『明日暇?』
昨夜。
陽向から届いたメッセージ。
私は。
何度も。
その画面を見ていた。
暇だよ。
そう返したあと。
陽向から届いたのは。
『じゃあ昼くらいに行く』
それだけ。
いつもと。
何も変わらない。
陽向が来る。
一緒に過ごす。
最近なら。
珍しくもない。
なのに。
「……何着よう」
クローゼットの前で。
もう十分以上。
悩んでいる。
「いや、待って」
私は。
一人で首を振った。
「家だよ?」
デートじゃない。
陽向が。
遊びに来るだけ。
いつもと同じ。
なのに。
昨日。
自分の中にある気持ちを。
少しずつ。
認め始めてしまったから。
全部が。
今までと違って見える。
「……これ?」
ワンピースを手に取る。
いや。
気合い入りすぎ?
「じゃあこっち?」
シンプルなニット。
でも。
ちょっと地味?
「何してるんだろ、私……」
三十四歳。
五人の子どもの母親だった私が。
好きな人が家に来るからって。
服で悩んでいる。
「……好きな人」
口にした瞬間。
私は。
固まった。
「…………え?」
今。
自然に。
言った?
好きな人。
陽向のことを?
「いやいやいや」
まだ。
決めてない。
ちゃんと。
自分の気持ちだって。
確信できるまでは。
そう思っていたのに。
でも。
胸は。
知っているみたいだった。
陽向が来る。
楽しみ。
少しでも。
可愛いと思ってほしい。
「……これ」
私は。
自分の胸に手を当てた。
「もう答え出てるのかな」
でも。
そのとき。
また。
紗良の顔が。
頭に浮かんだ。
――ずっと好きだった。
胸が。
少しだけ。
苦しくなる。
「……」
私は。
鏡を見る。
映っているのは。
一ノ瀬紗良。
どれだけ。
中身が私でも。
陽向が今日見るのは。
この顔。
紗良が。
陽向を好きだった。
その顔。
急に。
怖くなった。
◇◇◇
昼前。
ピンポーン。
心臓が。
跳ねた。
「……来た」
玄関へ向かう。
一度。
深呼吸。
いつも通り。
いつも通りでいい。
ドアを開ける。
「よ」
陽向。
キャップ。
パーカー。
ラフな格好。
いつもの。
陽向。
なのに。
「……」
私は。
固まった。
「何?」
陽向が。
不思議そうに見る。
「……いや」
「また?」
「何でもない」
「それ俺が禁止されてるやつじゃん」
「今日はいいの!」
私が慌てて横を向くと。
陽向が笑う。
「何だよ」
「いいから入って」
「お邪魔しまーす」
靴を脱ぐ。
すぐ近くを。
陽向が通る。
ふわっと。
香水なのか。
柔軟剤なのか。
陽向の匂い。
「……っ」
ドクン。
今まで。
気にしたことなんて。
なかった。
いや。
ファンだった頃なら。
『陽向の匂い!』
なんて。
大騒ぎしていたかもしれない。
でも。
今のこれは。
違う。
男の人。
そう意識してしまう。
「美月?」
「何?」
「ドア閉めないの?」
「あ!」
私は慌てて。
玄関のドアを閉めた。
◇◇◇
陽向にも。
異変が起きていた。
「……」
昨日。
自分の気持ちに気づいた。
美月が。
好き。
認めてしまった。
たったそれだけで。
今日。
全部が。
おかしい。
「陽向、コーヒーでいい?」
「うん」
キッチンに立つ美月。
いつも。
見ている光景。
なのに。
今日は。
無駄に目で追ってしまう。
髪。
横顔。
細い首筋。
「……」
何見てんだ俺。
慌てて。
スマートフォンを見る。
意味もなく。
画面をスクロール。
「はい」
「うおっ!」
目の前に。
マグカップ。
「何その反応」
「いや!」
「びっくりした」
「私ずっとここにいたけど」
「知ってる!」
美月が。
不思議そうに座る。
隣。
いつもと同じ距離。
近い。
「……」
陽向は。
ほんの少し。
身体を反対側へずらした。
「?」
美月が。
こちらを見る。
「何?」
「いや」
「狭い?」
「全然!」
「じゃあ何で離れたの?」
「……暑い」
「今日そんな暑くないけど」
「俺暑がりなの!」
苦しい。
自分でも。
分かる。
言い訳が。
苦しすぎる。
◇◇◇
私は。
陽向を横目で見る。
今日。
絶対。
変。
いつもなら。
普通に。
もっと近くに座る。
ソファで。
肩が触れそうなくらい。
それでも。
何とも思っていないような顔をしていた。
なのに今日は。
妙に。
距離を取っている。
「……陽向」
「何?」
「何かあった?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
「私」
少し迷う。
「昨日のことで」
「?」
「何か変なこと言った?」
陽向の顔が。
固まった。
昨日。
好きな人の話をした。
それから。
神崎さんのことも。
陽向。
明らかに。
機嫌が悪かった。
「……私が神崎さんと話してたこと?」
「違う!」
早い。
「まだ何も言ってない」
「言ったじゃん」
「聞いただけ」
「別に神崎くん関係ないし」
「……」
やっぱり。
怪しい。
「もしかして」
私は。
少し笑った。
「嫉妬してた?」
その瞬間。
「は!?」
陽向の声が。
ひっくり返った。
私は。
びっくりして。
目を丸くする。
「え?」
「何で!?」
「いや」
「何でそうなる!?」
「だって昨日」
「嫉妬じゃない!」
「……」
私は。
じっと見る。
顔。
赤い。
「陽向」
「何」
「顔赤いよ」
「暑いから!」
「さっきからそればっかり」
「本当に暑い!」
陽向が。
コーヒーを飲む。
でも。
あまりに勢いよく飲んだせいで。
「熱っ!」
「ほら!」
私は。
思わず笑った。
「もう何してるの!」
「……」
陽向が。
恨めしそうに見る。
でも。
私の中には。
別の感情が。
生まれていた。
――もし。
本当に嫉妬だったら?
胸が。
ドクン。
その可能性を。
想像しただけで。
嬉しい。
「……」
私は。
自分の気持ちに。
また。
一つ。
気づいてしまった。
◇◇◇
「今日、何する?」
私が聞く。
「んー」
陽向が。
少し考える。
「ゲーム」
「また?」
「新しいの持ってきた」
バッグから。
ゲーム機を出す。
「二人でできるやつ」
「私あんまり上手くないよ」
「教える」
「陽向厳しそう」
「優しいって」
「本当?」
「任せろ」
三十分後。
「美月! そっちじゃない!」
「どっち!?」
「右!」
「右行った!」
「それ左!」
「私から見たら右!」
「画面は同じだろ!」
「あっ、落ちた!」
「美月ぃぃぃ!」
「だから無理って言ったじゃん!」
陽向が。
腹を抱えて笑う。
私も。
笑う。
結局。
いつも通り。
そう思った。
そのとき。
ゲームの中で。
二人のキャラクターが。
狭い足場を進む場面になる。
「美月、ここ」
陽向が。
私の手元を見る。
「こうやって」
「え?」
後ろから。
手が伸びる。
陽向の手が。
私の手に重なった。
「スティックこれくらい……」
「……」
「……」
止まった。
二人とも。
同時に。
気づいた。
近い。
ものすごく。
近い。
陽向が。
私のすぐ横にいる。
肩。
腕。
手。
触れている。
「……」
私は。
動けなくなった。
陽向も。
動かない。
心臓の音。
聞こえそう。
「……陽向」
「……うん」
声が。
近い。
私は。
ゆっくり。
顔を向けた。
陽向も。
こっちを見た。
思ったより。
ずっと。
顔が近かった。
目。
鼻。
唇。
全部。
はっきり見える。
陽向の瞳に。
私が映っている。
いや。
紗良の顔が。
映っている。
そう思った瞬間。
胸が。
締めつけられた。
「……っ」
私は。
反射的に。
身体を離した。
「美月?」
「ごめん」
「……」
「ちょっと」
立ち上がる。
「飲み物取ってくる」
逃げるように。
キッチンへ向かった。
◇◇◇
陽向は。
その場に。
動けずにいた。
「……」
今。
もし。
美月が離れなかったら。
自分は。
どうしていた?
顔が。
近かった。
あと。
ほんの少し。
美月が動いていたら。
「……何考えてんだよ」
両手で。
顔を覆う。
キス。
その言葉が。
頭をよぎった。
美月に。
キスしたい。
それを。
初めて。
はっきり。
思ってしまった。
でも。
同時に。
胸が痛んだ。
あの顔は。
紗良。
三十四年。
見続けてきた。
幼なじみの顔。
なのに。
さっき。
自分が見ていたのは。
紗良ではなかった。
美月。
完全に。
美月だった。
それが。
怖いくらい。
自然だった。
◇◇◇
キッチン。
私は。
冷蔵庫を開けたまま。
固まっていた。
何を取りに来たんだっけ。
「……」
陽向。
近かった。
手。
触れた。
顔。
近かった。
それだけで。
ドキドキして。
そして。
一瞬。
本当に一瞬。
もっと近づいてほしい。
そう思った。
「……私」
胸に。
手を当てる。
これは。
誰の気持ち?
問いかける。
でも。
今日は。
答えが。
少し違った。
さっき。
紗良の記憶は。
何も出てこなかった。
頭の痛みも。
映像も。
感情の流れ込みも。
何もない。
ただ。
高瀬美月として。
陽向とゲームをして。
触れられて。
ドキドキした。
「……私の」
小さく。
呟く。
「気持ち……?」
嬉しい。
でも。
怖い。
私は。
冷蔵庫を閉めた。
◇◇◇
「ごめん」
リビングへ戻る。
陽向が。
ソファに座っている。
さっきより。
距離がある。
「何が?」
「急に離れて」
「別に」
「……」
私は。
ソファの端に座る。
しばらく。
沈黙。
ゲームの画面だけが。
止まっている。
「美月」
「何?」
「俺」
陽向が。
ゆっくり。
口を開く。
「聞いていい?」
「……うん」
「さっき」
少し。
言いにくそうに。
「俺が触ったから嫌だった?」
「違う」
すぐに答えた。
陽向が。
こちらを見る。
「じゃあ?」
「……」
私は。
膝の上で。
手を握った。
逃げたくない。
陽向は。
いつも。
私の本音を。
聞こうとしてくれた。
だから。
「怖かった」
「俺が?」
「違う」
首を振る。
「自分が」
「……」
「陽向に触られて」
胸に手を置く。
「嬉しかったから」
陽向の目が。
大きくなる。
「……」
言った。
言ってしまった。
顔。
熱い。
「それで」
「うん」
「もっと」
声が。
小さくなる。
「近くても」
「嫌じゃないって」
「……」
「思っちゃったから」
陽向が。
完全に。
黙った。
「でも」
私は続ける。
「この顔」
自分の頬に。
触れる。
「紗良さんだから」
「……」
「陽向が」
「私を見てるのか」
「この顔を見てるのか」
怖い。
また。
同じところへ戻る。
でも。
陽向は。
少し黙ったあと。
言った。
「俺も」
「え?」
陽向が。
真っ直ぐ。
こちらを見る。
「さっき」
「美月に」
一度。
息を飲む。
「……キスしたいって思った」
「……」
時間が。
止まった。
「え?」
自分の声が。
かすれる。
陽向も。
顔が赤い。
「だから」
頭を掻く。
「俺もビビった」
「何で……」
「分かんない」
「……」
「いや」
陽向が。
首を振る。
「本当は」
「分かってる」
胸が。
ものすごい速さで。
鳴り始める。
陽向が。
何かを。
言おうとしている。
でも。
そのとき。
私の頭に。
昨夜読んだ。
紗良の日記が。
浮かんだ。
――触れたい。
――抱きしめたい。
――好き。
私は。
息を呑んだ。
「……待って」
陽向の言葉を。
止める。
「美月?」
「今は」
私は。
陽向を見る。
「言わないで」
「……」
何を。
なんて。
言わなくても。
きっと。
分かっている。
陽向の表情が。
少しだけ。
寂しそうになる。
でも。
「……分かった」
それ以上。
言わなかった。
◇◇◇
「ごめん」
「また謝ってる」
「だって」
「美月」
陽向は。
少し笑った。
「俺が言いたかっただけ」
「……」
「美月が今聞けないなら」
「今じゃなくていい」
胸が。
痛む。
優しい。
だから。
余計に。
好きになりそうになる。
いや。
もう。
好きなのかもしれない。
「陽向」
「ん?」
「私」
「うん」
「ちゃんと」
言葉を選ぶ。
「自分の気持ちが」
「私だけのものだって」
「分かってから」
「……」
「聞きたい」
陽向は。
しばらく。
私を見ていた。
そして。
「うん」
頷いた。
「じゃあ待つ」
「……ありがとう」
「でも」
「?」
少し。
悪戯っぽく。
陽向が笑う。
「一個だけ」
「何?」
「神崎くんと」
「?」
「楽しそうにしすぎないで」
「……え?」
陽向は。
言ったあと。
自分で。
しまった。
という顔をした。
私は。
数秒。
意味を理解する。
そして。
「それ」
口元が。
勝手に緩む。
「やっぱり嫉妬じゃん」
「違っ……」
「今の完全に嫉妬だよ!」
「うるさい!」
「陽向、顔真っ赤!」
「美月もだろ!」
「私は今関係ない!」
「ある!」
「何で!」
二人で。
言い合って。
結局。
笑ってしまった。
でも。
胸の奥は。
ずっと。
熱いままだった。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
一人。
白いマグカップを持ちながら。
ソファに座っていた。
――俺も、さっき美月にキスしたいって思った。
思い出す。
顔が。
熱くなる。
「……無理」
マグカップで。
顔を隠す。
嬉しい。
はっきり。
嬉しい。
陽向が。
私に。
触れたいと思った。
それが。
嬉しかった。
紗良ではなく。
美月に。
そう言った。
そして。
私は。
もう。
分かり始めていた。
この気持ちは。
紗良のものだけではない。
紗良の記憶を知らなかったときから。
陽向に。
救われて。
笑わせてもらって。
見つけてもらって。
少しずつ。
一人の男性として。
好きになった。
「……私」
胸に。
手を当てる。
「陽向のこと」
その続きを。
今日も。
まだ。
声にはしなかった。
でも。
もう。
答えは。
すぐそこまで。
来ていた。
そして。
同じ頃。
帰宅した陽向は。
自宅のベッドへ。
顔から倒れ込んでいた。
「……言いかけた」
枕に。
顔を埋める。
「危な……」
『好き』
言いかけた。
でも。
美月に止められた。
嫌われたわけじゃない。
それは。
分かる。
むしろ。
『触られて嬉しかった』
なんて。
言われた。
「……無理だろ」
陽向は。
布団の上で。
転がった。
「そんなこと言われて待てって」
でも。
待つ。
美月が。
自分の気持ちに。
ちゃんと答えを出すまで。
紗良の恋ではなく。
高瀬美月として。
自分を見てくれるまで。
「……待つけどさ」
天井を見る。
「俺、もう」
小さく笑う。
「めちゃくちゃ好きなんだけど」
その夜。
二人は。
別々の場所で。
同じ相手のことを考えながら。
なかなか。
眠ることができなかった。
昨夜。
陽向から届いたメッセージ。
私は。
何度も。
その画面を見ていた。
暇だよ。
そう返したあと。
陽向から届いたのは。
『じゃあ昼くらいに行く』
それだけ。
いつもと。
何も変わらない。
陽向が来る。
一緒に過ごす。
最近なら。
珍しくもない。
なのに。
「……何着よう」
クローゼットの前で。
もう十分以上。
悩んでいる。
「いや、待って」
私は。
一人で首を振った。
「家だよ?」
デートじゃない。
陽向が。
遊びに来るだけ。
いつもと同じ。
なのに。
昨日。
自分の中にある気持ちを。
少しずつ。
認め始めてしまったから。
全部が。
今までと違って見える。
「……これ?」
ワンピースを手に取る。
いや。
気合い入りすぎ?
「じゃあこっち?」
シンプルなニット。
でも。
ちょっと地味?
「何してるんだろ、私……」
三十四歳。
五人の子どもの母親だった私が。
好きな人が家に来るからって。
服で悩んでいる。
「……好きな人」
口にした瞬間。
私は。
固まった。
「…………え?」
今。
自然に。
言った?
好きな人。
陽向のことを?
「いやいやいや」
まだ。
決めてない。
ちゃんと。
自分の気持ちだって。
確信できるまでは。
そう思っていたのに。
でも。
胸は。
知っているみたいだった。
陽向が来る。
楽しみ。
少しでも。
可愛いと思ってほしい。
「……これ」
私は。
自分の胸に手を当てた。
「もう答え出てるのかな」
でも。
そのとき。
また。
紗良の顔が。
頭に浮かんだ。
――ずっと好きだった。
胸が。
少しだけ。
苦しくなる。
「……」
私は。
鏡を見る。
映っているのは。
一ノ瀬紗良。
どれだけ。
中身が私でも。
陽向が今日見るのは。
この顔。
紗良が。
陽向を好きだった。
その顔。
急に。
怖くなった。
◇◇◇
昼前。
ピンポーン。
心臓が。
跳ねた。
「……来た」
玄関へ向かう。
一度。
深呼吸。
いつも通り。
いつも通りでいい。
ドアを開ける。
「よ」
陽向。
キャップ。
パーカー。
ラフな格好。
いつもの。
陽向。
なのに。
「……」
私は。
固まった。
「何?」
陽向が。
不思議そうに見る。
「……いや」
「また?」
「何でもない」
「それ俺が禁止されてるやつじゃん」
「今日はいいの!」
私が慌てて横を向くと。
陽向が笑う。
「何だよ」
「いいから入って」
「お邪魔しまーす」
靴を脱ぐ。
すぐ近くを。
陽向が通る。
ふわっと。
香水なのか。
柔軟剤なのか。
陽向の匂い。
「……っ」
ドクン。
今まで。
気にしたことなんて。
なかった。
いや。
ファンだった頃なら。
『陽向の匂い!』
なんて。
大騒ぎしていたかもしれない。
でも。
今のこれは。
違う。
男の人。
そう意識してしまう。
「美月?」
「何?」
「ドア閉めないの?」
「あ!」
私は慌てて。
玄関のドアを閉めた。
◇◇◇
陽向にも。
異変が起きていた。
「……」
昨日。
自分の気持ちに気づいた。
美月が。
好き。
認めてしまった。
たったそれだけで。
今日。
全部が。
おかしい。
「陽向、コーヒーでいい?」
「うん」
キッチンに立つ美月。
いつも。
見ている光景。
なのに。
今日は。
無駄に目で追ってしまう。
髪。
横顔。
細い首筋。
「……」
何見てんだ俺。
慌てて。
スマートフォンを見る。
意味もなく。
画面をスクロール。
「はい」
「うおっ!」
目の前に。
マグカップ。
「何その反応」
「いや!」
「びっくりした」
「私ずっとここにいたけど」
「知ってる!」
美月が。
不思議そうに座る。
隣。
いつもと同じ距離。
近い。
「……」
陽向は。
ほんの少し。
身体を反対側へずらした。
「?」
美月が。
こちらを見る。
「何?」
「いや」
「狭い?」
「全然!」
「じゃあ何で離れたの?」
「……暑い」
「今日そんな暑くないけど」
「俺暑がりなの!」
苦しい。
自分でも。
分かる。
言い訳が。
苦しすぎる。
◇◇◇
私は。
陽向を横目で見る。
今日。
絶対。
変。
いつもなら。
普通に。
もっと近くに座る。
ソファで。
肩が触れそうなくらい。
それでも。
何とも思っていないような顔をしていた。
なのに今日は。
妙に。
距離を取っている。
「……陽向」
「何?」
「何かあった?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
「私」
少し迷う。
「昨日のことで」
「?」
「何か変なこと言った?」
陽向の顔が。
固まった。
昨日。
好きな人の話をした。
それから。
神崎さんのことも。
陽向。
明らかに。
機嫌が悪かった。
「……私が神崎さんと話してたこと?」
「違う!」
早い。
「まだ何も言ってない」
「言ったじゃん」
「聞いただけ」
「別に神崎くん関係ないし」
「……」
やっぱり。
怪しい。
「もしかして」
私は。
少し笑った。
「嫉妬してた?」
その瞬間。
「は!?」
陽向の声が。
ひっくり返った。
私は。
びっくりして。
目を丸くする。
「え?」
「何で!?」
「いや」
「何でそうなる!?」
「だって昨日」
「嫉妬じゃない!」
「……」
私は。
じっと見る。
顔。
赤い。
「陽向」
「何」
「顔赤いよ」
「暑いから!」
「さっきからそればっかり」
「本当に暑い!」
陽向が。
コーヒーを飲む。
でも。
あまりに勢いよく飲んだせいで。
「熱っ!」
「ほら!」
私は。
思わず笑った。
「もう何してるの!」
「……」
陽向が。
恨めしそうに見る。
でも。
私の中には。
別の感情が。
生まれていた。
――もし。
本当に嫉妬だったら?
胸が。
ドクン。
その可能性を。
想像しただけで。
嬉しい。
「……」
私は。
自分の気持ちに。
また。
一つ。
気づいてしまった。
◇◇◇
「今日、何する?」
私が聞く。
「んー」
陽向が。
少し考える。
「ゲーム」
「また?」
「新しいの持ってきた」
バッグから。
ゲーム機を出す。
「二人でできるやつ」
「私あんまり上手くないよ」
「教える」
「陽向厳しそう」
「優しいって」
「本当?」
「任せろ」
三十分後。
「美月! そっちじゃない!」
「どっち!?」
「右!」
「右行った!」
「それ左!」
「私から見たら右!」
「画面は同じだろ!」
「あっ、落ちた!」
「美月ぃぃぃ!」
「だから無理って言ったじゃん!」
陽向が。
腹を抱えて笑う。
私も。
笑う。
結局。
いつも通り。
そう思った。
そのとき。
ゲームの中で。
二人のキャラクターが。
狭い足場を進む場面になる。
「美月、ここ」
陽向が。
私の手元を見る。
「こうやって」
「え?」
後ろから。
手が伸びる。
陽向の手が。
私の手に重なった。
「スティックこれくらい……」
「……」
「……」
止まった。
二人とも。
同時に。
気づいた。
近い。
ものすごく。
近い。
陽向が。
私のすぐ横にいる。
肩。
腕。
手。
触れている。
「……」
私は。
動けなくなった。
陽向も。
動かない。
心臓の音。
聞こえそう。
「……陽向」
「……うん」
声が。
近い。
私は。
ゆっくり。
顔を向けた。
陽向も。
こっちを見た。
思ったより。
ずっと。
顔が近かった。
目。
鼻。
唇。
全部。
はっきり見える。
陽向の瞳に。
私が映っている。
いや。
紗良の顔が。
映っている。
そう思った瞬間。
胸が。
締めつけられた。
「……っ」
私は。
反射的に。
身体を離した。
「美月?」
「ごめん」
「……」
「ちょっと」
立ち上がる。
「飲み物取ってくる」
逃げるように。
キッチンへ向かった。
◇◇◇
陽向は。
その場に。
動けずにいた。
「……」
今。
もし。
美月が離れなかったら。
自分は。
どうしていた?
顔が。
近かった。
あと。
ほんの少し。
美月が動いていたら。
「……何考えてんだよ」
両手で。
顔を覆う。
キス。
その言葉が。
頭をよぎった。
美月に。
キスしたい。
それを。
初めて。
はっきり。
思ってしまった。
でも。
同時に。
胸が痛んだ。
あの顔は。
紗良。
三十四年。
見続けてきた。
幼なじみの顔。
なのに。
さっき。
自分が見ていたのは。
紗良ではなかった。
美月。
完全に。
美月だった。
それが。
怖いくらい。
自然だった。
◇◇◇
キッチン。
私は。
冷蔵庫を開けたまま。
固まっていた。
何を取りに来たんだっけ。
「……」
陽向。
近かった。
手。
触れた。
顔。
近かった。
それだけで。
ドキドキして。
そして。
一瞬。
本当に一瞬。
もっと近づいてほしい。
そう思った。
「……私」
胸に。
手を当てる。
これは。
誰の気持ち?
問いかける。
でも。
今日は。
答えが。
少し違った。
さっき。
紗良の記憶は。
何も出てこなかった。
頭の痛みも。
映像も。
感情の流れ込みも。
何もない。
ただ。
高瀬美月として。
陽向とゲームをして。
触れられて。
ドキドキした。
「……私の」
小さく。
呟く。
「気持ち……?」
嬉しい。
でも。
怖い。
私は。
冷蔵庫を閉めた。
◇◇◇
「ごめん」
リビングへ戻る。
陽向が。
ソファに座っている。
さっきより。
距離がある。
「何が?」
「急に離れて」
「別に」
「……」
私は。
ソファの端に座る。
しばらく。
沈黙。
ゲームの画面だけが。
止まっている。
「美月」
「何?」
「俺」
陽向が。
ゆっくり。
口を開く。
「聞いていい?」
「……うん」
「さっき」
少し。
言いにくそうに。
「俺が触ったから嫌だった?」
「違う」
すぐに答えた。
陽向が。
こちらを見る。
「じゃあ?」
「……」
私は。
膝の上で。
手を握った。
逃げたくない。
陽向は。
いつも。
私の本音を。
聞こうとしてくれた。
だから。
「怖かった」
「俺が?」
「違う」
首を振る。
「自分が」
「……」
「陽向に触られて」
胸に手を置く。
「嬉しかったから」
陽向の目が。
大きくなる。
「……」
言った。
言ってしまった。
顔。
熱い。
「それで」
「うん」
「もっと」
声が。
小さくなる。
「近くても」
「嫌じゃないって」
「……」
「思っちゃったから」
陽向が。
完全に。
黙った。
「でも」
私は続ける。
「この顔」
自分の頬に。
触れる。
「紗良さんだから」
「……」
「陽向が」
「私を見てるのか」
「この顔を見てるのか」
怖い。
また。
同じところへ戻る。
でも。
陽向は。
少し黙ったあと。
言った。
「俺も」
「え?」
陽向が。
真っ直ぐ。
こちらを見る。
「さっき」
「美月に」
一度。
息を飲む。
「……キスしたいって思った」
「……」
時間が。
止まった。
「え?」
自分の声が。
かすれる。
陽向も。
顔が赤い。
「だから」
頭を掻く。
「俺もビビった」
「何で……」
「分かんない」
「……」
「いや」
陽向が。
首を振る。
「本当は」
「分かってる」
胸が。
ものすごい速さで。
鳴り始める。
陽向が。
何かを。
言おうとしている。
でも。
そのとき。
私の頭に。
昨夜読んだ。
紗良の日記が。
浮かんだ。
――触れたい。
――抱きしめたい。
――好き。
私は。
息を呑んだ。
「……待って」
陽向の言葉を。
止める。
「美月?」
「今は」
私は。
陽向を見る。
「言わないで」
「……」
何を。
なんて。
言わなくても。
きっと。
分かっている。
陽向の表情が。
少しだけ。
寂しそうになる。
でも。
「……分かった」
それ以上。
言わなかった。
◇◇◇
「ごめん」
「また謝ってる」
「だって」
「美月」
陽向は。
少し笑った。
「俺が言いたかっただけ」
「……」
「美月が今聞けないなら」
「今じゃなくていい」
胸が。
痛む。
優しい。
だから。
余計に。
好きになりそうになる。
いや。
もう。
好きなのかもしれない。
「陽向」
「ん?」
「私」
「うん」
「ちゃんと」
言葉を選ぶ。
「自分の気持ちが」
「私だけのものだって」
「分かってから」
「……」
「聞きたい」
陽向は。
しばらく。
私を見ていた。
そして。
「うん」
頷いた。
「じゃあ待つ」
「……ありがとう」
「でも」
「?」
少し。
悪戯っぽく。
陽向が笑う。
「一個だけ」
「何?」
「神崎くんと」
「?」
「楽しそうにしすぎないで」
「……え?」
陽向は。
言ったあと。
自分で。
しまった。
という顔をした。
私は。
数秒。
意味を理解する。
そして。
「それ」
口元が。
勝手に緩む。
「やっぱり嫉妬じゃん」
「違っ……」
「今の完全に嫉妬だよ!」
「うるさい!」
「陽向、顔真っ赤!」
「美月もだろ!」
「私は今関係ない!」
「ある!」
「何で!」
二人で。
言い合って。
結局。
笑ってしまった。
でも。
胸の奥は。
ずっと。
熱いままだった。
◇◇◇
その夜。
陽向が帰ったあと。
私は。
一人。
白いマグカップを持ちながら。
ソファに座っていた。
――俺も、さっき美月にキスしたいって思った。
思い出す。
顔が。
熱くなる。
「……無理」
マグカップで。
顔を隠す。
嬉しい。
はっきり。
嬉しい。
陽向が。
私に。
触れたいと思った。
それが。
嬉しかった。
紗良ではなく。
美月に。
そう言った。
そして。
私は。
もう。
分かり始めていた。
この気持ちは。
紗良のものだけではない。
紗良の記憶を知らなかったときから。
陽向に。
救われて。
笑わせてもらって。
見つけてもらって。
少しずつ。
一人の男性として。
好きになった。
「……私」
胸に。
手を当てる。
「陽向のこと」
その続きを。
今日も。
まだ。
声にはしなかった。
でも。
もう。
答えは。
すぐそこまで。
来ていた。
そして。
同じ頃。
帰宅した陽向は。
自宅のベッドへ。
顔から倒れ込んでいた。
「……言いかけた」
枕に。
顔を埋める。
「危な……」
『好き』
言いかけた。
でも。
美月に止められた。
嫌われたわけじゃない。
それは。
分かる。
むしろ。
『触られて嬉しかった』
なんて。
言われた。
「……無理だろ」
陽向は。
布団の上で。
転がった。
「そんなこと言われて待てって」
でも。
待つ。
美月が。
自分の気持ちに。
ちゃんと答えを出すまで。
紗良の恋ではなく。
高瀬美月として。
自分を見てくれるまで。
「……待つけどさ」
天井を見る。
「俺、もう」
小さく笑う。
「めちゃくちゃ好きなんだけど」
その夜。
二人は。
別々の場所で。
同じ相手のことを考えながら。
なかなか。
眠ることができなかった。



