「……本当に行くの?」
「ここまで来て何言ってんの?」
陽向が呆れたように笑う。
目の前には。
都内の会員制カラオケ店。
芸能人もよく利用するらしく。
普通のカラオケ店とは違って。
入口からして。
妙に高級感がある。
そして。
私は。
その入口の前で。
完全に足が止まっていた。
「だって……」
「何?」
「陽向とカラオケだよ?」
「うん」
「天城陽向と!」
「俺だけど」
「トップアイドルと!」
「それも俺」
「プロの歌手の前で歌えって!」
「昨日からそれしか言ってないじゃん」
「普通無理でしょ!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あははっ! 美月、顔めっちゃ必死!」
「笑い事じゃない!」
「俺、美月が歌うの楽しみにしてたんだけど」
「余計プレッシャー!」
逃げようか。
本気で考える。
だって。
私は昔から歌うことが好きだった。
家でも。
車でも。
カラオケでも。
よく歌った。
でも。
それと。
プロのアイドル。
しかも。
十年以上推してきた本人の前で歌うのは。
まったく別の話だ。
「帰る?」
陽向が聞く。
「……」
少し迷う。
でも。
歌いたい。
陽向が。
『美月の好きなこと、もう一回探せばいい』
と言ってくれた。
そして。
最初に思い浮かんだものが。
歌だった。
「……行く」
私は。
小さく答えた。
「よし」
陽向が笑う。
「じゃ、行こうぜ」
「でも笑ったら帰るからね」
「笑わないって」
「下手とか言わない?」
「言わない」
「点数低くても?」
「採点やる気満々じゃん」
「……あ」
陽向がまた笑う。
「ほら、行きたいんじゃん」
「もう!」
◇◇◇
部屋に入って。
私は。
もう一度固まった。
広い。
ソファも大きい。
巨大なモニター。
そして。
ちゃんとしたマイク。
「すご……」
「ここ結構来るよ」
「ASTERで?」
「メンバーとも来るし、一人でも」
「一人カラオケするの?」
「するよ」
意外。
「何歌うの?」
「アニソン」
即答。
「ASTERじゃないんだ」
「自分の曲一人で歌ってどうすんの」
「確かに」
陽向が。
リモコンを私に渡す。
「はい」
「え?」
「一曲目」
「私から!?」
「当然」
「陽向から歌ってよ!」
「今日は美月が歌いたいって言ったから来たんでしょ」
「でも!」
また。
この言葉。
陽向がニヤッとする。
「禁止」
「……」
ずるい。
私は。
リモコンを見る。
何を歌おう。
いつもなら。
迷わないのに。
今日だけは。
何を選んでも。
陽向が隣にいる。
手が震える。
「美月」
「何?」
「別にオーディションじゃないよ」
「分かってる」
「俺に上手いって思われなきゃいけないわけでもない」
「……」
「美月が歌いたいやつ入れれば?」
その言葉で。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「……じゃあ」
私は。
昔から好きだった曲を入れる。
イントロが流れる。
「お」
陽向が反応する。
「これ好きなんだ?」
「うん」
「俺も知ってる」
「絶対歌わないでね」
「え!?」
「緊張するから!」
「じゃあ黙って聴きます」
陽向が。
妙に姿勢を正す。
「それも緊張する!」
「どうしろっていうんだよ!」
笑ってしまった。
その笑いで。
少しだけ。
緊張が解けた。
そして。
前奏が終わる。
私は。
息を吸った。
◇◇◇
歌い始めた瞬間。
不思議だった。
あれだけ。
陽向のことを意識していたのに。
曲の中に入ると。
だんだん。
周りが気にならなくなっていった。
歌う。
ただ。
歌う。
久しぶりだった。
子どもたちが生まれてから。
一人で思い切り歌える時間なんて。
ほとんどなかった。
家では。
誰かがいる。
カラオケに行っても。
子どもの曲を入れたり。
子どもが歌うのを聞いたり。
もちろん。
それも楽しかった。
でも。
自分が。
自分のためだけに。
一曲を歌う。
そんな時間。
いつ以来だろう。
声を出すたび。
胸の中に溜まっていたものまで。
少しずつ。
外へ出ていく気がした。
そして。
最後の一音。
曲が終わった。
「……」
静か。
私は。
恐る恐る。
陽向を見る。
「……何?」
陽向が。
じっとこちらを見ていた。
「陽向?」
「……え」
「何その顔!」
「いや」
陽向が。
ようやく瞬きをする。
「美月」
「何?」
「歌うまくない?」
「……え?」
想像していなかった。
「本当に?」
「いや、普通に」
陽向が身体を起こす。
「上手いよ」
「……」
「声いいし」
「……」
「音程も安定してるし」
「……」
「あと」
少し考える。
「歌い方にちゃんと感情ある」
プロに。
褒められている。
天城陽向に。
歌を。
褒められている。
「……無理」
私は。
両手で顔を覆った。
「何が!?」
「嬉しすぎる」
「そんなに?」
「だって!」
顔を上げる。
「私、十年以上陽向の歌聴いてきたんだよ!?」
「うん」
「その陽向に歌褒められてる!」
「……ああ」
陽向が。
納得したように笑う。
「またファンになった」
「今日は許して!」
「いいけど」
「本当に上手かった?」
「だから上手いって」
「お世辞じゃない?」
「俺、歌で適当なこと言わないよ」
その一言で。
また。
胸がいっぱいになる。
「……そっか」
「うん」
「嬉しい」
今度は。
ちゃんと言えた。
嬉しい。
陽向が。
少し笑った。
「その顔」
「何?」
「いいね」
「え?」
「なんか」
陽向が。
私を見る。
「美月が本当に好きなことやってる顔」
胸が。
少しだけ鳴った。
◇◇◇
「次、陽向!」
「はいはい」
マイクを渡す。
陽向が曲を入れる。
イントロが流れた瞬間。
私は。
目を見開いた。
「これ!」
「知ってる?」
「知ってるどころじゃない!」
ASTERの曲。
しかも。
私が好きな。
少し前のアルバム曲。
「これ選ぶの!?」
「美月好きって言ってたじゃん」
「覚えてたの?」
「俺、美月メモあるから」
「まだ使ってるの!?」
「もちろん」
そして。
陽向が。
歌い始めた。
「……」
無理。
これは。
無理。
さっきまで。
家で。
普通に朝ご飯を作ったり。
玉ねぎを大きく切ったり。
ソファで寝たりする人だと思っていたのに。
マイクを持った瞬間。
全部。
変わる。
歌声。
表情。
リズムの取り方。
ステージではない。
観客も。
私一人。
なのに。
完全に。
天城陽向だった。
「……かっこいい」
小さく。
呟く。
こんなの。
好きにならないほうが。
無理じゃない?
ファンだった頃から。
ずっと好きだった。
でも。
今は。
それとは違う。
画面の中の陽向ではない。
すぐ隣で。
私のために。
私の好きな曲を歌っている。
その事実が。
心臓に悪すぎる。
曲が終わる。
「どう?」
陽向が笑う。
「……無理」
「また!?」
「かっこよすぎる」
口から。
そのまま出た。
陽向が。
一瞬。
固まった。
「……」
私も。
数秒遅れて気づく。
「……あ」
「美月」
「ファンとして!」
また。
いつもの言い訳。
陽向が。
少しだけ笑う。
「毎回それ言うよな」
「本当だから!」
「はいはい」
「信じてない!」
でも。
陽向の耳が。
少しだけ赤い。
気のせい?
◇◇◇
そこからは。
最初の緊張が嘘みたいだった。
歌う。
陽向が盛り上げる。
陽向が歌う。
私が盛り上がる。
アニソン。
昔のJ-POP。
ASTER。
デュエット曲まで。
「ちょっと待って!」
私は笑う。
「陽向、ハモリ勝手に入れないで!」
「いいじゃん!」
「私、つられる!」
「つられんな!」
「プロと一緒にしないで!」
「あはははっ!」
歌って。
笑って。
また歌う。
気づけば。
三時間以上経っていた。
「……楽しい」
ソファに身体を預けて。
自然と。
言葉が出た。
陽向が。
隣を見る。
「楽しかった?」
「うん」
私は。
笑った。
「すごく」
「そっか」
陽向も。
嬉しそうに笑う。
「よかった」
「……ありがとう」
「何が?」
「連れてきてくれて」
「美月が来たいって言ったじゃん」
「でも」
「今日はその『でも』いいや」
「何それ」
二人で笑う。
私は。
マイクを見た。
「歌うの」
「うん」
「やっぱり好きだった」
「……うん」
「忘れてた」
声が。
少しだけ。
小さくなる。
「自分がこんなに好きだったこと」
陽向は。
何も言わない。
「子どもたちがいたから嫌だったとかじゃないよ」
「分かってる」
すぐに言われる。
「子どもといる時間も」
「幸せだった」
「うん」
「でも」
私は。
自分の手を見る。
「私」
「母親になる前に」
「ちゃんと美月だったんだなって」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「当たり前じゃん」
「……」
「母親でも」
「妻でも」
「誰かの嫁でも」
陽向が言う。
「その前に美月でしょ」
胸の奥が。
熱くなる。
「それ」
「?」
「昔の私に聞かせたかった」
「じゃあ今聞いとけばいいじゃん」
「今?」
「うん」
陽向が。
私の胸のあたりを指差す。
「昔の美月も中にいるんでしょ?」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何、その言い方」
「伝わっただろ?」
「うん」
私は。
目を閉じる。
昔の私。
毎日。
誰かのために動いて。
子どものことを考えて。
家族のことを考えて。
自分の好きなものを。
少しずつ。
忘れていった私。
あの頃の私に。
言いたい。
歌いたいなら。
歌っていい。
楽しいなら。
笑っていい。
自分のための時間を持ったって。
母親失格にはならない。
「……うん」
小さく。
頷いた。
「今度から」
「?」
「もっと歌う」
「いいじゃん」
「いろんなことする」
「うん」
「私が好きだったこと」
「探したい」
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「一緒に探そうぜ」
その言葉に。
私は。
顔を上げた。
「……一緒に?」
「うん」
「なんで陽向が?」
また。
聞いてしまった。
陽向が。
一瞬だけ。
答えに詰まる。
「……俺も」
「?」
「美月が何好きなのか」
少し視線を逸らす。
「知りたいから」
まただ。
胸が。
大きく鳴る。
「……そっか」
それ以上。
何も言えなかった。
◇◇◇
帰りの車。
私は。
助手席で。
カラオケで録った採点画面の写真を見ていた。
「九十五点」
「高いじゃん」
「陽向九十八点だった」
「プロだから」
「ずるい」
「何がずるいんだよ」
「私も九十八欲しい」
「じゃあ練習する?」
「教えてくれるの?」
「いいよ」
「本当に!?」
思わず。
身体ごと陽向へ向く。
「危ない危ない、運転中!」
「あ、ごめん」
でも。
嬉しい。
「歌、教えてくれる?」
「俺でよければ」
「やった!」
両手を握る。
陽向が。
横目で私を見る。
そして。
少しだけ。
笑った。
「……美月」
「何?」
「今日」
「?」
「一番楽しそうだった」
「……そう?」
「うん」
「ずっと笑ってた」
自分では。
気づかなかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
窓の外を見る。
流れていく街の明かり。
「今日の私」
「好きかも」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
ほんの少し。
止まった。
「……え?」
「自分のこと」
私は笑う。
「今日の自分」
「なんか好き」
歌って。
笑って。
好きなことをして。
誰かのためじゃなく。
自分のために楽しんだ。
そんな自分を。
初めて。
好きだと思えた。
「……そっか」
陽向が。
前を見ながら。
小さく笑う。
「いいじゃん」
「うん」
そして。
しばらくして。
陽向が。
本当に小さな声で。
呟いた。
「俺も」
「え?」
聞こえた気がして。
振り返る。
「何?」
陽向は。
前を向いたまま。
「何でもない」
「またそれ!」
「いいの!」
「ずるい!」
陽向が笑う。
私も笑った。
そのときの私は。
『俺も』
の続きが。
何だったのか。
知らなかった。
陽向自身も。
まだ。
はっきりとは。
分かっていなかったのかもしれない。
ただ。
今日一日。
歌って。
笑って。
目を輝かせていた美月を見ながら。
何度も。
思ってしまった。
――可愛い。
紗良に対して。
そんなふうに思ったことは。
ほとんどなかった。
大切だった。
失いたくなかった。
家族みたいな存在だった。
でも。
美月が。
楽しそうに笑うと。
もっと笑わせたくなる。
美月が。
嬉しそうにすると。
自分まで嬉しくなる。
そして。
美月が言った。
『今日の自分、好きかも』
その瞬間。
陽向の胸に浮かんだ言葉は。
確かに。
これだった。
――俺も。
今日の美月。
すげえ好き。
でも。
まだ。
その『好き』が。
何を意味するのか。
陽向は。
知らないふりをしていた。
「ここまで来て何言ってんの?」
陽向が呆れたように笑う。
目の前には。
都内の会員制カラオケ店。
芸能人もよく利用するらしく。
普通のカラオケ店とは違って。
入口からして。
妙に高級感がある。
そして。
私は。
その入口の前で。
完全に足が止まっていた。
「だって……」
「何?」
「陽向とカラオケだよ?」
「うん」
「天城陽向と!」
「俺だけど」
「トップアイドルと!」
「それも俺」
「プロの歌手の前で歌えって!」
「昨日からそれしか言ってないじゃん」
「普通無理でしょ!」
陽向が。
声を上げて笑う。
「あははっ! 美月、顔めっちゃ必死!」
「笑い事じゃない!」
「俺、美月が歌うの楽しみにしてたんだけど」
「余計プレッシャー!」
逃げようか。
本気で考える。
だって。
私は昔から歌うことが好きだった。
家でも。
車でも。
カラオケでも。
よく歌った。
でも。
それと。
プロのアイドル。
しかも。
十年以上推してきた本人の前で歌うのは。
まったく別の話だ。
「帰る?」
陽向が聞く。
「……」
少し迷う。
でも。
歌いたい。
陽向が。
『美月の好きなこと、もう一回探せばいい』
と言ってくれた。
そして。
最初に思い浮かんだものが。
歌だった。
「……行く」
私は。
小さく答えた。
「よし」
陽向が笑う。
「じゃ、行こうぜ」
「でも笑ったら帰るからね」
「笑わないって」
「下手とか言わない?」
「言わない」
「点数低くても?」
「採点やる気満々じゃん」
「……あ」
陽向がまた笑う。
「ほら、行きたいんじゃん」
「もう!」
◇◇◇
部屋に入って。
私は。
もう一度固まった。
広い。
ソファも大きい。
巨大なモニター。
そして。
ちゃんとしたマイク。
「すご……」
「ここ結構来るよ」
「ASTERで?」
「メンバーとも来るし、一人でも」
「一人カラオケするの?」
「するよ」
意外。
「何歌うの?」
「アニソン」
即答。
「ASTERじゃないんだ」
「自分の曲一人で歌ってどうすんの」
「確かに」
陽向が。
リモコンを私に渡す。
「はい」
「え?」
「一曲目」
「私から!?」
「当然」
「陽向から歌ってよ!」
「今日は美月が歌いたいって言ったから来たんでしょ」
「でも!」
また。
この言葉。
陽向がニヤッとする。
「禁止」
「……」
ずるい。
私は。
リモコンを見る。
何を歌おう。
いつもなら。
迷わないのに。
今日だけは。
何を選んでも。
陽向が隣にいる。
手が震える。
「美月」
「何?」
「別にオーディションじゃないよ」
「分かってる」
「俺に上手いって思われなきゃいけないわけでもない」
「……」
「美月が歌いたいやつ入れれば?」
その言葉で。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「……じゃあ」
私は。
昔から好きだった曲を入れる。
イントロが流れる。
「お」
陽向が反応する。
「これ好きなんだ?」
「うん」
「俺も知ってる」
「絶対歌わないでね」
「え!?」
「緊張するから!」
「じゃあ黙って聴きます」
陽向が。
妙に姿勢を正す。
「それも緊張する!」
「どうしろっていうんだよ!」
笑ってしまった。
その笑いで。
少しだけ。
緊張が解けた。
そして。
前奏が終わる。
私は。
息を吸った。
◇◇◇
歌い始めた瞬間。
不思議だった。
あれだけ。
陽向のことを意識していたのに。
曲の中に入ると。
だんだん。
周りが気にならなくなっていった。
歌う。
ただ。
歌う。
久しぶりだった。
子どもたちが生まれてから。
一人で思い切り歌える時間なんて。
ほとんどなかった。
家では。
誰かがいる。
カラオケに行っても。
子どもの曲を入れたり。
子どもが歌うのを聞いたり。
もちろん。
それも楽しかった。
でも。
自分が。
自分のためだけに。
一曲を歌う。
そんな時間。
いつ以来だろう。
声を出すたび。
胸の中に溜まっていたものまで。
少しずつ。
外へ出ていく気がした。
そして。
最後の一音。
曲が終わった。
「……」
静か。
私は。
恐る恐る。
陽向を見る。
「……何?」
陽向が。
じっとこちらを見ていた。
「陽向?」
「……え」
「何その顔!」
「いや」
陽向が。
ようやく瞬きをする。
「美月」
「何?」
「歌うまくない?」
「……え?」
想像していなかった。
「本当に?」
「いや、普通に」
陽向が身体を起こす。
「上手いよ」
「……」
「声いいし」
「……」
「音程も安定してるし」
「……」
「あと」
少し考える。
「歌い方にちゃんと感情ある」
プロに。
褒められている。
天城陽向に。
歌を。
褒められている。
「……無理」
私は。
両手で顔を覆った。
「何が!?」
「嬉しすぎる」
「そんなに?」
「だって!」
顔を上げる。
「私、十年以上陽向の歌聴いてきたんだよ!?」
「うん」
「その陽向に歌褒められてる!」
「……ああ」
陽向が。
納得したように笑う。
「またファンになった」
「今日は許して!」
「いいけど」
「本当に上手かった?」
「だから上手いって」
「お世辞じゃない?」
「俺、歌で適当なこと言わないよ」
その一言で。
また。
胸がいっぱいになる。
「……そっか」
「うん」
「嬉しい」
今度は。
ちゃんと言えた。
嬉しい。
陽向が。
少し笑った。
「その顔」
「何?」
「いいね」
「え?」
「なんか」
陽向が。
私を見る。
「美月が本当に好きなことやってる顔」
胸が。
少しだけ鳴った。
◇◇◇
「次、陽向!」
「はいはい」
マイクを渡す。
陽向が曲を入れる。
イントロが流れた瞬間。
私は。
目を見開いた。
「これ!」
「知ってる?」
「知ってるどころじゃない!」
ASTERの曲。
しかも。
私が好きな。
少し前のアルバム曲。
「これ選ぶの!?」
「美月好きって言ってたじゃん」
「覚えてたの?」
「俺、美月メモあるから」
「まだ使ってるの!?」
「もちろん」
そして。
陽向が。
歌い始めた。
「……」
無理。
これは。
無理。
さっきまで。
家で。
普通に朝ご飯を作ったり。
玉ねぎを大きく切ったり。
ソファで寝たりする人だと思っていたのに。
マイクを持った瞬間。
全部。
変わる。
歌声。
表情。
リズムの取り方。
ステージではない。
観客も。
私一人。
なのに。
完全に。
天城陽向だった。
「……かっこいい」
小さく。
呟く。
こんなの。
好きにならないほうが。
無理じゃない?
ファンだった頃から。
ずっと好きだった。
でも。
今は。
それとは違う。
画面の中の陽向ではない。
すぐ隣で。
私のために。
私の好きな曲を歌っている。
その事実が。
心臓に悪すぎる。
曲が終わる。
「どう?」
陽向が笑う。
「……無理」
「また!?」
「かっこよすぎる」
口から。
そのまま出た。
陽向が。
一瞬。
固まった。
「……」
私も。
数秒遅れて気づく。
「……あ」
「美月」
「ファンとして!」
また。
いつもの言い訳。
陽向が。
少しだけ笑う。
「毎回それ言うよな」
「本当だから!」
「はいはい」
「信じてない!」
でも。
陽向の耳が。
少しだけ赤い。
気のせい?
◇◇◇
そこからは。
最初の緊張が嘘みたいだった。
歌う。
陽向が盛り上げる。
陽向が歌う。
私が盛り上がる。
アニソン。
昔のJ-POP。
ASTER。
デュエット曲まで。
「ちょっと待って!」
私は笑う。
「陽向、ハモリ勝手に入れないで!」
「いいじゃん!」
「私、つられる!」
「つられんな!」
「プロと一緒にしないで!」
「あはははっ!」
歌って。
笑って。
また歌う。
気づけば。
三時間以上経っていた。
「……楽しい」
ソファに身体を預けて。
自然と。
言葉が出た。
陽向が。
隣を見る。
「楽しかった?」
「うん」
私は。
笑った。
「すごく」
「そっか」
陽向も。
嬉しそうに笑う。
「よかった」
「……ありがとう」
「何が?」
「連れてきてくれて」
「美月が来たいって言ったじゃん」
「でも」
「今日はその『でも』いいや」
「何それ」
二人で笑う。
私は。
マイクを見た。
「歌うの」
「うん」
「やっぱり好きだった」
「……うん」
「忘れてた」
声が。
少しだけ。
小さくなる。
「自分がこんなに好きだったこと」
陽向は。
何も言わない。
「子どもたちがいたから嫌だったとかじゃないよ」
「分かってる」
すぐに言われる。
「子どもといる時間も」
「幸せだった」
「うん」
「でも」
私は。
自分の手を見る。
「私」
「母親になる前に」
「ちゃんと美月だったんだなって」
陽向の表情が。
柔らかくなる。
「当たり前じゃん」
「……」
「母親でも」
「妻でも」
「誰かの嫁でも」
陽向が言う。
「その前に美月でしょ」
胸の奥が。
熱くなる。
「それ」
「?」
「昔の私に聞かせたかった」
「じゃあ今聞いとけばいいじゃん」
「今?」
「うん」
陽向が。
私の胸のあたりを指差す。
「昔の美月も中にいるんでしょ?」
「……」
思わず。
笑ってしまった。
「何、その言い方」
「伝わっただろ?」
「うん」
私は。
目を閉じる。
昔の私。
毎日。
誰かのために動いて。
子どものことを考えて。
家族のことを考えて。
自分の好きなものを。
少しずつ。
忘れていった私。
あの頃の私に。
言いたい。
歌いたいなら。
歌っていい。
楽しいなら。
笑っていい。
自分のための時間を持ったって。
母親失格にはならない。
「……うん」
小さく。
頷いた。
「今度から」
「?」
「もっと歌う」
「いいじゃん」
「いろんなことする」
「うん」
「私が好きだったこと」
「探したい」
陽向が。
嬉しそうに笑った。
「一緒に探そうぜ」
その言葉に。
私は。
顔を上げた。
「……一緒に?」
「うん」
「なんで陽向が?」
また。
聞いてしまった。
陽向が。
一瞬だけ。
答えに詰まる。
「……俺も」
「?」
「美月が何好きなのか」
少し視線を逸らす。
「知りたいから」
まただ。
胸が。
大きく鳴る。
「……そっか」
それ以上。
何も言えなかった。
◇◇◇
帰りの車。
私は。
助手席で。
カラオケで録った採点画面の写真を見ていた。
「九十五点」
「高いじゃん」
「陽向九十八点だった」
「プロだから」
「ずるい」
「何がずるいんだよ」
「私も九十八欲しい」
「じゃあ練習する?」
「教えてくれるの?」
「いいよ」
「本当に!?」
思わず。
身体ごと陽向へ向く。
「危ない危ない、運転中!」
「あ、ごめん」
でも。
嬉しい。
「歌、教えてくれる?」
「俺でよければ」
「やった!」
両手を握る。
陽向が。
横目で私を見る。
そして。
少しだけ。
笑った。
「……美月」
「何?」
「今日」
「?」
「一番楽しそうだった」
「……そう?」
「うん」
「ずっと笑ってた」
自分では。
気づかなかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
窓の外を見る。
流れていく街の明かり。
「今日の私」
「好きかも」
陽向の手が。
ハンドルの上で。
ほんの少し。
止まった。
「……え?」
「自分のこと」
私は笑う。
「今日の自分」
「なんか好き」
歌って。
笑って。
好きなことをして。
誰かのためじゃなく。
自分のために楽しんだ。
そんな自分を。
初めて。
好きだと思えた。
「……そっか」
陽向が。
前を見ながら。
小さく笑う。
「いいじゃん」
「うん」
そして。
しばらくして。
陽向が。
本当に小さな声で。
呟いた。
「俺も」
「え?」
聞こえた気がして。
振り返る。
「何?」
陽向は。
前を向いたまま。
「何でもない」
「またそれ!」
「いいの!」
「ずるい!」
陽向が笑う。
私も笑った。
そのときの私は。
『俺も』
の続きが。
何だったのか。
知らなかった。
陽向自身も。
まだ。
はっきりとは。
分かっていなかったのかもしれない。
ただ。
今日一日。
歌って。
笑って。
目を輝かせていた美月を見ながら。
何度も。
思ってしまった。
――可愛い。
紗良に対して。
そんなふうに思ったことは。
ほとんどなかった。
大切だった。
失いたくなかった。
家族みたいな存在だった。
でも。
美月が。
楽しそうに笑うと。
もっと笑わせたくなる。
美月が。
嬉しそうにすると。
自分まで嬉しくなる。
そして。
美月が言った。
『今日の自分、好きかも』
その瞬間。
陽向の胸に浮かんだ言葉は。
確かに。
これだった。
――俺も。
今日の美月。
すげえ好き。
でも。
まだ。
その『好き』が。
何を意味するのか。
陽向は。
知らないふりをしていた。



