『今日仕事終わったら行っていい?』
陽向から届いたメッセージを見ながら。
私は。
しばらく返信できずにいた。
会いたい。
そう思う。
昨日は。
あんなに悩んでいたのに。
陽向から連絡が来ただけで。
顔が見たいと思ってしまう。
「……これは」
私は。
自分の胸に手を当てた。
「私の気持ち……だよね?」
もちろん。
誰も答えてくれない。
でも。
今までとは。
少しだけ違った。
紗良の記憶が流れ込んできたときの感情は。
もっと。
切ない。
胸を締めつけられるような。
長い年月を積み重ねた。
深い想い。
それに比べて。
今の私の気持ちは。
もっと。
新しい。
陽向から連絡が来た。
嬉しい。
今日会える。
楽しみ。
何を作ろう。
何を話そう。
そんな。
小さくて。
温かい気持ち。
これは。
紗良が抱えていた恋とは。
少し違う。
「……うん」
私は。
ようやく返信した。
『いいよ』
すぐに既読がつく。
『やった!』
そして。
『今日何食べる?』
「……やっぱりご飯なんだ」
思わず笑ってしまった。
『まだ決めてない』
『じゃあ俺肉食いたい』
『この前も肉だったじゃん』
『肉は毎日いける』
『子どもみたい』
『34歳です』
「知ってるよ」
一人。
スマートフォンに向かって笑う。
こういう。
くだらないやり取り。
紗良の記憶には。
ない。
少なくとも。
これは。
今の私と陽向の時間。
そう思えた。
◇◇◇
その日の夕方。
私は。
スーパーに来ていた。
帽子とマスク。
すっかり。
一ノ瀬紗良として外へ出る格好にも慣れてきた。
今夜は。
陽向の希望通り。
肉料理。
「唐揚げにしようかな」
鶏肉を手に取る。
陽向。
絶対喜びそう。
そう思った瞬間。
自然に。
口元が緩んだ。
「……」
私は。
自分で。
少し驚いた。
誰かのために。
料理を考える。
それは。
前の人生でも。
毎日のようにしていた。
子どもたちが喜ぶもの。
夫が好きなもの。
家族が食べられるもの。
でも。
あの頃とは。
少し違う。
今日は。
『作らなきゃ』
じゃない。
陽向が喜ぶ顔を。
見たい。
だから。
作りたい。
「……何か」
小さく笑う。
「全然違うな」
義務ではなく。
自分がしたいからする。
たったそれだけで。
こんなに気持ちが違う。
私は。
鶏肉をカゴに入れた。
そのとき。
近くにいた若い女の子たちの会話が聞こえてきた。
「ねえ、今日ASTERの配信あるよね?」
「ある! 陽向くん出るやつ!」
思わず。
足が止まる。
「陽向くんマジで好き」
「分かる! 彼氏だったら絶対楽しいよね」
「絶対毎日笑わせてくれそう!」
少し前の私なら。
心の中で。
『分かる!』
と。
全力で同意していたと思う。
でも。
今は。
胸の奥に。
小さな違和感。
何だろう。
「……」
その女の子が続ける。
「陽向くんと付き合える人いいなー」
ドクン。
胸が。
少しだけ。
嫌な鳴り方をした。
私は。
その場から。
そっと離れた。
「……今の何?」
別に。
普通のファンの会話。
陽向は。
人気アイドル。
好きだという女性なんて。
何万人。
何十万人といる。
私だって。
その一人だった。
なのに。
――陽向くんと付き合える人いいな。
その言葉が。
妙に。
引っかかった。
「……嫉妬?」
小さく呟く。
まさか。
でも。
考えてみる。
もし。
陽向に。
好きな女性ができたら?
その人の家に。
仕事終わりに行くようになって。
一緒にご飯を食べて。
疲れたら。
その人の前で寝て。
その人に。
『一緒にいると楽』
と言う。
「……嫌だ」
口から。
出ていた。
自分で。
固まる。
「……嫌なの?」
胸に問いかける。
嫌。
だった。
陽向が。
私ではない誰かと。
今みたいな時間を過ごすのを。
想像しただけで。
胸が苦しい。
その瞬間。
頭の奥に。
また。
紗良の日記の言葉が浮かんだ。
――誰かのものにならないで。
「……違う」
私は。
首を振る。
これは。
紗良の気持ち?
また。
分からなくなる。
でも。
今日は。
逃げずに考えることにした。
今。
紗良の記憶が。
何も出てこなかったとしても。
私は。
女の子たちの会話を聞いて。
嫌だった。
だったら。
この感情は。
少なくとも。
私の中にもある。
「……そっか」
私は。
ゆっくり息を吐いた。
少しずつ。
分かってきている。
◇◇◇
夜。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「来た」
自分でも。
分かる。
声が少し弾んでいる。
玄関を開ける。
「ただいまー!」
「また普通にただいまって言う」
「もういいじゃん」
陽向が。
大きな紙袋を持っている。
「何それ?」
「差し入れ」
「また?」
「今日はちゃんと意味ある」
部屋に入り。
陽向が。
紙袋をテーブルへ置く。
「はい」
出てきたのは。
箱。
「……何?」
「開けて」
「私に?」
「うん」
少し。
ドキドキしながら。
箱を開ける。
「……あ!」
中には。
綺麗なチーズケーキ。
「これ……」
「好きなんでしょ?」
陽向が。
得意そうに笑う。
「チーズケーキ」
胸が。
大きく鳴った。
「美月メモ?」
「正解」
「本当に使ってるんだ……」
「言ったじゃん」
「でも」
ケーキを見る。
「わざわざ?」
「今日仕事先の近くに有名な店あったから」
「……」
「美月好きだったなって思って」
それだけ。
それだけなのに。
泣きそうになった。
「……ありがとう」
「お」
陽向が笑う。
「ごめんじゃなくて、ありがとう言えた」
「そこ褒める?」
「成長」
「子ども扱い」
でも。
嬉しい。
本当に。
嬉しい。
私の好きなものを。
覚えていてくれた。
そして。
自分がいない場所で。
私のことを。
思い出してくれた。
その事実が。
ケーキそのものより。
嬉しかった。
「陽向」
「ん?」
「私も」
「?」
「今日、陽向のこと考えたよ」
言ってから。
恥ずかしくなる。
「え?」
陽向が。
目を丸くする。
「何それ」
「唐揚げ」
「唐揚げ?」
「陽向、肉食べたいって言ってたから」
キッチンを指す。
「作った」
陽向の顔が。
一気に明るくなる。
「マジ!?」
「うん」
「やった!!」
その反応。
本当に。
分かりやすい。
私は。
思わず笑う。
この顔が。
見たかった。
そう。
思った。
◇◇◇
「うまっ!」
陽向が。
唐揚げを口に入れた瞬間。
大きな声を出す。
「美月、これマジでうまい!」
「よかった」
「外カリカリ!」
「二度揚げしたから」
「最高!」
「そんな喜ぶ?」
「だってうまい!」
私は。
陽向を見ながら。
笑う。
幸せ。
その言葉が。
自然に。
頭に浮かんだ。
怖くなって。
すぐに消そうとした。
でも。
今日は。
消さなかった。
今。
私は。
幸せ。
それでいい。
「……美月?」
「何?」
「また見てる」
「え?」
「俺のこと」
「……見てない」
「見てた」
「唐揚げ食べてるなって」
「それ見てんじゃん」
陽向が笑う。
「何?」
「……嬉しいだけ」
私は。
今度は。
ちゃんと言った。
「何が?」
「美味しそうに食べてもらえるの」
陽向が。
少しだけ。
目を細める。
「じゃあもっと食う」
「それは意味違う」
「おかわり!」
「早いよ!」
また。
二人で笑う。
◇◇◇
食事を終え。
買ってきてくれたチーズケーキを。
二人で食べる。
「おいしい……!」
思わず。
声が出た。
「そんなに?」
「うん!」
「買ってきてよかった」
陽向が。
本当に嬉しそうに言う。
その顔を見て。
私は。
思う。
私が喜ぶと。
陽向も喜ぶ。
陽向が喜ぶと。
私も嬉しい。
それは。
紗良の恋心を知らなくても。
今。
ここで。
二人の間に生まれた感情。
「……ねえ、陽向」
「ん?」
今日は。
一つ。
聞きたいことがあった。
スーパーで。
女の子たちの話を聞いてから。
ずっと。
気になっていること。
「好きな人」
陽向の手が。
止まった。
「……え?」
「いるの?」
しん。
部屋が。
静かになった。
「急に何?」
「なんとなく」
「なんとなくで聞く?」
「嫌ならいいけど」
「……」
陽向が。
フォークを置いた。
そして。
私を見る。
「何で気になるの?」
心臓が。
ドクン。
そこ。
聞く?
「……ファンとして」
また。
逃げた。
陽向の眉が。
少し上がる。
「便利だな、それ」
「何が?」
「何でもファンで逃げられる」
「逃げてない」
「じゃあ」
陽向が。
少し身を乗り出す。
「俺に好きな人いたらどう思う?」
「……」
今度は。
私が。
答えに詰まる。
本当のこと。
言える?
嫌。
そんなの。
言えるわけがない。
「幸せなら……」
言いかける。
それは。
昔の私。
ファンだった頃の。
模範解答。
陽向が幸せなら。
それでいい。
そう思っていた。
でも。
今。
口にしようとしたら。
胸が苦しくなった。
「……美月?」
「分かんない」
正直に答えた。
「え?」
「前なら」
私は。
フォークを見つめる。
「陽向が幸せならいいって」
「本当に思ってた」
「……」
「好きな人ができても」
「結婚しても」
「幸せならそれでいいって」
陽向は。
何も言わない。
「でも今」
「うん」
「なんか」
言葉を探す。
「素直にそう思えるか」
「……」
「分かんない」
言ってしまった。
顔が。
熱い。
陽向が。
じっと私を見ている。
「……何その顔」
「いや」
「何?」
「それって」
陽向が。
何か言おうとする。
「やっぱいい」
「何!」
「いや」
少し笑う。
でも。
耳が。
赤い。
「陽向?」
「美月は?」
「え?」
突然。
返された。
「好きな人」
心臓が。
止まりそうになる。
「……いない」
反射的に答える。
陽向の顔が。
一瞬。
何か。
微妙な表情をした。
「……そっか」
「何?」
「別に」
「何その反応」
「何でもない」
また。
陽向が逃げる。
でも。
私は。
気づかなかった。
その『いない』に。
陽向が。
ほんの少し。
がっかりしていたことに。
◇◇◇
食後。
テレビを見る。
でも。
私は。
さっきの会話が。
頭から離れなかった。
好きな人。
私は。
いないと言った。
嘘?
いや。
まだ。
分からない。
好き。
そう認めるには。
私は。
怖い。
だって。
私が陽向を好きだと思っても。
その中に。
紗良の気持ちが。
どれくらい混ざっているか。
分からない。
それに。
陽向にとって。
私は。
紗良の身体にいる人。
もし。
私が。
好き。
なんて言ったら。
陽向は。
どう思う?
紗良の想いを利用している。
そう思われたら。
嫌だ。
絶対に。
それだけは。
嫌だった。
「……陽向」
「ん?」
テレビを見たまま。
返事をする。
「もし」
「うん」
「私が」
声が。
少し震える。
「紗良さんの記憶を使って」
「?」
「陽向に近づいたら」
陽向が。
こちらを見る。
「嫌?」
「どういう意味?」
「例えば」
胸の前で。
指を握る。
「紗良さんしか知らないこととか」
「紗良さんが陽向を好きだった気持ちとか」
「そういうのを使って」
「……」
「陽向に好きになってもらおうとしたら」
陽向の顔から。
笑顔が消えた。
「美月」
「うん」
「それするつもりなの?」
「しない!」
すぐに。
答えた。
「絶対しない」
「……」
「だから」
私は。
真っ直ぐ。
陽向を見る。
「ちゃんと決めておきたいの」
「何を?」
「紗良さんの気持ちは」
胸に手を当てる。
「紗良さんのもの」
「……」
「私のものじゃない」
陽向が。
静かに聞いている。
「だから」
「もし私が」
一瞬。
言葉が。
詰まる。
「……誰かを好きになるなら」
『誰か』
陽向のことだと。
きっと。
二人とも分かっている。
でも。
まだ。
名前にはできない。
「高瀬美月として」
私は。
続ける。
「ちゃんと好きになりたい」
「……」
「紗良さんの恋を」
「自分の恋みたいにして」
「誰かを手に入れるのは嫌」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
「……美月って」
「何?」
少し。
困ったように笑う。
「変なとこ真面目だよな」
「変って何」
「いや」
陽向が。
ソファに身体を預ける。
「でも」
私を見る。
「俺は」
「うん」
「美月が美月じゃなくなるとは」
「思ってないよ」
胸が。
跳ねる。
「紗良の記憶があっても」
「……」
「紗良の気持ちが残ってても」
「美月は美月」
また。
その言葉。
「だって」
陽向が笑う。
「紗良、唐揚げ二度揚げとか絶対しないし」
「そこ?」
「美月はする」
「料理で判断するの?」
「あと歌うとめっちゃ楽しそう」
「……」
「褒めたらすぐ顔赤くする」
「それ言わなくていい」
「すぐ謝る」
「最近減った」
「『でも』多い」
「それも減ってる!」
陽向が。
笑う。
私も。
少し笑ってしまう。
「だから」
陽向が。
ほんの少しだけ。
声を落とした。
「俺が見てるのは」
「……」
「ちゃんと美月だよ」
胸が。
痛いくらい。
鳴った。
「……ありがとう」
「うん」
「それ言ってもらえるの」
私は。
ゆっくり息を吐く。
「すごく嬉しい」
「……そっか」
陽向が。
少しだけ。
視線を逸らした。
その横顔が。
なぜか。
照れているように見えた。
◇◇◇
陽向が帰る時間。
玄関まで。
見送る。
「じゃあ」
「うん」
「チーズケーキありがと」
「また美月メモ増やしとく」
「何を?」
「唐揚げ好き」
「それ陽向でしょ?」
「あ、そうだった」
「自分メモ作りなよ」
「じゃ美月が作って」
「何で!」
二人で笑う。
陽向が。
靴を履く。
そして。
ドアを開ける前に。
「美月」
「何?」
「さっき」
少し。
真面目な顔。
「誰かを好きになるなら」
「……うん」
「美月として好きになりたいって言ったじゃん」
心臓が。
一瞬で。
速くなる。
「……言った」
陽向が。
私を見る。
「それ」
「?」
「ちゃんと分かったら」
少し間を置く。
「俺にも教えて」
「……え?」
何を?
誰を好きになったか?
「何で?」
また。
聞いてしまう。
陽向自身も。
一瞬。
答えに困ったようだった。
「……気になるから」
「誰を好きになるか?」
「うん」
「何で?」
「だから!」
陽向が。
少しだけ。
焦ったように笑う。
「俺、美月のこと知りたいって言ったじゃん」
「……それだけ?」
私の口から。
勝手に。
そんな言葉が出た。
陽向が。
固まる。
私も。
固まる。
「……」
「……」
「じゃあな!」
急に。
陽向が。
ドアを開けた。
「ちょっと陽向!」
「仕事早いから!」
「明日休みって言ってたじゃん!」
「あっ」
「嘘下手!」
「じゃ!」
そのまま。
逃げるように。
出ていった。
「……何なの」
閉じたドアを見ながら。
私は。
胸を押さえる。
ドクン。
ドクン。
速い。
今日。
何度。
この音を聞いただろう。
そして。
今の鼓動は。
紗良の記憶とは。
何の関係もない。
「……私だ」
小さく。
呟く。
陽向が。
誰を好きになるのか気になった。
陽向が。
私の好きな人を気にしてくれたのが。
嬉しかった。
陽向に。
ちゃんと美月を見ていると言われて。
胸がいっぱいになった。
これは。
全部。
今日。
高瀬美月として。
陽向と過ごした中で。
生まれた感情。
「……紗良さん」
私は。
自分の胸に手を置いた。
「少しずつ」
「分かってきたかもしれない」
あなたが。
陽向を愛していた気持ちは。
あなたのもの。
そして。
私がこれから。
誰かを好きになるなら。
それは。
私のもの。
この恋だけは。
誰かからもらったものじゃなく。
自分自身の心で。
見つけたい。
そう思った。
◇◇◇
その頃。
マンションを出た陽向は。
車に乗ったものの。
すぐにはエンジンをかけられずにいた。
「……」
ハンドルに。
額をつける。
『それだけ?』
美月の声が。
頭から離れない。
何で。
あんなこと聞かれて。
答えられなかった?
美月が。
誰を好きになるか。
知りたい。
理由。
本当に。
ただ。
美月のことを知りたいから?
もし。
美月が。
『好きな人できた』
と言って。
その相手が。
自分じゃない男だったら?
想像する。
美月が。
知らない男の話をしながら。
今日みたいに笑う。
その男のために。
唐揚げを作る。
好きなものを覚える。
その男に。
『一緒にいると楽』
と言われる。
「……」
胸の奥が。
ざわついた。
ものすごく。
面白くない。
「……は?」
自分自身に。
声が出る。
「何で?」
そして。
もう一度。
想像する。
美月が。
誰かに。
『好き』
と言う。
「……嫌だな」
ぽつり。
言ってから。
固まった。
「…………え?」
自分の口から。
出た言葉。
嫌。
美月が。
他の誰かを好きになるのが。
嫌。
「いやいやいや」
陽向は。
一人で。
首を振る。
「待て待て」
相手は。
美月。
紗良の身体にいる女性。
まだ。
出会って。
それほど経っていない。
なのに。
「……俺」
胸に。
手を当てる。
「美月のこと……」
その続きを。
言おうとして。
陽向は。
止めた。
まだ。
認められなかった。
でも。
確実に。
何かが。
変わり始めていた。
陽向から届いたメッセージを見ながら。
私は。
しばらく返信できずにいた。
会いたい。
そう思う。
昨日は。
あんなに悩んでいたのに。
陽向から連絡が来ただけで。
顔が見たいと思ってしまう。
「……これは」
私は。
自分の胸に手を当てた。
「私の気持ち……だよね?」
もちろん。
誰も答えてくれない。
でも。
今までとは。
少しだけ違った。
紗良の記憶が流れ込んできたときの感情は。
もっと。
切ない。
胸を締めつけられるような。
長い年月を積み重ねた。
深い想い。
それに比べて。
今の私の気持ちは。
もっと。
新しい。
陽向から連絡が来た。
嬉しい。
今日会える。
楽しみ。
何を作ろう。
何を話そう。
そんな。
小さくて。
温かい気持ち。
これは。
紗良が抱えていた恋とは。
少し違う。
「……うん」
私は。
ようやく返信した。
『いいよ』
すぐに既読がつく。
『やった!』
そして。
『今日何食べる?』
「……やっぱりご飯なんだ」
思わず笑ってしまった。
『まだ決めてない』
『じゃあ俺肉食いたい』
『この前も肉だったじゃん』
『肉は毎日いける』
『子どもみたい』
『34歳です』
「知ってるよ」
一人。
スマートフォンに向かって笑う。
こういう。
くだらないやり取り。
紗良の記憶には。
ない。
少なくとも。
これは。
今の私と陽向の時間。
そう思えた。
◇◇◇
その日の夕方。
私は。
スーパーに来ていた。
帽子とマスク。
すっかり。
一ノ瀬紗良として外へ出る格好にも慣れてきた。
今夜は。
陽向の希望通り。
肉料理。
「唐揚げにしようかな」
鶏肉を手に取る。
陽向。
絶対喜びそう。
そう思った瞬間。
自然に。
口元が緩んだ。
「……」
私は。
自分で。
少し驚いた。
誰かのために。
料理を考える。
それは。
前の人生でも。
毎日のようにしていた。
子どもたちが喜ぶもの。
夫が好きなもの。
家族が食べられるもの。
でも。
あの頃とは。
少し違う。
今日は。
『作らなきゃ』
じゃない。
陽向が喜ぶ顔を。
見たい。
だから。
作りたい。
「……何か」
小さく笑う。
「全然違うな」
義務ではなく。
自分がしたいからする。
たったそれだけで。
こんなに気持ちが違う。
私は。
鶏肉をカゴに入れた。
そのとき。
近くにいた若い女の子たちの会話が聞こえてきた。
「ねえ、今日ASTERの配信あるよね?」
「ある! 陽向くん出るやつ!」
思わず。
足が止まる。
「陽向くんマジで好き」
「分かる! 彼氏だったら絶対楽しいよね」
「絶対毎日笑わせてくれそう!」
少し前の私なら。
心の中で。
『分かる!』
と。
全力で同意していたと思う。
でも。
今は。
胸の奥に。
小さな違和感。
何だろう。
「……」
その女の子が続ける。
「陽向くんと付き合える人いいなー」
ドクン。
胸が。
少しだけ。
嫌な鳴り方をした。
私は。
その場から。
そっと離れた。
「……今の何?」
別に。
普通のファンの会話。
陽向は。
人気アイドル。
好きだという女性なんて。
何万人。
何十万人といる。
私だって。
その一人だった。
なのに。
――陽向くんと付き合える人いいな。
その言葉が。
妙に。
引っかかった。
「……嫉妬?」
小さく呟く。
まさか。
でも。
考えてみる。
もし。
陽向に。
好きな女性ができたら?
その人の家に。
仕事終わりに行くようになって。
一緒にご飯を食べて。
疲れたら。
その人の前で寝て。
その人に。
『一緒にいると楽』
と言う。
「……嫌だ」
口から。
出ていた。
自分で。
固まる。
「……嫌なの?」
胸に問いかける。
嫌。
だった。
陽向が。
私ではない誰かと。
今みたいな時間を過ごすのを。
想像しただけで。
胸が苦しい。
その瞬間。
頭の奥に。
また。
紗良の日記の言葉が浮かんだ。
――誰かのものにならないで。
「……違う」
私は。
首を振る。
これは。
紗良の気持ち?
また。
分からなくなる。
でも。
今日は。
逃げずに考えることにした。
今。
紗良の記憶が。
何も出てこなかったとしても。
私は。
女の子たちの会話を聞いて。
嫌だった。
だったら。
この感情は。
少なくとも。
私の中にもある。
「……そっか」
私は。
ゆっくり息を吐いた。
少しずつ。
分かってきている。
◇◇◇
夜。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「来た」
自分でも。
分かる。
声が少し弾んでいる。
玄関を開ける。
「ただいまー!」
「また普通にただいまって言う」
「もういいじゃん」
陽向が。
大きな紙袋を持っている。
「何それ?」
「差し入れ」
「また?」
「今日はちゃんと意味ある」
部屋に入り。
陽向が。
紙袋をテーブルへ置く。
「はい」
出てきたのは。
箱。
「……何?」
「開けて」
「私に?」
「うん」
少し。
ドキドキしながら。
箱を開ける。
「……あ!」
中には。
綺麗なチーズケーキ。
「これ……」
「好きなんでしょ?」
陽向が。
得意そうに笑う。
「チーズケーキ」
胸が。
大きく鳴った。
「美月メモ?」
「正解」
「本当に使ってるんだ……」
「言ったじゃん」
「でも」
ケーキを見る。
「わざわざ?」
「今日仕事先の近くに有名な店あったから」
「……」
「美月好きだったなって思って」
それだけ。
それだけなのに。
泣きそうになった。
「……ありがとう」
「お」
陽向が笑う。
「ごめんじゃなくて、ありがとう言えた」
「そこ褒める?」
「成長」
「子ども扱い」
でも。
嬉しい。
本当に。
嬉しい。
私の好きなものを。
覚えていてくれた。
そして。
自分がいない場所で。
私のことを。
思い出してくれた。
その事実が。
ケーキそのものより。
嬉しかった。
「陽向」
「ん?」
「私も」
「?」
「今日、陽向のこと考えたよ」
言ってから。
恥ずかしくなる。
「え?」
陽向が。
目を丸くする。
「何それ」
「唐揚げ」
「唐揚げ?」
「陽向、肉食べたいって言ってたから」
キッチンを指す。
「作った」
陽向の顔が。
一気に明るくなる。
「マジ!?」
「うん」
「やった!!」
その反応。
本当に。
分かりやすい。
私は。
思わず笑う。
この顔が。
見たかった。
そう。
思った。
◇◇◇
「うまっ!」
陽向が。
唐揚げを口に入れた瞬間。
大きな声を出す。
「美月、これマジでうまい!」
「よかった」
「外カリカリ!」
「二度揚げしたから」
「最高!」
「そんな喜ぶ?」
「だってうまい!」
私は。
陽向を見ながら。
笑う。
幸せ。
その言葉が。
自然に。
頭に浮かんだ。
怖くなって。
すぐに消そうとした。
でも。
今日は。
消さなかった。
今。
私は。
幸せ。
それでいい。
「……美月?」
「何?」
「また見てる」
「え?」
「俺のこと」
「……見てない」
「見てた」
「唐揚げ食べてるなって」
「それ見てんじゃん」
陽向が笑う。
「何?」
「……嬉しいだけ」
私は。
今度は。
ちゃんと言った。
「何が?」
「美味しそうに食べてもらえるの」
陽向が。
少しだけ。
目を細める。
「じゃあもっと食う」
「それは意味違う」
「おかわり!」
「早いよ!」
また。
二人で笑う。
◇◇◇
食事を終え。
買ってきてくれたチーズケーキを。
二人で食べる。
「おいしい……!」
思わず。
声が出た。
「そんなに?」
「うん!」
「買ってきてよかった」
陽向が。
本当に嬉しそうに言う。
その顔を見て。
私は。
思う。
私が喜ぶと。
陽向も喜ぶ。
陽向が喜ぶと。
私も嬉しい。
それは。
紗良の恋心を知らなくても。
今。
ここで。
二人の間に生まれた感情。
「……ねえ、陽向」
「ん?」
今日は。
一つ。
聞きたいことがあった。
スーパーで。
女の子たちの話を聞いてから。
ずっと。
気になっていること。
「好きな人」
陽向の手が。
止まった。
「……え?」
「いるの?」
しん。
部屋が。
静かになった。
「急に何?」
「なんとなく」
「なんとなくで聞く?」
「嫌ならいいけど」
「……」
陽向が。
フォークを置いた。
そして。
私を見る。
「何で気になるの?」
心臓が。
ドクン。
そこ。
聞く?
「……ファンとして」
また。
逃げた。
陽向の眉が。
少し上がる。
「便利だな、それ」
「何が?」
「何でもファンで逃げられる」
「逃げてない」
「じゃあ」
陽向が。
少し身を乗り出す。
「俺に好きな人いたらどう思う?」
「……」
今度は。
私が。
答えに詰まる。
本当のこと。
言える?
嫌。
そんなの。
言えるわけがない。
「幸せなら……」
言いかける。
それは。
昔の私。
ファンだった頃の。
模範解答。
陽向が幸せなら。
それでいい。
そう思っていた。
でも。
今。
口にしようとしたら。
胸が苦しくなった。
「……美月?」
「分かんない」
正直に答えた。
「え?」
「前なら」
私は。
フォークを見つめる。
「陽向が幸せならいいって」
「本当に思ってた」
「……」
「好きな人ができても」
「結婚しても」
「幸せならそれでいいって」
陽向は。
何も言わない。
「でも今」
「うん」
「なんか」
言葉を探す。
「素直にそう思えるか」
「……」
「分かんない」
言ってしまった。
顔が。
熱い。
陽向が。
じっと私を見ている。
「……何その顔」
「いや」
「何?」
「それって」
陽向が。
何か言おうとする。
「やっぱいい」
「何!」
「いや」
少し笑う。
でも。
耳が。
赤い。
「陽向?」
「美月は?」
「え?」
突然。
返された。
「好きな人」
心臓が。
止まりそうになる。
「……いない」
反射的に答える。
陽向の顔が。
一瞬。
何か。
微妙な表情をした。
「……そっか」
「何?」
「別に」
「何その反応」
「何でもない」
また。
陽向が逃げる。
でも。
私は。
気づかなかった。
その『いない』に。
陽向が。
ほんの少し。
がっかりしていたことに。
◇◇◇
食後。
テレビを見る。
でも。
私は。
さっきの会話が。
頭から離れなかった。
好きな人。
私は。
いないと言った。
嘘?
いや。
まだ。
分からない。
好き。
そう認めるには。
私は。
怖い。
だって。
私が陽向を好きだと思っても。
その中に。
紗良の気持ちが。
どれくらい混ざっているか。
分からない。
それに。
陽向にとって。
私は。
紗良の身体にいる人。
もし。
私が。
好き。
なんて言ったら。
陽向は。
どう思う?
紗良の想いを利用している。
そう思われたら。
嫌だ。
絶対に。
それだけは。
嫌だった。
「……陽向」
「ん?」
テレビを見たまま。
返事をする。
「もし」
「うん」
「私が」
声が。
少し震える。
「紗良さんの記憶を使って」
「?」
「陽向に近づいたら」
陽向が。
こちらを見る。
「嫌?」
「どういう意味?」
「例えば」
胸の前で。
指を握る。
「紗良さんしか知らないこととか」
「紗良さんが陽向を好きだった気持ちとか」
「そういうのを使って」
「……」
「陽向に好きになってもらおうとしたら」
陽向の顔から。
笑顔が消えた。
「美月」
「うん」
「それするつもりなの?」
「しない!」
すぐに。
答えた。
「絶対しない」
「……」
「だから」
私は。
真っ直ぐ。
陽向を見る。
「ちゃんと決めておきたいの」
「何を?」
「紗良さんの気持ちは」
胸に手を当てる。
「紗良さんのもの」
「……」
「私のものじゃない」
陽向が。
静かに聞いている。
「だから」
「もし私が」
一瞬。
言葉が。
詰まる。
「……誰かを好きになるなら」
『誰か』
陽向のことだと。
きっと。
二人とも分かっている。
でも。
まだ。
名前にはできない。
「高瀬美月として」
私は。
続ける。
「ちゃんと好きになりたい」
「……」
「紗良さんの恋を」
「自分の恋みたいにして」
「誰かを手に入れるのは嫌」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
「……美月って」
「何?」
少し。
困ったように笑う。
「変なとこ真面目だよな」
「変って何」
「いや」
陽向が。
ソファに身体を預ける。
「でも」
私を見る。
「俺は」
「うん」
「美月が美月じゃなくなるとは」
「思ってないよ」
胸が。
跳ねる。
「紗良の記憶があっても」
「……」
「紗良の気持ちが残ってても」
「美月は美月」
また。
その言葉。
「だって」
陽向が笑う。
「紗良、唐揚げ二度揚げとか絶対しないし」
「そこ?」
「美月はする」
「料理で判断するの?」
「あと歌うとめっちゃ楽しそう」
「……」
「褒めたらすぐ顔赤くする」
「それ言わなくていい」
「すぐ謝る」
「最近減った」
「『でも』多い」
「それも減ってる!」
陽向が。
笑う。
私も。
少し笑ってしまう。
「だから」
陽向が。
ほんの少しだけ。
声を落とした。
「俺が見てるのは」
「……」
「ちゃんと美月だよ」
胸が。
痛いくらい。
鳴った。
「……ありがとう」
「うん」
「それ言ってもらえるの」
私は。
ゆっくり息を吐く。
「すごく嬉しい」
「……そっか」
陽向が。
少しだけ。
視線を逸らした。
その横顔が。
なぜか。
照れているように見えた。
◇◇◇
陽向が帰る時間。
玄関まで。
見送る。
「じゃあ」
「うん」
「チーズケーキありがと」
「また美月メモ増やしとく」
「何を?」
「唐揚げ好き」
「それ陽向でしょ?」
「あ、そうだった」
「自分メモ作りなよ」
「じゃ美月が作って」
「何で!」
二人で笑う。
陽向が。
靴を履く。
そして。
ドアを開ける前に。
「美月」
「何?」
「さっき」
少し。
真面目な顔。
「誰かを好きになるなら」
「……うん」
「美月として好きになりたいって言ったじゃん」
心臓が。
一瞬で。
速くなる。
「……言った」
陽向が。
私を見る。
「それ」
「?」
「ちゃんと分かったら」
少し間を置く。
「俺にも教えて」
「……え?」
何を?
誰を好きになったか?
「何で?」
また。
聞いてしまう。
陽向自身も。
一瞬。
答えに困ったようだった。
「……気になるから」
「誰を好きになるか?」
「うん」
「何で?」
「だから!」
陽向が。
少しだけ。
焦ったように笑う。
「俺、美月のこと知りたいって言ったじゃん」
「……それだけ?」
私の口から。
勝手に。
そんな言葉が出た。
陽向が。
固まる。
私も。
固まる。
「……」
「……」
「じゃあな!」
急に。
陽向が。
ドアを開けた。
「ちょっと陽向!」
「仕事早いから!」
「明日休みって言ってたじゃん!」
「あっ」
「嘘下手!」
「じゃ!」
そのまま。
逃げるように。
出ていった。
「……何なの」
閉じたドアを見ながら。
私は。
胸を押さえる。
ドクン。
ドクン。
速い。
今日。
何度。
この音を聞いただろう。
そして。
今の鼓動は。
紗良の記憶とは。
何の関係もない。
「……私だ」
小さく。
呟く。
陽向が。
誰を好きになるのか気になった。
陽向が。
私の好きな人を気にしてくれたのが。
嬉しかった。
陽向に。
ちゃんと美月を見ていると言われて。
胸がいっぱいになった。
これは。
全部。
今日。
高瀬美月として。
陽向と過ごした中で。
生まれた感情。
「……紗良さん」
私は。
自分の胸に手を置いた。
「少しずつ」
「分かってきたかもしれない」
あなたが。
陽向を愛していた気持ちは。
あなたのもの。
そして。
私がこれから。
誰かを好きになるなら。
それは。
私のもの。
この恋だけは。
誰かからもらったものじゃなく。
自分自身の心で。
見つけたい。
そう思った。
◇◇◇
その頃。
マンションを出た陽向は。
車に乗ったものの。
すぐにはエンジンをかけられずにいた。
「……」
ハンドルに。
額をつける。
『それだけ?』
美月の声が。
頭から離れない。
何で。
あんなこと聞かれて。
答えられなかった?
美月が。
誰を好きになるか。
知りたい。
理由。
本当に。
ただ。
美月のことを知りたいから?
もし。
美月が。
『好きな人できた』
と言って。
その相手が。
自分じゃない男だったら?
想像する。
美月が。
知らない男の話をしながら。
今日みたいに笑う。
その男のために。
唐揚げを作る。
好きなものを覚える。
その男に。
『一緒にいると楽』
と言われる。
「……」
胸の奥が。
ざわついた。
ものすごく。
面白くない。
「……は?」
自分自身に。
声が出る。
「何で?」
そして。
もう一度。
想像する。
美月が。
誰かに。
『好き』
と言う。
「……嫌だな」
ぽつり。
言ってから。
固まった。
「…………え?」
自分の口から。
出た言葉。
嫌。
美月が。
他の誰かを好きになるのが。
嫌。
「いやいやいや」
陽向は。
一人で。
首を振る。
「待て待て」
相手は。
美月。
紗良の身体にいる女性。
まだ。
出会って。
それほど経っていない。
なのに。
「……俺」
胸に。
手を当てる。
「美月のこと……」
その続きを。
言おうとして。
陽向は。
止めた。
まだ。
認められなかった。
でも。
確実に。
何かが。
変わり始めていた。



