翌朝。
私はソファの上で目を覚ました。
「……あれ?」
ぼんやりと目を開ける。
テレビは消えている。
カーテンの隙間から。
朝の光が差し込んでいた。
どうやら。
陽向が寝ているのを見ているうちに。
私まで眠ってしまったらしい。
「……陽向?」
隣を見る。
いない。
毛布だけが。
綺麗に畳まれて置かれている。
帰った?
そう思った瞬間。
キッチンから。
ガタンッ!
大きな音がした。
「!?」
私は慌てて立ち上がる。
「陽向!?」
キッチンへ行くと。
「……おはよ」
そこには。
ものすごく気まずそうな顔をした陽向がいた。
「何してるの?」
「朝飯」
「……朝ご飯?」
「うん」
見る。
フライパン。
卵。
食パン。
そして。
床には。
落としたらしい菜箸。
「作れるの?」
「目玉焼きくらい作れる!」
「玉ねぎ、あんな切り方だったのに?」
「まだ言う!?」
思わず笑ってしまう。
「だって」
「今日は俺が作る」
陽向が。
妙に自信満々に言った。
「美月、いつも作ってくれるから」
「……」
一瞬。
言葉が出なかった。
「どうした?」
「いや……」
「何?」
「作ってくれるの?」
「だからそう言ってんじゃん」
陽向は。
当たり前のように返す。
「座ってて」
「でも」
言いかける。
陽向の眉が上がった。
「あ」
私は自分で口を押さえる。
「今『でも』って言った」
「言ったな」
「……座ってます」
「よろしい」
笑いながら。
私はダイニングの椅子に座った。
◇◇◇
しばらくすると。
テーブルに。
目玉焼き。
焼いた食パン。
ウインナー。
そして。
コーヒーが並んだ。
「おお……」
「何その反応」
「ちゃんと朝ご飯になってる」
「俺を何だと思ってんの?」
「玉ねぎを巨大に切る人」
「美月!」
私は笑いながら。
手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
目玉焼きを一口。
「……」
「どう?」
陽向が。
少しだけ緊張した顔をしている。
なんだか。
可愛い。
「美味しい」
「マジ?」
ぱっと。
顔が明るくなる。
「うん」
「よかったー!」
その反応を見て。
私は。
ふと思った。
ああ。
陽向も。
同じなんだ。
自分が作ったものを。
誰かが喜んでくれたら。
嬉しい。
「……何?」
「ううん」
「また変な顔してる」
「陽向も」
「何?」
「褒められると嬉しいんだなって」
「そりゃ嬉しいでしょ」
「……そうだよね」
私は。
もう一口食べる。
今まで。
誰かのために。
何かをすることのほうが多かった。
作る側。
用意する側。
気を配る側。
それが。
当たり前だった。
でも今。
私のために。
誰かが朝ご飯を作っている。
それだけなのに。
なんだか。
胸が温かかった。
◇◇◇
「そういえばさ」
朝食を食べながら。
陽向が突然言った。
「何?」
「俺、美月のこと全然知らないよな」
手が止まる。
「……え?」
「考えたら」
陽向は。
指を折り始める。
「三十四歳」
「うん」
「子ども五人」
「うん」
「長女が星ちゃん」
「うん」
「料理できる」
「まあ普通に」
「俺のオタク」
「言い方!」
「合ってるじゃん」
「ファンって言って!」
陽向が笑う。
でも。
すぐに。
少し真面目な顔になった。
「それくらい」
「……」
「俺」
「美月のこと」
「全然知らない」
胸が。
小さく鳴った。
「紗良のことは」
陽向が続ける。
「三十四年分知ってる」
「……うん」
「何好きとか」
「何嫌いとか」
「機嫌悪いときどうなるとか」
「昔どんな子だったとか」
少し。
寂しくなる。
当然。
私と陽向は。
出会ったばかりだから。
でも。
陽向は。
私を見て言った。
「だからさ」
「?」
「教えてよ」
「……何を?」
「美月のこと」
息が止まった。
「私?」
「うん」
「……何で?」
聞いた瞬間。
陽向が。
不思議そうな顔をした。
「何でって」
一度。
考える。
そして。
「知りたいから」
そう答えた。
胸が。
ドクン。
「……」
「美月?」
「何でもない」
「顔赤いけど」
「朝だから!」
「朝って顔赤くなる時間だっけ?」
「なるの!」
意味の分からないことを言って。
コーヒーを飲む。
熱い。
さらに顔が熱くなる。
「じゃあ」
陽向が楽しそうに笑う。
「質問大会」
「嫌な予感する」
「好きな食べ物」
「急だね」
「はい、答えて」
私は少し考える。
「……甘いもの」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでよ」
「もっと具体的に」
「プリンとか」
「それも知ってる」
「ケーキ」
「何ケーキ?」
「チーズケーキ」
陽向が。
何かを覚えるように頷く。
「チーズケーキ」
「何で復唱するの?」
「覚えてる」
「……」
また。
胸が変な音を立てる。
「次」
「まだあるの?」
「好きな色」
「……ピンク」
陽向が。
ニヤッとする。
「俺じゃん」
「違う!」
「俺のメンバーカラー」
「昔から好きなの!」
「はいはい」
「本当に!」
陽向が。
楽しそうに笑う。
「じゃあ好きな音楽」
「ASTER」
「それ以外!」
「えー」
私は笑う。
「J-POPは結構いろいろ聴くよ」
「カラオケ行く?」
「好き」
「歌うの?」
「歌うよ」
「へえ!」
陽向の目が。
急に輝いた。
「何歌う?」
「それは……いろいろ」
「今度歌って」
「嫌!」
「何で!?」
「プロの前で歌えるわけないでしょ!」
「俺アイドルだから!」
「プロでしょ!」
「美月が俺の曲歌ってるとこ見たい」
「絶対嫌!」
「じゃあ今度カラオケ」
「勝手に決めないで!」
また。
二人で笑う。
「じゃ」
陽向が続ける。
「趣味」
「趣味……」
少し。
考える。
何だろう。
子どもが生まれてから。
自分の趣味を聞かれることなんて。
ほとんどなかった。
何が好き?
何がしたい?
そんなことを。
いつから考えなくなったんだろう。
「……分かんない」
「え?」
「趣味」
陽向の顔を見る。
「前はあったんだと思うけど」
「……」
「子どもができてから」
少し笑う。
「自分が何したいかより」
「子どもが何したいか考えることのほうが増えたから」
陽向の表情が変わる。
「だから」
「自分が何好きだったのか」
「よく分かんなくなっちゃった」
言ってから。
少し寂しくなる。
母親になったことを。
後悔しているわけじゃない。
子どもたちと過ごした時間は。
大切だった。
でも。
高瀬美月個人としての好きなもの。
やりたいこと。
それは。
どんどん後回しになっていた。
「……じゃあさ」
陽向が言った。
「今から探せば?」
「え?」
「美月が好きなもの」
「……」
「もう一回」
「探す?」
「うん」
陽向が。
本当に簡単なことみたいに。
言う。
「今まで子ども優先だったなら」
「今度は」
私を指差す。
「美月の好きなこと」
「やればいいじゃん」
胸が。
きゅっとなる。
「でも」
「禁止」
「あ……」
陽向が笑う。
「子ども大事だったんでしょ?」
「うん」
「それはそのままでいいじゃん」
「……」
「星ちゃんたちのこと忘れろなんて言ってない」
「うん」
「会いたいなら会いに行く方法も考える」
「……うん」
「でも」
陽向が。
少しだけ真剣な顔になる。
「美月が生きてる時間まで」
「全部」
「前の人生に置いてこなくてもよくない?」
言葉が。
胸の奥に。
ゆっくりと入ってくる。
子どもたちを。
忘れるわけじゃない。
母親だった私を。
捨てるわけじゃない。
それでも。
今の私にも。
好きなものを探して。
楽しいと思って。
生きていい。
「……いいのかな」
思わず聞いた。
「誰に許可取ってんの?」
「え?」
「美月の人生でしょ?」
陽向が笑う。
「美月が決めればいいじゃん」
まただ。
どうしたい?
陽向は。
いつも。
私に返してくる。
「……じゃあ」
私は。
少し考えた。
「いっぱい歌いたい」
「歌?」
「うん」
「カラオケ?」
「それも」
少しだけ。
笑う。
「昔から歌うの好きだったの」
「マジ?」
「でも」
「うん」
「家だと、なかなか好きなだけ歌えなかったし」
「……」
「子どもが小さいと行く機会も減るし」
「じゃあ決定」
陽向が。
スマートフォンを手に取る。
「何が?」
「カラオケ」
「え?」
「次の休み行こう」
「ちょっと待って!」
「美月が歌いたいって言ったじゃん」
「陽向と行くとは言ってない!」
「俺も行きたい」
「それは……」
断る理由が。
見つからない。
行きたい。
本当は。
ちょっと。
いや。
かなり。
「……行きたい」
小さく言った。
陽向の目が。
嬉しそうに細くなる。
「じゃあ決まり」
「……うん」
言ってから。
私も。
少し笑った。
◇◇◇
「あと」
陽向が。
スマートフォンに何か入力する。
「何してるの?」
「美月メモ」
「……何それ」
「美月の好きなもん」
画面を見せられる。
そこには。
『チーズケーキ』
『ピンク』
『歌』
『カラオケ』
と。
書かれていた。
「ちょっと!」
恥ずかしい。
「消して!」
「何で?」
「何でメモするの!」
「忘れたくないから」
あまりにも。
普通の声で。
言われた。
「……」
何も。
返せなくなる。
忘れたくない。
私の好きなものを。
「陽向」
「ん?」
「……そんなの」
喉が詰まる。
「誰かに覚えてもらったこと」
「ないの?」
陽向が聞く。
「ないわけじゃないけど」
「……」
でも。
こんなふうに。
私自身に興味を持って。
聞いて。
覚えようとしてくれた人。
いつ以来だろう。
それとも。
今までにもいたのに。
私は。
気づけなかった?
「嬉しい」
素直に言った。
陽向が。
少し驚いたように。
目を瞬く。
「……そっか」
「うん」
「じゃあもっと聞こ」
「え?」
嫌な予感。
「好きな男性のタイプ」
「それは聞かなくていい!」
「なんで!」
「何でも!」
「気になるじゃん」
「何で陽向が気になるの!」
言った瞬間。
陽向が。
止まった。
私も。
止まる。
「……」
「……」
なぜ?
確かに。
なぜ。
陽向が。
私の好きな男性のタイプを。
知りたいんだろう。
「……いや」
陽向が視線を逸らす。
「質問大会だから」
「……そっか」
「うん」
なんだ。
それだけか。
少しだけ。
胸が落ちる。
自分でも。
どうしてなのか。
分からなかった。
「で?」
「まだ聞くの?」
「好きなタイプ」
「……明るい人」
答えた。
「へえ」
「一緒にいて楽しい人」
「うん」
「ちゃんと話聞いてくれる人」
「……」
「嬉しいとき」
「一緒に喜んでくれて」
「悲しいとき」
「悲しかったねって言ってくれる人」
口にしているうちに。
だんだん。
ある人物が。
浮かんでくる。
「それから」
「……」
「好きなものを」
「馬鹿にしない人」
「うん」
「何か挑戦したら」
「すごいじゃんって」
「一緒に喜んでくれる人」
気づいた。
これ。
「……」
陽向じゃない?
思った瞬間。
一気に顔が熱くなる。
「美月?」
「もう終わり!」
「え?」
「タイプの話終了!」
「急だな!」
「次!」
「じゃあ」
陽向が。
まだ少し笑いながら。
「嫌いなタイプ」
「人の話聞かない人」
即答。
「早っ」
「自分の意見だけが正しいと思ってる人」
「……」
「気持ちを話してるのに」
「『そんなことない』で終わらせる人」
陽向の笑顔が。
少しだけ消えた。
「……いた?」
「うん」
私は。
小さく頷いた。
「前の家に」
これまで。
具体的には。
ほとんど話していない。
陽向も。
無理に聞こうとはしなかった。
でも。
今日は。
少しだけ。
話してみたいと思った。
「結婚して」
「子どもがいて」
「幸せだったよ」
「……うん」
「本当に」
私は。
ちゃんと言った。
「不幸だったわけじゃない」
「子どもたちも大好きだった」
「うん」
「夫と笑った日もあった」
「……うん」
「でも」
指先を見つめる。
「夫の家族と一緒に暮らすようになって」
「だんだん」
言葉を選ぶ。
「私の気持ちって」
「どうでもいいのかなって」
「……」
「思うことが増えた」
陽向は。
何も言わない。
ただ。
聞いている。
「何か言っても」
「違うって言われたり」
「考えすぎって言われたり」
「気にしすぎって言われたり」
「……」
「私は」
「悲しいって話をしてるのに」
「その悲しいこと自体を」
「違うって言われてるみたいで」
胸が。
少しだけ苦しくなる。
「そのうち」
「話しても意味ないのかなって」
「……」
「でも」
「誰かには分かってほしくて」
私は。
少し笑った。
「だから」
「陽向のテレビ見てた」
陽向が。
顔を上げる。
「俺?」
「うん」
「陽向って」
「誰かが何か言ったら」
「すごいリアクションするでしょ」
「……まあ」
「嬉しいって言ったら」
「一緒に喜びそうだし」
「悲しいって言ったら」
「ちゃんと反応してくれそうで」
「……」
「勝手に」
「こんな人が家にいたら」
「楽しいだろうなって思ってた」
陽向は。
何も言わなかった。
静か。
「……ごめん」
「何で謝んの?」
「重かったかなって」
「全然」
すぐに。
返ってきた。
そして。
陽向は。
私を見る。
「美月」
「何?」
「俺」
「うん」
少しだけ。
照れたように。
頭を掻く。
「美月が思ってたほど」
「いい奴じゃないよ」
「知ってる」
「え?」
「玉ねぎ」
「まだ言う!?」
私は笑う。
陽向も。
笑った。
それから。
少しして。
陽向が言った。
「でも」
「?」
「美月が」
「俺見てる間だけでも」
「ちょっと楽だったなら」
その顔が。
いつものアイドルの笑顔ではなく。
とても。
優しかった。
「……よかった」
胸の奥が。
熱くなる。
私は。
目を逸らした。
泣きそうだったから。
◇◇◇
その日の午後。
陽向は仕事へ向かった。
玄関。
「じゃあまた連絡する」
「うん」
「カラオケ忘れんなよ」
「忘れない」
「何歌うか考えといて」
「恥ずかしいなぁ」
「俺、めっちゃ盛り上げるから」
「それは想像できる」
陽向が笑う。
「じゃ」
ドアを開ける。
でも。
出ていく直前。
「あ、美月」
「何?」
振り返った。
「俺のことも」
「……?」
「もっと知っていいから」
胸が。
跳ねる。
「テレビじゃない俺」
「……」
「知りたいなら」
少しだけ。
恥ずかしそうに笑う。
「教える」
何も言えない。
「じゃあな!」
陽向は。
そう言って。
出ていった。
閉じたドア。
私は。
しばらく。
そこから動けなかった。
「……何それ」
胸が。
うるさい。
でも。
同時に。
嬉しかった。
陽向が。
美月を知りたいと言ってくれた。
そして。
陽向自身も。
私に知ってほしいと言った。
紗良が知っていた。
三十四年間の陽向ではない。
今。
ここにいる陽向を。
私が。
これから。
知っていく。
「……ずるいな」
小さく笑う。
推しだった人。
ずっと。
遠い世界にいると思っていた人。
その人が。
今。
少しずつ。
自分から近づいてきている。
そして私は。
まだ気づいていなかった。
陽向が帰りの車の中。
スマートフォンの『美月メモ』を見ながら。
ある一行を。
新しく付け加えていたことを。
『好きな男――明るい。一緒にいて楽しい。話をちゃんと聞く人』
そこまで入力して。
陽向は。
しばらく画面を見つめた。
「……これ」
ぽつり。
「俺、結構当てはまってね?」
言った瞬間。
自分で固まる。
「……いや」
何を考えているんだ。
相手は。
美月。
紗良の身体にいる。
別の女性。
夫がいた。
五人の子どもの母親。
そして。
自分のファンだった人。
「……何気にしてんだよ、俺」
スマートフォンを伏せる。
でも。
その頬が。
少しだけ赤くなっていることを。
陽向自身は。
まだ。
認めようとはしなかった。
私はソファの上で目を覚ました。
「……あれ?」
ぼんやりと目を開ける。
テレビは消えている。
カーテンの隙間から。
朝の光が差し込んでいた。
どうやら。
陽向が寝ているのを見ているうちに。
私まで眠ってしまったらしい。
「……陽向?」
隣を見る。
いない。
毛布だけが。
綺麗に畳まれて置かれている。
帰った?
そう思った瞬間。
キッチンから。
ガタンッ!
大きな音がした。
「!?」
私は慌てて立ち上がる。
「陽向!?」
キッチンへ行くと。
「……おはよ」
そこには。
ものすごく気まずそうな顔をした陽向がいた。
「何してるの?」
「朝飯」
「……朝ご飯?」
「うん」
見る。
フライパン。
卵。
食パン。
そして。
床には。
落としたらしい菜箸。
「作れるの?」
「目玉焼きくらい作れる!」
「玉ねぎ、あんな切り方だったのに?」
「まだ言う!?」
思わず笑ってしまう。
「だって」
「今日は俺が作る」
陽向が。
妙に自信満々に言った。
「美月、いつも作ってくれるから」
「……」
一瞬。
言葉が出なかった。
「どうした?」
「いや……」
「何?」
「作ってくれるの?」
「だからそう言ってんじゃん」
陽向は。
当たり前のように返す。
「座ってて」
「でも」
言いかける。
陽向の眉が上がった。
「あ」
私は自分で口を押さえる。
「今『でも』って言った」
「言ったな」
「……座ってます」
「よろしい」
笑いながら。
私はダイニングの椅子に座った。
◇◇◇
しばらくすると。
テーブルに。
目玉焼き。
焼いた食パン。
ウインナー。
そして。
コーヒーが並んだ。
「おお……」
「何その反応」
「ちゃんと朝ご飯になってる」
「俺を何だと思ってんの?」
「玉ねぎを巨大に切る人」
「美月!」
私は笑いながら。
手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
目玉焼きを一口。
「……」
「どう?」
陽向が。
少しだけ緊張した顔をしている。
なんだか。
可愛い。
「美味しい」
「マジ?」
ぱっと。
顔が明るくなる。
「うん」
「よかったー!」
その反応を見て。
私は。
ふと思った。
ああ。
陽向も。
同じなんだ。
自分が作ったものを。
誰かが喜んでくれたら。
嬉しい。
「……何?」
「ううん」
「また変な顔してる」
「陽向も」
「何?」
「褒められると嬉しいんだなって」
「そりゃ嬉しいでしょ」
「……そうだよね」
私は。
もう一口食べる。
今まで。
誰かのために。
何かをすることのほうが多かった。
作る側。
用意する側。
気を配る側。
それが。
当たり前だった。
でも今。
私のために。
誰かが朝ご飯を作っている。
それだけなのに。
なんだか。
胸が温かかった。
◇◇◇
「そういえばさ」
朝食を食べながら。
陽向が突然言った。
「何?」
「俺、美月のこと全然知らないよな」
手が止まる。
「……え?」
「考えたら」
陽向は。
指を折り始める。
「三十四歳」
「うん」
「子ども五人」
「うん」
「長女が星ちゃん」
「うん」
「料理できる」
「まあ普通に」
「俺のオタク」
「言い方!」
「合ってるじゃん」
「ファンって言って!」
陽向が笑う。
でも。
すぐに。
少し真面目な顔になった。
「それくらい」
「……」
「俺」
「美月のこと」
「全然知らない」
胸が。
小さく鳴った。
「紗良のことは」
陽向が続ける。
「三十四年分知ってる」
「……うん」
「何好きとか」
「何嫌いとか」
「機嫌悪いときどうなるとか」
「昔どんな子だったとか」
少し。
寂しくなる。
当然。
私と陽向は。
出会ったばかりだから。
でも。
陽向は。
私を見て言った。
「だからさ」
「?」
「教えてよ」
「……何を?」
「美月のこと」
息が止まった。
「私?」
「うん」
「……何で?」
聞いた瞬間。
陽向が。
不思議そうな顔をした。
「何でって」
一度。
考える。
そして。
「知りたいから」
そう答えた。
胸が。
ドクン。
「……」
「美月?」
「何でもない」
「顔赤いけど」
「朝だから!」
「朝って顔赤くなる時間だっけ?」
「なるの!」
意味の分からないことを言って。
コーヒーを飲む。
熱い。
さらに顔が熱くなる。
「じゃあ」
陽向が楽しそうに笑う。
「質問大会」
「嫌な予感する」
「好きな食べ物」
「急だね」
「はい、答えて」
私は少し考える。
「……甘いもの」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでよ」
「もっと具体的に」
「プリンとか」
「それも知ってる」
「ケーキ」
「何ケーキ?」
「チーズケーキ」
陽向が。
何かを覚えるように頷く。
「チーズケーキ」
「何で復唱するの?」
「覚えてる」
「……」
また。
胸が変な音を立てる。
「次」
「まだあるの?」
「好きな色」
「……ピンク」
陽向が。
ニヤッとする。
「俺じゃん」
「違う!」
「俺のメンバーカラー」
「昔から好きなの!」
「はいはい」
「本当に!」
陽向が。
楽しそうに笑う。
「じゃあ好きな音楽」
「ASTER」
「それ以外!」
「えー」
私は笑う。
「J-POPは結構いろいろ聴くよ」
「カラオケ行く?」
「好き」
「歌うの?」
「歌うよ」
「へえ!」
陽向の目が。
急に輝いた。
「何歌う?」
「それは……いろいろ」
「今度歌って」
「嫌!」
「何で!?」
「プロの前で歌えるわけないでしょ!」
「俺アイドルだから!」
「プロでしょ!」
「美月が俺の曲歌ってるとこ見たい」
「絶対嫌!」
「じゃあ今度カラオケ」
「勝手に決めないで!」
また。
二人で笑う。
「じゃ」
陽向が続ける。
「趣味」
「趣味……」
少し。
考える。
何だろう。
子どもが生まれてから。
自分の趣味を聞かれることなんて。
ほとんどなかった。
何が好き?
何がしたい?
そんなことを。
いつから考えなくなったんだろう。
「……分かんない」
「え?」
「趣味」
陽向の顔を見る。
「前はあったんだと思うけど」
「……」
「子どもができてから」
少し笑う。
「自分が何したいかより」
「子どもが何したいか考えることのほうが増えたから」
陽向の表情が変わる。
「だから」
「自分が何好きだったのか」
「よく分かんなくなっちゃった」
言ってから。
少し寂しくなる。
母親になったことを。
後悔しているわけじゃない。
子どもたちと過ごした時間は。
大切だった。
でも。
高瀬美月個人としての好きなもの。
やりたいこと。
それは。
どんどん後回しになっていた。
「……じゃあさ」
陽向が言った。
「今から探せば?」
「え?」
「美月が好きなもの」
「……」
「もう一回」
「探す?」
「うん」
陽向が。
本当に簡単なことみたいに。
言う。
「今まで子ども優先だったなら」
「今度は」
私を指差す。
「美月の好きなこと」
「やればいいじゃん」
胸が。
きゅっとなる。
「でも」
「禁止」
「あ……」
陽向が笑う。
「子ども大事だったんでしょ?」
「うん」
「それはそのままでいいじゃん」
「……」
「星ちゃんたちのこと忘れろなんて言ってない」
「うん」
「会いたいなら会いに行く方法も考える」
「……うん」
「でも」
陽向が。
少しだけ真剣な顔になる。
「美月が生きてる時間まで」
「全部」
「前の人生に置いてこなくてもよくない?」
言葉が。
胸の奥に。
ゆっくりと入ってくる。
子どもたちを。
忘れるわけじゃない。
母親だった私を。
捨てるわけじゃない。
それでも。
今の私にも。
好きなものを探して。
楽しいと思って。
生きていい。
「……いいのかな」
思わず聞いた。
「誰に許可取ってんの?」
「え?」
「美月の人生でしょ?」
陽向が笑う。
「美月が決めればいいじゃん」
まただ。
どうしたい?
陽向は。
いつも。
私に返してくる。
「……じゃあ」
私は。
少し考えた。
「いっぱい歌いたい」
「歌?」
「うん」
「カラオケ?」
「それも」
少しだけ。
笑う。
「昔から歌うの好きだったの」
「マジ?」
「でも」
「うん」
「家だと、なかなか好きなだけ歌えなかったし」
「……」
「子どもが小さいと行く機会も減るし」
「じゃあ決定」
陽向が。
スマートフォンを手に取る。
「何が?」
「カラオケ」
「え?」
「次の休み行こう」
「ちょっと待って!」
「美月が歌いたいって言ったじゃん」
「陽向と行くとは言ってない!」
「俺も行きたい」
「それは……」
断る理由が。
見つからない。
行きたい。
本当は。
ちょっと。
いや。
かなり。
「……行きたい」
小さく言った。
陽向の目が。
嬉しそうに細くなる。
「じゃあ決まり」
「……うん」
言ってから。
私も。
少し笑った。
◇◇◇
「あと」
陽向が。
スマートフォンに何か入力する。
「何してるの?」
「美月メモ」
「……何それ」
「美月の好きなもん」
画面を見せられる。
そこには。
『チーズケーキ』
『ピンク』
『歌』
『カラオケ』
と。
書かれていた。
「ちょっと!」
恥ずかしい。
「消して!」
「何で?」
「何でメモするの!」
「忘れたくないから」
あまりにも。
普通の声で。
言われた。
「……」
何も。
返せなくなる。
忘れたくない。
私の好きなものを。
「陽向」
「ん?」
「……そんなの」
喉が詰まる。
「誰かに覚えてもらったこと」
「ないの?」
陽向が聞く。
「ないわけじゃないけど」
「……」
でも。
こんなふうに。
私自身に興味を持って。
聞いて。
覚えようとしてくれた人。
いつ以来だろう。
それとも。
今までにもいたのに。
私は。
気づけなかった?
「嬉しい」
素直に言った。
陽向が。
少し驚いたように。
目を瞬く。
「……そっか」
「うん」
「じゃあもっと聞こ」
「え?」
嫌な予感。
「好きな男性のタイプ」
「それは聞かなくていい!」
「なんで!」
「何でも!」
「気になるじゃん」
「何で陽向が気になるの!」
言った瞬間。
陽向が。
止まった。
私も。
止まる。
「……」
「……」
なぜ?
確かに。
なぜ。
陽向が。
私の好きな男性のタイプを。
知りたいんだろう。
「……いや」
陽向が視線を逸らす。
「質問大会だから」
「……そっか」
「うん」
なんだ。
それだけか。
少しだけ。
胸が落ちる。
自分でも。
どうしてなのか。
分からなかった。
「で?」
「まだ聞くの?」
「好きなタイプ」
「……明るい人」
答えた。
「へえ」
「一緒にいて楽しい人」
「うん」
「ちゃんと話聞いてくれる人」
「……」
「嬉しいとき」
「一緒に喜んでくれて」
「悲しいとき」
「悲しかったねって言ってくれる人」
口にしているうちに。
だんだん。
ある人物が。
浮かんでくる。
「それから」
「……」
「好きなものを」
「馬鹿にしない人」
「うん」
「何か挑戦したら」
「すごいじゃんって」
「一緒に喜んでくれる人」
気づいた。
これ。
「……」
陽向じゃない?
思った瞬間。
一気に顔が熱くなる。
「美月?」
「もう終わり!」
「え?」
「タイプの話終了!」
「急だな!」
「次!」
「じゃあ」
陽向が。
まだ少し笑いながら。
「嫌いなタイプ」
「人の話聞かない人」
即答。
「早っ」
「自分の意見だけが正しいと思ってる人」
「……」
「気持ちを話してるのに」
「『そんなことない』で終わらせる人」
陽向の笑顔が。
少しだけ消えた。
「……いた?」
「うん」
私は。
小さく頷いた。
「前の家に」
これまで。
具体的には。
ほとんど話していない。
陽向も。
無理に聞こうとはしなかった。
でも。
今日は。
少しだけ。
話してみたいと思った。
「結婚して」
「子どもがいて」
「幸せだったよ」
「……うん」
「本当に」
私は。
ちゃんと言った。
「不幸だったわけじゃない」
「子どもたちも大好きだった」
「うん」
「夫と笑った日もあった」
「……うん」
「でも」
指先を見つめる。
「夫の家族と一緒に暮らすようになって」
「だんだん」
言葉を選ぶ。
「私の気持ちって」
「どうでもいいのかなって」
「……」
「思うことが増えた」
陽向は。
何も言わない。
ただ。
聞いている。
「何か言っても」
「違うって言われたり」
「考えすぎって言われたり」
「気にしすぎって言われたり」
「……」
「私は」
「悲しいって話をしてるのに」
「その悲しいこと自体を」
「違うって言われてるみたいで」
胸が。
少しだけ苦しくなる。
「そのうち」
「話しても意味ないのかなって」
「……」
「でも」
「誰かには分かってほしくて」
私は。
少し笑った。
「だから」
「陽向のテレビ見てた」
陽向が。
顔を上げる。
「俺?」
「うん」
「陽向って」
「誰かが何か言ったら」
「すごいリアクションするでしょ」
「……まあ」
「嬉しいって言ったら」
「一緒に喜びそうだし」
「悲しいって言ったら」
「ちゃんと反応してくれそうで」
「……」
「勝手に」
「こんな人が家にいたら」
「楽しいだろうなって思ってた」
陽向は。
何も言わなかった。
静か。
「……ごめん」
「何で謝んの?」
「重かったかなって」
「全然」
すぐに。
返ってきた。
そして。
陽向は。
私を見る。
「美月」
「何?」
「俺」
「うん」
少しだけ。
照れたように。
頭を掻く。
「美月が思ってたほど」
「いい奴じゃないよ」
「知ってる」
「え?」
「玉ねぎ」
「まだ言う!?」
私は笑う。
陽向も。
笑った。
それから。
少しして。
陽向が言った。
「でも」
「?」
「美月が」
「俺見てる間だけでも」
「ちょっと楽だったなら」
その顔が。
いつものアイドルの笑顔ではなく。
とても。
優しかった。
「……よかった」
胸の奥が。
熱くなる。
私は。
目を逸らした。
泣きそうだったから。
◇◇◇
その日の午後。
陽向は仕事へ向かった。
玄関。
「じゃあまた連絡する」
「うん」
「カラオケ忘れんなよ」
「忘れない」
「何歌うか考えといて」
「恥ずかしいなぁ」
「俺、めっちゃ盛り上げるから」
「それは想像できる」
陽向が笑う。
「じゃ」
ドアを開ける。
でも。
出ていく直前。
「あ、美月」
「何?」
振り返った。
「俺のことも」
「……?」
「もっと知っていいから」
胸が。
跳ねる。
「テレビじゃない俺」
「……」
「知りたいなら」
少しだけ。
恥ずかしそうに笑う。
「教える」
何も言えない。
「じゃあな!」
陽向は。
そう言って。
出ていった。
閉じたドア。
私は。
しばらく。
そこから動けなかった。
「……何それ」
胸が。
うるさい。
でも。
同時に。
嬉しかった。
陽向が。
美月を知りたいと言ってくれた。
そして。
陽向自身も。
私に知ってほしいと言った。
紗良が知っていた。
三十四年間の陽向ではない。
今。
ここにいる陽向を。
私が。
これから。
知っていく。
「……ずるいな」
小さく笑う。
推しだった人。
ずっと。
遠い世界にいると思っていた人。
その人が。
今。
少しずつ。
自分から近づいてきている。
そして私は。
まだ気づいていなかった。
陽向が帰りの車の中。
スマートフォンの『美月メモ』を見ながら。
ある一行を。
新しく付け加えていたことを。
『好きな男――明るい。一緒にいて楽しい。話をちゃんと聞く人』
そこまで入力して。
陽向は。
しばらく画面を見つめた。
「……これ」
ぽつり。
「俺、結構当てはまってね?」
言った瞬間。
自分で固まる。
「……いや」
何を考えているんだ。
相手は。
美月。
紗良の身体にいる。
別の女性。
夫がいた。
五人の子どもの母親。
そして。
自分のファンだった人。
「……何気にしてんだよ、俺」
スマートフォンを伏せる。
でも。
その頬が。
少しだけ赤くなっていることを。
陽向自身は。
まだ。
認めようとはしなかった。



