紗良の。
最後の記憶を見てから。
三日が経った。
あれから。
不思議なくらい。
何も起きていない。
頭が痛くなることも。
突然。
知らない景色が見えることも。
胸の中に。
誰かの感情が流れ込んでくることも。
なくなった。
「……本当に」
私は。
朝。
鏡の前に立ちながら。
自分の顔を見る。
「終わったのかな」
鏡に映る。
一ノ瀬紗良の顔。
でも。
もう。
以前のように。
見るたび。
罪悪感で苦しくなることはなかった。
この身体は。
紗良が。
生きてきた証。
そして今は。
私が。
生きていく身体。
「……おはよう、紗良さん」
鏡に向かって。
小さく笑う。
返事はない。
それでいい。
「今日も」
胸に手を置く。
「ちゃんと生きるね」
私として。
高瀬美月として。
◇◇◇
その日の昼。
私は。
仕事だった。
撮影を終え。
控室へ戻る。
スマートフォンを見ると。
陽向から。
メッセージ。
『今日何時終わる?』
「まただ」
思わず笑う。
付き合い始めてから。
陽向。
前より。
連絡が増えた。
いや。
前から多かった気もする。
でも。
今は。
理由が。
分かりやすすぎる。
『もう終わるよ』
送信。
すぐに。
『じゃ迎え行く』
「……」
また。
『自分で帰れるよ』
と。
打とうとして。
指が止まる。
以前なら。
遠慮していた。
迷惑じゃないかな。
疲れてないかな。
わざわざ来てもらうの悪いな。
そう考えて。
断っていた。
でも。
陽向は。
何度も。
私に聞いてくれた。
――美月はどうしたい?
私は。
一度。
目を閉じる。
どうしたい?
「……会いたい」
小さく。
答えた。
だから。
送る。
『じゃあお願い😊』
少しして。
『任せろ彼氏に』
「……」
その文字だけで。
頬が緩む。
「慣れないなあ……」
彼氏。
未だに。
その言葉。
破壊力が強すぎる。
◇◇◇
撮影が終わり。
外へ出る。
見慣れた車。
助手席に乗り込むと。
「お疲れ」
陽向が。
笑った。
「お疲れさま」
シートベルトをつける。
「今日どうだった?」
「順調だったよ」
「マジ?」
「うん」
「すげえじゃん」
いつもの。
大きな反応。
私は。
思わず笑った。
「陽向って」
「何?」
「毎回ちゃんと褒めるね」
「だって頑張ったんでしょ?」
「うん」
「じゃ褒めるだろ」
「……そっか」
やっぱり。
好き。
思う。
今は。
それを。
打ち消さない。
「何?」
陽向が。
私を見る。
「今また俺のこと好きって思った?」
「なっ……!」
図星。
「何で分かるの!?」
「あはははっ!」
「笑わないで!」
「顔!」
「顔に出てない!」
「めちゃくちゃ出てる」
「もう!」
陽向が。
楽しそうに笑う。
私も。
結局。
笑ってしまった。
◇◇◇
「腹減った」
車が走り出して。
十分もしないうちに。
陽向が言った。
「また?」
「今日昼軽かった」
「じゃあ何か食べに行く?」
「え?」
陽向が。
ちらっと。
こちらを見る。
「美月ん家じゃなく?」
「毎回作ると思わないでください」
「えー」
「今日は私も疲れたの」
言った。
自然に。
疲れた。
その一言を。
人に言えた。
陽向が。
すぐに頷く。
「じゃ食いに行こ」
それだけ。
『じゃあ作らなくていい』
『大丈夫?』
『頑張って』
でもない。
ただ。
じゃあ外で食べよう。
その軽さが。
心地いい。
「何食べたい?」
「陽向は?」
「ラーメン」
「予想通り」
「美月は?」
私は。
少し考える。
「……ラーメン」
「よっしゃ!」
「そんな喜ぶ?」
「彼女と好み合うの最高じゃん」
「……」
また。
さらっと言う。
「それ」
「ん?」
「まだ慣れないから」
「何が?」
「彼女って言われるの」
「じゃあいっぱい言えば慣れる?」
「やめて」
「俺の彼女」
「陽向」
「美月は俺の彼女」
「うるさい!」
車内に。
陽向の笑い声が響く。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しい。
◇◇◇
個室のある店。
人目を避けながら。
二人で。
ラーメンを食べる。
「うまっ!」
「陽向」
「何?」
「ラーメンでもそれ言うんだ」
「美味いもんには言う」
「毎回本気なんだね」
「美月、俺のリアクション疑ってた?」
「テレビ用かなって」
「ひど!」
私は。
笑いながら。
麺をすする。
そして。
ふと。
顔を上げた。
陽向。
普通に。
ラーメンを食べている。
帽子を深く被って。
少し猫背。
口元に。
ほんの少し。
スープ。
「……」
「何?」
また。
見ていたらしい。
「口」
「え?」
私は。
自分の口元を指す。
「ついてる」
「どこ?」
「ここ」
「取って」
「自分で取れるでしょ」
「見えない」
「ティッシュあるよ」
「美月取って」
「もう」
仕方なく。
ティッシュを持つ。
陽向の口元に。
手を伸ばす。
「……」
拭く。
ただ。
それだけ。
なのに。
一瞬。
距離が近くなる。
陽向の目。
私の顔を。
じっと見ている。
「……何?」
「いや」
「何?」
「近いなって」
「陽向が取ってって言ったんでしょ!」
慌てて。
手を引く。
陽向が。
笑う。
でも。
その目だけは。
少し。
いつもと違った。
「……」
胸が。
鳴る。
あの日。
キスしそうになったときと。
同じ。
私は。
視線を逸らした。
まだ。
少し。
怖い。
でも。
逃げたいわけじゃない。
そのことだけは。
もう。
分かっていた。
◇◇◇
食事を終え。
私の部屋へ戻る。
「ごちそうさまでした」
「私作ってないけど」
「美月と食べたから」
「何それ」
陽向が。
ソファに座る。
私は。
キッチンで。
コーヒーを淹れる。
二つ。
マグカップ。
ピンク。
白。
あの日。
二人で選んだ。
最初の。
私と陽向の思い出。
テーブルに置く。
「はい」
「ありがと」
私は。
隣に座る。
陽向が。
コーヒーを飲む。
静かな時間。
テレビは。
つけない。
何か。
話さなきゃ。
とも。
思わない。
この時間も。
好き。
「……美月」
「何?」
「最近」
「うん」
「紗良の記憶」
陽向が。
少し慎重に。
聞く。
「出る?」
私は。
首を振った。
「出ない」
「……そっか」
「うん」
「頭痛も?」
「ない」
陽向が。
少し。
息を吐いた。
安心したような。
寂しいような。
複雑な顔。
「寂しい?」
私が聞く。
陽向は。
少し考えてから。
「……ちょっと」
正直に。
答えた。
「うん」
「最後だったかもしれないから」
「……」
「もう」
少し笑う。
「紗良の声」
「聞けないんだなって」
胸が。
少しだけ。
痛む。
私は。
陽向の手に。
そっと。
自分の手を重ねた。
「寂しいよね」
「……うん」
「大切だったもんね」
「うん」
「忘れなくていいよ」
陽向が。
こちらを見る。
以前。
私に。
言ってくれた言葉。
――子どもたちを忘れなくていい。
今度は。
私が。
返す。
「紗良さんのこと」
「ずっと大切にしてていい」
「……」
「私と付き合ったからって」
「忘れなきゃいけないわけじゃない」
陽向が。
何も言わず。
私を見ている。
「私」
少し笑う。
「陽向にそう言ってもらって」
「すごく楽になったから」
「……」
「だから私も」
繋いだ手を。
少し。
握る。
「同じこと言いたい」
陽向の目が。
少し潤んだ。
でも。
すぐに。
笑う。
「美月」
「何?」
「好き」
「……今!?」
「今」
「急すぎる」
「言いたくなった」
「そういうのずるい」
「なんで」
「私も」
声が。
小さくなる。
「好きって言いたくなるから」
陽向が。
固まる。
「……言って」
「嫌」
「何で!?」
「恥ずかしい」
「今ほぼ言ってたじゃん!」
「ほぼと実際は違います」
「美月!」
また。
笑った。
◇◇◇
しばらくして。
陽向が。
ソファに。
深く身体を預ける。
私は。
隣で。
その横顔を見る。
「……陽向」
「ん?」
「聞いていい?」
「何?」
「私のこと」
少し。
迷う。
「見てるとき」
「うん」
「紗良さんの顔」
「思い出す?」
陽向は。
すぐには。
答えなかった。
私も。
急かさない。
しばらくして。
「思い出すときはある」
「……そっか」
胸が。
少しだけ。
締めつけられる。
でも。
陽向が。
続けた。
「でも」
「うん」
「美月見て」
「紗良だって思うことは」
「もうほぼない」
「……」
「なんつーか」
陽向が。
私の顔を。
じっと見る。
「同じ顔なのに」
「全然違うんだよな」
「どう違うの?」
「目」
「目?」
「美月って」
陽向が。
私の目元を指す。
「感情すぐ出る」
「またそれ?」
「嬉しいとき」
「すぐキラキラするし」
「……」
「不安だと」
「めっちゃ目泳ぐし」
「……」
「泣くの我慢すると」
「すぐ赤くなる」
「そんな見てるの?」
「見てる」
即答。
胸が。
ドクン。
「あと」
「まだある?」
「俺のこと」
少し。
笑う。
「好きって思ってるとき」
「……」
「すげえ分かる」
「そんなわけない!」
「分かるって」
「何で!?」
「目が違う」
「……」
顔が。
一気に熱くなる。
「今も」
陽向が。
少しだけ。
声を落とした。
「そういう目してる」
「……」
逃げたい。
でも。
今日は。
逃げない。
私は。
陽向を見る。
「……じゃあ」
「ん?」
「今」
胸が。
速い。
でも。
言う。
「好きって」
「思ってる」
陽向の目が。
ゆっくり。
大きくなった。
「……美月」
「何?」
「それ」
「?」
「今言われるの」
「結構ヤバい」
「何が?」
陽向が。
少し。
身体を起こす。
距離が。
近くなる。
「……キスしたくなる」
心臓が。
跳ねた。
あの日。
私が。
止めた。
キス。
「……」
陽向は。
それ以上。
近づかない。
ちゃんと。
待っている。
私が。
決めるのを。
――逃げないで。
紗良の。
最後の言葉が。
頭に浮かぶ。
でも。
これは。
紗良のためじゃない。
私が。
どうしたい?
陽向の顔を見る。
近づいてほしい。
触れてほしい。
この人と。
もっと。
近くなりたい。
それが。
私の気持ち。
「……陽向」
「うん」
私は。
小さく。
息を吸った。
「していいよ」
「……」
陽向が。
完全に。
固まった。
「……え?」
「だから」
恥ずかしい。
ものすごく。
でも。
ちゃんと。
言う。
「キス」
「していい」
陽向の顔が。
一気に赤くなる。
「……マジ?」
「マジ」
「本当に?」
「何回聞くの」
「だって」
陽向が。
珍しく。
ものすごく。
緊張している。
その姿に。
少しだけ。
笑ってしまう。
「陽向も緊張するんだ」
「するだろ!」
「トップアイドルなのに」
「関係ない!」
「ふふっ」
「笑うなって」
でも。
その緊張が。
嬉しかった。
私だけじゃない。
陽向も。
この瞬間を。
大切にしてくれている。
◇◇◇
陽向の手が。
ゆっくり。
私の頬に触れる。
温かい。
「美月」
「うん」
「嫌だったら」
「うん」
「すぐ言って」
「分かった」
「あと」
「何?」
「目閉じて」
「……言わないで」
「え?」
「余計恥ずかしい」
陽向が。
小さく笑った。
私は。
目を閉じる。
心臓の音。
うるさい。
本当に。
聞こえるんじゃないかと思う。
頬に触れる。
陽向の手。
少しずつ。
近づく気配。
そして。
唇に。
柔らかい。
温度。
触れた。
ほんの。
一瞬。
優しい。
キス。
「……」
離れる。
私は。
目を開ける。
陽向。
ものすごく。
近い。
「……」
「……」
二人とも。
何も言えない。
最初に。
口を開いたのは。
私だった。
「……終わり?」
「え?」
陽向の目が。
大きくなる。
私も。
言ってから。
固まった。
「ち、違う!」
「美月」
「今の忘れて!」
「それ」
陽向が。
口元を押さえる。
「もう一回していいってこと?」
「違……」
違わない。
言葉が。
止まる。
陽向が。
少し。
笑う。
「顔」
「何?」
「めちゃくちゃ赤い」
「陽向も!」
「俺はいい」
「何で!」
「もう一回」
「……」
私は。
陽向を見る。
嫌?
全然。
むしろ。
「……うん」
小さく。
頷いた。
今度は。
陽向が。
少し笑った。
「可愛すぎ」
「言わないで!」
「無理」
そして。
もう一度。
唇が。
重なる。
今度は。
さっきより。
少し長い。
陽向の指が。
頬から。
耳の横へ。
そっと。
触れる。
私は。
陽向の服を。
軽く掴んだ。
怖くない。
罪悪感も。
ない。
ただ。
嬉しい。
好きな人に。
触れられている。
その。
幸せだけ。
◇◇◇
ゆっくり。
離れる。
私は。
しばらく。
陽向の胸元を見ていた。
顔。
上げられない。
「美月」
「……何」
「こっち見て」
「無理」
「なんで」
「恥ずかしい」
「俺は見たい」
「嫌」
「彼氏特権」
「そんな特権ありません」
陽向が。
笑う。
そして。
「……よかった」
小さく。
言った。
私は。
顔を上げる。
「何が?」
「美月」
陽向が。
優しく笑う。
「逃げなかった」
胸が。
熱くなる。
「……うん」
「怖くなかった?」
私は。
少し考える。
「緊張した」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
陽向の手に。
自分の手を重ねる。
「したかった」
陽向の顔が。
また。
赤くなる。
「……美月」
「何?」
「今日どうしたの」
「え?」
「急に強い」
「何それ」
「俺の心臓」
胸を押さえる。
「さっきから死にそう」
「大げさ」
「マジ」
私は。
笑った。
そして。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
「私ね」
「うん」
「ずっと」
少し。
遠くを見る。
「自分が幸せになりたいって思うの」
「わがままな気がしてた」
陽向が。
黙って聞く。
「子どもがいて」
「家族がいて」
「それなのに」
「もっと大切にされたいとか」
「もっと分かってほしいとか」
「自分の好きなことしたいとか」
「……」
「そんなこと思う私が」
「欲張りなのかなって」
陽向の手が。
私の手を。
優しく握る。
「でも」
私は。
少し笑う。
「今は」
「幸せになりたいって」
「思える」
「うん」
「子どもたちを大事にしたまま」
「私も」
「幸せになっていいって」
「思えるようになった」
陽向が。
私の頭に。
頬を寄せる。
「美月」
「ん?」
「それ」
「ずっと思ってて」
「何を?」
「幸せになっていい」
「……」
「俺も」
少し。
照れたように。
笑う。
「美月のこと」
「幸せにしたいし」
胸が。
大きく鳴る。
「……何それ」
「彼氏っぽい?」
「ぽいというか」
「うん」
「恥ずかしい」
「あははっ」
でも。
嬉しい。
「陽向」
「何?」
「私も」
陽向を見る。
「陽向を」
「幸せにしたい」
今度は。
陽向が。
何も言えなくなった。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
目を逸らす。
「そういうの」
「?」
「今まであんま言われたことない」
「そうなの?」
「俺が幸せにする、とかは」
「言われそうだけど」
「……」
「美月って」
少し。
困ったように笑う。
「一緒なんだな」
「何が?」
「どっちかだけじゃなくて」
「……」
「二人で」
「幸せになろうとする」
その言葉。
私は。
好きだと思った。
「うん」
笑う。
「一緒に」
「幸せになろ」
陽向が。
笑った。
「うん」
そして。
繋いだ手を。
少し強く。
握った。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
寝室の鏡の前に立った。
自分の唇へ。
指で。
そっと触れる。
「……キスした」
言葉にすると。
また。
顔が熱くなる。
「陽向と……」
最推しと。
なんて。
もう。
思わなかった。
好きな人。
私の彼氏。
天城陽向と。
初めて。
キスをした。
鏡の中。
紗良の顔。
「……紗良さん」
私は。
小さく笑う。
「逃げなかったよ」
何も。
起こらない。
記憶も。
声も。
聞こえない。
でも。
それでいい。
もう。
紗良から。
答えをもらわなくても。
私は。
自分で。
選べる。
自分で。
好きになって。
自分で。
幸せになりたいと。
言える。
「私」
胸に手を置く。
「ちゃんと」
「美月として」
少しずつ。
生きられてるよ。
そして。
その頃。
陽向は。
自宅のベッドで。
枕を抱えながら。
一人。
転がっていた。
「……キスした」
ごろん。
「美月と」
ごろん。
「二回」
顔を。
枕に埋める。
「……無理」
あんなに。
ステージで。
何万人の前に立っても。
ほとんど。
緊張しないのに。
美月一人を前にすると。
どうして。
こんなに。
余裕がなくなるんだろう。
そして。
思い出す。
『陽向を幸せにしたい』
「……」
枕から。
ゆっくり。
顔を上げる。
「それ」
小さく笑う。
「俺が言おうとしてたんだけど」
でも。
悪くない。
むしろ。
すごく。
嬉しかった。
片方だけが。
誰かを救う恋じゃない。
片方だけが。
我慢する恋でもない。
二人で。
笑って。
疲れたときは休んで。
泣いたら。
話を聞いて。
それぞれの大切なものも。
大事にしながら。
一緒に。
幸せになっていく。
「……美月」
陽向は。
目を閉じる。
「好きだなぁ」
今度は。
誰にも聞かせるためではなく。
ただ。
自分の気持ちとして。
そう。
呟いた。
そして。
二人の恋は。
ようやく。
誰かの過去でも。
誰かの願いでもない。
天城陽向と。
高瀬美月。
二人自身の。
恋になっていった。
最後の記憶を見てから。
三日が経った。
あれから。
不思議なくらい。
何も起きていない。
頭が痛くなることも。
突然。
知らない景色が見えることも。
胸の中に。
誰かの感情が流れ込んでくることも。
なくなった。
「……本当に」
私は。
朝。
鏡の前に立ちながら。
自分の顔を見る。
「終わったのかな」
鏡に映る。
一ノ瀬紗良の顔。
でも。
もう。
以前のように。
見るたび。
罪悪感で苦しくなることはなかった。
この身体は。
紗良が。
生きてきた証。
そして今は。
私が。
生きていく身体。
「……おはよう、紗良さん」
鏡に向かって。
小さく笑う。
返事はない。
それでいい。
「今日も」
胸に手を置く。
「ちゃんと生きるね」
私として。
高瀬美月として。
◇◇◇
その日の昼。
私は。
仕事だった。
撮影を終え。
控室へ戻る。
スマートフォンを見ると。
陽向から。
メッセージ。
『今日何時終わる?』
「まただ」
思わず笑う。
付き合い始めてから。
陽向。
前より。
連絡が増えた。
いや。
前から多かった気もする。
でも。
今は。
理由が。
分かりやすすぎる。
『もう終わるよ』
送信。
すぐに。
『じゃ迎え行く』
「……」
また。
『自分で帰れるよ』
と。
打とうとして。
指が止まる。
以前なら。
遠慮していた。
迷惑じゃないかな。
疲れてないかな。
わざわざ来てもらうの悪いな。
そう考えて。
断っていた。
でも。
陽向は。
何度も。
私に聞いてくれた。
――美月はどうしたい?
私は。
一度。
目を閉じる。
どうしたい?
「……会いたい」
小さく。
答えた。
だから。
送る。
『じゃあお願い😊』
少しして。
『任せろ彼氏に』
「……」
その文字だけで。
頬が緩む。
「慣れないなあ……」
彼氏。
未だに。
その言葉。
破壊力が強すぎる。
◇◇◇
撮影が終わり。
外へ出る。
見慣れた車。
助手席に乗り込むと。
「お疲れ」
陽向が。
笑った。
「お疲れさま」
シートベルトをつける。
「今日どうだった?」
「順調だったよ」
「マジ?」
「うん」
「すげえじゃん」
いつもの。
大きな反応。
私は。
思わず笑った。
「陽向って」
「何?」
「毎回ちゃんと褒めるね」
「だって頑張ったんでしょ?」
「うん」
「じゃ褒めるだろ」
「……そっか」
やっぱり。
好き。
思う。
今は。
それを。
打ち消さない。
「何?」
陽向が。
私を見る。
「今また俺のこと好きって思った?」
「なっ……!」
図星。
「何で分かるの!?」
「あはははっ!」
「笑わないで!」
「顔!」
「顔に出てない!」
「めちゃくちゃ出てる」
「もう!」
陽向が。
楽しそうに笑う。
私も。
結局。
笑ってしまった。
◇◇◇
「腹減った」
車が走り出して。
十分もしないうちに。
陽向が言った。
「また?」
「今日昼軽かった」
「じゃあ何か食べに行く?」
「え?」
陽向が。
ちらっと。
こちらを見る。
「美月ん家じゃなく?」
「毎回作ると思わないでください」
「えー」
「今日は私も疲れたの」
言った。
自然に。
疲れた。
その一言を。
人に言えた。
陽向が。
すぐに頷く。
「じゃ食いに行こ」
それだけ。
『じゃあ作らなくていい』
『大丈夫?』
『頑張って』
でもない。
ただ。
じゃあ外で食べよう。
その軽さが。
心地いい。
「何食べたい?」
「陽向は?」
「ラーメン」
「予想通り」
「美月は?」
私は。
少し考える。
「……ラーメン」
「よっしゃ!」
「そんな喜ぶ?」
「彼女と好み合うの最高じゃん」
「……」
また。
さらっと言う。
「それ」
「ん?」
「まだ慣れないから」
「何が?」
「彼女って言われるの」
「じゃあいっぱい言えば慣れる?」
「やめて」
「俺の彼女」
「陽向」
「美月は俺の彼女」
「うるさい!」
車内に。
陽向の笑い声が響く。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しい。
◇◇◇
個室のある店。
人目を避けながら。
二人で。
ラーメンを食べる。
「うまっ!」
「陽向」
「何?」
「ラーメンでもそれ言うんだ」
「美味いもんには言う」
「毎回本気なんだね」
「美月、俺のリアクション疑ってた?」
「テレビ用かなって」
「ひど!」
私は。
笑いながら。
麺をすする。
そして。
ふと。
顔を上げた。
陽向。
普通に。
ラーメンを食べている。
帽子を深く被って。
少し猫背。
口元に。
ほんの少し。
スープ。
「……」
「何?」
また。
見ていたらしい。
「口」
「え?」
私は。
自分の口元を指す。
「ついてる」
「どこ?」
「ここ」
「取って」
「自分で取れるでしょ」
「見えない」
「ティッシュあるよ」
「美月取って」
「もう」
仕方なく。
ティッシュを持つ。
陽向の口元に。
手を伸ばす。
「……」
拭く。
ただ。
それだけ。
なのに。
一瞬。
距離が近くなる。
陽向の目。
私の顔を。
じっと見ている。
「……何?」
「いや」
「何?」
「近いなって」
「陽向が取ってって言ったんでしょ!」
慌てて。
手を引く。
陽向が。
笑う。
でも。
その目だけは。
少し。
いつもと違った。
「……」
胸が。
鳴る。
あの日。
キスしそうになったときと。
同じ。
私は。
視線を逸らした。
まだ。
少し。
怖い。
でも。
逃げたいわけじゃない。
そのことだけは。
もう。
分かっていた。
◇◇◇
食事を終え。
私の部屋へ戻る。
「ごちそうさまでした」
「私作ってないけど」
「美月と食べたから」
「何それ」
陽向が。
ソファに座る。
私は。
キッチンで。
コーヒーを淹れる。
二つ。
マグカップ。
ピンク。
白。
あの日。
二人で選んだ。
最初の。
私と陽向の思い出。
テーブルに置く。
「はい」
「ありがと」
私は。
隣に座る。
陽向が。
コーヒーを飲む。
静かな時間。
テレビは。
つけない。
何か。
話さなきゃ。
とも。
思わない。
この時間も。
好き。
「……美月」
「何?」
「最近」
「うん」
「紗良の記憶」
陽向が。
少し慎重に。
聞く。
「出る?」
私は。
首を振った。
「出ない」
「……そっか」
「うん」
「頭痛も?」
「ない」
陽向が。
少し。
息を吐いた。
安心したような。
寂しいような。
複雑な顔。
「寂しい?」
私が聞く。
陽向は。
少し考えてから。
「……ちょっと」
正直に。
答えた。
「うん」
「最後だったかもしれないから」
「……」
「もう」
少し笑う。
「紗良の声」
「聞けないんだなって」
胸が。
少しだけ。
痛む。
私は。
陽向の手に。
そっと。
自分の手を重ねた。
「寂しいよね」
「……うん」
「大切だったもんね」
「うん」
「忘れなくていいよ」
陽向が。
こちらを見る。
以前。
私に。
言ってくれた言葉。
――子どもたちを忘れなくていい。
今度は。
私が。
返す。
「紗良さんのこと」
「ずっと大切にしてていい」
「……」
「私と付き合ったからって」
「忘れなきゃいけないわけじゃない」
陽向が。
何も言わず。
私を見ている。
「私」
少し笑う。
「陽向にそう言ってもらって」
「すごく楽になったから」
「……」
「だから私も」
繋いだ手を。
少し。
握る。
「同じこと言いたい」
陽向の目が。
少し潤んだ。
でも。
すぐに。
笑う。
「美月」
「何?」
「好き」
「……今!?」
「今」
「急すぎる」
「言いたくなった」
「そういうのずるい」
「なんで」
「私も」
声が。
小さくなる。
「好きって言いたくなるから」
陽向が。
固まる。
「……言って」
「嫌」
「何で!?」
「恥ずかしい」
「今ほぼ言ってたじゃん!」
「ほぼと実際は違います」
「美月!」
また。
笑った。
◇◇◇
しばらくして。
陽向が。
ソファに。
深く身体を預ける。
私は。
隣で。
その横顔を見る。
「……陽向」
「ん?」
「聞いていい?」
「何?」
「私のこと」
少し。
迷う。
「見てるとき」
「うん」
「紗良さんの顔」
「思い出す?」
陽向は。
すぐには。
答えなかった。
私も。
急かさない。
しばらくして。
「思い出すときはある」
「……そっか」
胸が。
少しだけ。
締めつけられる。
でも。
陽向が。
続けた。
「でも」
「うん」
「美月見て」
「紗良だって思うことは」
「もうほぼない」
「……」
「なんつーか」
陽向が。
私の顔を。
じっと見る。
「同じ顔なのに」
「全然違うんだよな」
「どう違うの?」
「目」
「目?」
「美月って」
陽向が。
私の目元を指す。
「感情すぐ出る」
「またそれ?」
「嬉しいとき」
「すぐキラキラするし」
「……」
「不安だと」
「めっちゃ目泳ぐし」
「……」
「泣くの我慢すると」
「すぐ赤くなる」
「そんな見てるの?」
「見てる」
即答。
胸が。
ドクン。
「あと」
「まだある?」
「俺のこと」
少し。
笑う。
「好きって思ってるとき」
「……」
「すげえ分かる」
「そんなわけない!」
「分かるって」
「何で!?」
「目が違う」
「……」
顔が。
一気に熱くなる。
「今も」
陽向が。
少しだけ。
声を落とした。
「そういう目してる」
「……」
逃げたい。
でも。
今日は。
逃げない。
私は。
陽向を見る。
「……じゃあ」
「ん?」
「今」
胸が。
速い。
でも。
言う。
「好きって」
「思ってる」
陽向の目が。
ゆっくり。
大きくなった。
「……美月」
「何?」
「それ」
「?」
「今言われるの」
「結構ヤバい」
「何が?」
陽向が。
少し。
身体を起こす。
距離が。
近くなる。
「……キスしたくなる」
心臓が。
跳ねた。
あの日。
私が。
止めた。
キス。
「……」
陽向は。
それ以上。
近づかない。
ちゃんと。
待っている。
私が。
決めるのを。
――逃げないで。
紗良の。
最後の言葉が。
頭に浮かぶ。
でも。
これは。
紗良のためじゃない。
私が。
どうしたい?
陽向の顔を見る。
近づいてほしい。
触れてほしい。
この人と。
もっと。
近くなりたい。
それが。
私の気持ち。
「……陽向」
「うん」
私は。
小さく。
息を吸った。
「していいよ」
「……」
陽向が。
完全に。
固まった。
「……え?」
「だから」
恥ずかしい。
ものすごく。
でも。
ちゃんと。
言う。
「キス」
「していい」
陽向の顔が。
一気に赤くなる。
「……マジ?」
「マジ」
「本当に?」
「何回聞くの」
「だって」
陽向が。
珍しく。
ものすごく。
緊張している。
その姿に。
少しだけ。
笑ってしまう。
「陽向も緊張するんだ」
「するだろ!」
「トップアイドルなのに」
「関係ない!」
「ふふっ」
「笑うなって」
でも。
その緊張が。
嬉しかった。
私だけじゃない。
陽向も。
この瞬間を。
大切にしてくれている。
◇◇◇
陽向の手が。
ゆっくり。
私の頬に触れる。
温かい。
「美月」
「うん」
「嫌だったら」
「うん」
「すぐ言って」
「分かった」
「あと」
「何?」
「目閉じて」
「……言わないで」
「え?」
「余計恥ずかしい」
陽向が。
小さく笑った。
私は。
目を閉じる。
心臓の音。
うるさい。
本当に。
聞こえるんじゃないかと思う。
頬に触れる。
陽向の手。
少しずつ。
近づく気配。
そして。
唇に。
柔らかい。
温度。
触れた。
ほんの。
一瞬。
優しい。
キス。
「……」
離れる。
私は。
目を開ける。
陽向。
ものすごく。
近い。
「……」
「……」
二人とも。
何も言えない。
最初に。
口を開いたのは。
私だった。
「……終わり?」
「え?」
陽向の目が。
大きくなる。
私も。
言ってから。
固まった。
「ち、違う!」
「美月」
「今の忘れて!」
「それ」
陽向が。
口元を押さえる。
「もう一回していいってこと?」
「違……」
違わない。
言葉が。
止まる。
陽向が。
少し。
笑う。
「顔」
「何?」
「めちゃくちゃ赤い」
「陽向も!」
「俺はいい」
「何で!」
「もう一回」
「……」
私は。
陽向を見る。
嫌?
全然。
むしろ。
「……うん」
小さく。
頷いた。
今度は。
陽向が。
少し笑った。
「可愛すぎ」
「言わないで!」
「無理」
そして。
もう一度。
唇が。
重なる。
今度は。
さっきより。
少し長い。
陽向の指が。
頬から。
耳の横へ。
そっと。
触れる。
私は。
陽向の服を。
軽く掴んだ。
怖くない。
罪悪感も。
ない。
ただ。
嬉しい。
好きな人に。
触れられている。
その。
幸せだけ。
◇◇◇
ゆっくり。
離れる。
私は。
しばらく。
陽向の胸元を見ていた。
顔。
上げられない。
「美月」
「……何」
「こっち見て」
「無理」
「なんで」
「恥ずかしい」
「俺は見たい」
「嫌」
「彼氏特権」
「そんな特権ありません」
陽向が。
笑う。
そして。
「……よかった」
小さく。
言った。
私は。
顔を上げる。
「何が?」
「美月」
陽向が。
優しく笑う。
「逃げなかった」
胸が。
熱くなる。
「……うん」
「怖くなかった?」
私は。
少し考える。
「緊張した」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも」
陽向の手に。
自分の手を重ねる。
「したかった」
陽向の顔が。
また。
赤くなる。
「……美月」
「何?」
「今日どうしたの」
「え?」
「急に強い」
「何それ」
「俺の心臓」
胸を押さえる。
「さっきから死にそう」
「大げさ」
「マジ」
私は。
笑った。
そして。
陽向の肩へ。
頭を預けた。
「私ね」
「うん」
「ずっと」
少し。
遠くを見る。
「自分が幸せになりたいって思うの」
「わがままな気がしてた」
陽向が。
黙って聞く。
「子どもがいて」
「家族がいて」
「それなのに」
「もっと大切にされたいとか」
「もっと分かってほしいとか」
「自分の好きなことしたいとか」
「……」
「そんなこと思う私が」
「欲張りなのかなって」
陽向の手が。
私の手を。
優しく握る。
「でも」
私は。
少し笑う。
「今は」
「幸せになりたいって」
「思える」
「うん」
「子どもたちを大事にしたまま」
「私も」
「幸せになっていいって」
「思えるようになった」
陽向が。
私の頭に。
頬を寄せる。
「美月」
「ん?」
「それ」
「ずっと思ってて」
「何を?」
「幸せになっていい」
「……」
「俺も」
少し。
照れたように。
笑う。
「美月のこと」
「幸せにしたいし」
胸が。
大きく鳴る。
「……何それ」
「彼氏っぽい?」
「ぽいというか」
「うん」
「恥ずかしい」
「あははっ」
でも。
嬉しい。
「陽向」
「何?」
「私も」
陽向を見る。
「陽向を」
「幸せにしたい」
今度は。
陽向が。
何も言えなくなった。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
目を逸らす。
「そういうの」
「?」
「今まであんま言われたことない」
「そうなの?」
「俺が幸せにする、とかは」
「言われそうだけど」
「……」
「美月って」
少し。
困ったように笑う。
「一緒なんだな」
「何が?」
「どっちかだけじゃなくて」
「……」
「二人で」
「幸せになろうとする」
その言葉。
私は。
好きだと思った。
「うん」
笑う。
「一緒に」
「幸せになろ」
陽向が。
笑った。
「うん」
そして。
繋いだ手を。
少し強く。
握った。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
寝室の鏡の前に立った。
自分の唇へ。
指で。
そっと触れる。
「……キスした」
言葉にすると。
また。
顔が熱くなる。
「陽向と……」
最推しと。
なんて。
もう。
思わなかった。
好きな人。
私の彼氏。
天城陽向と。
初めて。
キスをした。
鏡の中。
紗良の顔。
「……紗良さん」
私は。
小さく笑う。
「逃げなかったよ」
何も。
起こらない。
記憶も。
声も。
聞こえない。
でも。
それでいい。
もう。
紗良から。
答えをもらわなくても。
私は。
自分で。
選べる。
自分で。
好きになって。
自分で。
幸せになりたいと。
言える。
「私」
胸に手を置く。
「ちゃんと」
「美月として」
少しずつ。
生きられてるよ。
そして。
その頃。
陽向は。
自宅のベッドで。
枕を抱えながら。
一人。
転がっていた。
「……キスした」
ごろん。
「美月と」
ごろん。
「二回」
顔を。
枕に埋める。
「……無理」
あんなに。
ステージで。
何万人の前に立っても。
ほとんど。
緊張しないのに。
美月一人を前にすると。
どうして。
こんなに。
余裕がなくなるんだろう。
そして。
思い出す。
『陽向を幸せにしたい』
「……」
枕から。
ゆっくり。
顔を上げる。
「それ」
小さく笑う。
「俺が言おうとしてたんだけど」
でも。
悪くない。
むしろ。
すごく。
嬉しかった。
片方だけが。
誰かを救う恋じゃない。
片方だけが。
我慢する恋でもない。
二人で。
笑って。
疲れたときは休んで。
泣いたら。
話を聞いて。
それぞれの大切なものも。
大事にしながら。
一緒に。
幸せになっていく。
「……美月」
陽向は。
目を閉じる。
「好きだなぁ」
今度は。
誰にも聞かせるためではなく。
ただ。
自分の気持ちとして。
そう。
呟いた。
そして。
二人の恋は。
ようやく。
誰かの過去でも。
誰かの願いでもない。
天城陽向と。
高瀬美月。
二人自身の。
恋になっていった。



