翌朝。
私は。
鏡の前に立っていた。
「……」
映っているのは。
一ノ瀬紗良の顔。
何度見ても。
綺麗だと思う。
大きな瞳。
整った鼻。
薄い唇。
陽向が。
三十四年間。
見てきた顔。
そして。
陽向を。
ずっと好きだった女性の顔。
私は。
そっと。
頬に触れた。
昨日。
陽向は言った。
――俺も、さっき美月にキスしたいって思った。
思い出すだけで。
顔が。
熱くなる。
「……美月に」
自分で。
確認するように呟く。
紗良じゃない。
陽向は。
美月に。
そう言った。
それが。
嬉しくて。
仕方がなかった。
「……」
私は。
鏡の中の紗良を見る。
「ねえ、紗良さん」
もちろん。
返事はない。
「私」
胸に。
手を当てる。
「陽向のこと……」
好き。
もう。
たぶん。
分かっている。
でも。
最後の一歩が。
怖かった。
もし。
その瞬間に。
紗良の記憶が流れ込んできたら?
もし。
私が。
『好き』
と思うたびに。
紗良の気持ちが。
重なっているだけだったら?
そう考えると。
まだ。
言葉にできなかった。
◇◇◇
その日の午後。
私は。
仕事だった。
女優復帰後。
二度目の撮影。
前回より。
少しだけ。
緊張は減っていた。
「一ノ瀬さん、お願いします!」
「はい」
カメラの前へ立つ。
今日は。
化粧品の広告撮影。
笑顔。
横顔。
少し憂いのある表情。
カメラマンから。
次々に指示が飛ぶ。
「いいですね!」
「そのまま!」
「目線こっち!」
身体が。
自然に動く。
やっぱり。
紗良が。
積み重ねてきたもの。
私は。
まだ。
演技も。
モデルの仕事も。
何も知らない。
それなのに。
身体は。
知っている。
「……ありがとう」
心の中で。
また。
紗良に言う。
あなたが。
生きてきたものを。
私は。
借りている。
だからこそ。
大切にしたい。
◇◇◇
休憩中。
マネージャーが。
スマートフォンを持ってきた。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
「天城さんから連絡きてます」
「え?」
思わず。
反応してしまう。
「事務所に?」
「いえ」
マネージャーが笑う。
「一ノ瀬さんの携帯、控室に置いてあったので」
「あ……」
「何度か鳴ってましたよ」
「すみません」
スマートフォンを受け取る。
画面。
陽向から。
三件。
『仕事どう?』
『ちゃんと昼食った?』
そして。
『終わる時間分かったら教えて』
「……」
口元が。
勝手に緩んだ。
「仲いいですね」
「え?」
マネージャーの声に。
びくっとする。
「天城さんと」
「……まあ」
「事故のあと特に」
「よく気にかけてもらってるみたいですし」
「……はい」
気にかけて。
もらっている。
それは。
間違っていない。
でも。
昨日。
キスしたいと言われた。
なんて。
さすがに。
言えない。
「顔赤いですよ?」
「暑くて!」
「今日スタジオ寒いくらいですよ」
「……」
最近。
この言い訳。
陽向も。
私も。
使いすぎている。
◇◇◇
私は。
陽向に返信した。
『今休憩。ちゃんとお昼食べたよ』
すぐに。
既読。
『えらい』
「子ども扱い……」
『終わるの18時くらい』
送信。
少しして。
『迎え行く』
「え?」
思わず。
声が出た。
『いいよ。自分で帰れる』
『俺今日もう終わってる』
『でも』
送った瞬間。
『でも禁止』
「……もう」
笑ってしまう。
『分かりました』
『よろしい』
「本当に先生みたい」
でも。
嬉しい。
迎えに来てくれる。
ただ。
それだけで。
仕事の残り時間が。
少し楽しみになる。
その瞬間。
私は。
ふと。
気づいた。
今。
陽向のメッセージを見て。
嬉しいと思った。
そこに。
紗良の記憶は。
何もなかった。
頭も痛くない。
景色も変わらない。
昔の陽向も。
現れない。
ただ。
今の私が。
今の陽向から届いた言葉に。
喜んでいる。
「……」
また。
ひとつ。
答えが。
近づいた気がした。
◇◇◇
午後六時過ぎ。
撮影を終えて。
裏口から外へ出る。
少し離れた場所に。
見覚えのある車。
運転席。
帽子を深くかぶった陽向。
「……いた」
自然に。
足が速くなる。
自分でも。
驚くくらい。
「お疲れ」
助手席へ乗ると。
陽向が笑った。
「お疲れさま」
「どうだった?」
「前よりちょっと慣れた」
「マジ?」
「うん」
「すげえじゃん」
やっぱり。
嬉しそうに。
一緒に喜んでくれる。
その顔を見た瞬間。
胸が。
温かくなる。
「何?」
陽向が。
こっちを見る。
「……好きだなって」
「え?」
「……」
時間が。
止まった。
「……え?」
陽向が。
もう一度。
聞く。
私も。
自分の言葉に。
固まっていた。
今。
何て言った?
「ち、違う!」
慌てて。
手を振る。
「何が違う!?」
「今のは!」
「好きって言ったよな!?」
「言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「俺、耳いいから!」
「忘れて!」
「無理!」
陽向の顔が。
みるみる赤くなる。
私も。
絶対。
同じくらい赤い。
「……何が」
陽向が。
少し声を落とす。
「好きなの?」
「……」
逃げられない。
「その……」
私は。
視線を落とす。
「一緒に喜んでくれるところ」
「……」
「私が何かできたら」
「すごいって」
「ちゃんと言ってくれるところ」
陽向が。
黙る。
「そういうの」
小さく。
付け足す。
「好きだなって」
心臓。
壊れそう。
でも。
言ってみると。
不思議だった。
紗良の感情は。
流れてこない。
胸にあるのは。
今。
陽向と出会ってから。
私が感じてきたことだけ。
陽向が。
ゆっくり笑った。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
「え?」
「美月が」
陽向が。
少し照れながら。
前を見る。
「何かできたとき」
「嬉しそうな顔するの」
「好き」
ドクン。
「……」
「あと」
「まだあるの?」
「ある」
指を折る。
「飯作ってるとき鼻歌歌うとこ」
「歌ってる?」
「歌ってる」
「知らなかった」
「テレビ見て笑うと声でかいとこ」
「それ悪口じゃない?」
「褒めてる」
「絶対違う」
「俺のこと推しって言ってたくせに、最近扱い雑なとこ」
「それも悪口!」
「でも」
陽向が。
私を見る。
「そういう美月」
「好きだよ」
「……」
言葉が。
出なかった。
たぶん。
これは。
まだ。
告白ではない。
でも。
以前より。
ずっと。
近い。
『好き』
だった。
◇◇◇
車が走り出す。
私は。
窓の外を見る。
顔が。
熱い。
陽向も。
さっきから。
妙に静か。
「……ねえ」
「ん?」
「昨日」
私は。
勇気を出す。
「陽向」
「うん」
「私に」
「……」
「キスしたいって」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
一瞬。
ずれた。
「ちょ!」
「危ない!」
「急に言うからだろ!」
「陽向が言ったんでしょ!」
「言ったけど!」
二人で。
また。
顔が赤くなる。
「……あれ」
私は。
小さく聞いた。
「何で?」
車内が。
静かになる。
陽向は。
しばらく。
答えなかった。
「……聞く?」
「うん」
「昨日は聞くなって言ったじゃん」
「昨日は」
私は。
胸に手を当てる。
「まだ」
「分からなかったから」
「……」
「でも今日」
少しだけ。
分かった。
「何が?」
私は。
すぐには。
答えなかった。
まだ。
全部。
言う勇気はない。
でも。
一歩。
進みたい。
「陽向が迎えに来てくれるのが嬉しいのも」
「うん」
「仕事褒めてもらって嬉しいのも」
「うん」
「陽向が他の人と」
言いかけて。
少し。
詰まる。
「他の人と?」
陽向が。
少しだけ。
期待するような声。
「……女の人と仲良くしてたら」
「うん」
「嫌だなって思うのも」
陽向が。
明らかに。
口元を緩めた。
「何笑ってるの?」
「いや?」
「笑ってる」
「別に」
「それ禁止」
「美月も言うようになったな」
「で?」
「ん?」
「何で笑ったの?」
陽向が。
少しだけ。
意地悪そうに。
言う。
「嫉妬?」
「……」
今度は。
私が。
言葉に詰まる。
昨日。
陽向に。
散々言った言葉。
まさか。
自分に返ってくるとは。
「……たぶん」
小さく。
答えた。
「え?」
「たぶん嫉妬」
「……」
陽向が。
完全に黙った。
「何?」
「いや」
「だから何?」
「嬉しい」
ものすごく。
素直に。
言われた。
胸が。
また。
大きく鳴る。
「美月が俺に嫉妬すんの」
「……」
「普通に嬉しい」
「そんな嬉しそうに言わないで」
「無理」
「何で!」
「嬉しいから」
また。
笑う。
その笑顔を見ながら。
私は。
とうとう。
思ってしまった。
やっぱり。
好き。
これは。
紗良の感情じゃない。
紗良は。
今の陽向と。
こんなふうに。
恋を始めていない。
ゲームをして。
唐揚げを食べて。
私の歌を聴いて。
嫉妬して。
迎えに来て。
私の好きなものを。
メモして。
そんな陽向を。
好きになったのは。
私。
高瀬美月。
◇◇◇
その日の夜。
陽向は。
また。
私の部屋で。
夕食を食べていた。
「今日何?」
「親子丼」
「やった!」
「本当に何でも喜ぶね」
「美月の飯なら」
「……」
さらっと。
そういうことを言う。
心臓に悪い。
食事の途中。
陽向が。
ふと。
聞いた。
「今日さ」
「うん」
「撮影」
「うん」
「神崎くんいた?」
「……」
わざとらしい。
「いなかったよ」
「そっか」
ものすごく。
分かりやすく。
安心した顔。
私は。
笑いを堪える。
「陽向」
「何?」
「嫉妬?」
「……違う」
「昨日認めたでしょ」
「認めてない」
「メンバーにはバレてそう」
「何で分かるの!?」
「え?」
陽向の顔。
しまった。
「本当にバレてるの?」
「……」
「陽向?」
「うるさい」
「可愛い」
反射的に。
出た。
「……」
「……」
また。
止まる。
今日。
私。
どうしたんだろう。
好きだと。
認め始めたせいで。
口まで。
正直になっている。
陽向の耳が。
真っ赤になる。
「美月」
「ごめん」
「謝るな」
「……はい」
「あと」
「?」
陽向が。
少しだけ。
むっとした顔で。
「男に可愛いって言う?」
「だって」
「だって?」
「今の顔」
「……」
「可愛かった」
「俺、一応かっこいい担当なんだけど」
「そうなの?」
「おい!」
私は。
声を出して笑った。
陽向も。
結局。
笑う。
こんな時間が。
好き。
この人が。
好き。
もう。
逃げられない。
◇◇◇
食事が終わって。
二人で。
ソファに座る。
今日は。
テレビをつけていない。
静かな部屋。
でも。
気まずくない。
「陽向」
「ん?」
「聞いていい?」
「いいよ」
「紗良さんのこと」
陽向の表情が。
少し変わる。
「うん」
「陽向は」
私は。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「紗良さんを」
「女の人として」
「好きだったことある?」
陽向は。
少し。
驚いた顔をした。
そして。
しばらく考える。
「……多分」
「うん」
「ない」
胸が。
小さく鳴る。
嬉しい。
そんな自分に。
罪悪感。
でも。
陽向は続けた。
「紗良は」
「うん」
「俺の中で」
「最初から近すぎたんだと思う」
「……」
「家族みたいで」
「いるのが当たり前で」
「失うとか考えたこともなくて」
「……うん」
「だから」
少し。
苦しそうに笑う。
「好きって気づくチャンスすら」
「なかったのかもしれない」
私は。
何も言わず。
聞いた。
「でも」
陽向が。
私を見る。
「美月は違う」
「……え?」
「最初から」
「知らない人だったから」
「うん」
「一個ずつ」
「知ってった」
胸が。
高鳴る。
「飯の好みも」
「歌好きなのも」
「すぐ謝るのも」
「変なとこ頑固なのも」
「変は余計」
「全部」
陽向が。
少し笑う。
「知るたび」
声が。
少しだけ。
低くなる。
「気になるようになった」
「……」
「もっと知りたいって」
「思った」
陽向の目が。
まっすぐ。
私を見ている。
逃げられない。
「だから」
「?」
「美月が」
陽向が。
一瞬。
言葉を止める。
「紗良の代わりだから」
「俺がそばにいるわけじゃない」
胸が。
熱くなる。
「……うん」
「そこだけは」
「ちゃんと分かってて」
「……うん」
涙が。
出そうになった。
私は。
頷く。
「ありがとう」
「何で泣きそうなの」
「嬉しいから」
「そっか」
陽向が。
優しく笑う。
「じゃあいい」
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
一人。
寝室の鏡の前に立った。
同じ。
紗良の顔。
朝と。
何も変わっていない。
でも。
今は。
見え方が。
少しだけ違った。
「紗良さん」
私は。
鏡に。
話しかける。
「私ね」
胸に。
手を置く。
「陽向が好き」
とうとう。
言った。
声に。
出した。
その瞬間。
何かが。
起きると思った。
記憶が。
流れ込むかもしれない。
紗良の悲しみ。
怒り。
嫉妬。
何かが。
来るかもしれない。
でも。
何も。
起きなかった。
頭も。
痛くない。
視界も。
変わらない。
胸の中にあるのは。
ただ。
私自身の鼓動。
「……」
涙が。
溢れた。
「私のだ」
笑いながら。
泣いた。
「この好き」
「私の気持ちだ」
紗良。
あなたが。
陽向を好きだったことは。
あなたの大切な恋。
私が。
奪っていいものじゃない。
でも。
私が今。
陽向を好きなことも。
私の大切な恋。
否定しなくていい。
「……好き」
もう一度。
言う。
今度は。
怖くなかった。
「私」
「天城陽向が好き」
アイドルだからじゃない。
最推しだからでもない。
紗良が。
愛していたからでもない。
私を。
美月と呼んでくれた人。
泣いている私を。
見つけてくれた人。
『大丈夫』の嘘に。
気づいてくれた人。
私の好きなものを。
一緒に探してくれた人。
そして。
ただの美月で。
いさせてくれる人。
その人を。
私は。
好きになった。
「……陽向」
次に。
会ったら。
言えるだろうか。
ちゃんと。
高瀬美月として。
あなたが。
好きだと。
その答えを。
今度こそ。
伝えたい。
そう。
思った。
私は。
鏡の前に立っていた。
「……」
映っているのは。
一ノ瀬紗良の顔。
何度見ても。
綺麗だと思う。
大きな瞳。
整った鼻。
薄い唇。
陽向が。
三十四年間。
見てきた顔。
そして。
陽向を。
ずっと好きだった女性の顔。
私は。
そっと。
頬に触れた。
昨日。
陽向は言った。
――俺も、さっき美月にキスしたいって思った。
思い出すだけで。
顔が。
熱くなる。
「……美月に」
自分で。
確認するように呟く。
紗良じゃない。
陽向は。
美月に。
そう言った。
それが。
嬉しくて。
仕方がなかった。
「……」
私は。
鏡の中の紗良を見る。
「ねえ、紗良さん」
もちろん。
返事はない。
「私」
胸に。
手を当てる。
「陽向のこと……」
好き。
もう。
たぶん。
分かっている。
でも。
最後の一歩が。
怖かった。
もし。
その瞬間に。
紗良の記憶が流れ込んできたら?
もし。
私が。
『好き』
と思うたびに。
紗良の気持ちが。
重なっているだけだったら?
そう考えると。
まだ。
言葉にできなかった。
◇◇◇
その日の午後。
私は。
仕事だった。
女優復帰後。
二度目の撮影。
前回より。
少しだけ。
緊張は減っていた。
「一ノ瀬さん、お願いします!」
「はい」
カメラの前へ立つ。
今日は。
化粧品の広告撮影。
笑顔。
横顔。
少し憂いのある表情。
カメラマンから。
次々に指示が飛ぶ。
「いいですね!」
「そのまま!」
「目線こっち!」
身体が。
自然に動く。
やっぱり。
紗良が。
積み重ねてきたもの。
私は。
まだ。
演技も。
モデルの仕事も。
何も知らない。
それなのに。
身体は。
知っている。
「……ありがとう」
心の中で。
また。
紗良に言う。
あなたが。
生きてきたものを。
私は。
借りている。
だからこそ。
大切にしたい。
◇◇◇
休憩中。
マネージャーが。
スマートフォンを持ってきた。
「一ノ瀬さん」
「はい?」
「天城さんから連絡きてます」
「え?」
思わず。
反応してしまう。
「事務所に?」
「いえ」
マネージャーが笑う。
「一ノ瀬さんの携帯、控室に置いてあったので」
「あ……」
「何度か鳴ってましたよ」
「すみません」
スマートフォンを受け取る。
画面。
陽向から。
三件。
『仕事どう?』
『ちゃんと昼食った?』
そして。
『終わる時間分かったら教えて』
「……」
口元が。
勝手に緩んだ。
「仲いいですね」
「え?」
マネージャーの声に。
びくっとする。
「天城さんと」
「……まあ」
「事故のあと特に」
「よく気にかけてもらってるみたいですし」
「……はい」
気にかけて。
もらっている。
それは。
間違っていない。
でも。
昨日。
キスしたいと言われた。
なんて。
さすがに。
言えない。
「顔赤いですよ?」
「暑くて!」
「今日スタジオ寒いくらいですよ」
「……」
最近。
この言い訳。
陽向も。
私も。
使いすぎている。
◇◇◇
私は。
陽向に返信した。
『今休憩。ちゃんとお昼食べたよ』
すぐに。
既読。
『えらい』
「子ども扱い……」
『終わるの18時くらい』
送信。
少しして。
『迎え行く』
「え?」
思わず。
声が出た。
『いいよ。自分で帰れる』
『俺今日もう終わってる』
『でも』
送った瞬間。
『でも禁止』
「……もう」
笑ってしまう。
『分かりました』
『よろしい』
「本当に先生みたい」
でも。
嬉しい。
迎えに来てくれる。
ただ。
それだけで。
仕事の残り時間が。
少し楽しみになる。
その瞬間。
私は。
ふと。
気づいた。
今。
陽向のメッセージを見て。
嬉しいと思った。
そこに。
紗良の記憶は。
何もなかった。
頭も痛くない。
景色も変わらない。
昔の陽向も。
現れない。
ただ。
今の私が。
今の陽向から届いた言葉に。
喜んでいる。
「……」
また。
ひとつ。
答えが。
近づいた気がした。
◇◇◇
午後六時過ぎ。
撮影を終えて。
裏口から外へ出る。
少し離れた場所に。
見覚えのある車。
運転席。
帽子を深くかぶった陽向。
「……いた」
自然に。
足が速くなる。
自分でも。
驚くくらい。
「お疲れ」
助手席へ乗ると。
陽向が笑った。
「お疲れさま」
「どうだった?」
「前よりちょっと慣れた」
「マジ?」
「うん」
「すげえじゃん」
やっぱり。
嬉しそうに。
一緒に喜んでくれる。
その顔を見た瞬間。
胸が。
温かくなる。
「何?」
陽向が。
こっちを見る。
「……好きだなって」
「え?」
「……」
時間が。
止まった。
「……え?」
陽向が。
もう一度。
聞く。
私も。
自分の言葉に。
固まっていた。
今。
何て言った?
「ち、違う!」
慌てて。
手を振る。
「何が違う!?」
「今のは!」
「好きって言ったよな!?」
「言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「俺、耳いいから!」
「忘れて!」
「無理!」
陽向の顔が。
みるみる赤くなる。
私も。
絶対。
同じくらい赤い。
「……何が」
陽向が。
少し声を落とす。
「好きなの?」
「……」
逃げられない。
「その……」
私は。
視線を落とす。
「一緒に喜んでくれるところ」
「……」
「私が何かできたら」
「すごいって」
「ちゃんと言ってくれるところ」
陽向が。
黙る。
「そういうの」
小さく。
付け足す。
「好きだなって」
心臓。
壊れそう。
でも。
言ってみると。
不思議だった。
紗良の感情は。
流れてこない。
胸にあるのは。
今。
陽向と出会ってから。
私が感じてきたことだけ。
陽向が。
ゆっくり笑った。
「……そっか」
「うん」
「俺も」
「え?」
「美月が」
陽向が。
少し照れながら。
前を見る。
「何かできたとき」
「嬉しそうな顔するの」
「好き」
ドクン。
「……」
「あと」
「まだあるの?」
「ある」
指を折る。
「飯作ってるとき鼻歌歌うとこ」
「歌ってる?」
「歌ってる」
「知らなかった」
「テレビ見て笑うと声でかいとこ」
「それ悪口じゃない?」
「褒めてる」
「絶対違う」
「俺のこと推しって言ってたくせに、最近扱い雑なとこ」
「それも悪口!」
「でも」
陽向が。
私を見る。
「そういう美月」
「好きだよ」
「……」
言葉が。
出なかった。
たぶん。
これは。
まだ。
告白ではない。
でも。
以前より。
ずっと。
近い。
『好き』
だった。
◇◇◇
車が走り出す。
私は。
窓の外を見る。
顔が。
熱い。
陽向も。
さっきから。
妙に静か。
「……ねえ」
「ん?」
「昨日」
私は。
勇気を出す。
「陽向」
「うん」
「私に」
「……」
「キスしたいって」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
一瞬。
ずれた。
「ちょ!」
「危ない!」
「急に言うからだろ!」
「陽向が言ったんでしょ!」
「言ったけど!」
二人で。
また。
顔が赤くなる。
「……あれ」
私は。
小さく聞いた。
「何で?」
車内が。
静かになる。
陽向は。
しばらく。
答えなかった。
「……聞く?」
「うん」
「昨日は聞くなって言ったじゃん」
「昨日は」
私は。
胸に手を当てる。
「まだ」
「分からなかったから」
「……」
「でも今日」
少しだけ。
分かった。
「何が?」
私は。
すぐには。
答えなかった。
まだ。
全部。
言う勇気はない。
でも。
一歩。
進みたい。
「陽向が迎えに来てくれるのが嬉しいのも」
「うん」
「仕事褒めてもらって嬉しいのも」
「うん」
「陽向が他の人と」
言いかけて。
少し。
詰まる。
「他の人と?」
陽向が。
少しだけ。
期待するような声。
「……女の人と仲良くしてたら」
「うん」
「嫌だなって思うのも」
陽向が。
明らかに。
口元を緩めた。
「何笑ってるの?」
「いや?」
「笑ってる」
「別に」
「それ禁止」
「美月も言うようになったな」
「で?」
「ん?」
「何で笑ったの?」
陽向が。
少しだけ。
意地悪そうに。
言う。
「嫉妬?」
「……」
今度は。
私が。
言葉に詰まる。
昨日。
陽向に。
散々言った言葉。
まさか。
自分に返ってくるとは。
「……たぶん」
小さく。
答えた。
「え?」
「たぶん嫉妬」
「……」
陽向が。
完全に黙った。
「何?」
「いや」
「だから何?」
「嬉しい」
ものすごく。
素直に。
言われた。
胸が。
また。
大きく鳴る。
「美月が俺に嫉妬すんの」
「……」
「普通に嬉しい」
「そんな嬉しそうに言わないで」
「無理」
「何で!」
「嬉しいから」
また。
笑う。
その笑顔を見ながら。
私は。
とうとう。
思ってしまった。
やっぱり。
好き。
これは。
紗良の感情じゃない。
紗良は。
今の陽向と。
こんなふうに。
恋を始めていない。
ゲームをして。
唐揚げを食べて。
私の歌を聴いて。
嫉妬して。
迎えに来て。
私の好きなものを。
メモして。
そんな陽向を。
好きになったのは。
私。
高瀬美月。
◇◇◇
その日の夜。
陽向は。
また。
私の部屋で。
夕食を食べていた。
「今日何?」
「親子丼」
「やった!」
「本当に何でも喜ぶね」
「美月の飯なら」
「……」
さらっと。
そういうことを言う。
心臓に悪い。
食事の途中。
陽向が。
ふと。
聞いた。
「今日さ」
「うん」
「撮影」
「うん」
「神崎くんいた?」
「……」
わざとらしい。
「いなかったよ」
「そっか」
ものすごく。
分かりやすく。
安心した顔。
私は。
笑いを堪える。
「陽向」
「何?」
「嫉妬?」
「……違う」
「昨日認めたでしょ」
「認めてない」
「メンバーにはバレてそう」
「何で分かるの!?」
「え?」
陽向の顔。
しまった。
「本当にバレてるの?」
「……」
「陽向?」
「うるさい」
「可愛い」
反射的に。
出た。
「……」
「……」
また。
止まる。
今日。
私。
どうしたんだろう。
好きだと。
認め始めたせいで。
口まで。
正直になっている。
陽向の耳が。
真っ赤になる。
「美月」
「ごめん」
「謝るな」
「……はい」
「あと」
「?」
陽向が。
少しだけ。
むっとした顔で。
「男に可愛いって言う?」
「だって」
「だって?」
「今の顔」
「……」
「可愛かった」
「俺、一応かっこいい担当なんだけど」
「そうなの?」
「おい!」
私は。
声を出して笑った。
陽向も。
結局。
笑う。
こんな時間が。
好き。
この人が。
好き。
もう。
逃げられない。
◇◇◇
食事が終わって。
二人で。
ソファに座る。
今日は。
テレビをつけていない。
静かな部屋。
でも。
気まずくない。
「陽向」
「ん?」
「聞いていい?」
「いいよ」
「紗良さんのこと」
陽向の表情が。
少し変わる。
「うん」
「陽向は」
私は。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「紗良さんを」
「女の人として」
「好きだったことある?」
陽向は。
少し。
驚いた顔をした。
そして。
しばらく考える。
「……多分」
「うん」
「ない」
胸が。
小さく鳴る。
嬉しい。
そんな自分に。
罪悪感。
でも。
陽向は続けた。
「紗良は」
「うん」
「俺の中で」
「最初から近すぎたんだと思う」
「……」
「家族みたいで」
「いるのが当たり前で」
「失うとか考えたこともなくて」
「……うん」
「だから」
少し。
苦しそうに笑う。
「好きって気づくチャンスすら」
「なかったのかもしれない」
私は。
何も言わず。
聞いた。
「でも」
陽向が。
私を見る。
「美月は違う」
「……え?」
「最初から」
「知らない人だったから」
「うん」
「一個ずつ」
「知ってった」
胸が。
高鳴る。
「飯の好みも」
「歌好きなのも」
「すぐ謝るのも」
「変なとこ頑固なのも」
「変は余計」
「全部」
陽向が。
少し笑う。
「知るたび」
声が。
少しだけ。
低くなる。
「気になるようになった」
「……」
「もっと知りたいって」
「思った」
陽向の目が。
まっすぐ。
私を見ている。
逃げられない。
「だから」
「?」
「美月が」
陽向が。
一瞬。
言葉を止める。
「紗良の代わりだから」
「俺がそばにいるわけじゃない」
胸が。
熱くなる。
「……うん」
「そこだけは」
「ちゃんと分かってて」
「……うん」
涙が。
出そうになった。
私は。
頷く。
「ありがとう」
「何で泣きそうなの」
「嬉しいから」
「そっか」
陽向が。
優しく笑う。
「じゃあいい」
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
一人。
寝室の鏡の前に立った。
同じ。
紗良の顔。
朝と。
何も変わっていない。
でも。
今は。
見え方が。
少しだけ違った。
「紗良さん」
私は。
鏡に。
話しかける。
「私ね」
胸に。
手を置く。
「陽向が好き」
とうとう。
言った。
声に。
出した。
その瞬間。
何かが。
起きると思った。
記憶が。
流れ込むかもしれない。
紗良の悲しみ。
怒り。
嫉妬。
何かが。
来るかもしれない。
でも。
何も。
起きなかった。
頭も。
痛くない。
視界も。
変わらない。
胸の中にあるのは。
ただ。
私自身の鼓動。
「……」
涙が。
溢れた。
「私のだ」
笑いながら。
泣いた。
「この好き」
「私の気持ちだ」
紗良。
あなたが。
陽向を好きだったことは。
あなたの大切な恋。
私が。
奪っていいものじゃない。
でも。
私が今。
陽向を好きなことも。
私の大切な恋。
否定しなくていい。
「……好き」
もう一度。
言う。
今度は。
怖くなかった。
「私」
「天城陽向が好き」
アイドルだからじゃない。
最推しだからでもない。
紗良が。
愛していたからでもない。
私を。
美月と呼んでくれた人。
泣いている私を。
見つけてくれた人。
『大丈夫』の嘘に。
気づいてくれた人。
私の好きなものを。
一緒に探してくれた人。
そして。
ただの美月で。
いさせてくれる人。
その人を。
私は。
好きになった。
「……陽向」
次に。
会ったら。
言えるだろうか。
ちゃんと。
高瀬美月として。
あなたが。
好きだと。
その答えを。
今度こそ。
伝えたい。
そう。
思った。



