陽向と初めて。
普通のデートをしてから。
数日後。
私は。
久しぶりに。
病院へ来ていた。
事故後の。
定期検診。
身体そのものは。
もう。
ほとんど問題ない。
仕事にも。
少しずつ戻れている。
頭痛も。
紗良の記憶が流れ込んでくることも。
あの最後の日以来。
一度もない。
だから。
私は。
今日も。
簡単な診察だけで終わると。
そう思っていた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
医師が。
検査結果を見ながら。
少し笑う。
「身体の状態は、かなり安定していますね」
「よかった……」
ほっと。
息を吐く。
「仕事も復帰されたそうで」
「はい」
「無理はしていませんか?」
「今のところは」
以前だったら。
反射的に。
『大丈夫です』
と言っていた。
でも今は。
少しだけ。
考えてから答えられる。
「疲れたら、ちゃんと休むようにしてます」
「それが一番です」
医師が。
頷く。
「頭痛は?」
「最近はありません」
「記憶の混乱は?」
「……」
一瞬。
言葉に詰まる。
この人に。
本当のことを。
話すことはできない。
私は。
一ノ瀬紗良ではない。
高瀬美月。
でも。
それを話したところで。
信じてもらえるとは。
思えない。
「……落ち着いています」
「そうですか」
医師は。
カルテに。
何かを書き込む。
これで。
終わり。
そう思った。
でも。
「ただ」
その一言に。
私は。
顔を上げた。
「一ノ瀬さん」
医師の表情が。
少しだけ。
真面目になる。
「事故直後に」
「天城さんにも」
「一度お話ししたのですが」
「……陽向に?」
胸が。
ざわついた。
「はい」
「何を……ですか?」
医師は。
少し。
言葉を選ぶ。
「今回の事故では」
「頭部にも大きな衝撃がありました」
「……はい」
「記憶が大きく欠けたり」
「事故前後で」
「性格や行動に変化が出たりするケースもあります」
「……」
それは。
もう。
私たちが。
何度も。
感じてきたこと。
でも。
医師は。
続けた。
「そして」
「記憶が戻る過程で」
「本人の認識や」
「人格のように見える部分が」
「大きく揺れる可能性も」
「完全には否定できません」
心臓が。
嫌な音を立てた。
「……人格?」
「もちろん」
すぐに。
医師が補足する。
「医学的に」
「別の人格が突然消えて」
「元の人格に戻る」
「と断言しているわけではありません」
「……」
「ただ」
「事故後の混乱が強かったこともありますから」
「ご本人が」
「『自分は誰なのか』という感覚で」
「再び不安定になる可能性はあります」
頭の中が。
真っ白になる。
医師は。
医学的な話をしている。
私が。
高瀬美月だなんて。
知らない。
でも。
私には。
違う意味にしか。
聞こえなかった。
――紗良が戻るかもしれない。
――そのとき。
――美月は?
「……もし」
自分でも。
驚くほど。
声が震えた。
「もし」
「事故前の記憶が」
「全部戻ったら」
医師が。
私を見る。
「……はい」
「今の私は」
喉が。
詰まる。
「どうなるんですか?」
「……」
医師は。
少し考える。
「そこは」
「何とも言えません」
「……」
「記憶が戻っても」
「事故後の経験が消えるとは限りません」
「人は」
「新しく経験したことも含めて」
「その後の自分になりますから」
「……」
「ただ」
医師が。
優しく言う。
「今のご自身が」
「完全になくなると決まったわけではありません」
その言葉。
安心させるためのもの。
なのに。
私は。
一つだけ。
引っかかった。
――なくなると決まったわけではない。
つまり。
絶対に。
なくならないとも。
言えない。
「……そうですか」
私は。
どうにか。
それだけ答えた。
◇◇◇
病院を出る。
空は。
晴れていた。
なのに。
私は。
少しも。
外を見られなかった。
スマートフォン。
陽向から。
メッセージが来ている。
『病院終わった?』
いつもなら。
すぐに。
返す。
でも。
今日は。
指が動かない。
陽向は。
知っていた。
事故直後。
医師から。
同じ話を。
聞いていた。
「……なんで」
小さく。
呟く。
「言ってくれなかったの?」
怒っている。
わけじゃない。
でも。
怖い。
もし。
最初から。
陽向が。
いつか紗良が戻るかもしれないと。
思っていたなら。
だったら。
今の私は?
一時的な存在?
陽向は。
それでも。
私を好きになった?
「……」
胸が。
苦しい。
その瞬間。
スマートフォンが。
また鳴った。
今度は。
電話。
陽向。
迷って。
でも。
出た。
「……もしもし」
『美月?』
声を聞いた瞬間。
泣きそうになった。
『終わった?』
「うん」
『どうだった?』
「……」
答えられない。
『美月?』
陽向の声が。
変わる。
『何かあった?』
「陽向」
『うん』
「……知ってた?」
電話の向こう。
沈黙。
その一瞬で。
分かった。
知ってた。
「医者に」
声が。
震える。
「事故のあと」
「記憶が戻る過程で」
「人格が揺れるかもしれないって」
『……』
「言われてたんでしょ?」
しばらく。
返事はなかった。
そして。
陽向が。
小さく。
『……うん』
と言った。
胸が。
ずきんと痛んだ。
「……そっか」
『美月』
「なんで」
涙が。
落ちる。
「なんで言わなかったの?」
『……』
「私に」
『今どこ?』
「質問に答えて」
『答えるから』
陽向の声が。
低くなる。
『今どこにいる?』
「病院の近く」
『一人?』
「うん」
『そこにいて』
「え?」
『行く』
「陽向」
『電話切らないで』
その声。
真剣。
私は。
何も言えなくなった。
◇◇◇
少しして。
見慣れた車が。
止まった。
助手席のドアが。
開く。
「美月」
陽向が。
降りてくる。
帽子。
マスク。
でも。
目だけで。
分かる。
すごく。
心配している。
「車乗ろ」
私は。
黙って。
頷いた。
◇◇◇
車の中。
エンジンは。
かかっていない。
二人。
並んで座る。
でも。
私は。
陽向を見られなかった。
「……ごめん」
先に。
陽向が言った。
私は。
膝の上の手を見る。
「どうして」
「うん」
「言わなかったの?」
陽向は。
少し。
黙る。
「怖かったから」
「……何が?」
「美月に」
陽向が。
息を吐く。
「言うのが」
「……」
「事故直後」
「まだ美月が」
「自分が高瀬美月だって」
「何回も言ってたとき」
「医者から」
「そういう可能性もあるって聞いた」
「うん」
「そのときの俺は」
拳を握る。
「正直」
「……」
「紗良が戻る可能性があるなら」
「戻ってきてほしいって」
「思った」
胸が。
痛い。
でも。
それは。
知っている。
あの頃の陽向。
私は。
まだ。
知らない女性。
紗良は。
三十四年。
一緒にいた。
大切な人。
「……うん」
「だから」
陽向が。
苦しそうに続ける。
「言えなかった」
「俺が」
「その可能性に期待してるって」
「美月に知られるの」
「……」
「最低だと思った」
「陽向……」
「でも」
顔を上げる。
「途中から」
「意味が変わった」
「……え?」
陽向が。
私を見る。
「美月が」
「美月だって」
「分かってきて」
「……」
「俺が美月を」
「好きになって」
「……うん」
「今度は」
声が。
少し震えた。
「紗良が戻るかもしれないって」
「美月に言うのが」
「怖くなった」
「……どうして?」
陽向は。
答えるまで。
少し時間がかかった。
「美月が」
「また」
「いなくなるって言い出しそうだったから」
息が。
止まった。
「……」
「紗良が戻る可能性あるなら」
「私は邪魔だよねとか」
「この身体返さなきゃとか」
「……」
全部。
考えそう。
いや。
今だって。
考えている。
陽向が。
私を見る。
「一人で」
「消える準備しそうだった」
「……」
否定。
できなかった。
「だから」
陽向が。
俯く。
「言えなかった」
「それ」
私は。
小さく言う。
「陽向が」
「一人で決めたんじゃん」
陽向が。
目を見開く。
「……」
「あのとき」
涙を拭う。
「私に言ったよね」
「なんで一人で全部決めるんだって」
「……うん」
「陽向も」
「同じじゃん」
何も。
言えなかった。
陽向が。
ゆっくり。
目を伏せる。
「……ごめん」
今度は。
ちゃんと。
謝った。
私は。
首を振らなかった。
大丈夫とも。
言わなかった。
「……怖かった」
素直に。
言った。
「今日」
「先生に言われて」
「うん」
「一番最初に」
「何思った?」
陽向が聞く。
私は。
少し迷って。
答える。
「消えるのかなって」
陽向の顔が。
強張った。
「私」
自分の胸を。
押さえる。
「紗良さんが戻ってきたら」
「どうなるんだろうって」
「……」
「高瀬美月って」
「どこに行くんだろうって」
涙が。
また。
落ちる。
「怖い」
「うん」
「すごく怖い」
「うん」
「だって」
声が。
崩れる。
「やっと」
「幸せになりたいって」
「思えたのに」
陽向の目が。
揺れる。
「星にも」
「また会えるようになって」
「仕事も」
「少しずつ楽しくなって」
「陽向と」
喉が。
詰まる。
「やっと」
「好きって言えて」
「付き合えて」
「キスして」
「……」
「これから」
涙を。
止められない。
「これからだったのに」
陽向の手が。
伸びてくる。
でも。
途中で。
止まる。
勝手に。
抱きしめない。
私が。
どうしたいかを。
待っている。
私は。
その手を見て。
自分から。
陽向に。
近づいた。
次の瞬間。
強く。
抱きしめられた。
「……消えたくない」
陽向の胸で。
言った。
「うん」
「私」
「消えたくない」
「うん」
「生きたい」
「うん」
「陽向のそばに」
服を。
強く掴む。
「いたい」
陽向の腕に。
力が入った。
「俺も」
声が。
震えている。
「美月に」
「いてほしい」
「……」
「ずっと」
胸が。
痛いほど。
温かくなる。
でも。
怖さは。
消えない。
「でも」
私は。
顔を上げる。
「もし」
「……」
「本当に」
言いたくない。
でも。
言わなきゃ。
「紗良さんが戻ってきたら?」
陽向が。
黙った。
「そのとき」
「私は?」
「……」
「私が消えたら」
声が。
震える。
「陽向は」
その先を。
聞くのが。
怖い。
でも。
聞いた。
「紗良さんが戻ってきたら」
「嬉しい?」
陽向の顔が。
苦しそうに歪んだ。
「美月」
「答えて」
「……」
「今の陽向は」
私は。
涙を拭う。
「どう思うの?」
長い。
沈黙。
そして。
陽向は。
逃げなかった。
「紗良に」
静かに。
言う。
「会いたい気持ちはある」
胸が。
ちくりと痛む。
「……うん」
「一回でいいから」
「話したい」
「うん」
「謝りたいし」
「ありがとうも」
「言いたい」
「……うん」
「でも」
陽向が。
私の肩を。
そっと掴む。
「紗良が戻る代わりに」
「美月が消えるなら」
声が。
震える。
「俺は」
一度。
息を飲む。
「そんなの」
「嫌だ」
涙が。
止まる。
「……」
「今は」
陽向が。
はっきり言った。
「美月にいてほしい」
「……陽向」
「それを」
「紗良に悪いとか」
「俺が薄情だとか」
「言われても」
少し。
苦しそうに。
笑う。
「もう仕方ない」
「……」
「だって」
私を見る。
「好きになっちゃったから」
胸が。
大きく。
鳴った。
「紗良が大切だったことと」
「美月が好きなこと」
「俺の中では」
「両方本当」
「……」
「でも」
陽向の親指が。
私の涙を。
拭う。
「今」
「俺が一緒にいたいのは」
「美月」
涙が。
また。
溢れた。
「……うん」
「だから」
陽向が。
少しだけ。
額を。
私の額に寄せる。
「まだ起きてないことで」
「勝手にいなくなるなよ」
「……」
「もし何か起きたら」
「そのとき」
「一緒に考える」
また。
二人で。
「……うん」
私は。
泣きながら。
頷いた。
「約束する」
「何を?」
「一人で」
「いなくならない」
陽向が。
少し。
笑った。
「うん」
「怖くなったら」
「ちゃんと言う」
「うん」
「大丈夫じゃないって」
「ちゃんと言う」
「……うん」
陽向が。
私の頭を。
優しく撫でる。
「それでいい」
◇◇◇
その夜。
陽向は。
私の部屋にいた。
今日は。
珍しく。
テレビも。
ゲームも。
つけていない。
二人で。
ソファに座って。
手を繋いでいる。
「ねえ」
私が言う。
「何?」
「もし」
「うん」
「明日」
「私が」
陽向の手に。
少し力を込める。
「美月じゃなくなってたら」
陽向の顔が。
曇る。
「美月」
「最後まで聞いて」
「……うん」
「もし」
「私の記憶がなくなって」
「紗良さんになってたら」
「……」
「陽向」
喉が。
苦しい。
「私のこと」
「忘れないでね」
陽向が。
何も言わない。
その目が。
少し。
赤くなる。
「忘れるわけないだろ」
「……」
「美月が」
指を絡める。
「何が好きだったか」
「……」
「チーズケーキ」
「うん」
「ピンク」
「うん」
「歌うの好き」
「……うん」
「ラーメン」
「うん」
「俺の唐揚げじゃなくて」
「私が作った唐揚げでしょ」
「そうそれ」
泣きながら。
笑ってしまう。
「すぐ謝る」
「最近減った」
「『でも』多い」
「それも減った」
「テレビ見て笑うと声でかい」
「それ悪口」
「俺のこと」
陽向が。
少しだけ。
笑う。
「めちゃくちゃ好き」
「……」
顔が。
熱くなる。
「それ」
「忘れないで」
私は。
小さく言った。
「絶対」
陽向が。
私の手を。
強く握る。
「忘れない」
そして。
少しだけ。
声を震わせた。
「だから」
「美月も」
「勝手に最後みたいなこと言うな」
「……ごめん」
「……」
「あ」
また。
謝った。
陽向が。
少し笑う。
「今のは許す」
私は。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
怖い。
まだ。
怖い。
でも。
一人ではない。
そのことが。
今日。
何より。
救いだった。
◇◇◇
夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
寝室の鏡を見た。
そこには。
いつもの。
紗良の顔。
「……紗良さん」
声をかける。
返事はない。
「もし」
胸に。
手を置く。
「あなたが」
「本当に戻ってくる日が来たら」
少し。
涙が滲む。
「私は」
「どうなるのかな」
分からない。
でも。
一つだけ。
今は。
言える。
「まだ」
鏡の中。
自分を見る。
「渡したくない」
この人生を。
陽向との時間を。
星とまた会えるようになった未来を。
「私」
少し。
震えながら。
言った。
「生きたい」
以前なら。
そんなことを思う自分を。
醜いと思ったかもしれない。
紗良の身体なのに。
私が残りたいなんて。
でも。
今は。
違う。
紗良自身が。
言ってくれた。
――あなたの人生を。
だから。
私は。
自分のために。
願う。
「消えたくない」
「高瀬美月として」
「もっと」
涙を拭う。
「生きたい」
その夜。
私は。
初めて。
未来を失うことを。
心から。
怖いと思った。
それは。
きっと。
今の人生を。
ようやく。
大切だと思えるようになった。
証拠だった。
普通のデートをしてから。
数日後。
私は。
久しぶりに。
病院へ来ていた。
事故後の。
定期検診。
身体そのものは。
もう。
ほとんど問題ない。
仕事にも。
少しずつ戻れている。
頭痛も。
紗良の記憶が流れ込んでくることも。
あの最後の日以来。
一度もない。
だから。
私は。
今日も。
簡単な診察だけで終わると。
そう思っていた。
「一ノ瀬さん」
「はい」
医師が。
検査結果を見ながら。
少し笑う。
「身体の状態は、かなり安定していますね」
「よかった……」
ほっと。
息を吐く。
「仕事も復帰されたそうで」
「はい」
「無理はしていませんか?」
「今のところは」
以前だったら。
反射的に。
『大丈夫です』
と言っていた。
でも今は。
少しだけ。
考えてから答えられる。
「疲れたら、ちゃんと休むようにしてます」
「それが一番です」
医師が。
頷く。
「頭痛は?」
「最近はありません」
「記憶の混乱は?」
「……」
一瞬。
言葉に詰まる。
この人に。
本当のことを。
話すことはできない。
私は。
一ノ瀬紗良ではない。
高瀬美月。
でも。
それを話したところで。
信じてもらえるとは。
思えない。
「……落ち着いています」
「そうですか」
医師は。
カルテに。
何かを書き込む。
これで。
終わり。
そう思った。
でも。
「ただ」
その一言に。
私は。
顔を上げた。
「一ノ瀬さん」
医師の表情が。
少しだけ。
真面目になる。
「事故直後に」
「天城さんにも」
「一度お話ししたのですが」
「……陽向に?」
胸が。
ざわついた。
「はい」
「何を……ですか?」
医師は。
少し。
言葉を選ぶ。
「今回の事故では」
「頭部にも大きな衝撃がありました」
「……はい」
「記憶が大きく欠けたり」
「事故前後で」
「性格や行動に変化が出たりするケースもあります」
「……」
それは。
もう。
私たちが。
何度も。
感じてきたこと。
でも。
医師は。
続けた。
「そして」
「記憶が戻る過程で」
「本人の認識や」
「人格のように見える部分が」
「大きく揺れる可能性も」
「完全には否定できません」
心臓が。
嫌な音を立てた。
「……人格?」
「もちろん」
すぐに。
医師が補足する。
「医学的に」
「別の人格が突然消えて」
「元の人格に戻る」
「と断言しているわけではありません」
「……」
「ただ」
「事故後の混乱が強かったこともありますから」
「ご本人が」
「『自分は誰なのか』という感覚で」
「再び不安定になる可能性はあります」
頭の中が。
真っ白になる。
医師は。
医学的な話をしている。
私が。
高瀬美月だなんて。
知らない。
でも。
私には。
違う意味にしか。
聞こえなかった。
――紗良が戻るかもしれない。
――そのとき。
――美月は?
「……もし」
自分でも。
驚くほど。
声が震えた。
「もし」
「事故前の記憶が」
「全部戻ったら」
医師が。
私を見る。
「……はい」
「今の私は」
喉が。
詰まる。
「どうなるんですか?」
「……」
医師は。
少し考える。
「そこは」
「何とも言えません」
「……」
「記憶が戻っても」
「事故後の経験が消えるとは限りません」
「人は」
「新しく経験したことも含めて」
「その後の自分になりますから」
「……」
「ただ」
医師が。
優しく言う。
「今のご自身が」
「完全になくなると決まったわけではありません」
その言葉。
安心させるためのもの。
なのに。
私は。
一つだけ。
引っかかった。
――なくなると決まったわけではない。
つまり。
絶対に。
なくならないとも。
言えない。
「……そうですか」
私は。
どうにか。
それだけ答えた。
◇◇◇
病院を出る。
空は。
晴れていた。
なのに。
私は。
少しも。
外を見られなかった。
スマートフォン。
陽向から。
メッセージが来ている。
『病院終わった?』
いつもなら。
すぐに。
返す。
でも。
今日は。
指が動かない。
陽向は。
知っていた。
事故直後。
医師から。
同じ話を。
聞いていた。
「……なんで」
小さく。
呟く。
「言ってくれなかったの?」
怒っている。
わけじゃない。
でも。
怖い。
もし。
最初から。
陽向が。
いつか紗良が戻るかもしれないと。
思っていたなら。
だったら。
今の私は?
一時的な存在?
陽向は。
それでも。
私を好きになった?
「……」
胸が。
苦しい。
その瞬間。
スマートフォンが。
また鳴った。
今度は。
電話。
陽向。
迷って。
でも。
出た。
「……もしもし」
『美月?』
声を聞いた瞬間。
泣きそうになった。
『終わった?』
「うん」
『どうだった?』
「……」
答えられない。
『美月?』
陽向の声が。
変わる。
『何かあった?』
「陽向」
『うん』
「……知ってた?」
電話の向こう。
沈黙。
その一瞬で。
分かった。
知ってた。
「医者に」
声が。
震える。
「事故のあと」
「記憶が戻る過程で」
「人格が揺れるかもしれないって」
『……』
「言われてたんでしょ?」
しばらく。
返事はなかった。
そして。
陽向が。
小さく。
『……うん』
と言った。
胸が。
ずきんと痛んだ。
「……そっか」
『美月』
「なんで」
涙が。
落ちる。
「なんで言わなかったの?」
『……』
「私に」
『今どこ?』
「質問に答えて」
『答えるから』
陽向の声が。
低くなる。
『今どこにいる?』
「病院の近く」
『一人?』
「うん」
『そこにいて』
「え?」
『行く』
「陽向」
『電話切らないで』
その声。
真剣。
私は。
何も言えなくなった。
◇◇◇
少しして。
見慣れた車が。
止まった。
助手席のドアが。
開く。
「美月」
陽向が。
降りてくる。
帽子。
マスク。
でも。
目だけで。
分かる。
すごく。
心配している。
「車乗ろ」
私は。
黙って。
頷いた。
◇◇◇
車の中。
エンジンは。
かかっていない。
二人。
並んで座る。
でも。
私は。
陽向を見られなかった。
「……ごめん」
先に。
陽向が言った。
私は。
膝の上の手を見る。
「どうして」
「うん」
「言わなかったの?」
陽向は。
少し。
黙る。
「怖かったから」
「……何が?」
「美月に」
陽向が。
息を吐く。
「言うのが」
「……」
「事故直後」
「まだ美月が」
「自分が高瀬美月だって」
「何回も言ってたとき」
「医者から」
「そういう可能性もあるって聞いた」
「うん」
「そのときの俺は」
拳を握る。
「正直」
「……」
「紗良が戻る可能性があるなら」
「戻ってきてほしいって」
「思った」
胸が。
痛い。
でも。
それは。
知っている。
あの頃の陽向。
私は。
まだ。
知らない女性。
紗良は。
三十四年。
一緒にいた。
大切な人。
「……うん」
「だから」
陽向が。
苦しそうに続ける。
「言えなかった」
「俺が」
「その可能性に期待してるって」
「美月に知られるの」
「……」
「最低だと思った」
「陽向……」
「でも」
顔を上げる。
「途中から」
「意味が変わった」
「……え?」
陽向が。
私を見る。
「美月が」
「美月だって」
「分かってきて」
「……」
「俺が美月を」
「好きになって」
「……うん」
「今度は」
声が。
少し震えた。
「紗良が戻るかもしれないって」
「美月に言うのが」
「怖くなった」
「……どうして?」
陽向は。
答えるまで。
少し時間がかかった。
「美月が」
「また」
「いなくなるって言い出しそうだったから」
息が。
止まった。
「……」
「紗良が戻る可能性あるなら」
「私は邪魔だよねとか」
「この身体返さなきゃとか」
「……」
全部。
考えそう。
いや。
今だって。
考えている。
陽向が。
私を見る。
「一人で」
「消える準備しそうだった」
「……」
否定。
できなかった。
「だから」
陽向が。
俯く。
「言えなかった」
「それ」
私は。
小さく言う。
「陽向が」
「一人で決めたんじゃん」
陽向が。
目を見開く。
「……」
「あのとき」
涙を拭う。
「私に言ったよね」
「なんで一人で全部決めるんだって」
「……うん」
「陽向も」
「同じじゃん」
何も。
言えなかった。
陽向が。
ゆっくり。
目を伏せる。
「……ごめん」
今度は。
ちゃんと。
謝った。
私は。
首を振らなかった。
大丈夫とも。
言わなかった。
「……怖かった」
素直に。
言った。
「今日」
「先生に言われて」
「うん」
「一番最初に」
「何思った?」
陽向が聞く。
私は。
少し迷って。
答える。
「消えるのかなって」
陽向の顔が。
強張った。
「私」
自分の胸を。
押さえる。
「紗良さんが戻ってきたら」
「どうなるんだろうって」
「……」
「高瀬美月って」
「どこに行くんだろうって」
涙が。
また。
落ちる。
「怖い」
「うん」
「すごく怖い」
「うん」
「だって」
声が。
崩れる。
「やっと」
「幸せになりたいって」
「思えたのに」
陽向の目が。
揺れる。
「星にも」
「また会えるようになって」
「仕事も」
「少しずつ楽しくなって」
「陽向と」
喉が。
詰まる。
「やっと」
「好きって言えて」
「付き合えて」
「キスして」
「……」
「これから」
涙を。
止められない。
「これからだったのに」
陽向の手が。
伸びてくる。
でも。
途中で。
止まる。
勝手に。
抱きしめない。
私が。
どうしたいかを。
待っている。
私は。
その手を見て。
自分から。
陽向に。
近づいた。
次の瞬間。
強く。
抱きしめられた。
「……消えたくない」
陽向の胸で。
言った。
「うん」
「私」
「消えたくない」
「うん」
「生きたい」
「うん」
「陽向のそばに」
服を。
強く掴む。
「いたい」
陽向の腕に。
力が入った。
「俺も」
声が。
震えている。
「美月に」
「いてほしい」
「……」
「ずっと」
胸が。
痛いほど。
温かくなる。
でも。
怖さは。
消えない。
「でも」
私は。
顔を上げる。
「もし」
「……」
「本当に」
言いたくない。
でも。
言わなきゃ。
「紗良さんが戻ってきたら?」
陽向が。
黙った。
「そのとき」
「私は?」
「……」
「私が消えたら」
声が。
震える。
「陽向は」
その先を。
聞くのが。
怖い。
でも。
聞いた。
「紗良さんが戻ってきたら」
「嬉しい?」
陽向の顔が。
苦しそうに歪んだ。
「美月」
「答えて」
「……」
「今の陽向は」
私は。
涙を拭う。
「どう思うの?」
長い。
沈黙。
そして。
陽向は。
逃げなかった。
「紗良に」
静かに。
言う。
「会いたい気持ちはある」
胸が。
ちくりと痛む。
「……うん」
「一回でいいから」
「話したい」
「うん」
「謝りたいし」
「ありがとうも」
「言いたい」
「……うん」
「でも」
陽向が。
私の肩を。
そっと掴む。
「紗良が戻る代わりに」
「美月が消えるなら」
声が。
震える。
「俺は」
一度。
息を飲む。
「そんなの」
「嫌だ」
涙が。
止まる。
「……」
「今は」
陽向が。
はっきり言った。
「美月にいてほしい」
「……陽向」
「それを」
「紗良に悪いとか」
「俺が薄情だとか」
「言われても」
少し。
苦しそうに。
笑う。
「もう仕方ない」
「……」
「だって」
私を見る。
「好きになっちゃったから」
胸が。
大きく。
鳴った。
「紗良が大切だったことと」
「美月が好きなこと」
「俺の中では」
「両方本当」
「……」
「でも」
陽向の親指が。
私の涙を。
拭う。
「今」
「俺が一緒にいたいのは」
「美月」
涙が。
また。
溢れた。
「……うん」
「だから」
陽向が。
少しだけ。
額を。
私の額に寄せる。
「まだ起きてないことで」
「勝手にいなくなるなよ」
「……」
「もし何か起きたら」
「そのとき」
「一緒に考える」
また。
二人で。
「……うん」
私は。
泣きながら。
頷いた。
「約束する」
「何を?」
「一人で」
「いなくならない」
陽向が。
少し。
笑った。
「うん」
「怖くなったら」
「ちゃんと言う」
「うん」
「大丈夫じゃないって」
「ちゃんと言う」
「……うん」
陽向が。
私の頭を。
優しく撫でる。
「それでいい」
◇◇◇
その夜。
陽向は。
私の部屋にいた。
今日は。
珍しく。
テレビも。
ゲームも。
つけていない。
二人で。
ソファに座って。
手を繋いでいる。
「ねえ」
私が言う。
「何?」
「もし」
「うん」
「明日」
「私が」
陽向の手に。
少し力を込める。
「美月じゃなくなってたら」
陽向の顔が。
曇る。
「美月」
「最後まで聞いて」
「……うん」
「もし」
「私の記憶がなくなって」
「紗良さんになってたら」
「……」
「陽向」
喉が。
苦しい。
「私のこと」
「忘れないでね」
陽向が。
何も言わない。
その目が。
少し。
赤くなる。
「忘れるわけないだろ」
「……」
「美月が」
指を絡める。
「何が好きだったか」
「……」
「チーズケーキ」
「うん」
「ピンク」
「うん」
「歌うの好き」
「……うん」
「ラーメン」
「うん」
「俺の唐揚げじゃなくて」
「私が作った唐揚げでしょ」
「そうそれ」
泣きながら。
笑ってしまう。
「すぐ謝る」
「最近減った」
「『でも』多い」
「それも減った」
「テレビ見て笑うと声でかい」
「それ悪口」
「俺のこと」
陽向が。
少しだけ。
笑う。
「めちゃくちゃ好き」
「……」
顔が。
熱くなる。
「それ」
「忘れないで」
私は。
小さく言った。
「絶対」
陽向が。
私の手を。
強く握る。
「忘れない」
そして。
少しだけ。
声を震わせた。
「だから」
「美月も」
「勝手に最後みたいなこと言うな」
「……ごめん」
「……」
「あ」
また。
謝った。
陽向が。
少し笑う。
「今のは許す」
私は。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
怖い。
まだ。
怖い。
でも。
一人ではない。
そのことが。
今日。
何より。
救いだった。
◇◇◇
夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
寝室の鏡を見た。
そこには。
いつもの。
紗良の顔。
「……紗良さん」
声をかける。
返事はない。
「もし」
胸に。
手を置く。
「あなたが」
「本当に戻ってくる日が来たら」
少し。
涙が滲む。
「私は」
「どうなるのかな」
分からない。
でも。
一つだけ。
今は。
言える。
「まだ」
鏡の中。
自分を見る。
「渡したくない」
この人生を。
陽向との時間を。
星とまた会えるようになった未来を。
「私」
少し。
震えながら。
言った。
「生きたい」
以前なら。
そんなことを思う自分を。
醜いと思ったかもしれない。
紗良の身体なのに。
私が残りたいなんて。
でも。
今は。
違う。
紗良自身が。
言ってくれた。
――あなたの人生を。
だから。
私は。
自分のために。
願う。
「消えたくない」
「高瀬美月として」
「もっと」
涙を拭う。
「生きたい」
その夜。
私は。
初めて。
未来を失うことを。
心から。
怖いと思った。
それは。
きっと。
今の人生を。
ようやく。
大切だと思えるようになった。
証拠だった。



