翌日。
陽向は朝から仕事だった。
テレビ番組の収録。
雑誌の撮影。
そのあと、ASTERのメンバー全員で打ち合わせ。
いつもと変わらない。
忙しい一日。
……のはずだった。
「陽向」
「ん?」
楽屋。
隣に座っていたメンバーが、じっと陽向を見る。
「今日、変じゃない?」
「何が?」
「さっきからスマホ見すぎ」
「見てないけど」
「見てる」
「見てねーって」
言いながら。
陽向の手には。
スマートフォン。
画面には。
美月とのトーク画面が開かれていた。
最後のメッセージ。
美月から届いた、
『今日はちゃんと仕事頑張ってね😊』
それだけ。
別に。
返信しなければいけない内容でもない。
だから。
『了解!』
と返した。
それで終わり。
なのに。
そのあとも。
何度も画面を確認している。
「……」
新しいメッセージは。
来ていない。
「ほら」
メンバーが笑う。
「また見た」
「時間見ただけ」
「時計そこにあるけど?」
楽屋の壁を指差される。
「……うるさいな」
陽向はスマートフォンを伏せた。
すると。
今度は別のメンバーがやってくる。
「何? 陽向、誰かから連絡待ってんの?」
「待ってない」
「女?」
「違う!」
反応が。
早すぎた。
一瞬。
楽屋が静かになる。
「……」
「……」
陽向が。
ゆっくり周りを見る。
メンバーたち。
ニヤニヤしている。
「何だよ」
「いやぁ?」
「何でも?」
「絶対何かあるだろ」
「ないから!」
「今の否定、めっちゃ怪しい」
「うるせー!」
笑い声が。
楽屋に響く。
でも。
陽向自身。
少しだけ。
分かっていた。
今日。
おかしい。
理由も。
たぶん。
分かっている。
昨日。
美月と話した。
『誰かを好きになるなら、高瀬美月としてちゃんと好きになりたい』
その言葉。
そして。
最後。
『それだけ?』
美月に聞かれて。
答えられなかった。
あれから。
ずっと。
考えている。
もし。
美月が。
自分以外の誰かを好きになったら。
嫌だ。
それは。
認めてしまった。
でも。
なぜ嫌なのか。
そこから先を。
考えたくなかった。
◇◇◇
「次の撮影入りまーす!」
スタッフの声。
「はーい!」
陽向は。
いつものように。
明るく返事をする。
仕事になれば。
切り替える。
カメラの前では。
天城陽向。
笑って。
話して。
全力で。
盛り上げる。
そのはずだった。
◇◇◇
同じ頃。
私は。
一ノ瀬紗良として。
事務所に来ていた。
事故以来。
初めて。
本格的に。
仕事復帰について話すため。
「無理はしないようにしましょう」
マネージャーが言う。
「はい」
「記憶についても、まだ戻っていない部分が多いんですよね?」
「……はい」
正確には。
戻っていないのではなく。
知らない。
でも。
それを。
今さら説明しても仕方がない。
「まずは雑誌のインタビューや」
「短時間の撮影から」
「少しずつ戻していきましょう」
「分かりました」
女優。
一ノ瀬紗良。
その仕事を。
私が。
する。
考えるだけで。
不安。
演技なんて。
できるの?
台本。
覚えられる?
「……大丈夫かな」
思わず。
小さく呟いた。
マネージャーが。
心配そうに見る。
「無理そうですか?」
「あ、違います」
私は。
慌てて笑う。
「やってみます」
高瀬美月として。
この世界で。
生きる。
そう決めた。
だったら。
紗良が残してくれた人生を。
ただ。
借りているだけじゃなく。
ちゃんと。
歩いていかなくちゃ。
◇◇◇
その日の午後。
仕事復帰に向けた。
簡単な撮影テストが行われた。
スタジオに入る。
照明。
カメラ。
スタッフ。
全部。
初めて見る世界。
「緊張します?」
声をかけられて。
振り向く。
「……はい」
そこにいたのは。
若い男性。
二十代後半くらい。
爽やかな雰囲気。
見覚えが。
あるような。
ないような。
「やっぱり事故のあとって大変ですよね」
「すみません……」
「何で謝るんですか」
笑われる。
「あ」
また。
謝ってしまった。
「俺、神崎悠人です」
「……」
名前。
聞いたことある。
人気俳優。
ドラマで。
何度も見たことがある。
「知ってます」
「よかった」
悠人が笑う。
「一ノ瀬さんとは前にドラマで共演してるんですけど」
「……すみません、覚えてなくて」
「それは仕方ないですよ」
その言い方が。
優しかった。
「今日、一緒に撮影です」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
少しだけ。
安心する。
知らない世界。
知らない人。
でも。
こんなふうに。
普通に接してくれる人もいる。
「緊張してたら」
悠人が。
少し声を落とす。
「俺のことカメラだと思ってください」
「え?」
「緊張します?」
「余計緊張します」
「じゃあ壁」
「人ですらない」
思わず。
笑ってしまった。
「お」
悠人も笑う。
「今の笑顔いいじゃないですか」
「……ありがとうございます」
少し。
楽になった。
◇◇◇
撮影は。
思っていたより。
順調だった。
立ち位置。
目線。
表情。
細かい指示は。
その都度教えてもらえる。
しかも。
不思議なことに。
カメラの前に立つと。
身体が。
勝手に動くことがある。
顔の角度。
視線。
姿勢。
紗良の身体が。
覚えている。
「……すごい」
自分でも。
驚いた。
記憶はなくても。
身体には。
一ノ瀬紗良が。
女優として積み重ねてきたものが。
残っている。
『ありがとう』
心の中で。
紗良に伝える。
あなたが。
ずっと頑張ってきたもの。
私が。
大切にするから。
◇◇◇
「お疲れさまでした!」
撮影が終わる。
「お疲れさまでした」
頭を下げる。
「一ノ瀬さん」
悠人が。
飲み物を持ってやってくる。
「はい」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「初日みたいなもんで疲れたでしょ」
「……ちょっと」
「顔に出てます」
「そんなに?」
「かなり」
笑われる。
「でも」
悠人が言う。
「前より話しやすくなりましたね」
「前より?」
「あ」
悠人が少し困った顔をする。
「嫌な意味じゃないですよ」
「紗良さん、前はもっと」
言葉を選ぶ。
「隙がない感じだったから」
「……」
「今は」
少し笑う。
「柔らかくなった」
その言葉。
最近。
いろんなところで聞く。
紗良と私。
やっぱり。
違う。
「そっか」
私も笑う。
「それ、いい意味で受け取っておきます」
「ぜひ」
そのとき。
スタッフの一人が言った。
「あ、ASTERさん隣のスタジオみたいですよ」
「え?」
私の顔が。
一瞬で反応した。
「ASTER?」
「はい。さっき天城さん見ました」
「……陽向」
無意識に。
名前が出た。
悠人が。
こちらを見る。
「仲いいんでしたっけ?」
「え?」
「天城さんと」
「……まあ」
どこまで。
言っていいんだろう。
紗良と陽向は。
幼なじみ。
公に知られているのか。
分からない。
困っていると。
「紗良!」
聞き慣れた声。
振り向く。
いや。
違う。
「……美月」
言い直した。
陽向。
撮影終わりなのか。
衣装姿。
そのまま。
こちらへ歩いてくる。
「陽向」
自然に。
笑顔になる。
「仕事だったんだ」
「うん」
「美月も?」
「今日、復帰の撮影」
「マジ?」
陽向の顔が。
ぱっと明るくなる。
「どうだった?」
「なんとか」
「すげえじゃん!」
大きなリアクション。
その声に。
周りの人も少し振り返る。
「声大きい」
「いや、だって復帰一発目でしょ?」
「うん」
「お疲れ!」
嬉しそう。
やっぱり。
こういう陽向を見ると。
安心する。
「ありがとう」
「……」
陽向が。
少しだけ。
私を見る。
何か。
言いたそう。
そのとき。
「天城さん、お疲れさまです」
悠人が。
声をかけた。
「あ」
陽向が。
そちらを見る。
「神崎くん」
「お久しぶりです」
「久しぶり」
男性同士。
笑顔。
でも。
何か。
空気が。
少し変わった気がした。
「一ノ瀬さんと今日一緒だったんですよ」
悠人が言う。
「……へえ」
陽向が。
私を見る。
「二人で?」
「うん」
「撮影?」
「うん」
「ふーん」
「……何?」
「別に」
何だろう。
急に。
反応が薄い。
「天城さん」
悠人が笑う。
「一ノ瀬さん、すごく雰囲気変わりましたね」
陽向の眉が。
ほんの少し。
動いた。
「そう?」
「前より柔らかくて」
「話しやすいです」
「……へえ」
また。
その言い方。
「今日も緊張してたから」
悠人が続ける。
「ちょっと笑わせてたんですけど」
「笑わせてた?」
陽向が。
聞き返す。
「はい」
「何して?」
「いや、普通に話しただけですよ」
「ふーん」
何か。
変。
「陽向?」
「何?」
「どうしたの?」
「何も」
顔。
笑ってる。
でも。
いつもの笑顔じゃない。
「あ」
私は。
気づく。
これ。
仕事の笑顔。
作ってる。
「……」
陽向が。
私の視線に気づく。
「何?」
「何でもない」
今は。
ここで聞くのはやめよう。
◇◇◇
「じゃあ俺、次あるんで」
悠人が立ち上がる。
「一ノ瀬さん、また次回よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
悠人が。
去っていく。
それを。
陽向が。
黙って見ている。
「……陽向?」
「仲いいの?」
「え?」
「神崎くん」
「今日初めて会った……」
正確には。
私として。
「紗良さんは前に共演してたみたいだけど」
「……へえ」
「何?」
「別に」
また。
別に。
「何か怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ何?」
「だから何でもないって」
その言い方。
明らかに。
何でもある。
でも。
陽向は。
言わない。
「美月」
「何?」
「今日」
少し間を置く。
「帰り何時?」
「もう終わり」
「じゃあ」
すぐに。
「一緒に帰ろ」
「え?」
「俺もあと少しで終わるから」
「でも」
「待ってて」
有無を言わせない。
「……分かった」
陽向が。
少しだけ。
満足そうな顔をした。
何。
それ。
◇◇◇
「陽向」
仕事が終わり。
車へ乗ってから。
私は。
とうとう聞いた。
「何?」
「今日変」
「美月に言われたくない」
「何で」
「いつも変だから」
「失礼」
「……」
また。
黙る。
「神崎さんのこと」
私が言う。
陽向の手が。
ハンドルの上で。
少し止まる。
「何?」
「何か気になる?」
「別に」
「またそれ」
「気にならない」
「じゃあ、何で」
私は。
陽向を見る。
「私と神崎さんが話してたとき」
「急に機嫌悪くなったの?」
「なってない」
「なってた」
「なってない」
「なってたよ」
「美月」
「私」
少しだけ笑う。
「陽向の嘘」
「分かるようになってきたから」
陽向が。
黙った。
図星。
「……何だったの?」
しばらく。
返事はない。
信号。
赤。
車が止まる。
陽向が。
前を向いたまま。
言う。
「……笑ってたから」
「え?」
「美月」
声が小さい。
「神崎くんと」
「楽しそうに」
「……」
「笑ってたから」
「それが?」
「……」
そこで。
止まる。
「陽向?」
「何でもない」
「だから、それやめて」
「……」
私が。
以前。
何でもない。
大丈夫。
そう言うたびに。
陽向は。
聞いてくれた。
だったら。
私も。
同じことをしたい。
「本当は?」
信号が。
青になる。
車が動き出す。
陽向は。
答えない。
でも。
耳が。
少し赤い。
◇◇◇
その日の夜。
陽向は。
ASTERのメンバーと。
グループチャットで話していた。
ライブの打ち合わせ。
その途中。
一人のメンバーが。
突然送ってきた。
『今日、陽向さ』
『神崎と紗良ちゃん話してる時めっちゃ顔怖かったけど』
「……」
陽向の指が止まる。
すぐ。
別のメンバー。
『俺も見たw』
『あれ何?』
陽向。
『別に』
即座に。
返信。
すると。
『出た別に』
『女に言うやつw』
『嫉妬?』
陽向は。
画面を見たまま。
固まった。
「……嫉妬?」
声に出す。
違う。
そんなわけ。
美月は。
別に。
自分の彼女でもない。
誰と話そうが。
自由。
しかも。
仕事相手。
笑うくらい。
普通。
なのに。
思い出す。
悠人に向けていた。
美月の笑顔。
『前より話しやすいです』
その言葉。
妙に。
気に入らなかった。
「……」
スマートフォンが。
また鳴る。
『それ嫉妬だろ』
『陽向わかりやす』
「違う!」
誰もいない部屋で。
思わず。
声が出た。
でも。
胸の中。
どこかで。
分かっていた。
神崎悠人に。
美月が取られる。
そんなこと。
何一つ。
起きていない。
なのに。
美月が。
自分以外の男と。
楽しそうに笑っているだけで。
嫌だった。
「……これ」
陽向は。
ソファへ深く座る。
「嫉妬……なのか?」
言葉にした瞬間。
胸が。
ドクンと鳴った。
そして。
同時に。
昨日。
車の中で思ったこと。
――美月が他の男を好きになるのは嫌だ。
その感情と。
今日の感情が。
一本に。
繋がった。
「……マジか」
陽向が。
両手で顔を覆う。
「俺……」
その続きを。
今度は。
否定できなかった。
高瀬美月。
笑うと。
自分も嬉しい。
泣いていると。
そばにいたい。
疲れていたら。
休ませたい。
自分の前では。
無理しないでほしい。
好きなものを。
もっと知りたい。
自分のことも。
もっと知ってほしい。
そして。
他の男に。
その笑顔を。
向けてほしくない。
そこまで。
揃って。
まだ。
分からないふりなんて。
できなかった。
「……俺」
陽向は。
静かに。
呟いた。
「美月のこと」
一度。
息を吸う。
そして。
初めて。
その言葉を。
自分自身に認めた。
「……好きなんだ」
口にした瞬間。
不思議なくらい。
全部。
腑に落ちた。
紗良に対して。
抱いていたものとは。
違う。
紗良は。
大切。
家族。
失いたくない。
ずっとそばにいてほしかった。
でも。
美月は。
違う。
触れたい。
もっと。
近づきたい。
自分だけを。
見てほしい。
他の誰かに。
取られたくない。
それは。
どう考えても。
恋だった。
「……マジかよ」
陽向は。
もう一度。
顔を覆った。
相手は。
紗良の身体にいる。
別の女性。
前の人生では。
夫がいて。
五人の子どもがいた。
そして。
自分のファンだった。
「難易度高すぎだろ……」
思わず。
笑ってしまう。
でも。
その笑いは。
どこか。
嬉しそうだった。
だって。
ようやく。
分かった。
美月が。
誰を好きになるのか。
知りたかった理由。
美月が。
他の男を好きになるのが。
嫌だった理由。
そして。
美月から。
『それだけ?』
と聞かれたとき。
答えられなかった理由。
全部。
同じ。
陽向は。
スマートフォンを手に取る。
美月とのトーク画面。
何か。
送りたい。
でも。
『俺、美月のこと好きみたい』
なんて。
さすがに。
今。
送れるわけがない。
「……無理」
スマートフォンを。
また伏せる。
少しして。
もう一度。
手に取る。
『明日暇?』
送信。
数秒。
既読。
『暇だよ』
その返信だけで。
陽向の口元が。
勝手に緩んだ。
「……やっぱ好きじゃん」
自分で言って。
また。
顔が熱くなる。
そして。
その頃。
私は。
陽向から届いた。
『明日暇?』
というメッセージを見ながら。
同じように。
胸を押さえていた。
理由は。
まだ。
言葉にできなかった。
でも。
確実に。
二人の『好き』は。
別々の場所から。
少しずつ。
同じところへ。
向かい始めていた。
陽向は朝から仕事だった。
テレビ番組の収録。
雑誌の撮影。
そのあと、ASTERのメンバー全員で打ち合わせ。
いつもと変わらない。
忙しい一日。
……のはずだった。
「陽向」
「ん?」
楽屋。
隣に座っていたメンバーが、じっと陽向を見る。
「今日、変じゃない?」
「何が?」
「さっきからスマホ見すぎ」
「見てないけど」
「見てる」
「見てねーって」
言いながら。
陽向の手には。
スマートフォン。
画面には。
美月とのトーク画面が開かれていた。
最後のメッセージ。
美月から届いた、
『今日はちゃんと仕事頑張ってね😊』
それだけ。
別に。
返信しなければいけない内容でもない。
だから。
『了解!』
と返した。
それで終わり。
なのに。
そのあとも。
何度も画面を確認している。
「……」
新しいメッセージは。
来ていない。
「ほら」
メンバーが笑う。
「また見た」
「時間見ただけ」
「時計そこにあるけど?」
楽屋の壁を指差される。
「……うるさいな」
陽向はスマートフォンを伏せた。
すると。
今度は別のメンバーがやってくる。
「何? 陽向、誰かから連絡待ってんの?」
「待ってない」
「女?」
「違う!」
反応が。
早すぎた。
一瞬。
楽屋が静かになる。
「……」
「……」
陽向が。
ゆっくり周りを見る。
メンバーたち。
ニヤニヤしている。
「何だよ」
「いやぁ?」
「何でも?」
「絶対何かあるだろ」
「ないから!」
「今の否定、めっちゃ怪しい」
「うるせー!」
笑い声が。
楽屋に響く。
でも。
陽向自身。
少しだけ。
分かっていた。
今日。
おかしい。
理由も。
たぶん。
分かっている。
昨日。
美月と話した。
『誰かを好きになるなら、高瀬美月としてちゃんと好きになりたい』
その言葉。
そして。
最後。
『それだけ?』
美月に聞かれて。
答えられなかった。
あれから。
ずっと。
考えている。
もし。
美月が。
自分以外の誰かを好きになったら。
嫌だ。
それは。
認めてしまった。
でも。
なぜ嫌なのか。
そこから先を。
考えたくなかった。
◇◇◇
「次の撮影入りまーす!」
スタッフの声。
「はーい!」
陽向は。
いつものように。
明るく返事をする。
仕事になれば。
切り替える。
カメラの前では。
天城陽向。
笑って。
話して。
全力で。
盛り上げる。
そのはずだった。
◇◇◇
同じ頃。
私は。
一ノ瀬紗良として。
事務所に来ていた。
事故以来。
初めて。
本格的に。
仕事復帰について話すため。
「無理はしないようにしましょう」
マネージャーが言う。
「はい」
「記憶についても、まだ戻っていない部分が多いんですよね?」
「……はい」
正確には。
戻っていないのではなく。
知らない。
でも。
それを。
今さら説明しても仕方がない。
「まずは雑誌のインタビューや」
「短時間の撮影から」
「少しずつ戻していきましょう」
「分かりました」
女優。
一ノ瀬紗良。
その仕事を。
私が。
する。
考えるだけで。
不安。
演技なんて。
できるの?
台本。
覚えられる?
「……大丈夫かな」
思わず。
小さく呟いた。
マネージャーが。
心配そうに見る。
「無理そうですか?」
「あ、違います」
私は。
慌てて笑う。
「やってみます」
高瀬美月として。
この世界で。
生きる。
そう決めた。
だったら。
紗良が残してくれた人生を。
ただ。
借りているだけじゃなく。
ちゃんと。
歩いていかなくちゃ。
◇◇◇
その日の午後。
仕事復帰に向けた。
簡単な撮影テストが行われた。
スタジオに入る。
照明。
カメラ。
スタッフ。
全部。
初めて見る世界。
「緊張します?」
声をかけられて。
振り向く。
「……はい」
そこにいたのは。
若い男性。
二十代後半くらい。
爽やかな雰囲気。
見覚えが。
あるような。
ないような。
「やっぱり事故のあとって大変ですよね」
「すみません……」
「何で謝るんですか」
笑われる。
「あ」
また。
謝ってしまった。
「俺、神崎悠人です」
「……」
名前。
聞いたことある。
人気俳優。
ドラマで。
何度も見たことがある。
「知ってます」
「よかった」
悠人が笑う。
「一ノ瀬さんとは前にドラマで共演してるんですけど」
「……すみません、覚えてなくて」
「それは仕方ないですよ」
その言い方が。
優しかった。
「今日、一緒に撮影です」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
少しだけ。
安心する。
知らない世界。
知らない人。
でも。
こんなふうに。
普通に接してくれる人もいる。
「緊張してたら」
悠人が。
少し声を落とす。
「俺のことカメラだと思ってください」
「え?」
「緊張します?」
「余計緊張します」
「じゃあ壁」
「人ですらない」
思わず。
笑ってしまった。
「お」
悠人も笑う。
「今の笑顔いいじゃないですか」
「……ありがとうございます」
少し。
楽になった。
◇◇◇
撮影は。
思っていたより。
順調だった。
立ち位置。
目線。
表情。
細かい指示は。
その都度教えてもらえる。
しかも。
不思議なことに。
カメラの前に立つと。
身体が。
勝手に動くことがある。
顔の角度。
視線。
姿勢。
紗良の身体が。
覚えている。
「……すごい」
自分でも。
驚いた。
記憶はなくても。
身体には。
一ノ瀬紗良が。
女優として積み重ねてきたものが。
残っている。
『ありがとう』
心の中で。
紗良に伝える。
あなたが。
ずっと頑張ってきたもの。
私が。
大切にするから。
◇◇◇
「お疲れさまでした!」
撮影が終わる。
「お疲れさまでした」
頭を下げる。
「一ノ瀬さん」
悠人が。
飲み物を持ってやってくる。
「はい」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「初日みたいなもんで疲れたでしょ」
「……ちょっと」
「顔に出てます」
「そんなに?」
「かなり」
笑われる。
「でも」
悠人が言う。
「前より話しやすくなりましたね」
「前より?」
「あ」
悠人が少し困った顔をする。
「嫌な意味じゃないですよ」
「紗良さん、前はもっと」
言葉を選ぶ。
「隙がない感じだったから」
「……」
「今は」
少し笑う。
「柔らかくなった」
その言葉。
最近。
いろんなところで聞く。
紗良と私。
やっぱり。
違う。
「そっか」
私も笑う。
「それ、いい意味で受け取っておきます」
「ぜひ」
そのとき。
スタッフの一人が言った。
「あ、ASTERさん隣のスタジオみたいですよ」
「え?」
私の顔が。
一瞬で反応した。
「ASTER?」
「はい。さっき天城さん見ました」
「……陽向」
無意識に。
名前が出た。
悠人が。
こちらを見る。
「仲いいんでしたっけ?」
「え?」
「天城さんと」
「……まあ」
どこまで。
言っていいんだろう。
紗良と陽向は。
幼なじみ。
公に知られているのか。
分からない。
困っていると。
「紗良!」
聞き慣れた声。
振り向く。
いや。
違う。
「……美月」
言い直した。
陽向。
撮影終わりなのか。
衣装姿。
そのまま。
こちらへ歩いてくる。
「陽向」
自然に。
笑顔になる。
「仕事だったんだ」
「うん」
「美月も?」
「今日、復帰の撮影」
「マジ?」
陽向の顔が。
ぱっと明るくなる。
「どうだった?」
「なんとか」
「すげえじゃん!」
大きなリアクション。
その声に。
周りの人も少し振り返る。
「声大きい」
「いや、だって復帰一発目でしょ?」
「うん」
「お疲れ!」
嬉しそう。
やっぱり。
こういう陽向を見ると。
安心する。
「ありがとう」
「……」
陽向が。
少しだけ。
私を見る。
何か。
言いたそう。
そのとき。
「天城さん、お疲れさまです」
悠人が。
声をかけた。
「あ」
陽向が。
そちらを見る。
「神崎くん」
「お久しぶりです」
「久しぶり」
男性同士。
笑顔。
でも。
何か。
空気が。
少し変わった気がした。
「一ノ瀬さんと今日一緒だったんですよ」
悠人が言う。
「……へえ」
陽向が。
私を見る。
「二人で?」
「うん」
「撮影?」
「うん」
「ふーん」
「……何?」
「別に」
何だろう。
急に。
反応が薄い。
「天城さん」
悠人が笑う。
「一ノ瀬さん、すごく雰囲気変わりましたね」
陽向の眉が。
ほんの少し。
動いた。
「そう?」
「前より柔らかくて」
「話しやすいです」
「……へえ」
また。
その言い方。
「今日も緊張してたから」
悠人が続ける。
「ちょっと笑わせてたんですけど」
「笑わせてた?」
陽向が。
聞き返す。
「はい」
「何して?」
「いや、普通に話しただけですよ」
「ふーん」
何か。
変。
「陽向?」
「何?」
「どうしたの?」
「何も」
顔。
笑ってる。
でも。
いつもの笑顔じゃない。
「あ」
私は。
気づく。
これ。
仕事の笑顔。
作ってる。
「……」
陽向が。
私の視線に気づく。
「何?」
「何でもない」
今は。
ここで聞くのはやめよう。
◇◇◇
「じゃあ俺、次あるんで」
悠人が立ち上がる。
「一ノ瀬さん、また次回よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
悠人が。
去っていく。
それを。
陽向が。
黙って見ている。
「……陽向?」
「仲いいの?」
「え?」
「神崎くん」
「今日初めて会った……」
正確には。
私として。
「紗良さんは前に共演してたみたいだけど」
「……へえ」
「何?」
「別に」
また。
別に。
「何か怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ何?」
「だから何でもないって」
その言い方。
明らかに。
何でもある。
でも。
陽向は。
言わない。
「美月」
「何?」
「今日」
少し間を置く。
「帰り何時?」
「もう終わり」
「じゃあ」
すぐに。
「一緒に帰ろ」
「え?」
「俺もあと少しで終わるから」
「でも」
「待ってて」
有無を言わせない。
「……分かった」
陽向が。
少しだけ。
満足そうな顔をした。
何。
それ。
◇◇◇
「陽向」
仕事が終わり。
車へ乗ってから。
私は。
とうとう聞いた。
「何?」
「今日変」
「美月に言われたくない」
「何で」
「いつも変だから」
「失礼」
「……」
また。
黙る。
「神崎さんのこと」
私が言う。
陽向の手が。
ハンドルの上で。
少し止まる。
「何?」
「何か気になる?」
「別に」
「またそれ」
「気にならない」
「じゃあ、何で」
私は。
陽向を見る。
「私と神崎さんが話してたとき」
「急に機嫌悪くなったの?」
「なってない」
「なってた」
「なってない」
「なってたよ」
「美月」
「私」
少しだけ笑う。
「陽向の嘘」
「分かるようになってきたから」
陽向が。
黙った。
図星。
「……何だったの?」
しばらく。
返事はない。
信号。
赤。
車が止まる。
陽向が。
前を向いたまま。
言う。
「……笑ってたから」
「え?」
「美月」
声が小さい。
「神崎くんと」
「楽しそうに」
「……」
「笑ってたから」
「それが?」
「……」
そこで。
止まる。
「陽向?」
「何でもない」
「だから、それやめて」
「……」
私が。
以前。
何でもない。
大丈夫。
そう言うたびに。
陽向は。
聞いてくれた。
だったら。
私も。
同じことをしたい。
「本当は?」
信号が。
青になる。
車が動き出す。
陽向は。
答えない。
でも。
耳が。
少し赤い。
◇◇◇
その日の夜。
陽向は。
ASTERのメンバーと。
グループチャットで話していた。
ライブの打ち合わせ。
その途中。
一人のメンバーが。
突然送ってきた。
『今日、陽向さ』
『神崎と紗良ちゃん話してる時めっちゃ顔怖かったけど』
「……」
陽向の指が止まる。
すぐ。
別のメンバー。
『俺も見たw』
『あれ何?』
陽向。
『別に』
即座に。
返信。
すると。
『出た別に』
『女に言うやつw』
『嫉妬?』
陽向は。
画面を見たまま。
固まった。
「……嫉妬?」
声に出す。
違う。
そんなわけ。
美月は。
別に。
自分の彼女でもない。
誰と話そうが。
自由。
しかも。
仕事相手。
笑うくらい。
普通。
なのに。
思い出す。
悠人に向けていた。
美月の笑顔。
『前より話しやすいです』
その言葉。
妙に。
気に入らなかった。
「……」
スマートフォンが。
また鳴る。
『それ嫉妬だろ』
『陽向わかりやす』
「違う!」
誰もいない部屋で。
思わず。
声が出た。
でも。
胸の中。
どこかで。
分かっていた。
神崎悠人に。
美月が取られる。
そんなこと。
何一つ。
起きていない。
なのに。
美月が。
自分以外の男と。
楽しそうに笑っているだけで。
嫌だった。
「……これ」
陽向は。
ソファへ深く座る。
「嫉妬……なのか?」
言葉にした瞬間。
胸が。
ドクンと鳴った。
そして。
同時に。
昨日。
車の中で思ったこと。
――美月が他の男を好きになるのは嫌だ。
その感情と。
今日の感情が。
一本に。
繋がった。
「……マジか」
陽向が。
両手で顔を覆う。
「俺……」
その続きを。
今度は。
否定できなかった。
高瀬美月。
笑うと。
自分も嬉しい。
泣いていると。
そばにいたい。
疲れていたら。
休ませたい。
自分の前では。
無理しないでほしい。
好きなものを。
もっと知りたい。
自分のことも。
もっと知ってほしい。
そして。
他の男に。
その笑顔を。
向けてほしくない。
そこまで。
揃って。
まだ。
分からないふりなんて。
できなかった。
「……俺」
陽向は。
静かに。
呟いた。
「美月のこと」
一度。
息を吸う。
そして。
初めて。
その言葉を。
自分自身に認めた。
「……好きなんだ」
口にした瞬間。
不思議なくらい。
全部。
腑に落ちた。
紗良に対して。
抱いていたものとは。
違う。
紗良は。
大切。
家族。
失いたくない。
ずっとそばにいてほしかった。
でも。
美月は。
違う。
触れたい。
もっと。
近づきたい。
自分だけを。
見てほしい。
他の誰かに。
取られたくない。
それは。
どう考えても。
恋だった。
「……マジかよ」
陽向は。
もう一度。
顔を覆った。
相手は。
紗良の身体にいる。
別の女性。
前の人生では。
夫がいて。
五人の子どもがいた。
そして。
自分のファンだった。
「難易度高すぎだろ……」
思わず。
笑ってしまう。
でも。
その笑いは。
どこか。
嬉しそうだった。
だって。
ようやく。
分かった。
美月が。
誰を好きになるのか。
知りたかった理由。
美月が。
他の男を好きになるのが。
嫌だった理由。
そして。
美月から。
『それだけ?』
と聞かれたとき。
答えられなかった理由。
全部。
同じ。
陽向は。
スマートフォンを手に取る。
美月とのトーク画面。
何か。
送りたい。
でも。
『俺、美月のこと好きみたい』
なんて。
さすがに。
今。
送れるわけがない。
「……無理」
スマートフォンを。
また伏せる。
少しして。
もう一度。
手に取る。
『明日暇?』
送信。
数秒。
既読。
『暇だよ』
その返信だけで。
陽向の口元が。
勝手に緩んだ。
「……やっぱ好きじゃん」
自分で言って。
また。
顔が熱くなる。
そして。
その頃。
私は。
陽向から届いた。
『明日暇?』
というメッセージを見ながら。
同じように。
胸を押さえていた。
理由は。
まだ。
言葉にできなかった。
でも。
確実に。
二人の『好き』は。
別々の場所から。
少しずつ。
同じところへ。
向かい始めていた。



