数日後。
マネージャーから。
一本の電話が入った。
『一ノ瀬さん、例のブランド企画なんですが』
「はい」
その瞬間。
胸が。
嫌なほど速く鳴った。
『共演モデルが正式に決まりました』
「……」
聞く前から。
分かっていた。
いや。
そうであってほしいと。
願っていた。
『高瀬星さんも参加されます』
「……っ」
やっぱり。
星。
私の娘。
「そう……ですか」
やっと。
それだけ答える。
『撮影は来週です。詳しい資料、あとで送りますね』
「はい」
『一ノ瀬さん?』
「はい?」
『大丈夫ですか?』
また。
その言葉。
いつもの癖なら。
すぐに。
大丈夫です。
そう答える。
でも。
私は。
一度。
息を吸った。
「……少し緊張してます」
『久しぶりの大人数撮影ですからね』
「はい」
マネージャーは。
そう受け取った。
それでいい。
「でも」
私は。
星の名前が書かれた資料を見つめながら。
「頑張ります」
電話を切った。
そして。
すぐに。
陽向へ。
メッセージを送った。
『星、決まった』
既読。
ほとんど。
一瞬だった。
『撮影?』
「うん」
『いつ?』
日付を送る。
すると。
すぐに。
『その日、終わったら空けとく』
「……」
私は。
スマートフォンを見つめる。
『仕事は?』
『夕方まで。そのあと行ける』
そして。
続けて。
『大丈夫じゃなくなったら連絡して』
胸が。
きゅっとなる。
「うん」
それだけ。
返した。
今は。
まだ。
大丈夫じゃない。
でも。
それを。
隠さなくてもいい人がいる。
そのことが。
少しだけ。
心強かった。
◇◇◇
撮影前日。
予想通り。
眠れなかった。
「……寝なきゃ」
ベッドに入って。
目を閉じる。
でも。
浮かんでくるのは。
星の顔。
生まれた日のこと。
初めて。
私の指を握った。
小さな手。
「ママ」
と。
初めて呼んだ日。
転んで。
泣きながら。
私のところへ走ってきた日。
髪を結んで。
学校へ送り出した朝。
一緒に。
陽向が出ているテレビを見て。
笑った夜。
全部。
昨日のことみたいに。
思い出せる。
「星……」
会いたい。
抱きしめたい。
でも。
明日。
私は。
それをしてはいけない。
一ノ瀬紗良として。
高瀬星と。
初めて会う。
「……できるかな」
スマートフォンが。
震えた。
午前零時を過ぎている。
陽向。
『寝てる?』
私は。
少し迷ってから。
『寝てない』
電話が。
すぐに鳴った。
「もしもし」
『やっぱり』
「何が?」
『絶対寝てないと思った』
「……」
図星。
『怖い?』
陽向が。
静かに聞く。
私は。
布団の中で。
小さく丸くなる。
「うん」
『そっか』
「会いたかったのに」
『うん』
「明日にならなきゃいいって」
「ちょっと思ってる」
電話の向こう。
陽向は。
何も否定しなかった。
『それくらい怖いんだな』
「……うん」
『じゃあ』
少し間。
『明日の目標、一個だけにしよ』
「目標?」
『うん』
「何?」
『星ちゃんに会う』
「……それだけ?」
『それだけ』
「ちゃんと仕事しないと」
『仕事は美月じゃなくても、一ノ瀬紗良の身体が覚えてる部分あるんだろ?』
「うん」
『だったら』
陽向の声が。
柔らかくなる。
『母親として完璧に我慢するとか』
『泣かないとか』
『自然に振る舞うとか』
『全部やろうとしなくていい』
胸が。
少し。
楽になる。
『明日はただ』
『会えた』
『それで百点』
「……陽向」
『何?』
「会ったら」
声が震える。
「触りたくなると思う」
『うん』
「名前も」
「昔みたいに呼びそう」
『うん』
「ママだよって」
『言いたくなるよな』
「……うん」
涙が。
頬を伝う。
でも。
陽向は。
『言っちゃダメ』
とも。
『我慢しろ』
とも。
言わなかった。
ただ。
分かってくれた。
「……ありがとう」
『何が?』
「聞いてくれて」
『彼氏なんで』
「そういうときだけ言う」
『いつでも彼氏ですけど?』
少し。
笑ってしまう。
『笑った』
「笑うよ」
『じゃあ今日はそれでよし』
「何それ」
『寝ろ』
「眠れなかったら?」
『また電話して』
「陽向寝れないじゃん」
『一日くらい平気』
「それはダメ」
『じゃあ一緒に寝落ちする?』
「電話繋いだまま?」
『うん』
「……子どもみたい」
『美月が寝るまで』
「……」
少し。
嬉しい。
「じゃあ」
「ちょっとだけ」
『はい』
その夜。
陽向の。
「まだ起きてる?」
という声を。
何度か聞きながら。
私は。
いつの間にか。
眠っていた。
◇◇◇
撮影当日。
スタジオには。
たくさんの人がいた。
モデル。
スタイリスト。
ヘアメイク。
カメラマン。
スタッフ。
私は。
一ノ瀬紗良として。
挨拶をしていく。
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
普通に。
できている。
大丈夫。
そう思っていた。
そのとき。
スタジオの入口が。
少し騒がしくなった。
「おはようございます!」
若い。
女の子の声。
身体が。
固まった。
分かる。
振り返る前から。
分かってしまう。
この声。
何年。
聞いてきたと思ってるの。
私は。
ゆっくり。
振り返った。
「……」
そこに。
いた。
星。
少し。
背が伸びている。
髪も。
以前より長い。
私が知っている娘より。
ほんの少し。
大人びて見える。
でも。
笑ったとき。
口元が。
あの頃と同じ。
「……星」
声が。
出そうになった。
慌てて。
唇を噛む。
ダメ。
今。
呼んだら。
私は。
一ノ瀬紗良。
星にとって。
知らない女性。
「高瀬さん、こちら一ノ瀬紗良さんです」
スタッフが。
星を連れてくる。
近づいてくる。
一歩。
また一歩。
私の娘が。
私のところへ。
「初めまして」
星が。
少し緊張しながら。
頭を下げる。
「高瀬星です」
「……」
返事を。
しなきゃ。
「一ノ瀬……」
喉が。
詰まる。
「紗良です」
やっと。
言えた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
星が。
顔を上げる。
目が。
合った。
その瞬間。
星の表情が。
少しだけ。
変わった。
「……?」
私を。
じっと見る。
あの日と。
同じ。
遠くから。
目が合ったときと。
同じ顔。
「どうしたの?」
スタッフが。
星に聞く。
「え?」
「あ、いえ」
星が。
少し。
困ったように笑った。
「なんか……」
心臓が。
止まりそうになる。
「一ノ瀬さん」
星が。
もう一度。
私を見る。
「初めて会った気がしなくて」
「……っ」
息が。
止まった。
聞きたかった。
でも。
聞いたら。
泣いてしまう。
「そう?」
私は。
精一杯。
笑った。
「はい」
星が。
首を傾げる。
「どこかで会ったことあります?」
「……ないと」
声が。
震えそうになる。
「思うよ」
本当は。
何千回。
何万回と。
会っている。
朝。
起こした。
髪を整えた。
ご飯を作った。
抱きしめた。
叱った。
笑った。
泣いた。
ずっと。
そばにいた。
でも。
今は。
「初めまして」
それしか。
言えない。
「そっか」
星が。
少し不思議そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
泣きそうになった。
でも。
今は。
仕事。
私は。
爪が食い込むくらい。
手を握った。
◇◇◇
撮影が始まった。
今回は。
世代の違う女性たちが。
同じブランドの洋服を。
それぞれの着こなしで表現する企画。
星は。
若いモデルたちの中でも。
一番。
経験が浅いらしい。
「高瀬さん、もう少し肩の力抜いて!」
「はい!」
カメラマンの声。
星の顔が。
少し。
硬い。
分かる。
緊張してる。
昔から。
真面目な子。
失敗しちゃいけないと思うと。
余計に。
身体が固くなる。
「もうちょっと自然に笑って」
「はい」
でも。
うまくいかない。
スタッフの空気が。
少しずつ。
重くなる。
私は。
見ていられなかった。
「……星」
呼びそうになる。
ダメ。
でも。
身体が。
先に動いた。
「高瀬さん」
私は。
星の近くへ行く。
「はい!」
緊張した顔。
昔。
習い事の発表前にも。
こんな顔をしていた。
私は。
無意識に。
言った。
「大丈夫」
「……」
「失敗しても」
「やり直せるから」
星の目が。
少し大きくなる。
「肩」
私は。
自分の肩を。
軽く上下させる。
「一回、力抜いて」
「息吐いて」
「……はい」
星が。
ふうっと。
息を吐く。
「そう」
「それで」
その瞬間。
昔の癖で。
手が。
星の頭へ伸びかけた。
「……っ」
止める。
頭を。
撫でそうになった。
いつも。
緊張している星に。
していたみたいに。
私は。
慌てて。
手を下ろす。
「……?」
星が。
その手を見る。
「あ、ごめんね」
「いえ」
そして。
私は。
思わず。
続けてしまった。
「星ならできるよ」
しん。
自分の中だけ。
時間が止まった。
「……」
やってしまった。
高瀬さん。
じゃない。
星。
呼び捨て。
「……あ」
私が。
慌てて言い直そうとすると。
星が。
じっと。
私を見ていた。
「……今」
「ご、ごめんなさい」
「名前」
「つい……」
何て。
言い訳する?
プロフィールを見て。
読み方を知っていた。
それで。
いい。
なのに。
星は。
小さな声で言った。
「……ママみたい」
「……っ」
心臓を。
掴まれたようだった。
「え?」
聞き返した声が。
震えた。
星自身も。
少し驚いたように。
笑う。
「すみません」
「変ですよね」
「何か」
星が。
目を伏せる。
「ママも」
「緊張してるとき」
「同じこと言ってくれてたから」
涙が。
出そうになる。
ダメ。
泣くな。
今は。
まだ。
「……そうなんだ」
どうにか。
笑う。
「うん」
星が。
少し寂しそうに笑った。
「もう、いないんですけど」
「……」
知ってる。
私だから。
「……そっか」
それしか。
言えなかった。
でも。
胸の中では。
何度も。
叫んでいた。
ここにいるよ。
星。
ママ。
ここにいるよ。
◇◇◇
撮影が再開された。
星は。
さっきより。
自然に笑えていた。
「いいね!」
「その表情!」
カメラマンの声。
私は。
少し離れたところから。
見ていた。
誇らしい。
すごいね。
頑張ったね。
言いたい。
撮影が終わったら。
抱きしめたい。
でも。
できない。
だから。
せめて。
誰にも見えないところで。
小さく。
拍手した。
「……よくできました」
昔と同じ。
母親の声で。
誰にも。
聞こえないように。
◇◇◇
休憩。
私は。
人の少ない廊下へ出た。
限界だった。
トイレへ。
行こうと思った。
でも。
途中で。
歩けなくなる。
壁に。
背中を預ける。
「……っ」
涙が。
溢れた。
会えた。
星に。
会えた。
話した。
声も。
聞けた。
頑張っている姿も。
見られた。
嬉しい。
本当に。
嬉しい。
なのに。
苦しい。
あんなに近くにいたのに。
触れられなかった。
ママって。
言えなかった。
「……星」
口を押さえる。
声を出したら。
止まらなくなる。
そのとき。
「一ノ瀬さん?」
「……!」
慌てて。
涙を拭く。
振り返る。
星だった。
「どうしたの?」
私は。
顔を隠す。
「ちょっと、目にゴミ入って」
苦しすぎる。
星が。
心配そうに。
近づいてくる。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「本当に?」
「……うん」
私が。
何度も言ってきた。
大丈夫。
その言葉を。
娘にまで。
使っている。
星が。
少し。
私の顔を見る。
そして。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「変なこと聞いていいですか?」
嫌な。
いや。
期待してしまうような。
予感。
「うん」
星が。
少し迷ってから。
言った。
「私のこと」
「前から知ってました?」
「……」
「なんで?」
「だって」
星は。
首を傾げる。
「初めてなのに」
「すごく」
言葉を探す。
「私のこと知ってる人みたいに話すから」
「……」
何も。
言えない。
「それに」
「?」
「なんか」
星が。
胸元を押さえる。
「一ノ瀬さんの近くにいると」
「変なんです」
「変?」
「安心するっていうか」
涙が。
また。
出そうになる。
「……懐かしいっていうか」
その一言。
私の胸を。
貫いた。
星。
分かるの?
顔は。
違うのに。
声も。
違うのに。
「私も」
口から。
言葉が出そうになる。
私も。
あなたを。
ずっと知ってる。
あなたが。
生まれた日から。
でも。
言えない。
私は。
ただ。
笑った。
「もしかしたら」
「?」
「相性がいいのかもね」
「……相性?」
「うん」
「私も」
喉が。
苦しい。
「星ちゃんといると」
「すごく」
泣かないように。
笑う。
「大切にしたいって思うから」
星の目が。
少し。
大きくなった。
「……」
言いすぎた。
そう思った。
でも。
星は。
少し照れたように。
笑った。
「嬉しいです」
そして。
「私」
「?」
「一ノ瀬さんのこと」
星が。
柔らかく笑う。
「好きかも」
「……っ」
「え?」
「変な意味じゃなくて!」
慌てて。
星が手を振る。
「憧れるっていうか」
「もっと話したいっていうか」
「……うん」
私の涙が。
とうとう。
一滴。
落ちた。
「一ノ瀬さん?」
「ごめん」
笑う。
「嬉しくて」
今の涙だけは。
それで。
いいと思った。
「私も」
私は。
星を見つめる。
「もっと話したい」
本当は。
話したいこと。
山ほどある。
学校どう?
ちゃんと食べてる?
夜。
眠れてる?
弟たちとは。
仲良くしてる?
パパは?
寂しくない?
ママがいなくなって。
泣いた?
聞きたい。
でも。
今日は。
それでいい。
会えた。
話せた。
陽向が言った。
それで。
百点。
「また」
星が。
笑う。
「撮影で会えたらいいですね」
「……うん」
私は。
頷いた。
「また会おうね」
今度は。
母親ではなく。
一ノ瀬紗良として。
それでも。
また。
あなたのそばに。
行けるなら。
◇◇◇
撮影が終わったのは。
夕方だった。
スタジオを出る。
スマートフォンを見る。
陽向から。
『終わった?』
『近くにいる』
私は。
すぐに。
『終わった』
と送った。
数分後。
見慣れた車。
私は。
助手席へ乗り込んだ。
「お疲れ」
陽向の顔を見た瞬間。
もう。
ダメだった。
「……陽向」
「うん」
「会えた」
涙が。
落ちる。
陽向は。
何も聞かず。
腕を広げた。
私は。
自分から。
その胸へ。
飛び込んだ。
「星に」
「うん」
「会えたよ」
「うん」
「話した」
「うん」
「すごく」
声が。
震える。
「大きくなってた」
「そっか」
「頑張ってた」
「うん」
「私ね」
陽向の服を。
握る。
「頭撫でそうになった」
「……うん」
「星って呼んじゃった」
「うん」
「ママみたいって」
「言われた」
陽向の腕が。
少し強くなる。
「……そっか」
「それから」
涙と一緒に。
笑う。
「初めて会った気がしないって」
「懐かしいって」
陽向が。
何も言わず。
私の背中を撫でる。
「分かってないよ」
「うん」
「星は」
「私がママだって」
「知らない」
「うん」
「でも」
私は。
顔を上げる。
「何か」
「感じてくれたのかな」
陽向は。
少し笑った。
「俺は」
「?」
「あると思う」
「……本当に?」
「だって」
陽向が。
涙を。
指で拭ってくれる。
「母親って」
「顔だけじゃないだろ」
その言葉に。
また。
涙が。
溢れた。
「声が違っても」
「姿が違っても」
「美月が星ちゃん見てる目とか」
「話し方とか」
「そういうの」
少し照れたように。
笑う。
「子どものほうが」
「案外気づくんじゃない?」
「……陽向」
「何?」
「今日」
私は。
泣きながら笑った。
「百点だった?」
陽向が。
一瞬。
目を丸くする。
そして。
ものすごく優しく。
笑った。
「百点」
「……うん」
「いや」
少し考えて。
「二百点」
「増えた」
「会えたし」
「仕事もしたし」
「ちゃんと帰ってきたし」
「……うん」
「よく頑張りました」
陽向の手が。
私の頭を。
優しく撫でる。
その瞬間。
我慢していたものが。
全部。
溢れた。
「……頑張った」
私は。
子どもみたいに。
陽向の胸で。
泣いた。
「うん」
「すごく頑張った」
「うん」
「抱きしめなかった」
「うん」
「ママって言わなかった」
「うん」
「ちゃんと」
声が。
崩れる。
「初めましてって言った」
陽向は。
何も否定しない。
ただ。
何度も。
背中を撫でてくれた。
その日。
私は。
娘と。
二度目の。
『初めまして』
をした。
一度目は。
星が生まれた日。
小さな身体を。
初めて腕に抱いたとき。
そして。
二度目は。
私は母親であることを。
名乗れないまま。
娘の前に立った。
でも。
それでも。
星は。
私を見て。
言った。
――初めて会った気がしない。
その言葉だけで。
今は。
十分だった。
きっと。
親子だった時間は。
姿が変わったくらいで。
全部。
消えてしまうものじゃない。
私は。
そう。
信じたかった。
マネージャーから。
一本の電話が入った。
『一ノ瀬さん、例のブランド企画なんですが』
「はい」
その瞬間。
胸が。
嫌なほど速く鳴った。
『共演モデルが正式に決まりました』
「……」
聞く前から。
分かっていた。
いや。
そうであってほしいと。
願っていた。
『高瀬星さんも参加されます』
「……っ」
やっぱり。
星。
私の娘。
「そう……ですか」
やっと。
それだけ答える。
『撮影は来週です。詳しい資料、あとで送りますね』
「はい」
『一ノ瀬さん?』
「はい?」
『大丈夫ですか?』
また。
その言葉。
いつもの癖なら。
すぐに。
大丈夫です。
そう答える。
でも。
私は。
一度。
息を吸った。
「……少し緊張してます」
『久しぶりの大人数撮影ですからね』
「はい」
マネージャーは。
そう受け取った。
それでいい。
「でも」
私は。
星の名前が書かれた資料を見つめながら。
「頑張ります」
電話を切った。
そして。
すぐに。
陽向へ。
メッセージを送った。
『星、決まった』
既読。
ほとんど。
一瞬だった。
『撮影?』
「うん」
『いつ?』
日付を送る。
すると。
すぐに。
『その日、終わったら空けとく』
「……」
私は。
スマートフォンを見つめる。
『仕事は?』
『夕方まで。そのあと行ける』
そして。
続けて。
『大丈夫じゃなくなったら連絡して』
胸が。
きゅっとなる。
「うん」
それだけ。
返した。
今は。
まだ。
大丈夫じゃない。
でも。
それを。
隠さなくてもいい人がいる。
そのことが。
少しだけ。
心強かった。
◇◇◇
撮影前日。
予想通り。
眠れなかった。
「……寝なきゃ」
ベッドに入って。
目を閉じる。
でも。
浮かんでくるのは。
星の顔。
生まれた日のこと。
初めて。
私の指を握った。
小さな手。
「ママ」
と。
初めて呼んだ日。
転んで。
泣きながら。
私のところへ走ってきた日。
髪を結んで。
学校へ送り出した朝。
一緒に。
陽向が出ているテレビを見て。
笑った夜。
全部。
昨日のことみたいに。
思い出せる。
「星……」
会いたい。
抱きしめたい。
でも。
明日。
私は。
それをしてはいけない。
一ノ瀬紗良として。
高瀬星と。
初めて会う。
「……できるかな」
スマートフォンが。
震えた。
午前零時を過ぎている。
陽向。
『寝てる?』
私は。
少し迷ってから。
『寝てない』
電話が。
すぐに鳴った。
「もしもし」
『やっぱり』
「何が?」
『絶対寝てないと思った』
「……」
図星。
『怖い?』
陽向が。
静かに聞く。
私は。
布団の中で。
小さく丸くなる。
「うん」
『そっか』
「会いたかったのに」
『うん』
「明日にならなきゃいいって」
「ちょっと思ってる」
電話の向こう。
陽向は。
何も否定しなかった。
『それくらい怖いんだな』
「……うん」
『じゃあ』
少し間。
『明日の目標、一個だけにしよ』
「目標?」
『うん』
「何?」
『星ちゃんに会う』
「……それだけ?」
『それだけ』
「ちゃんと仕事しないと」
『仕事は美月じゃなくても、一ノ瀬紗良の身体が覚えてる部分あるんだろ?』
「うん」
『だったら』
陽向の声が。
柔らかくなる。
『母親として完璧に我慢するとか』
『泣かないとか』
『自然に振る舞うとか』
『全部やろうとしなくていい』
胸が。
少し。
楽になる。
『明日はただ』
『会えた』
『それで百点』
「……陽向」
『何?』
「会ったら」
声が震える。
「触りたくなると思う」
『うん』
「名前も」
「昔みたいに呼びそう」
『うん』
「ママだよって」
『言いたくなるよな』
「……うん」
涙が。
頬を伝う。
でも。
陽向は。
『言っちゃダメ』
とも。
『我慢しろ』
とも。
言わなかった。
ただ。
分かってくれた。
「……ありがとう」
『何が?』
「聞いてくれて」
『彼氏なんで』
「そういうときだけ言う」
『いつでも彼氏ですけど?』
少し。
笑ってしまう。
『笑った』
「笑うよ」
『じゃあ今日はそれでよし』
「何それ」
『寝ろ』
「眠れなかったら?」
『また電話して』
「陽向寝れないじゃん」
『一日くらい平気』
「それはダメ」
『じゃあ一緒に寝落ちする?』
「電話繋いだまま?」
『うん』
「……子どもみたい」
『美月が寝るまで』
「……」
少し。
嬉しい。
「じゃあ」
「ちょっとだけ」
『はい』
その夜。
陽向の。
「まだ起きてる?」
という声を。
何度か聞きながら。
私は。
いつの間にか。
眠っていた。
◇◇◇
撮影当日。
スタジオには。
たくさんの人がいた。
モデル。
スタイリスト。
ヘアメイク。
カメラマン。
スタッフ。
私は。
一ノ瀬紗良として。
挨拶をしていく。
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
普通に。
できている。
大丈夫。
そう思っていた。
そのとき。
スタジオの入口が。
少し騒がしくなった。
「おはようございます!」
若い。
女の子の声。
身体が。
固まった。
分かる。
振り返る前から。
分かってしまう。
この声。
何年。
聞いてきたと思ってるの。
私は。
ゆっくり。
振り返った。
「……」
そこに。
いた。
星。
少し。
背が伸びている。
髪も。
以前より長い。
私が知っている娘より。
ほんの少し。
大人びて見える。
でも。
笑ったとき。
口元が。
あの頃と同じ。
「……星」
声が。
出そうになった。
慌てて。
唇を噛む。
ダメ。
今。
呼んだら。
私は。
一ノ瀬紗良。
星にとって。
知らない女性。
「高瀬さん、こちら一ノ瀬紗良さんです」
スタッフが。
星を連れてくる。
近づいてくる。
一歩。
また一歩。
私の娘が。
私のところへ。
「初めまして」
星が。
少し緊張しながら。
頭を下げる。
「高瀬星です」
「……」
返事を。
しなきゃ。
「一ノ瀬……」
喉が。
詰まる。
「紗良です」
やっと。
言えた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
星が。
顔を上げる。
目が。
合った。
その瞬間。
星の表情が。
少しだけ。
変わった。
「……?」
私を。
じっと見る。
あの日と。
同じ。
遠くから。
目が合ったときと。
同じ顔。
「どうしたの?」
スタッフが。
星に聞く。
「え?」
「あ、いえ」
星が。
少し。
困ったように笑った。
「なんか……」
心臓が。
止まりそうになる。
「一ノ瀬さん」
星が。
もう一度。
私を見る。
「初めて会った気がしなくて」
「……っ」
息が。
止まった。
聞きたかった。
でも。
聞いたら。
泣いてしまう。
「そう?」
私は。
精一杯。
笑った。
「はい」
星が。
首を傾げる。
「どこかで会ったことあります?」
「……ないと」
声が。
震えそうになる。
「思うよ」
本当は。
何千回。
何万回と。
会っている。
朝。
起こした。
髪を整えた。
ご飯を作った。
抱きしめた。
叱った。
笑った。
泣いた。
ずっと。
そばにいた。
でも。
今は。
「初めまして」
それしか。
言えない。
「そっか」
星が。
少し不思議そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
泣きそうになった。
でも。
今は。
仕事。
私は。
爪が食い込むくらい。
手を握った。
◇◇◇
撮影が始まった。
今回は。
世代の違う女性たちが。
同じブランドの洋服を。
それぞれの着こなしで表現する企画。
星は。
若いモデルたちの中でも。
一番。
経験が浅いらしい。
「高瀬さん、もう少し肩の力抜いて!」
「はい!」
カメラマンの声。
星の顔が。
少し。
硬い。
分かる。
緊張してる。
昔から。
真面目な子。
失敗しちゃいけないと思うと。
余計に。
身体が固くなる。
「もうちょっと自然に笑って」
「はい」
でも。
うまくいかない。
スタッフの空気が。
少しずつ。
重くなる。
私は。
見ていられなかった。
「……星」
呼びそうになる。
ダメ。
でも。
身体が。
先に動いた。
「高瀬さん」
私は。
星の近くへ行く。
「はい!」
緊張した顔。
昔。
習い事の発表前にも。
こんな顔をしていた。
私は。
無意識に。
言った。
「大丈夫」
「……」
「失敗しても」
「やり直せるから」
星の目が。
少し大きくなる。
「肩」
私は。
自分の肩を。
軽く上下させる。
「一回、力抜いて」
「息吐いて」
「……はい」
星が。
ふうっと。
息を吐く。
「そう」
「それで」
その瞬間。
昔の癖で。
手が。
星の頭へ伸びかけた。
「……っ」
止める。
頭を。
撫でそうになった。
いつも。
緊張している星に。
していたみたいに。
私は。
慌てて。
手を下ろす。
「……?」
星が。
その手を見る。
「あ、ごめんね」
「いえ」
そして。
私は。
思わず。
続けてしまった。
「星ならできるよ」
しん。
自分の中だけ。
時間が止まった。
「……」
やってしまった。
高瀬さん。
じゃない。
星。
呼び捨て。
「……あ」
私が。
慌てて言い直そうとすると。
星が。
じっと。
私を見ていた。
「……今」
「ご、ごめんなさい」
「名前」
「つい……」
何て。
言い訳する?
プロフィールを見て。
読み方を知っていた。
それで。
いい。
なのに。
星は。
小さな声で言った。
「……ママみたい」
「……っ」
心臓を。
掴まれたようだった。
「え?」
聞き返した声が。
震えた。
星自身も。
少し驚いたように。
笑う。
「すみません」
「変ですよね」
「何か」
星が。
目を伏せる。
「ママも」
「緊張してるとき」
「同じこと言ってくれてたから」
涙が。
出そうになる。
ダメ。
泣くな。
今は。
まだ。
「……そうなんだ」
どうにか。
笑う。
「うん」
星が。
少し寂しそうに笑った。
「もう、いないんですけど」
「……」
知ってる。
私だから。
「……そっか」
それしか。
言えなかった。
でも。
胸の中では。
何度も。
叫んでいた。
ここにいるよ。
星。
ママ。
ここにいるよ。
◇◇◇
撮影が再開された。
星は。
さっきより。
自然に笑えていた。
「いいね!」
「その表情!」
カメラマンの声。
私は。
少し離れたところから。
見ていた。
誇らしい。
すごいね。
頑張ったね。
言いたい。
撮影が終わったら。
抱きしめたい。
でも。
できない。
だから。
せめて。
誰にも見えないところで。
小さく。
拍手した。
「……よくできました」
昔と同じ。
母親の声で。
誰にも。
聞こえないように。
◇◇◇
休憩。
私は。
人の少ない廊下へ出た。
限界だった。
トイレへ。
行こうと思った。
でも。
途中で。
歩けなくなる。
壁に。
背中を預ける。
「……っ」
涙が。
溢れた。
会えた。
星に。
会えた。
話した。
声も。
聞けた。
頑張っている姿も。
見られた。
嬉しい。
本当に。
嬉しい。
なのに。
苦しい。
あんなに近くにいたのに。
触れられなかった。
ママって。
言えなかった。
「……星」
口を押さえる。
声を出したら。
止まらなくなる。
そのとき。
「一ノ瀬さん?」
「……!」
慌てて。
涙を拭く。
振り返る。
星だった。
「どうしたの?」
私は。
顔を隠す。
「ちょっと、目にゴミ入って」
苦しすぎる。
星が。
心配そうに。
近づいてくる。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「本当に?」
「……うん」
私が。
何度も言ってきた。
大丈夫。
その言葉を。
娘にまで。
使っている。
星が。
少し。
私の顔を見る。
そして。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「変なこと聞いていいですか?」
嫌な。
いや。
期待してしまうような。
予感。
「うん」
星が。
少し迷ってから。
言った。
「私のこと」
「前から知ってました?」
「……」
「なんで?」
「だって」
星は。
首を傾げる。
「初めてなのに」
「すごく」
言葉を探す。
「私のこと知ってる人みたいに話すから」
「……」
何も。
言えない。
「それに」
「?」
「なんか」
星が。
胸元を押さえる。
「一ノ瀬さんの近くにいると」
「変なんです」
「変?」
「安心するっていうか」
涙が。
また。
出そうになる。
「……懐かしいっていうか」
その一言。
私の胸を。
貫いた。
星。
分かるの?
顔は。
違うのに。
声も。
違うのに。
「私も」
口から。
言葉が出そうになる。
私も。
あなたを。
ずっと知ってる。
あなたが。
生まれた日から。
でも。
言えない。
私は。
ただ。
笑った。
「もしかしたら」
「?」
「相性がいいのかもね」
「……相性?」
「うん」
「私も」
喉が。
苦しい。
「星ちゃんといると」
「すごく」
泣かないように。
笑う。
「大切にしたいって思うから」
星の目が。
少し。
大きくなった。
「……」
言いすぎた。
そう思った。
でも。
星は。
少し照れたように。
笑った。
「嬉しいです」
そして。
「私」
「?」
「一ノ瀬さんのこと」
星が。
柔らかく笑う。
「好きかも」
「……っ」
「え?」
「変な意味じゃなくて!」
慌てて。
星が手を振る。
「憧れるっていうか」
「もっと話したいっていうか」
「……うん」
私の涙が。
とうとう。
一滴。
落ちた。
「一ノ瀬さん?」
「ごめん」
笑う。
「嬉しくて」
今の涙だけは。
それで。
いいと思った。
「私も」
私は。
星を見つめる。
「もっと話したい」
本当は。
話したいこと。
山ほどある。
学校どう?
ちゃんと食べてる?
夜。
眠れてる?
弟たちとは。
仲良くしてる?
パパは?
寂しくない?
ママがいなくなって。
泣いた?
聞きたい。
でも。
今日は。
それでいい。
会えた。
話せた。
陽向が言った。
それで。
百点。
「また」
星が。
笑う。
「撮影で会えたらいいですね」
「……うん」
私は。
頷いた。
「また会おうね」
今度は。
母親ではなく。
一ノ瀬紗良として。
それでも。
また。
あなたのそばに。
行けるなら。
◇◇◇
撮影が終わったのは。
夕方だった。
スタジオを出る。
スマートフォンを見る。
陽向から。
『終わった?』
『近くにいる』
私は。
すぐに。
『終わった』
と送った。
数分後。
見慣れた車。
私は。
助手席へ乗り込んだ。
「お疲れ」
陽向の顔を見た瞬間。
もう。
ダメだった。
「……陽向」
「うん」
「会えた」
涙が。
落ちる。
陽向は。
何も聞かず。
腕を広げた。
私は。
自分から。
その胸へ。
飛び込んだ。
「星に」
「うん」
「会えたよ」
「うん」
「話した」
「うん」
「すごく」
声が。
震える。
「大きくなってた」
「そっか」
「頑張ってた」
「うん」
「私ね」
陽向の服を。
握る。
「頭撫でそうになった」
「……うん」
「星って呼んじゃった」
「うん」
「ママみたいって」
「言われた」
陽向の腕が。
少し強くなる。
「……そっか」
「それから」
涙と一緒に。
笑う。
「初めて会った気がしないって」
「懐かしいって」
陽向が。
何も言わず。
私の背中を撫でる。
「分かってないよ」
「うん」
「星は」
「私がママだって」
「知らない」
「うん」
「でも」
私は。
顔を上げる。
「何か」
「感じてくれたのかな」
陽向は。
少し笑った。
「俺は」
「?」
「あると思う」
「……本当に?」
「だって」
陽向が。
涙を。
指で拭ってくれる。
「母親って」
「顔だけじゃないだろ」
その言葉に。
また。
涙が。
溢れた。
「声が違っても」
「姿が違っても」
「美月が星ちゃん見てる目とか」
「話し方とか」
「そういうの」
少し照れたように。
笑う。
「子どものほうが」
「案外気づくんじゃない?」
「……陽向」
「何?」
「今日」
私は。
泣きながら笑った。
「百点だった?」
陽向が。
一瞬。
目を丸くする。
そして。
ものすごく優しく。
笑った。
「百点」
「……うん」
「いや」
少し考えて。
「二百点」
「増えた」
「会えたし」
「仕事もしたし」
「ちゃんと帰ってきたし」
「……うん」
「よく頑張りました」
陽向の手が。
私の頭を。
優しく撫でる。
その瞬間。
我慢していたものが。
全部。
溢れた。
「……頑張った」
私は。
子どもみたいに。
陽向の胸で。
泣いた。
「うん」
「すごく頑張った」
「うん」
「抱きしめなかった」
「うん」
「ママって言わなかった」
「うん」
「ちゃんと」
声が。
崩れる。
「初めましてって言った」
陽向は。
何も否定しない。
ただ。
何度も。
背中を撫でてくれた。
その日。
私は。
娘と。
二度目の。
『初めまして』
をした。
一度目は。
星が生まれた日。
小さな身体を。
初めて腕に抱いたとき。
そして。
二度目は。
私は母親であることを。
名乗れないまま。
娘の前に立った。
でも。
それでも。
星は。
私を見て。
言った。
――初めて会った気がしない。
その言葉だけで。
今は。
十分だった。
きっと。
親子だった時間は。
姿が変わったくらいで。
全部。
消えてしまうものじゃない。
私は。
そう。
信じたかった。



