陽向と。
初めてキスをした翌日。
私は朝から。
とても困っていた。
「……どうしよう」
スマートフォンを持ったまま。
ソファの上で固まる。
画面には。
陽向から届いたメッセージ。
『今日会いたい』
たったそれだけ。
付き合う前なら。
普通に。
『いいよ』
と返していた。
付き合ってからだって。
何度も会っている。
なのに。
昨日。
キスをした。
それだけで。
全部が。
変わってしまった気がする。
「……顔見られない」
思い出す。
頬に触れた手。
近づいてきた顔。
唇の感触。
一回。
そして。
二回目。
「~~~~っ!」
私は。
クッションに顔を埋めた。
無理。
恥ずかしい。
三十四歳にもなって。
何をしているんだろう。
でも。
久しぶりとか。
そういう問題じゃない。
相手が。
陽向だから。
好きになって。
好きだと言われて。
やっと。
自分から。
触れてほしいと思えた人だから。
スマートフォンが。
また震える。
『既読ついてるけど』
「……見てる」
『嫌?』
その二文字に。
私は。
慌てて身体を起こした。
嫌じゃない。
絶対。
そんなふうに。
思ってほしくない。
『違うよ』
『じゃあ会いたい』
「……」
直球。
最近の陽向は。
付き合う前より。
明らかに。
遠慮がない。
『分かった』
送る。
すぐ。
『やった!』
そして。
『昨日の続きしていい?』
「……は!?」
私は。
スマートフォンを落としかけた。
『何の続き!?』
すぐ送る。
数秒後。
『ゲーム』
「……」
私は。
しばらく。
画面を睨んだ。
そのあと。
『何だと思った?』
「陽向ぁぁぁ!」
一人の部屋に。
私の声が響いた。
◇◇◇
午後。
インターホンが鳴る。
私は。
玄関の前で。
深呼吸した。
大丈夫。
普通に。
普通にすればいい。
ドアを開ける。
「よ」
「……お疲れ」
陽向の顔を見た瞬間。
昨日のキスが。
一気に蘇った。
視線が。
反射的に。
唇へ行く。
「あ」
陽向が。
ニヤッとする。
「今どこ見た?」
「見てない」
「口見た」
「見てない!」
「見てたって」
「入るなら早く入って!」
「はいはい」
笑いながら。
陽向が入ってくる。
もう。
絶対。
楽しんでる。
「美月」
「何?」
靴を脱ぎながら。
陽向が。
こちらを見る。
「顔赤い」
「陽向のせい!」
「俺まだ何もしてないけど」
「昨日した!」
言ってから。
私は。
固まった。
陽向も。
固まった。
「……」
「……」
数秒後。
陽向の口元が。
ものすごく。
緩んだ。
「美月」
「何」
「昨日何したっけ?」
「知らない!」
「えー」
「忘れた!」
「じゃあ思い出させよっか」
「陽向!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あはははっ!」
「もう帰って!」
「来たばっか!」
付き合う前と。
何も変わらない。
はずなのに。
やっぱり。
少し違う。
陽向の視線が。
前より。
私を意識している。
そして。
私も。
陽向を。
『男性』として。
前より。
ずっと。
意識している。
◇◇◇
「で」
リビング。
陽向が。
テーブルの上に。
紙袋を置いた。
「何これ?」
「プレゼント」
「え?」
「付き合ってから」
「ちゃんとデートしてないじゃん」
「……うん」
「だから」
袋から。
何かを取り出す。
キャップ。
シンプルな。
黒い帽子。
「これ美月」
「帽子?」
「うん」
もう一つ。
似たデザイン。
こちらは。
陽向が被るらしい。
私は。
二つを見比べる。
「……お揃い?」
「まあ」
陽向が。
少しだけ。
視線を逸らす。
「バレない程度に」
胸が。
跳ねる。
お揃い。
恋人っぽい。
あまりにも。
恋人っぽい。
「……嫌?」
「嫌じゃない」
私は。
すぐに答えた。
「嬉しい」
陽向の顔が。
ぱっと明るくなる。
「マジ?」
「うん」
「よかった」
その笑顔に。
また。
胸が温かくなる。
「でも」
「何?」
「これ」
帽子を持ちながら。
私は聞く。
「どこで使うの?」
「今日」
「今日?」
「今からデート」
「……え?」
陽向が。
満面の笑み。
「出かけよ」
「待って」
「何?」
「陽向」
「うん」
私は。
陽向を指差す。
「トップアイドル」
「そうです」
「私」
自分を指す。
「一ノ瀬紗良」
「人気女優」
「そうです」
「二人で出歩いたら」
「うん」
「大事件じゃない?」
陽向が。
少し考えた。
「だから変装する」
「そんな軽く!?」
「俺、慣れてる」
「何に?」
「バレないやつ」
「怪しい人みたい」
「失礼」
でも。
陽向は。
本気らしい。
「美月」
「何?」
「俺さ」
少しだけ。
真面目な顔になる。
「普通のデートもしたい」
胸が。
ドクン。
「家で会うのも好きだけど」
「……うん」
「一緒に飯食いに行ったり」
「買い物したり」
「歩いたり」
「……」
「そういうの」
少し照れたように。
笑う。
「彼氏としてしたい」
断れるわけが。
なかった。
「……行く」
私が答えると。
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「よし」
◇◇◇
三十分後。
私は。
帽子。
眼鏡。
マスク。
陽向も。
似たような格好。
鏡の前。
二人で並ぶ。
「……怪しい」
「大丈夫」
「本当に?」
「美月、姿勢良すぎ」
「え?」
「紗良が芸能人だから」
陽向が。
私の肩を。
少し押す。
「もっと普通に」
「普通って?」
「こう」
陽向が。
少し。
猫背になる。
「それ普通じゃなくて陽向でしょ」
「俺そんな猫背?」
「ご飯食べてるとき結構」
「マジか」
二人で。
小さく笑う。
「あと」
陽向が。
手を差し出した。
「何?」
「手」
「……」
「恋人なんだから」
「外で?」
「ダメ?」
その手を見る。
人に。
見られたら。
怖い。
でも。
繋ぎたい。
私は。
少し迷って。
陽向の手に。
自分の手を重ねた。
「……バレそうになったら離すからね」
「了解」
指が。
絡む。
それだけで。
胸が。
少しだけ。
軽くなる。
◇◇◇
行ったのは。
都心から少し離れた。
大型商業施設。
平日の昼間。
人はいるけれど。
混みすぎてはいない。
「……すごい」
私は。
周りを見る。
「何が?」
「普通に歩いてる」
「そりゃ歩くだろ」
「陽向が」
「俺人間だから」
「そうじゃなくて」
私は。
少し笑う。
テレビの向こうにいた人と。
今。
手を繋いで。
ショッピングモールを歩いている。
「昔の私が見たら」
「うん」
「倒れると思う」
「そんなに?」
「だって」
陽向を見る。
「陽向とデートだよ?」
「はいはい、ファンに戻った」
「今日はちょっと許して」
「じゃ俺も」
「何?」
「一ノ瀬紗良とデート」
「それは……」
少し。
胸が引っかかる。
でも。
陽向は。
すぐに。
首を振った。
「違うな」
「え?」
繋いだ手を。
少し握る。
「美月とデート」
「……うん」
「こっち」
胸が。
温かくなる。
「うん」
私は。
笑った。
◇◇◇
「美月」
「何?」
「これ」
陽向が。
雑貨屋で。
ピンク色の。
小さなぬいぐるみを持っている。
「可愛くない?」
「可愛い」
「買う?」
「陽向が欲しいんでしょ?」
「美月に」
「え?」
「プレゼント」
「何で?」
「可愛いって言ったから」
「それだけで買ってたら」
「家いっぱいになるよ」
「じゃあ一個だけ」
「……」
結局。
買ってもらった。
「ありがとう」
「うん」
陽向が。
嬉しそう。
「陽向」
「何?」
「私に何か買うの」
「好き?」
「好きかも」
「どうして?」
「美月」
少し考える。
「めっちゃ喜ぶから」
胸が。
きゅっとなる。
「昔」
私は。
ぬいぐるみを抱えながら。
言う。
「欲しいもの言うの」
「苦手だった」
「なんで?」
「家計とか」
「子ども優先とか」
「……」
「自分のもの買うなら」
「本当に必要かなって」
「何回も考えてた」
陽向が。
少し黙る。
「だから」
私は。
ぬいぐるみを見る。
「こういう」
「別になくても困らないもの」
「買ってもらうの」
「……」
少し。
笑う。
「嬉しい」
陽向が。
私を見る。
「じゃあ」
「?」
「これから」
「美月の」
「なくても困らないけど欲しいもの」
「いっぱい探そ」
泣きそうになる。
「……うん」
「ただし」
「何?」
「俺の財布死なない範囲で」
「そこ現実的!」
二人で。
笑った。
◇◇◇
昼食。
人目につきにくい。
端の席。
「何食べる?」
陽向が。
メニューを見る。
私は。
迷う。
「これ」
「パスタ?」
「うん」
「じゃ俺ハンバーグ」
「やっぱり肉」
「肉は正義」
料理を待ちながら。
陽向は。
スマートフォンを見る。
「何してるの?」
「連絡」
「仕事?」
「メンバー」
「そっか」
少しして。
陽向が。
吹き出した。
「何?」
「いや」
画面を見せられる。
グループチャット。
『今日どこ?』
『休み』
『女?』
『デート?』
『例の人?』
「……」
私は。
陽向を見る。
「例の人?」
「……」
陽向が。
気まずそうに。
視線を逸らす。
「陽向」
「はい」
「メンバーに」
「はい」
「私のこと話した?」
「……ちょっと」
「ちょっと!?」
「名前は言ってない!」
「そこじゃない!」
「いやでも!」
陽向が。
声を落とす。
「嫉妬バレたときから」
「なんか」
「もう」
「気づかれてる」
「……」
私は。
顔を覆った。
「恥ずかしい……」
「大丈夫」
「何が?」
「俺のほうがめっちゃいじられてるから」
「それ大丈夫じゃない」
「昨日も」
陽向が。
スマホを見る。
「『キスできた?』って」
「ちょっと待って!!」
思わず。
声が大きくなる。
周りを見る。
誰も。
こっちを見ていない。
たぶん。
「陽向!」
「俺言ってないから!」
「じゃあ何で!?」
「顔でバレた」
「……」
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
そして。
「陽向」
「何?」
「私に顔に出るって言えないよ」
「……それは」
陽向が。
真顔で頷く。
「認める」
◇◇◇
食事を終えて。
店を出る。
人混み。
私は。
少しだけ。
陽向から離れた。
見つかったら。
どうしよう。
写真を撮られたら。
陽向の。
迷惑になる。
無意識に。
手を離そうとする。
でも。
陽向が。
少し強く。
握った。
「陽向」
「ん?」
「人増えてきたから」
「うん」
「離したほうが」
「嫌?」
「私じゃなくて」
「……」
「陽向に」
少し。
声を落とす。
「迷惑かけたくない」
陽向が。
足を止めた。
「美月」
「何?」
「俺」
「恋愛したら」
「仕事に迷惑かかるかもしれないって」
「分かってる」
「……」
「撮られたら」
「いろいろ言われるのも」
「分かってる」
「うん」
「だから」
陽向は。
周囲を確認して。
人の少ない通路へ。
私を連れていく。
「気をつける」
「……」
「でも」
私を見る。
「迷惑って言わないで」
胸が。
止まりそうになる。
「俺が」
「美月と付き合いたいって」
「決めたから」
「……」
「美月が勝手に」
「俺にくっついてきたわけじゃない」
「うん」
「二人で決めたこと」
「……うん」
「何かあったら」
「二人で考える」
また。
その言葉。
二人で。
「美月だけが」
「俺のために」
「いなくなるとか」
「離れるとか」
「絶対なし」
あの日。
一人で。
いなくなった私。
陽向は。
きっと。
まだ覚えている。
「……うん」
私は。
頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
少し迷って。
私は。
離しかけていた手を。
自分から。
握り直した。
「二人で決める」
陽向が。
笑う。
「そう」
「うん」
「えらい」
「子ども扱い!」
「彼女扱い」
「どこが!」
また。
笑った。
◇◇◇
帰り。
車の中。
私は。
助手席で。
今日買ってもらった。
ぬいぐるみを抱えていた。
「楽しかった?」
陽向が聞く。
「うん」
「何が一番?」
「……」
考える。
買い物。
ご飯。
手を繋いだこと。
全部。
楽しかった。
でも。
「普通に」
「?」
「歩けたこと」
「歩く?」
「うん」
窓の外を見る。
「好きな人と」
「手繋いで」
「お店見て」
「ご飯食べて」
「……」
「それだけ」
陽向が。
静かに聞いている。
「そういうの」
私は。
少し笑う。
「もう」
「私にはないと思ってた」
「……」
「母親になって」
「三十四歳になって」
「恋愛とか」
「デートとか」
「そんなの」
「もう終わったものだと思ってた」
陽向が。
少し。
眉を寄せる。
「三十四で終わりって早くない?」
「そうなんだけど」
「俺ら同い年だよ?」
「うん」
「俺まだアイドルやってるよ?」
「知ってる」
「じゃあ美月も」
赤信号。
車が止まる。
陽向が。
こちらを見る。
「まだまだじゃん」
「……」
「一回人生終わったからって」
「全部終わりじゃない」
胸が。
熱くなる。
「むしろ」
少し笑う。
「二回目なんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ」
陽向が。
前を向き直る。
「二回分」
「楽しめばいいじゃん」
私は。
少し笑った。
「欲張り」
「いいじゃん」
「いいの?」
「俺が許す」
「誰目線?」
「彼氏」
「それ便利に使ってない?」
「あははっ!」
陽向が笑う。
私も。
笑った。
◇◇◇
その夜。
部屋に戻る。
私は。
買ってもらったぬいぐるみを。
白いマグカップの近くへ置いた。
ピンクのマグ。
白いマグ。
そして。
今日の。
小さなぬいぐるみ。
少しずつ。
増えていく。
私と。
陽向の思い出。
紗良のものではない。
高瀬美月として。
作っている。
新しい時間。
スマートフォンが震える。
『今日はありがと』
陽向。
私は。
笑う。
『こっちこそありがとう』
少し迷って。
続ける。
『楽しかった』
送信。
すぐに。
『俺も』
そして。
『次どこ行く?』
「もう次?」
でも。
嬉しい。
『考えとく』
数秒後。
『美月』
『何?』
『今日かわいかった』
「……」
私は。
スマートフォンを。
ベッドへ投げた。
「もう!」
頬。
熱い。
でも。
数秒後。
また。
スマートフォンを取る。
返信。
『陽向もかっこよかったよ』
送った瞬間。
既読。
しばらく。
返事がない。
「……?」
そして。
『無理』
「何が?」
『彼女に言われるの破壊力やばい』
私は。
声を出して笑った。
トップアイドル。
何万人ものファンから。
毎日のように。
かっこいいと言われている人。
なのに。
私からの一言で。
こんな反応をする。
「……可愛い」
小さく呟く。
そして。
気づく。
恋人になっても。
陽向は。
陽向だった。
明るくて。
よく笑って。
大きなリアクションをして。
少し甘えん坊で。
でも。
大事なことは。
ちゃんと言葉にしてくれる。
私は。
そんな陽向が。
やっぱり。
好き。
ただ。
その幸せな時間の中で。
一つだけ。
私はまだ。
知らなかった。
一ノ瀬紗良の事故後。
一度だけ。
医師が。
陽向に伝えていた。
ある可能性。
――記憶が戻る過程で。
――人格が大きく揺れることもあります。
そして。
その言葉を。
陽向が。
今まで。
私に言えずにいたことを。
私は。
まだ。
知らなかった。
初めてキスをした翌日。
私は朝から。
とても困っていた。
「……どうしよう」
スマートフォンを持ったまま。
ソファの上で固まる。
画面には。
陽向から届いたメッセージ。
『今日会いたい』
たったそれだけ。
付き合う前なら。
普通に。
『いいよ』
と返していた。
付き合ってからだって。
何度も会っている。
なのに。
昨日。
キスをした。
それだけで。
全部が。
変わってしまった気がする。
「……顔見られない」
思い出す。
頬に触れた手。
近づいてきた顔。
唇の感触。
一回。
そして。
二回目。
「~~~~っ!」
私は。
クッションに顔を埋めた。
無理。
恥ずかしい。
三十四歳にもなって。
何をしているんだろう。
でも。
久しぶりとか。
そういう問題じゃない。
相手が。
陽向だから。
好きになって。
好きだと言われて。
やっと。
自分から。
触れてほしいと思えた人だから。
スマートフォンが。
また震える。
『既読ついてるけど』
「……見てる」
『嫌?』
その二文字に。
私は。
慌てて身体を起こした。
嫌じゃない。
絶対。
そんなふうに。
思ってほしくない。
『違うよ』
『じゃあ会いたい』
「……」
直球。
最近の陽向は。
付き合う前より。
明らかに。
遠慮がない。
『分かった』
送る。
すぐ。
『やった!』
そして。
『昨日の続きしていい?』
「……は!?」
私は。
スマートフォンを落としかけた。
『何の続き!?』
すぐ送る。
数秒後。
『ゲーム』
「……」
私は。
しばらく。
画面を睨んだ。
そのあと。
『何だと思った?』
「陽向ぁぁぁ!」
一人の部屋に。
私の声が響いた。
◇◇◇
午後。
インターホンが鳴る。
私は。
玄関の前で。
深呼吸した。
大丈夫。
普通に。
普通にすればいい。
ドアを開ける。
「よ」
「……お疲れ」
陽向の顔を見た瞬間。
昨日のキスが。
一気に蘇った。
視線が。
反射的に。
唇へ行く。
「あ」
陽向が。
ニヤッとする。
「今どこ見た?」
「見てない」
「口見た」
「見てない!」
「見てたって」
「入るなら早く入って!」
「はいはい」
笑いながら。
陽向が入ってくる。
もう。
絶対。
楽しんでる。
「美月」
「何?」
靴を脱ぎながら。
陽向が。
こちらを見る。
「顔赤い」
「陽向のせい!」
「俺まだ何もしてないけど」
「昨日した!」
言ってから。
私は。
固まった。
陽向も。
固まった。
「……」
「……」
数秒後。
陽向の口元が。
ものすごく。
緩んだ。
「美月」
「何」
「昨日何したっけ?」
「知らない!」
「えー」
「忘れた!」
「じゃあ思い出させよっか」
「陽向!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あはははっ!」
「もう帰って!」
「来たばっか!」
付き合う前と。
何も変わらない。
はずなのに。
やっぱり。
少し違う。
陽向の視線が。
前より。
私を意識している。
そして。
私も。
陽向を。
『男性』として。
前より。
ずっと。
意識している。
◇◇◇
「で」
リビング。
陽向が。
テーブルの上に。
紙袋を置いた。
「何これ?」
「プレゼント」
「え?」
「付き合ってから」
「ちゃんとデートしてないじゃん」
「……うん」
「だから」
袋から。
何かを取り出す。
キャップ。
シンプルな。
黒い帽子。
「これ美月」
「帽子?」
「うん」
もう一つ。
似たデザイン。
こちらは。
陽向が被るらしい。
私は。
二つを見比べる。
「……お揃い?」
「まあ」
陽向が。
少しだけ。
視線を逸らす。
「バレない程度に」
胸が。
跳ねる。
お揃い。
恋人っぽい。
あまりにも。
恋人っぽい。
「……嫌?」
「嫌じゃない」
私は。
すぐに答えた。
「嬉しい」
陽向の顔が。
ぱっと明るくなる。
「マジ?」
「うん」
「よかった」
その笑顔に。
また。
胸が温かくなる。
「でも」
「何?」
「これ」
帽子を持ちながら。
私は聞く。
「どこで使うの?」
「今日」
「今日?」
「今からデート」
「……え?」
陽向が。
満面の笑み。
「出かけよ」
「待って」
「何?」
「陽向」
「うん」
私は。
陽向を指差す。
「トップアイドル」
「そうです」
「私」
自分を指す。
「一ノ瀬紗良」
「人気女優」
「そうです」
「二人で出歩いたら」
「うん」
「大事件じゃない?」
陽向が。
少し考えた。
「だから変装する」
「そんな軽く!?」
「俺、慣れてる」
「何に?」
「バレないやつ」
「怪しい人みたい」
「失礼」
でも。
陽向は。
本気らしい。
「美月」
「何?」
「俺さ」
少しだけ。
真面目な顔になる。
「普通のデートもしたい」
胸が。
ドクン。
「家で会うのも好きだけど」
「……うん」
「一緒に飯食いに行ったり」
「買い物したり」
「歩いたり」
「……」
「そういうの」
少し照れたように。
笑う。
「彼氏としてしたい」
断れるわけが。
なかった。
「……行く」
私が答えると。
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「よし」
◇◇◇
三十分後。
私は。
帽子。
眼鏡。
マスク。
陽向も。
似たような格好。
鏡の前。
二人で並ぶ。
「……怪しい」
「大丈夫」
「本当に?」
「美月、姿勢良すぎ」
「え?」
「紗良が芸能人だから」
陽向が。
私の肩を。
少し押す。
「もっと普通に」
「普通って?」
「こう」
陽向が。
少し。
猫背になる。
「それ普通じゃなくて陽向でしょ」
「俺そんな猫背?」
「ご飯食べてるとき結構」
「マジか」
二人で。
小さく笑う。
「あと」
陽向が。
手を差し出した。
「何?」
「手」
「……」
「恋人なんだから」
「外で?」
「ダメ?」
その手を見る。
人に。
見られたら。
怖い。
でも。
繋ぎたい。
私は。
少し迷って。
陽向の手に。
自分の手を重ねた。
「……バレそうになったら離すからね」
「了解」
指が。
絡む。
それだけで。
胸が。
少しだけ。
軽くなる。
◇◇◇
行ったのは。
都心から少し離れた。
大型商業施設。
平日の昼間。
人はいるけれど。
混みすぎてはいない。
「……すごい」
私は。
周りを見る。
「何が?」
「普通に歩いてる」
「そりゃ歩くだろ」
「陽向が」
「俺人間だから」
「そうじゃなくて」
私は。
少し笑う。
テレビの向こうにいた人と。
今。
手を繋いで。
ショッピングモールを歩いている。
「昔の私が見たら」
「うん」
「倒れると思う」
「そんなに?」
「だって」
陽向を見る。
「陽向とデートだよ?」
「はいはい、ファンに戻った」
「今日はちょっと許して」
「じゃ俺も」
「何?」
「一ノ瀬紗良とデート」
「それは……」
少し。
胸が引っかかる。
でも。
陽向は。
すぐに。
首を振った。
「違うな」
「え?」
繋いだ手を。
少し握る。
「美月とデート」
「……うん」
「こっち」
胸が。
温かくなる。
「うん」
私は。
笑った。
◇◇◇
「美月」
「何?」
「これ」
陽向が。
雑貨屋で。
ピンク色の。
小さなぬいぐるみを持っている。
「可愛くない?」
「可愛い」
「買う?」
「陽向が欲しいんでしょ?」
「美月に」
「え?」
「プレゼント」
「何で?」
「可愛いって言ったから」
「それだけで買ってたら」
「家いっぱいになるよ」
「じゃあ一個だけ」
「……」
結局。
買ってもらった。
「ありがとう」
「うん」
陽向が。
嬉しそう。
「陽向」
「何?」
「私に何か買うの」
「好き?」
「好きかも」
「どうして?」
「美月」
少し考える。
「めっちゃ喜ぶから」
胸が。
きゅっとなる。
「昔」
私は。
ぬいぐるみを抱えながら。
言う。
「欲しいもの言うの」
「苦手だった」
「なんで?」
「家計とか」
「子ども優先とか」
「……」
「自分のもの買うなら」
「本当に必要かなって」
「何回も考えてた」
陽向が。
少し黙る。
「だから」
私は。
ぬいぐるみを見る。
「こういう」
「別になくても困らないもの」
「買ってもらうの」
「……」
少し。
笑う。
「嬉しい」
陽向が。
私を見る。
「じゃあ」
「?」
「これから」
「美月の」
「なくても困らないけど欲しいもの」
「いっぱい探そ」
泣きそうになる。
「……うん」
「ただし」
「何?」
「俺の財布死なない範囲で」
「そこ現実的!」
二人で。
笑った。
◇◇◇
昼食。
人目につきにくい。
端の席。
「何食べる?」
陽向が。
メニューを見る。
私は。
迷う。
「これ」
「パスタ?」
「うん」
「じゃ俺ハンバーグ」
「やっぱり肉」
「肉は正義」
料理を待ちながら。
陽向は。
スマートフォンを見る。
「何してるの?」
「連絡」
「仕事?」
「メンバー」
「そっか」
少しして。
陽向が。
吹き出した。
「何?」
「いや」
画面を見せられる。
グループチャット。
『今日どこ?』
『休み』
『女?』
『デート?』
『例の人?』
「……」
私は。
陽向を見る。
「例の人?」
「……」
陽向が。
気まずそうに。
視線を逸らす。
「陽向」
「はい」
「メンバーに」
「はい」
「私のこと話した?」
「……ちょっと」
「ちょっと!?」
「名前は言ってない!」
「そこじゃない!」
「いやでも!」
陽向が。
声を落とす。
「嫉妬バレたときから」
「なんか」
「もう」
「気づかれてる」
「……」
私は。
顔を覆った。
「恥ずかしい……」
「大丈夫」
「何が?」
「俺のほうがめっちゃいじられてるから」
「それ大丈夫じゃない」
「昨日も」
陽向が。
スマホを見る。
「『キスできた?』って」
「ちょっと待って!!」
思わず。
声が大きくなる。
周りを見る。
誰も。
こっちを見ていない。
たぶん。
「陽向!」
「俺言ってないから!」
「じゃあ何で!?」
「顔でバレた」
「……」
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
そして。
「陽向」
「何?」
「私に顔に出るって言えないよ」
「……それは」
陽向が。
真顔で頷く。
「認める」
◇◇◇
食事を終えて。
店を出る。
人混み。
私は。
少しだけ。
陽向から離れた。
見つかったら。
どうしよう。
写真を撮られたら。
陽向の。
迷惑になる。
無意識に。
手を離そうとする。
でも。
陽向が。
少し強く。
握った。
「陽向」
「ん?」
「人増えてきたから」
「うん」
「離したほうが」
「嫌?」
「私じゃなくて」
「……」
「陽向に」
少し。
声を落とす。
「迷惑かけたくない」
陽向が。
足を止めた。
「美月」
「何?」
「俺」
「恋愛したら」
「仕事に迷惑かかるかもしれないって」
「分かってる」
「……」
「撮られたら」
「いろいろ言われるのも」
「分かってる」
「うん」
「だから」
陽向は。
周囲を確認して。
人の少ない通路へ。
私を連れていく。
「気をつける」
「……」
「でも」
私を見る。
「迷惑って言わないで」
胸が。
止まりそうになる。
「俺が」
「美月と付き合いたいって」
「決めたから」
「……」
「美月が勝手に」
「俺にくっついてきたわけじゃない」
「うん」
「二人で決めたこと」
「……うん」
「何かあったら」
「二人で考える」
また。
その言葉。
二人で。
「美月だけが」
「俺のために」
「いなくなるとか」
「離れるとか」
「絶対なし」
あの日。
一人で。
いなくなった私。
陽向は。
きっと。
まだ覚えている。
「……うん」
私は。
頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
少し迷って。
私は。
離しかけていた手を。
自分から。
握り直した。
「二人で決める」
陽向が。
笑う。
「そう」
「うん」
「えらい」
「子ども扱い!」
「彼女扱い」
「どこが!」
また。
笑った。
◇◇◇
帰り。
車の中。
私は。
助手席で。
今日買ってもらった。
ぬいぐるみを抱えていた。
「楽しかった?」
陽向が聞く。
「うん」
「何が一番?」
「……」
考える。
買い物。
ご飯。
手を繋いだこと。
全部。
楽しかった。
でも。
「普通に」
「?」
「歩けたこと」
「歩く?」
「うん」
窓の外を見る。
「好きな人と」
「手繋いで」
「お店見て」
「ご飯食べて」
「……」
「それだけ」
陽向が。
静かに聞いている。
「そういうの」
私は。
少し笑う。
「もう」
「私にはないと思ってた」
「……」
「母親になって」
「三十四歳になって」
「恋愛とか」
「デートとか」
「そんなの」
「もう終わったものだと思ってた」
陽向が。
少し。
眉を寄せる。
「三十四で終わりって早くない?」
「そうなんだけど」
「俺ら同い年だよ?」
「うん」
「俺まだアイドルやってるよ?」
「知ってる」
「じゃあ美月も」
赤信号。
車が止まる。
陽向が。
こちらを見る。
「まだまだじゃん」
「……」
「一回人生終わったからって」
「全部終わりじゃない」
胸が。
熱くなる。
「むしろ」
少し笑う。
「二回目なんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ」
陽向が。
前を向き直る。
「二回分」
「楽しめばいいじゃん」
私は。
少し笑った。
「欲張り」
「いいじゃん」
「いいの?」
「俺が許す」
「誰目線?」
「彼氏」
「それ便利に使ってない?」
「あははっ!」
陽向が笑う。
私も。
笑った。
◇◇◇
その夜。
部屋に戻る。
私は。
買ってもらったぬいぐるみを。
白いマグカップの近くへ置いた。
ピンクのマグ。
白いマグ。
そして。
今日の。
小さなぬいぐるみ。
少しずつ。
増えていく。
私と。
陽向の思い出。
紗良のものではない。
高瀬美月として。
作っている。
新しい時間。
スマートフォンが震える。
『今日はありがと』
陽向。
私は。
笑う。
『こっちこそありがとう』
少し迷って。
続ける。
『楽しかった』
送信。
すぐに。
『俺も』
そして。
『次どこ行く?』
「もう次?」
でも。
嬉しい。
『考えとく』
数秒後。
『美月』
『何?』
『今日かわいかった』
「……」
私は。
スマートフォンを。
ベッドへ投げた。
「もう!」
頬。
熱い。
でも。
数秒後。
また。
スマートフォンを取る。
返信。
『陽向もかっこよかったよ』
送った瞬間。
既読。
しばらく。
返事がない。
「……?」
そして。
『無理』
「何が?」
『彼女に言われるの破壊力やばい』
私は。
声を出して笑った。
トップアイドル。
何万人ものファンから。
毎日のように。
かっこいいと言われている人。
なのに。
私からの一言で。
こんな反応をする。
「……可愛い」
小さく呟く。
そして。
気づく。
恋人になっても。
陽向は。
陽向だった。
明るくて。
よく笑って。
大きなリアクションをして。
少し甘えん坊で。
でも。
大事なことは。
ちゃんと言葉にしてくれる。
私は。
そんな陽向が。
やっぱり。
好き。
ただ。
その幸せな時間の中で。
一つだけ。
私はまだ。
知らなかった。
一ノ瀬紗良の事故後。
一度だけ。
医師が。
陽向に伝えていた。
ある可能性。
――記憶が戻る過程で。
――人格が大きく揺れることもあります。
そして。
その言葉を。
陽向が。
今まで。
私に言えずにいたことを。
私は。
まだ。
知らなかった。



