星と陽向。
そして。
私。
三人で撮った写真。
撮影から数日が経っても。
私は。
何度も。
その写真を見ていた。
画面の真ん中には。
笑っている星。
その隣に。
陽向。
そして。
一ノ瀬紗良の姿をした私。
「……不思議」
どう見ても。
普通の記念写真。
だけど。
私にとっては。
ありえなかったはずの一枚。
前の人生で。
私が大好きだった人。
前の人生で。
私が何より大切にしていた娘。
その二人と。
今の私。
「……宝物だな」
小さく呟く。
すると。
スマートフォンが震えた。
陽向。
『その写真また見てる?』
「……何で分かるの?」
思わず。
声が出る。
『見てる』
と返すと。
すぐに。
『やっぱり』
『昨日も見てたじゃん』
『だって嬉しいんだもん』
送信。
数秒後。
『俺も保存してる』
「……え?」
思わず。
画面を見つめる。
『陽向も?』
『うん』
『なんで?』
返した瞬間。
電話が鳴った。
「もしもし」
『なんでって何?』
「だって」
私は。
ソファに座る。
「陽向には普通の写真でしょ?」
『普通じゃないけど』
「どうして?」
少し。
間があった。
『彼女と』
「うん」
『彼女が一番大事にしてる娘と』
「……」
『初めて三人で撮った写真だろ』
胸が。
きゅっとなる。
「……そういう言い方」
『何?』
「ずるい」
『なんで』
「好きになるから」
言ってから。
気づく。
もう。
好きだった。
電話の向こうで。
陽向が笑う。
『もう好きじゃん』
「……そうだった」
『忘れんなよ』
「ふふっ」
笑う。
その瞬間。
頭の奥に。
チクリと。
小さな痛みが走った。
「……っ」
『美月?』
「え?」
『どうした?』
「ううん」
私は。
こめかみに触れる。
「ちょっと頭痛いだけ」
『大丈夫?』
「うん。これくらいなら――」
言いかけた瞬間。
痛みが。
一気に。
強くなった。
「……っ!」
スマートフォンが。
手から滑り落ちる。
『美月!?』
陽向の声。
遠くなる。
視界が。
白く。
染まっていった。
◇◇◇
雨。
また。
雨だった。
「……ここ」
知っている。
紗良の。
事故の日。
車の中。
ハンドルを握る。
紗良の手。
スピーカーから。
ASTERの曲。
紗良は。
泣いていた。
『もう』
『終わりにしよう』
以前にも。
見た記憶。
『陽向のこと』
『ずっと好きだった』
『でも』
『これで最後』
胸が。
苦しい。
私は。
また。
あの事故を見るの?
そう思った。
でも。
違った。
今度は。
記憶が。
もっと前から始まっていた。
◇◇◇
事故の日。
数時間前。
紗良は。
一人で。
ある神社にいた。
「……神社?」
私は。
紗良の目を通して。
境内を見る。
夕方。
人は。
ほとんどいない。
仕事帰りなのか。
紗良は。
帽子を深くかぶっていた。
賽銭箱の前。
紗良が。
手を合わせる。
『……何お願いしてんだろ、私』
自嘲するような。
心の声。
『もう三十四歳なのに』
『神頼みなんて』
でも。
目を閉じる。
そして。
願った。
『陽向が』
『幸せでありますように』
胸が。
痛んだ。
やっぱり。
最後まで。
自分じゃない。
陽向の幸せ。
でも。
少しして。
紗良は。
もう一度。
ぎゅっと。
手を合わせた。
『……あと』
声にならない。
心の中だけの。
願い。
『もし』
『許されるなら』
『私も』
少し。
幸せになってみたかった。
「……」
その言葉に。
胸が。
震える。
日記と。
同じ。
――自分も幸せになりたい。
紗良は。
最後の日。
本当に。
そう願っていた。
『誰かを好きになって』
『その人に』
『好きって言ってもらって』
『怖がらずに』
『ちゃんと手を伸ばして』
『そういう人生』
『一回くらい』
『生きてみたかったな』
涙が。
紗良の頬を伝う。
『……次があるなら』
『今度は』
一度。
息を吸う。
『自分の気持ちを』
『ちゃんと大事にできますように』
その瞬間。
風が。
吹いた。
神社の木々が。
ざわっと揺れる。
そして。
紗良は。
目を開けた。
◇◇◇
場面が。
変わる。
同じ頃。
別の場所。
「……え?」
今度は。
紗良の記憶じゃない。
見覚えのある。
家。
私の。
前の家。
「どうして……?」
これは。
私の記憶?
その日の。
事故に遭う前。
私は。
洗濯物を畳んでいた。
テレビから。
ASTERの曲が流れている。
星が。
近くにいる。
『ママ』
『ん?』
『また陽向くん見てる』
『いいでしょ』
『好きだねー』
『好きだよ』
私は。
笑っていた。
星も。
笑っている。
そのあと。
子どもたちの声。
家の中。
生活音。
確かに。
幸せだった。
なのに。
ふと。
一人になった瞬間。
私は。
ため息をついた。
『……疲れた』
小さな。
誰にも聞こえない声。
『なんか』
『全部』
『私じゃなくてもいいのかな』
胸が。
締めつけられる。
覚えている。
私は。
何度も。
そう思った。
母親だから。
妻だから。
嫁だから。
やるべきことがある。
求められることがある。
でも。
高瀬美月として。
私は。
誰に。
必要とされているんだろう。
『……一回くらい』
昔の私が。
小さく呟く。
『誰かに』
『美月だから好きって』
『言ってもらいたかったな』
「……っ」
今の私の。
涙が。
溢れた。
覚えていなかった。
こんなこと。
思ってたんだ。
いや。
たぶん。
思った直後。
自分で。
打ち消した。
子どもがいる。
夫もいる。
何を言ってるの。
贅沢。
そんなふうに。
自分の気持ちを。
なかったことにした。
でも。
確かに。
私は願っていた。
役割じゃなく。
私自身を。
見てほしいと。
◇◇◇
再び。
紗良。
車の中。
雨。
事故の直前。
紗良の心に。
さっきの願いが。
残っている。
――次があるなら。
――自分の気持ちを大事に。
そして。
同じ時刻。
私は。
雨の中。
外にいた。
事故。
光。
ブレーキ音。
二つの場所で。
ほとんど同じ瞬間に。
命が。
消えようとしている。
その瞬間。
不思議なことが起きた。
真っ暗な。
何もない場所。
私は。
そこにいた。
身体はない。
ただ。
意識だけ。
「……ここは?」
遠く。
誰かがいる。
女性。
「……紗良さん?」
一ノ瀬紗良。
事故前の。
彼女。
でも。
これは。
記憶?
そんなはずない。
私は。
このとき。
紗良を知らない。
紗良も。
私を知らない。
なのに。
二人は。
向かい合っていた。
紗良が。
私を見る。
とても。
疲れた顔。
でも。
どこか。
優しい。
『あなたも?』
「え?」
『帰りたい?』
その言葉で。
子どもたちが。
浮かぶ。
星。
他の子どもたち。
「帰りたい」
私は。
すぐに答えた。
「子どもがいるの」
「帰らなきゃ」
「私、ママだから」
紗良が。
少し。
悲しそうに笑う。
『そっか』
「あなたは?」
私が聞く。
『私?』
紗良は。
少し考える。
そして。
遠くを見る。
そこには。
陽向の姿が。
見える気がした。
『……会いたい人はいる』
「じゃあ」
『でも』
紗良が。
笑う。
『もういいかな』
「え?」
『いっぱい好きだったから』
涙が。
一滴。
落ちる。
『次は』
『違う誰かに』
『ちゃんと幸せになってほしい』
意味が。
分からない。
「誰?」
紗良が。
私を見る。
そして。
なぜか。
その目が。
とても。
優しかった。
『あなた』
「……私?」
『うん』
『あなた』
『すごく帰りたそうだから』
「待って」
「どういう意味?」
紗良が。
私へ。
手を伸ばす。
『私の身体』
『まだ』
『生きられるかもしれない』
「……」
『もし』
『あなたが使えるなら』
「待って!」
私は。
首を振る。
「そんなのダメ」
「あなたの身体でしょ?」
『うん』
「あなたが戻ればいい」
『……私は』
紗良の表情が。
少し。
寂しくなる。
『もう』
『戻れないみたい』
「そんな……」
『でも』
紗良が。
また笑う。
『お願いがある』
「……何?」
『陽向に』
胸が。
ざわつく。
この時。
私は。
天城陽向を知っている。
最推し。
でも。
なぜ。
紗良から。
その名前が出るの?
『ごめんって』
『言わないで』
「え?」
『私が勝手に好きだっただけだから』
『気づかなかったこと』
『あの人が悪いわけじゃない』
「……」
『それから』
紗良の姿が。
少しずつ。
薄くなる。
「待って!」
『もし』
『あの人が』
『あなたを見てくれる日が来たら』
「……?」
紗良が。
本当に。
幸せそうに。
笑った。
『逃げないで』
「え?」
『私みたいに』
『自分から諦めないで』
「紗良さん!」
私は。
手を伸ばす。
でも。
届かない。
『だって』
最後に。
紗良が言った。
『あなたも』
『幸せになりたかったんでしょ?』
「……っ」
光。
一気に。
視界が。
白くなる。
『だったら』
『今度は』
紗良の声。
『ちゃんと』
『自分のために生きて』
そして。
最後。
とても。
小さな声。
でも。
はっきり。
聞こえた。
『私の分までじゃなくて』
『あなたの人生を』
◇◇◇
「……っ!」
目を開ける。
天井。
リビング。
床。
私は。
倒れていた。
「美月!」
陽向の声。
「……陽向?」
顔を上げる。
玄関のほうから。
ものすごい勢いで。
陽向が入ってくる。
「大丈夫!?」
「なんで……」
「電話!」
そうだ。
通話中だった。
スマートフォン。
床に。
落ちたまま。
「急に返事なくなるから!」
陽向が。
私のそばに。
膝をつく。
「救急車呼ぶ?」
「待って」
「でも!」
「違うの」
私は。
陽向の腕を掴んだ。
「見た」
「何を?」
「紗良さん」
陽向の顔が。
止まる。
「……紗良?」
私は。
何度も。
頷いた。
涙が。
止まらない。
「最後の」
「たぶん」
声が。
震える。
「最後の記憶」
◇◇◇
ソファ。
私は。
陽向の隣で。
さっき見たことを。
全部。
話した。
神社。
紗良の願い。
私自身が。
事故前に願っていたこと。
そして。
あの。
真っ暗な場所。
「紗良が」
陽向が。
呆然と。
呟く。
「美月に」
「身体を?」
「……うん」
「でも」
私は。
首を振る。
「本当にあったことかは分からない」
「……」
「夢かもしれない」
「私の頭が」
「今まで見た記憶を」
「勝手に繋げただけかもしれない」
科学的には。
何も。
説明できない。
でも。
あの感覚。
あの声。
あの表情。
私は。
知っている。
あれは。
紗良だった。
「最後に」
陽向が聞く。
「紗良」
「何て言った?」
私は。
涙を拭う。
「私の分までじゃなくて」
「……」
「あなたの人生を」
陽向が。
下を向いた。
「……紗良らしい」
小さく。
笑う。
でも。
その声は。
震えている。
「最後まで」
「自分のことじゃなく」
「人のこと考えて」
「……うん」
陽向の目から。
涙が落ちた。
私は。
初めて。
陽向が。
紗良のために。
静かに泣くのを見た。
「俺」
「うん」
「一回も」
陽向が。
拳を握る。
「ちゃんと聞いてやれなかった」
「……」
「寂しいとか」
「辛いとか」
「好きだとか」
「何にも」
「気づかなかった」
私は。
陽向の手に。
そっと。
自分の手を重ねた。
「紗良さん」
「陽向を責めてなかったよ」
「……」
「言ってた」
「気づかなかったこと」
「陽向が悪いんじゃないって」
「……」
「だから」
私は。
陽向を見る。
「もう」
「自分を責めなくていいんじゃないかな」
陽向が。
目を閉じる。
涙が。
また。
落ちる。
「……ごめんな」
小さな声。
誰に?
たぶん。
紗良に。
でも。
そのあと。
陽向は。
もう一度。
呟いた。
「ありがとう」
今度は。
少しだけ。
笑っていた。
「美月を」
「ここに残してくれて」
胸が。
大きく。
鳴った。
「……陽向」
「俺」
陽向が。
私を見る。
「紗良に戻ってきてほしいって」
「ずっと思ってた」
「うん」
「美月に」
「返してくれって」
「言ったこともある」
胸が。
少しだけ。
痛む。
でも。
もう。
あの頃とは違う。
「でも今」
陽向の手が。
私の手を。
握る。
「美月が」
「ここにいてくれてよかったって」
「思ってる」
「……」
「それって」
「紗良に悪いのかなって」
「ちょっと思ってた」
私も。
同じ。
陽向と幸せになるたび。
紗良に。
申し訳ないと思っていた。
「でも」
陽向が。
少し笑う。
「紗良が」
「自分の人生を生きろって」
「美月に言ったなら」
「……うん」
「俺たち」
「幸せになってもいいのかな」
涙が。
溢れた。
私は。
何度も。
頷いた。
「……うん」
「なろう」
初めて。
言えた。
「幸せに」
「なりたい」
陽向の目が。
少し。
揺れる。
そして。
柔らかく。
笑った。
「うん」
◇◇◇
しばらくして。
私は。
ふと。
鏡を見た。
そこに。
映っている。
紗良の顔。
今まで。
何度も。
思った。
これは。
借り物。
私は。
この身体を。
奪った人。
でも。
もし。
あの記憶が。
本当に。
最後の紗良の想いなら。
「……紗良さん」
私は。
鏡へ向かって。
小さく呼ぶ。
「ありがとう」
もう。
ごめんなさいではない。
ありがとう。
「私」
胸に。
手を当てる。
「生きるね」
「あなたの代わりじゃなくて」
「私として」
陽向が。
隣に立つ。
鏡の中。
私と。
陽向。
紗良の顔で。
美月として。
陽向の隣にいる。
不思議。
でも。
もう。
それを。
否定しなくていい気がした。
「……陽向」
「何?」
「一つだけ」
「うん」
私は。
少し。
恥ずかしくなりながら。
言った。
「この前」
「うん」
「キス」
陽向が。
固まる。
「……え?」
「しようとしたでしょ」
「……はい」
急に。
敬語。
「私」
頬が。
熱くなる。
「紗良さんの身体だからって」
「止めた」
「……うん」
陽向も。
少し。
顔が赤い。
「でも」
私は。
自分の胸に。
手を置く。
紗良の言葉。
――逃げないで。
――自分のために生きて。
「今は」
「……」
陽向を見る。
「逃げたくない」
陽向の目が。
大きくなる。
「美月」
「でも!」
慌てて。
付け足す。
「今すぐしろって意味じゃなくて!」
「……」
「心の準備とか!」
「……」
「そういうのもあるから!」
陽向が。
下を向く。
肩が。
震えている。
「……笑ってる?」
「あははっ!」
「陽向!」
「だって!」
「私すごい真剣なのに!」
「ごめんごめん!」
陽向が。
笑いながら。
私の手を握る。
「分かった」
「何が?」
「待つ」
少し。
悪戯っぽく笑う。
「美月が」
「キスしていいよって言うまで」
「……」
言葉にされると。
ものすごく。
恥ずかしい。
「やっぱ今のなし」
「なしにはできません」
「陽向!」
笑う。
私も。
結局。
笑ってしまった。
そのとき。
ほんの一瞬。
鏡の中。
私の後ろに。
誰かが。
立っているような気がした。
長い髪。
綺麗な女性。
一ノ瀬紗良。
「……?」
振り返る。
誰もいない。
「どうした?」
陽向が聞く。
私は。
もう一度。
鏡を見る。
そこには。
私と。
陽向だけ。
でも。
不思議と。
怖くなかった。
むしろ。
胸の奥が。
温かい。
「……ううん」
私は。
小さく笑う。
「何でもない」
「本当に?」
「うん」
今度の。
何でもないは。
本当。
そして。
心の中で。
そっと。
言った。
――紗良さん。
――ありがとう。
その瞬間。
どこかで。
笑う声が。
聞こえたような。
気がした。
それが。
一ノ瀬紗良の。
本当に最後の。
『記憶』だった。
そして。
私。
三人で撮った写真。
撮影から数日が経っても。
私は。
何度も。
その写真を見ていた。
画面の真ん中には。
笑っている星。
その隣に。
陽向。
そして。
一ノ瀬紗良の姿をした私。
「……不思議」
どう見ても。
普通の記念写真。
だけど。
私にとっては。
ありえなかったはずの一枚。
前の人生で。
私が大好きだった人。
前の人生で。
私が何より大切にしていた娘。
その二人と。
今の私。
「……宝物だな」
小さく呟く。
すると。
スマートフォンが震えた。
陽向。
『その写真また見てる?』
「……何で分かるの?」
思わず。
声が出る。
『見てる』
と返すと。
すぐに。
『やっぱり』
『昨日も見てたじゃん』
『だって嬉しいんだもん』
送信。
数秒後。
『俺も保存してる』
「……え?」
思わず。
画面を見つめる。
『陽向も?』
『うん』
『なんで?』
返した瞬間。
電話が鳴った。
「もしもし」
『なんでって何?』
「だって」
私は。
ソファに座る。
「陽向には普通の写真でしょ?」
『普通じゃないけど』
「どうして?」
少し。
間があった。
『彼女と』
「うん」
『彼女が一番大事にしてる娘と』
「……」
『初めて三人で撮った写真だろ』
胸が。
きゅっとなる。
「……そういう言い方」
『何?』
「ずるい」
『なんで』
「好きになるから」
言ってから。
気づく。
もう。
好きだった。
電話の向こうで。
陽向が笑う。
『もう好きじゃん』
「……そうだった」
『忘れんなよ』
「ふふっ」
笑う。
その瞬間。
頭の奥に。
チクリと。
小さな痛みが走った。
「……っ」
『美月?』
「え?」
『どうした?』
「ううん」
私は。
こめかみに触れる。
「ちょっと頭痛いだけ」
『大丈夫?』
「うん。これくらいなら――」
言いかけた瞬間。
痛みが。
一気に。
強くなった。
「……っ!」
スマートフォンが。
手から滑り落ちる。
『美月!?』
陽向の声。
遠くなる。
視界が。
白く。
染まっていった。
◇◇◇
雨。
また。
雨だった。
「……ここ」
知っている。
紗良の。
事故の日。
車の中。
ハンドルを握る。
紗良の手。
スピーカーから。
ASTERの曲。
紗良は。
泣いていた。
『もう』
『終わりにしよう』
以前にも。
見た記憶。
『陽向のこと』
『ずっと好きだった』
『でも』
『これで最後』
胸が。
苦しい。
私は。
また。
あの事故を見るの?
そう思った。
でも。
違った。
今度は。
記憶が。
もっと前から始まっていた。
◇◇◇
事故の日。
数時間前。
紗良は。
一人で。
ある神社にいた。
「……神社?」
私は。
紗良の目を通して。
境内を見る。
夕方。
人は。
ほとんどいない。
仕事帰りなのか。
紗良は。
帽子を深くかぶっていた。
賽銭箱の前。
紗良が。
手を合わせる。
『……何お願いしてんだろ、私』
自嘲するような。
心の声。
『もう三十四歳なのに』
『神頼みなんて』
でも。
目を閉じる。
そして。
願った。
『陽向が』
『幸せでありますように』
胸が。
痛んだ。
やっぱり。
最後まで。
自分じゃない。
陽向の幸せ。
でも。
少しして。
紗良は。
もう一度。
ぎゅっと。
手を合わせた。
『……あと』
声にならない。
心の中だけの。
願い。
『もし』
『許されるなら』
『私も』
少し。
幸せになってみたかった。
「……」
その言葉に。
胸が。
震える。
日記と。
同じ。
――自分も幸せになりたい。
紗良は。
最後の日。
本当に。
そう願っていた。
『誰かを好きになって』
『その人に』
『好きって言ってもらって』
『怖がらずに』
『ちゃんと手を伸ばして』
『そういう人生』
『一回くらい』
『生きてみたかったな』
涙が。
紗良の頬を伝う。
『……次があるなら』
『今度は』
一度。
息を吸う。
『自分の気持ちを』
『ちゃんと大事にできますように』
その瞬間。
風が。
吹いた。
神社の木々が。
ざわっと揺れる。
そして。
紗良は。
目を開けた。
◇◇◇
場面が。
変わる。
同じ頃。
別の場所。
「……え?」
今度は。
紗良の記憶じゃない。
見覚えのある。
家。
私の。
前の家。
「どうして……?」
これは。
私の記憶?
その日の。
事故に遭う前。
私は。
洗濯物を畳んでいた。
テレビから。
ASTERの曲が流れている。
星が。
近くにいる。
『ママ』
『ん?』
『また陽向くん見てる』
『いいでしょ』
『好きだねー』
『好きだよ』
私は。
笑っていた。
星も。
笑っている。
そのあと。
子どもたちの声。
家の中。
生活音。
確かに。
幸せだった。
なのに。
ふと。
一人になった瞬間。
私は。
ため息をついた。
『……疲れた』
小さな。
誰にも聞こえない声。
『なんか』
『全部』
『私じゃなくてもいいのかな』
胸が。
締めつけられる。
覚えている。
私は。
何度も。
そう思った。
母親だから。
妻だから。
嫁だから。
やるべきことがある。
求められることがある。
でも。
高瀬美月として。
私は。
誰に。
必要とされているんだろう。
『……一回くらい』
昔の私が。
小さく呟く。
『誰かに』
『美月だから好きって』
『言ってもらいたかったな』
「……っ」
今の私の。
涙が。
溢れた。
覚えていなかった。
こんなこと。
思ってたんだ。
いや。
たぶん。
思った直後。
自分で。
打ち消した。
子どもがいる。
夫もいる。
何を言ってるの。
贅沢。
そんなふうに。
自分の気持ちを。
なかったことにした。
でも。
確かに。
私は願っていた。
役割じゃなく。
私自身を。
見てほしいと。
◇◇◇
再び。
紗良。
車の中。
雨。
事故の直前。
紗良の心に。
さっきの願いが。
残っている。
――次があるなら。
――自分の気持ちを大事に。
そして。
同じ時刻。
私は。
雨の中。
外にいた。
事故。
光。
ブレーキ音。
二つの場所で。
ほとんど同じ瞬間に。
命が。
消えようとしている。
その瞬間。
不思議なことが起きた。
真っ暗な。
何もない場所。
私は。
そこにいた。
身体はない。
ただ。
意識だけ。
「……ここは?」
遠く。
誰かがいる。
女性。
「……紗良さん?」
一ノ瀬紗良。
事故前の。
彼女。
でも。
これは。
記憶?
そんなはずない。
私は。
このとき。
紗良を知らない。
紗良も。
私を知らない。
なのに。
二人は。
向かい合っていた。
紗良が。
私を見る。
とても。
疲れた顔。
でも。
どこか。
優しい。
『あなたも?』
「え?」
『帰りたい?』
その言葉で。
子どもたちが。
浮かぶ。
星。
他の子どもたち。
「帰りたい」
私は。
すぐに答えた。
「子どもがいるの」
「帰らなきゃ」
「私、ママだから」
紗良が。
少し。
悲しそうに笑う。
『そっか』
「あなたは?」
私が聞く。
『私?』
紗良は。
少し考える。
そして。
遠くを見る。
そこには。
陽向の姿が。
見える気がした。
『……会いたい人はいる』
「じゃあ」
『でも』
紗良が。
笑う。
『もういいかな』
「え?」
『いっぱい好きだったから』
涙が。
一滴。
落ちる。
『次は』
『違う誰かに』
『ちゃんと幸せになってほしい』
意味が。
分からない。
「誰?」
紗良が。
私を見る。
そして。
なぜか。
その目が。
とても。
優しかった。
『あなた』
「……私?」
『うん』
『あなた』
『すごく帰りたそうだから』
「待って」
「どういう意味?」
紗良が。
私へ。
手を伸ばす。
『私の身体』
『まだ』
『生きられるかもしれない』
「……」
『もし』
『あなたが使えるなら』
「待って!」
私は。
首を振る。
「そんなのダメ」
「あなたの身体でしょ?」
『うん』
「あなたが戻ればいい」
『……私は』
紗良の表情が。
少し。
寂しくなる。
『もう』
『戻れないみたい』
「そんな……」
『でも』
紗良が。
また笑う。
『お願いがある』
「……何?」
『陽向に』
胸が。
ざわつく。
この時。
私は。
天城陽向を知っている。
最推し。
でも。
なぜ。
紗良から。
その名前が出るの?
『ごめんって』
『言わないで』
「え?」
『私が勝手に好きだっただけだから』
『気づかなかったこと』
『あの人が悪いわけじゃない』
「……」
『それから』
紗良の姿が。
少しずつ。
薄くなる。
「待って!」
『もし』
『あの人が』
『あなたを見てくれる日が来たら』
「……?」
紗良が。
本当に。
幸せそうに。
笑った。
『逃げないで』
「え?」
『私みたいに』
『自分から諦めないで』
「紗良さん!」
私は。
手を伸ばす。
でも。
届かない。
『だって』
最後に。
紗良が言った。
『あなたも』
『幸せになりたかったんでしょ?』
「……っ」
光。
一気に。
視界が。
白くなる。
『だったら』
『今度は』
紗良の声。
『ちゃんと』
『自分のために生きて』
そして。
最後。
とても。
小さな声。
でも。
はっきり。
聞こえた。
『私の分までじゃなくて』
『あなたの人生を』
◇◇◇
「……っ!」
目を開ける。
天井。
リビング。
床。
私は。
倒れていた。
「美月!」
陽向の声。
「……陽向?」
顔を上げる。
玄関のほうから。
ものすごい勢いで。
陽向が入ってくる。
「大丈夫!?」
「なんで……」
「電話!」
そうだ。
通話中だった。
スマートフォン。
床に。
落ちたまま。
「急に返事なくなるから!」
陽向が。
私のそばに。
膝をつく。
「救急車呼ぶ?」
「待って」
「でも!」
「違うの」
私は。
陽向の腕を掴んだ。
「見た」
「何を?」
「紗良さん」
陽向の顔が。
止まる。
「……紗良?」
私は。
何度も。
頷いた。
涙が。
止まらない。
「最後の」
「たぶん」
声が。
震える。
「最後の記憶」
◇◇◇
ソファ。
私は。
陽向の隣で。
さっき見たことを。
全部。
話した。
神社。
紗良の願い。
私自身が。
事故前に願っていたこと。
そして。
あの。
真っ暗な場所。
「紗良が」
陽向が。
呆然と。
呟く。
「美月に」
「身体を?」
「……うん」
「でも」
私は。
首を振る。
「本当にあったことかは分からない」
「……」
「夢かもしれない」
「私の頭が」
「今まで見た記憶を」
「勝手に繋げただけかもしれない」
科学的には。
何も。
説明できない。
でも。
あの感覚。
あの声。
あの表情。
私は。
知っている。
あれは。
紗良だった。
「最後に」
陽向が聞く。
「紗良」
「何て言った?」
私は。
涙を拭う。
「私の分までじゃなくて」
「……」
「あなたの人生を」
陽向が。
下を向いた。
「……紗良らしい」
小さく。
笑う。
でも。
その声は。
震えている。
「最後まで」
「自分のことじゃなく」
「人のこと考えて」
「……うん」
陽向の目から。
涙が落ちた。
私は。
初めて。
陽向が。
紗良のために。
静かに泣くのを見た。
「俺」
「うん」
「一回も」
陽向が。
拳を握る。
「ちゃんと聞いてやれなかった」
「……」
「寂しいとか」
「辛いとか」
「好きだとか」
「何にも」
「気づかなかった」
私は。
陽向の手に。
そっと。
自分の手を重ねた。
「紗良さん」
「陽向を責めてなかったよ」
「……」
「言ってた」
「気づかなかったこと」
「陽向が悪いんじゃないって」
「……」
「だから」
私は。
陽向を見る。
「もう」
「自分を責めなくていいんじゃないかな」
陽向が。
目を閉じる。
涙が。
また。
落ちる。
「……ごめんな」
小さな声。
誰に?
たぶん。
紗良に。
でも。
そのあと。
陽向は。
もう一度。
呟いた。
「ありがとう」
今度は。
少しだけ。
笑っていた。
「美月を」
「ここに残してくれて」
胸が。
大きく。
鳴った。
「……陽向」
「俺」
陽向が。
私を見る。
「紗良に戻ってきてほしいって」
「ずっと思ってた」
「うん」
「美月に」
「返してくれって」
「言ったこともある」
胸が。
少しだけ。
痛む。
でも。
もう。
あの頃とは違う。
「でも今」
陽向の手が。
私の手を。
握る。
「美月が」
「ここにいてくれてよかったって」
「思ってる」
「……」
「それって」
「紗良に悪いのかなって」
「ちょっと思ってた」
私も。
同じ。
陽向と幸せになるたび。
紗良に。
申し訳ないと思っていた。
「でも」
陽向が。
少し笑う。
「紗良が」
「自分の人生を生きろって」
「美月に言ったなら」
「……うん」
「俺たち」
「幸せになってもいいのかな」
涙が。
溢れた。
私は。
何度も。
頷いた。
「……うん」
「なろう」
初めて。
言えた。
「幸せに」
「なりたい」
陽向の目が。
少し。
揺れる。
そして。
柔らかく。
笑った。
「うん」
◇◇◇
しばらくして。
私は。
ふと。
鏡を見た。
そこに。
映っている。
紗良の顔。
今まで。
何度も。
思った。
これは。
借り物。
私は。
この身体を。
奪った人。
でも。
もし。
あの記憶が。
本当に。
最後の紗良の想いなら。
「……紗良さん」
私は。
鏡へ向かって。
小さく呼ぶ。
「ありがとう」
もう。
ごめんなさいではない。
ありがとう。
「私」
胸に。
手を当てる。
「生きるね」
「あなたの代わりじゃなくて」
「私として」
陽向が。
隣に立つ。
鏡の中。
私と。
陽向。
紗良の顔で。
美月として。
陽向の隣にいる。
不思議。
でも。
もう。
それを。
否定しなくていい気がした。
「……陽向」
「何?」
「一つだけ」
「うん」
私は。
少し。
恥ずかしくなりながら。
言った。
「この前」
「うん」
「キス」
陽向が。
固まる。
「……え?」
「しようとしたでしょ」
「……はい」
急に。
敬語。
「私」
頬が。
熱くなる。
「紗良さんの身体だからって」
「止めた」
「……うん」
陽向も。
少し。
顔が赤い。
「でも」
私は。
自分の胸に。
手を置く。
紗良の言葉。
――逃げないで。
――自分のために生きて。
「今は」
「……」
陽向を見る。
「逃げたくない」
陽向の目が。
大きくなる。
「美月」
「でも!」
慌てて。
付け足す。
「今すぐしろって意味じゃなくて!」
「……」
「心の準備とか!」
「……」
「そういうのもあるから!」
陽向が。
下を向く。
肩が。
震えている。
「……笑ってる?」
「あははっ!」
「陽向!」
「だって!」
「私すごい真剣なのに!」
「ごめんごめん!」
陽向が。
笑いながら。
私の手を握る。
「分かった」
「何が?」
「待つ」
少し。
悪戯っぽく笑う。
「美月が」
「キスしていいよって言うまで」
「……」
言葉にされると。
ものすごく。
恥ずかしい。
「やっぱ今のなし」
「なしにはできません」
「陽向!」
笑う。
私も。
結局。
笑ってしまった。
そのとき。
ほんの一瞬。
鏡の中。
私の後ろに。
誰かが。
立っているような気がした。
長い髪。
綺麗な女性。
一ノ瀬紗良。
「……?」
振り返る。
誰もいない。
「どうした?」
陽向が聞く。
私は。
もう一度。
鏡を見る。
そこには。
私と。
陽向だけ。
でも。
不思議と。
怖くなかった。
むしろ。
胸の奥が。
温かい。
「……ううん」
私は。
小さく笑う。
「何でもない」
「本当に?」
「うん」
今度の。
何でもないは。
本当。
そして。
心の中で。
そっと。
言った。
――紗良さん。
――ありがとう。
その瞬間。
どこかで。
笑う声が。
聞こえたような。
気がした。
それが。
一ノ瀬紗良の。
本当に最後の。
『記憶』だった。



