていた。
「陽向!?」
『おはよ』
「ずっと繋いでたの!?」
『そう言ったじゃん』
「本当に!?」
『途中で俺一回起きたけど』
「切ればよかったのに」
『嫌だった』
あっさり。
言われる。
「……」
『で?』
「何?」
『今日の名前』
私は。
少し笑った。
「高瀬美月」
『年齢』
「三十四歳」
『子ども』
「五人」
『彼氏』
「しつこい!」
陽向が。
笑う。
『よかった』
その一言だけ。
少し。
声が。
震えていた。
私も。
分かった。
陽向も。
怖かったんだ。
「……うん」
私は。
目元を拭う。
「今日も」
「美月だった」
『うん』
「よかった」
『うん』
今日も。
私は。
ここにいる。
それだけで。
朝が。
少し。
特別に感じた。
◇◇◇
それから。
数日。
何も起きなかった。
頭痛もない。
記憶の混乱もない。
仕事も。
順調。
私は。
少しずつ。
「大丈夫なのかもしれない」
と思い始めていた。
でも。
変化は。
突然だった。
◇◇◇
その日は。
ドラマの。
顔合わせだった。
事故後。
初めて。
演技の仕事へ。
本格的に。
戻る。
「緊張する……」
控室。
台本を持つ手。
少し震える。
演技。
一ノ瀬紗良なら。
できた。
でも。
高瀬美月は。
演技経験なんてない。
ただ。
以前の撮影と同じ。
身体が。
覚えてくれている部分もある。
「……お願いします」
私は。
自分自身に。
言う。
「今日も力貸してね、紗良さん」
返事は。
ない。
当たり前。
台本を開く。
今回。
演じる役は。
仕事一筋で。
周りには。
強い女性に見える。
でも。
本当は。
誰にも言えない孤独を抱えている。
そんな。
三十代の女性。
「……似てる」
少しだけ。
紗良にも。
そして。
昔の私にも。
◇◇◇
撮影テスト。
「一ノ瀬さん」
監督が。
声をかける。
「今日は短いシーンだけいきましょう」
「はい」
相手役の俳優と。
向かい合う。
セリフ。
恋人と。
別れる場面。
相手役が言う。
「お前は一人でも大丈夫だろ」
その瞬間。
胸が。
ざわついた。
台本では。
紗良が演じる役が。
笑う。
『そうね』
『私は大丈夫』
そう。
返す。
私は。
息を吸う。
「……そうね」
その瞬間だった。
頭の中に。
何かが。
流れ込んだ。
――大丈夫。
――私は平気。
紗良。
でも。
以前のような。
映像ではない。
もっと。
近い。
自分の中から。
声がする。
――陽向には言わない。
――寂しいなんて。
「……っ」
一瞬。
意識が。
遠のく。
「一ノ瀬さん?」
相手役の声。
私は。
顔を上げる。
そして。
口から。
勝手に。
言葉が出た。
「……陽向には」
しん。
スタジオが。
静かになる。
「え?」
私は。
自分の口を。
押さえた。
今。
何て?
「一ノ瀬さん?」
監督が。
心配そうに。
近づいてくる。
「すみません」
心臓が。
速い。
「セリフ……間違えました」
「大丈夫ですか?」
「……はい」
違う。
大丈夫じゃない。
「すみません」
私は。
首を振る。
「少し」
正直に。
言う。
「休ませてください」
◇◇◇
控室。
私は。
椅子に座ったまま。
両手を握っていた。
怖い。
何だった?
今の。
紗良の記憶?
でも。
映像じゃない。
まるで。
自分自身が。
紗良になったみたいに。
自然に。
陽向の名前が。
口から出た。
「……私」
自分の手を見る。
「美月だよね?」
高瀬美月。
三十四歳。
子ども五人。
星。
陽向。
チーズケーキ。
歌。
全部。
覚えている。
でも。
一瞬。
紗良だった。
気がした。
私は。
震える手で。
スマートフォンを取った。
陽向。
通話。
『もしもし?』
「……陽向」
声を聞いた瞬間。
泣きそうになる。
『何あった?』
「今」
「私」
『うん』
「紗良さんに」
「なったかもしれない」
電話の向こうが。
静かになった。
◇◇◇
一時間後。
陽向が。
仕事の合間を縫って。
来てくれた。
人目があるから。
控室には。
入れない。
事務所の車。
後部座席。
私は。
そこに座っていた。
「美月」
陽向が。
隣へ乗り込む。
「……」
私は。
すぐに。
顔を上げられなかった。
「何があった?」
全部。
話した。
セリフ。
頭の中の声。
そして。
勝手に。
陽向の名前が出たこと。
陽向は。
途中で。
何も口を挟まなかった。
「……怖かった」
最後。
私は。
そう言った。
「うん」
「本当に」
「私じゃなくなるって」
「こういうことなのかなって」
「……」
「陽向」
顔を上げる。
「私」
「今」
「美月に見える?」
陽向が。
私を見る。
長い。
一秒。
二秒。
怖い。
その顔。
何を。
見てる?
「……美月」
陽向が言った。
「本当に?」
「うん」
「何で分かるの?」
「今」
「?」
「怖いって」
陽向が。
私の手を見る。
「左手の親指」
「握り込んでる」
「……」
見る。
確かに。
拳の中。
左の親指を。
ぎゅっと握っている。
「美月」
陽向が。
少し笑った。
「不安になると」
「それやる」
「……知らなかった」
「俺は知ってる」
涙が。
滲む。
「あと」
陽向が。
私を見る。
「今」
「俺に」
「美月って言ってほしい顔してる」
「……そんな顔ある?」
「ある」
「どんな?」
「めっちゃ不安そう」
私は。
泣きながら。
少し笑った。
「それだけ?」
「あと」
「?」
「来た瞬間」
「俺の服」
陽向が。
自分の袖を見る。
「掴みそうになって」
「我慢した」
「……」
図星。
「美月」
陽向は。
優しく。
私の手を取った。
「今ここにいるの」
「ちゃんと美月」
「……うん」
「紗良の何かが」
「出てきても」
「それで」
「美月全部が消えたわけじゃない」
医師の。
言葉。
――人は新しく経験したことも含めて、その後の自分になる。
「……混ざるのかな」
私が。
小さく言う。
「え?」
「紗良さんと」
「私」
「……」
「どっちかが消えるんじゃなくて」
「記憶とか」
「感情とか」
「少しずつ」
「一つになるのかな」
陽向は。
少し考える。
「分かんない」
「うん」
「でも」
私の手を。
握る。
「もしそうなら」
「?」
「俺が」
「美月のこと」
「ちゃんと覚えてる」
「……」
「美月が」
「分かんなくなったとき」
「俺が教える」
胸が。
ぎゅっとなる。
「高瀬美月は」
陽向が。
指を折る。
「チーズケーキ好き」
「うん」
「歌好き」
「うん」
「俺の飯には厳しい」
「陽向の料理が雑なの」
「俺のこと大好き」
「……それ毎回入れる?」
「重要」
「もう」
陽向が。
笑う。
そして。
少し。
真面目な顔になる。
「星ちゃんのママ」
「……うん」
「五人の子どもを」
「めちゃくちゃ大事にしてる」
「……うん」
「人に気使いすぎて」
「自分のこと後回しにする」
「……」
「でも最近」
「少しずつ」
「自分がどうしたいか」
「言えるようになった」
涙が。
一滴。
落ちた。
「俺の前で」
「疲れたって」
「言えるようになった」
「うん」
「怖いって」
「言えるようになった」
「……うん」
「幸せになりたいって」
「言った」
「うん」
陽向が。
私の手を。
胸の前で。
包む。
「それ」
「全部」
「俺が知ってる美月」
涙が。
止まらなくなった。
「だから」
「?」
「もし」
陽向の声が。
少し震えた。
「明日」
「美月が」
「自分のこと」
「分かんなくなっても」
「……」
「俺は」
「美月のこと」
「忘れない」
「陽向……」
「何回でも」
「教える」
「……うん」
「何回でも」
「美月って呼ぶ」
私は。
とうとう。
陽向に。
抱きついた。
陽向も。
すぐに。
抱きしめ返す。
「……怖かった」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
陽向の胸。
ちゃんと。
知っている。
匂いも。
声も。
鼓動も。
「陽向が」
「分かってくれるなら」
涙を。
拭う。
「少し」
「大丈夫かも」
「大丈夫じゃなくてもいい」
「……」
「俺いるし」
胸が。
温かくなる。
「……うん」
◇◇◇
その日の夜。
仕事を終え。
私は。
自宅へ戻った。
鏡。
一ノ瀬紗良の顔。
「……紗良さん」
今日。
一瞬。
あなたに。
近づいた気がした。
怖かった。
でも。
考えてみる。
私は。
あなたの身体で。
生きている。
あなたが。
三十四年間。
積み重ねてきた。
身体。
癖。
技術。
そして。
記憶。
全部を。
完全に。
切り離せるわけじゃない。
「……一緒に」
鏡の中へ。
話しかける。
「生きるのかな」
紗良でもなく。
昔の美月だけでもなく。
紗良の人生を。
無視しない。
美月の人生も。
消さない。
両方を。
抱えながら。
私は。
これから。
生きていく。
それが。
二度目の人生。
なのかもしれない。
◇◇◇
スマートフォンが。
鳴る。
陽向。
『名前』
私は。
笑った。
返信。
『高瀬美月』
すぐに。
『年齢』
『34歳』
『好きな食べ物』
『チーズケーキ』
『子ども』
『5人』
少しして。
『好きな男』
「……」
私は。
画面を見ながら。
笑う。
『天城陽向』
送信。
既読。
そして。
しばらく。
返事がない。
「……?」
一分後。
電話。
「もしもし?」
『美月』
「何?」
『今のスクショした』
「消して!」
『一生保存する』
「やめて!」
『だって美月証明じゃん』
「何それ」
『明日も聞く』
「毎日はいいよ」
『ダメ』
「どうして?」
少し。
間。
『俺が聞きたいから』
「……」
やっぱり。
ずるい。
「じゃあ」
私は。
ベッドに座る。
「陽向も」
『何?』
「名前」
『天城陽向』
「年齢」
『三十四』
「好きな食べ物」
『肉、ラーメン、美月の飯』
「最後料理じゃない」
『好きな女』
「……」
聞いておいて。
自分が。
恥ずかしくなる。
でも。
陽向は。
迷わなかった。
『高瀬美月』
胸が。
大きく。
鳴る。
『五人の子どものママで』
「……」
『今は一ノ瀬紗良の身体で生きてて』
「うん」
『泣き虫で』
「余計」
『すぐ我慢して』
「……」
『でも』
声が。
優しくなる。
『俺が好きになった』
『美月』
涙が。
また。
出た。
「……うん」
『だから』
「何?」
『明日も』
少し。
笑う声。
『ちゃんと美月でいて』
私は。
涙を拭った。
「……うん」
でも。
そのあと。
首を振る。
「違う」
『え?』
「明日」
「何か変わっても」
「……」
私は。
鏡の中の。
自分を見る。
「私」
「私でいる」
『……うん』
「紗良さんの記憶が」
「もっと戻っても」
「私は」
胸に。
手を置く。
「高瀬美月として生きる」
陽向が。
静かに。
『うん』
と。
答えた。
私は。
もう。
消えることだけを。
怖がるのをやめた。
未来は。
分からない。
明日。
何が起きるのかも。
分からない。
でも。
たとえ。
紗良の記憶が。
全部戻ったとしても。
陽向と過ごした時間。
星と。
再び出会った時間。
そして。
私が。
自分自身を。
大切にしようと。
初めて思えた時間。
それは。
もう。
誰にも。
消せない。
「陽向」
『ん?』
「明日も」
少し笑う。
「美月って呼んでね」
電話の向こう。
陽向が。
笑った。
『明日だけじゃない』
「え?」
『これからも』
そして。
はっきり。
言った。
『ずっと呼ぶ』
その言葉を。
私は。
今度こそ。
怖がらずに。
受け取った。



