陽向がソファで眠ってしまった翌日。
私は朝から、なぜか昨日のことばかり考えていた。
テレビの中では。
いつだって明るくて。
元気で。
どんな話を振られても、大きな声で笑って。
メンバーが失敗すれば全力でツッコんで。
自分が失敗すれば、それすら笑いに変えてしまう。
そんな天城陽向が。
私の家――。
まだそう呼ぶことには少し抵抗があるけれど。
今、私が暮らしているこの部屋のソファで。
あんなにも無防備に眠っていた。
「……疲れてたんだろうな」
キッチンでコーヒーを淹れながら、ぽつりと呟く。
思い返せば。
陽向は何度も。
私の『大丈夫』を見抜いてきた。
何でもないと言っても。
泣いてないと言っても。
すぐに気づいた。
なのに。
私は。
陽向について。
どれだけちゃんと見てきただろう。
ファンだった頃は。
陽向が笑っていれば。
『今日も楽しそう』
と思っていた。
元気なら。
『よかった』
と思っていた。
でも。
本当は。
笑っているからって。
元気とは限らない。
そんなこと。
自分が一番よく分かっているはずなのに。
「……私、全然見えてなかったのかも」
テレビの中の陽向を。
知っているつもりになっていただけ。
そんなことを考えながら。
コーヒーを一口飲んだ。
そのとき。
スマートフォンが震える。
画面を見る。
陽向。
メッセージだった。
『今日夜そっち行っていい?』
「……」
少しだけ。
口元が緩む。
『いいよ』
送信。
すぐに。
『飯ある?』
「やっぱりそれか!」
思わず声が出た。
『自分で買ってきてください』
すると。
『ええええええ』
泣いているスタンプ。
「子どもか」
笑いながら。
『余裕があったら作る』
と送った。
『やった!!!!』
即レス。
本当に。
こういうところだけ見ていれば。
悩みなんて何もなさそうなのに。
私は。
スマートフォンを見ながら。
昨日の陽向の寝顔を思い出していた。
◇◇◇
その日の夜。
陽向が来たのは。
予定していた時間より。
一時間以上遅かった。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「はーい」
玄関を開ける。
「……ただいまー」
「おかえり……って」
私は。
思わず陽向の顔を見た。
いつものように。
笑っている。
でも。
目が。
全然笑っていない。
「遅くなってごめん」
「仕事?」
「うん」
陽向は。
いつものように軽い調子で靴を脱ぐ。
「腹減ったー!」
「……」
「今日何?」
「生姜焼き」
「マジ!? 最高!」
大きなリアクション。
いつもの陽向。
なのに。
違う。
「……陽向」
「ん?」
「何かあった?」
陽向の動きが。
ほんの一瞬。
止まった。
でも。
すぐに笑う。
「何もないよ」
「……」
まただ。
「仕事長引いただけ」
「そっか」
私は。
それ以上聞かなかった。
陽向がリビングへ行く。
「めっちゃいい匂いする!」
「手洗ってきて」
「はーい」
返事も。
いつも通り。
でも。
なぜだろう。
今日は。
笑い声が。
少しだけ大きすぎるように感じた。
◇◇◇
「いただきます!」
「いただきます」
陽向は。
生姜焼きを口に入れる。
「うまっ!」
いつもの反応。
「これヤバい!」
「大げさ」
「いやマジで美味いって!」
「ありがとう」
「美月、店出せるよ」
「それは言いすぎ」
「俺毎日来る」
「それは困る」
「なんで!?」
私は笑った。
陽向も笑う。
でも。
その笑顔を見ながら。
やっぱり思う。
何か変。
「……」
陽向がご飯を口に運ぶ。
よく食べる。
話す。
笑う。
なのに。
ふとした瞬間。
黙る。
そして。
視線が。
どこか遠くに行く。
「陽向」
「ん?」
「美味しい?」
「え? めっちゃうまいよ!」
「じゃあよかった」
私は。
あえて。
それだけにした。
何があったの?
と。
何度も聞くのは。
違う気がした。
陽向が言いたくなったら。
話せばいい。
昨日。
陽向が私にしてくれたみたいに。
◇◇◇
食事を終え。
二人で食器を片づける。
今日は。
陽向が洗って。
私が拭く。
「そこ、まだ泡ついてる」
「え?」
「ここ」
「細か!」
「細かくないよ」
「美月、姑みたい」
「……」
陽向が。
「あ」
という顔をする。
「ごめん」
「別に大丈夫」
言ってから。
私は自分で笑った。
「今の大丈夫は、本当に大丈夫」
「ならよかった」
陽向も。
少しだけ笑う。
でも。
そのあと。
また黙った。
やっぱり。
何かある。
◇◇◇
片づけが終わり。
テレビをつける。
ちょうど。
陽向が出演している番組が放送されていた。
「あ」
私が言う。
「今日これだったんだ」
「うん」
陽向は。
ソファに座る。
画面の中。
今日の陽向。
収録されたのは。
少し前なのだろう。
ものすごく楽しそうに笑っている。
スタジオ中に響く。
大きな笑い声。
「……」
私は。
テレビと。
隣にいる陽向を。
交互に見る。
違う。
顔は同じ。
声も同じ。
でも。
全然違う。
テレビの中では。
誰よりも楽しそう。
今。
隣にいる陽向は。
笑っていない。
「……陽向」
「何?」
「これ、いつ撮ったの?」
「三週間くらい前」
「そうなんだ」
「うん」
画面の中で。
陽向が。
司会者にいじられて。
大笑いしている。
その瞬間。
陽向が。
リモコンを取った。
テレビを消す。
「……」
部屋が。
急に静かになる。
「ごめん」
陽向が言った。
「今日は見たくない」
「……うん」
私は。
理由を聞かなかった。
陽向が。
ソファの背もたれに。
身体を預ける。
そして。
天井を見る。
「……疲れた」
ぽつり。
本当に。
小さな声だった。
私は。
その言葉を。
初めて聞いた気がした。
「そっか」
それだけ答える。
陽向が。
少し驚いたように私を見る。
「聞かないの?」
「何を?」
「何があったとか」
私は。
少し考えて。
首を振る。
「陽向が話したくなったら聞く」
「……」
「でも今は」
ソファの隣に座る。
「疲れたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、それだけでいいんじゃない?」
陽向は。
何も言わなかった。
◇◇◇
しばらく。
二人とも黙っていた。
テレビもつけない。
音楽もない。
静かな部屋。
不思議と。
気まずくはなかった。
少しして。
陽向が。
口を開いた。
「今日さ」
「うん」
「収録だったんだけど」
話し始めた。
私は。
ただ聞く。
「俺」
「うん」
「ちょっとミスって」
「うん」
「別に大したことじゃないんだけど」
陽向が。
指を組む。
「番組の流れ、止めちゃって」
「……」
「スタッフさんに怒られたとかじゃないよ」
「うん」
「みんなも大丈夫って言ってくれたし」
「うん」
「でも」
一度。
言葉が止まる。
「最近」
「?」
「俺、ちゃんとできてんのかなって思うことあって」
初めて聞く。
陽向の。
弱い声。
「何が?」
私は。
優しく聞いた。
「全部」
陽向が苦笑する。
「歌も」
「ダンスも」
「バラエティーも」
「……」
「後輩も増えてきて」
「俺らより若くて」
「上手いやつもいっぱい出てきて」
「……」
「ずっと」
陽向は。
手を見つめる。
「俺は明るい奴でいなきゃって思ってる」
胸が。
少し痛くなる。
「テレビで」
「楽屋で」
「ライブで」
「俺が落ちたら」
「みんなもテンション下がる気がして」
「……」
「だから」
陽向が。
笑った。
でも。
その笑顔は。
今にも崩れそうだった。
「何でも笑っとけばいいかなって」
私は。
その顔を見た瞬間。
分かった。
ああ。
この笑い方。
知ってる。
私も。
何度もした。
辛いのに。
笑う。
傷ついてるのに。
『大丈夫』
って言う。
本当は聞いてほしいのに。
『何でもない』
と言う。
「……陽向」
「ん?」
「あなたも」
少しだけ。
胸が詰まる。
「無理して笑うんだね」
陽向の笑顔が。
止まった。
「……」
「私」
ゆっくり続ける。
「ずっと陽向って」
「本当にいつも楽しい人だと思ってた」
「……」
「もちろん」
「楽しいときもいっぱいあるんだと思う」
「でも」
陽向を見る。
「笑ってるからって」
「いつも大丈夫なわけじゃないんだね」
陽向は。
何も答えなかった。
「私と一緒だね」
そう言うと。
陽向の目が。
少し大きくなった。
「美月と?」
「うん」
私は。
膝の上で手を組む。
「私もずっと」
「周りが嫌な空気にならないように」
「誰かが怒らないように」
「大丈夫って言ってた」
「……」
「悲しくても」
「傷ついてても」
「私が我慢すれば済むならって」
陽向の表情が。
少し曇る。
「だから」
私は。
笑った。
「分かる気がする」
「陽向が」
「笑ってたほうが楽なとき」
「……」
「自分が笑ってれば」
「周りが心配しなくて済むもんな」
陽向が。
ぽつりと言った。
「うん」
「でも」
私は。
少しだけ首を傾ける。
「それ、ずっとやってたら疲れるよ」
「……」
「私は疲れた」
陽向が。
私を見る。
「めちゃくちゃ疲れた」
私は。
苦笑した。
「なのに」
「やめ方分かんなかった」
陽向が。
少し。
笑った。
今度は。
作った笑顔じゃない。
「……俺もかも」
「そっか」
「俺さ」
「うん」
「ファンに元気もらってるって、よく言うじゃん」
「うん」
「本当にそうなんだけど」
「……」
「同時に」
陽向が。
少しだけ俯く。
「俺が元気でいなきゃって思うんだよ」
「……うん」
「俺見て元気になるって言ってくれる人いるから」
「だから」
「俺が落ちてる姿とか」
「疲れてる姿見せちゃダメって」
胸が。
ぎゅっとなる。
私は。
十年以上。
その『ファン』の一人だった。
陽向に。
笑ってほしい。
元気でいてほしい。
それを。
願っていた。
でも。
その願いが。
知らないうちに。
陽向の重荷になることもあったのかもしれない。
「……ごめん」
思わず言った。
陽向が顔を上げる。
「何で美月が謝るの?」
「私もファンだったから」
「は?」
「ずっと」
「陽向には笑っててほしいって思ってた」
「……」
「元気な陽向を見るのが好きだった」
「それは悪くないだろ」
「でも」
「美月」
陽向が。
少しだけ強い声を出す。
「そこまで背負わなくていい」
「……」
「ファンに求められるのが嫌だって言ってるわけじゃない」
「うん」
「俺が勝手に」
「そうしなきゃって思ってるだけ」
私は。
陽向を見る。
まただ。
陽向は。
私に言う。
全部。
自分のせいにするなって。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
少し考えてから。
言った。
「ここでは」
「?」
「元気じゃなくてもいいよ」
陽向が。
固まった。
「前も言ったけど」
「ここにいるときくらい」
「笑いたくなかったら」
「笑わなくていい」
「……」
「面白くなかったら」
「リアクションしなくていい」
「……」
「疲れたなら」
「疲れたって言っていい」
陽向の目が。
少し揺れる。
「私」
胸に手を置く。
「陽向のファンだったけど」
「今は」
少しだけ。
言葉を探す。
「テレビの天城陽向だけを見てるわけじゃないから」
陽向が。
私を見る。
「玉ねぎ大きく切るし」
「そこ今言う?」
「片づけ苦手だし」
「美月?」
「ソファで寝落ちするし」
「……」
「疲れたら」
「ちゃんと疲れた顔する人だって」
私は。
笑った。
「もう知ってるから」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
「……なんか」
「?」
「恥ずかしい」
「何が?」
「ファンに裏側バレてんの」
「今さら?」
「俺のイメージ!」
「大丈夫」
「何が?」
「玉ねぎ大きくても好きだから」
言った瞬間。
「……」
二人とも。
止まった。
「あ」
私の顔が。
一気に熱くなる。
違う。
今のは。
「ファンとして!」
慌てて付け足す。
陽向が。
少しだけ口元を上げる。
「はいはい」
「本当に!」
「分かったって」
「絶対分かってない!」
「顔赤いけど?」
「もう!」
陽向が。
笑った。
今度は。
自然な笑い声。
私も。
つられて笑う。
さっきまで。
重かった空気が。
少しだけ軽くなった。
◇◇◇
しばらくして。
陽向は。
ソファに横になった。
「また寝る?」
「今日は寝ない」
「昨日もたぶんそう思ってたでしょ」
「今日はマジ」
「はいはい」
私は。
毛布を持ってくる。
「まだ寝ないって!」
「どうせ寝る」
「美月、俺の扱い雑になってない?」
「距離が縮まった証拠です」
言ってから。
また。
少し恥ずかしくなる。
陽向は。
一瞬だけ。
私を見た。
でも。
何も言わなかった。
ただ。
小さく笑った。
「……じゃあ」
毛布を受け取る。
「借りる」
「どうぞ」
陽向は。
毛布をかける。
そして。
天井を見ながら。
ぽつりと言った。
「美月」
「何?」
「俺」
「うん」
「今日」
「ここ来てよかった」
胸が。
少しだけ鳴った。
「そっか」
私は。
それだけ答えた。
「美月んとこ来ると」
陽向は。
目を閉じる。
「なんか楽なんだよな」
「……」
「飯出てくるから?」
冗談っぽく聞く。
陽向が。
目を閉じたまま。
笑う。
「それもある」
「やっぱり!」
「でも」
続ける。
「それだけじゃない」
心臓が。
ドクン。
「何?」
聞いた。
でも。
返事がない。
「陽向?」
近づく。
寝ている。
「……寝るの早っ」
思わず笑ってしまう。
やっぱり。
疲れていたんだ。
私は。
テレビをつけなかった。
部屋の照明を。
少しだけ暗くする。
そして。
陽向の寝顔を見る。
「……お疲れさま」
今日も。
聞こえていないと思って。
呟いた。
「いつも元気くれて」
「ありがとう」
ファンだった頃。
私は。
この人に。
何度も助けられた。
テレビの中の陽向が。
笑ってくれるだけで。
少しだけ。
辛い現実を忘れられた。
だけど。
今は。
思う。
陽向だって。
誰かに。
支えてもらっていい。
ずっと。
誰かを笑わせる側じゃなくてもいい。
「今度は」
小さな声で。
言った。
「私が少しくらい」
「陽向が休める場所になれたらいいな」
そのとき。
眠っているはずの陽向の指が。
ほんの少し。
動いたことに。
私は。
気づかなかった。
◇◇◇
陽向は。
目を閉じたまま。
美月の声を聞いていた。
――私が少しくらい。
――陽向が休める場所になれたらいいな。
胸の奥が。
妙に熱くなる。
これまで。
たくさんの人に。
言われてきた。
『元気をもらっています』
『陽向くんを見ると笑顔になれます』
『ずっと明るい陽向くんでいてください』
全部。
嬉しかった。
心から。
でも。
美月は。
初めて。
言った。
――笑わなくていい。
――疲れたって言っていい。
そして。
――休める場所になりたい。
「……」
眠ったふりをしながら。
陽向は。
そっと。
胸の前で手を握った。
紗良とは。
違う。
紗良は。
誰より長く自分を知っていた。
美月は。
まだ。
出会ったばかり。
それなのに。
どうしてだろう。
今まで。
誰にも見つけてもらえなかった部分を。
美月だけが。
少しずつ。
見つけていく。
そのことが。
嬉しくて。
同時に。
少しだけ。
怖かった。
高瀬美月。
この人といると。
自分が。
『天城陽向』ではなく。
ただの『陽向』に。
戻ってしまう。
そして。
その時間を。
もっと欲しいと思い始めている自分に。
陽向は。
まだ。
名前をつけることができなかった。
私は朝から、なぜか昨日のことばかり考えていた。
テレビの中では。
いつだって明るくて。
元気で。
どんな話を振られても、大きな声で笑って。
メンバーが失敗すれば全力でツッコんで。
自分が失敗すれば、それすら笑いに変えてしまう。
そんな天城陽向が。
私の家――。
まだそう呼ぶことには少し抵抗があるけれど。
今、私が暮らしているこの部屋のソファで。
あんなにも無防備に眠っていた。
「……疲れてたんだろうな」
キッチンでコーヒーを淹れながら、ぽつりと呟く。
思い返せば。
陽向は何度も。
私の『大丈夫』を見抜いてきた。
何でもないと言っても。
泣いてないと言っても。
すぐに気づいた。
なのに。
私は。
陽向について。
どれだけちゃんと見てきただろう。
ファンだった頃は。
陽向が笑っていれば。
『今日も楽しそう』
と思っていた。
元気なら。
『よかった』
と思っていた。
でも。
本当は。
笑っているからって。
元気とは限らない。
そんなこと。
自分が一番よく分かっているはずなのに。
「……私、全然見えてなかったのかも」
テレビの中の陽向を。
知っているつもりになっていただけ。
そんなことを考えながら。
コーヒーを一口飲んだ。
そのとき。
スマートフォンが震える。
画面を見る。
陽向。
メッセージだった。
『今日夜そっち行っていい?』
「……」
少しだけ。
口元が緩む。
『いいよ』
送信。
すぐに。
『飯ある?』
「やっぱりそれか!」
思わず声が出た。
『自分で買ってきてください』
すると。
『ええええええ』
泣いているスタンプ。
「子どもか」
笑いながら。
『余裕があったら作る』
と送った。
『やった!!!!』
即レス。
本当に。
こういうところだけ見ていれば。
悩みなんて何もなさそうなのに。
私は。
スマートフォンを見ながら。
昨日の陽向の寝顔を思い出していた。
◇◇◇
その日の夜。
陽向が来たのは。
予定していた時間より。
一時間以上遅かった。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「はーい」
玄関を開ける。
「……ただいまー」
「おかえり……って」
私は。
思わず陽向の顔を見た。
いつものように。
笑っている。
でも。
目が。
全然笑っていない。
「遅くなってごめん」
「仕事?」
「うん」
陽向は。
いつものように軽い調子で靴を脱ぐ。
「腹減ったー!」
「……」
「今日何?」
「生姜焼き」
「マジ!? 最高!」
大きなリアクション。
いつもの陽向。
なのに。
違う。
「……陽向」
「ん?」
「何かあった?」
陽向の動きが。
ほんの一瞬。
止まった。
でも。
すぐに笑う。
「何もないよ」
「……」
まただ。
「仕事長引いただけ」
「そっか」
私は。
それ以上聞かなかった。
陽向がリビングへ行く。
「めっちゃいい匂いする!」
「手洗ってきて」
「はーい」
返事も。
いつも通り。
でも。
なぜだろう。
今日は。
笑い声が。
少しだけ大きすぎるように感じた。
◇◇◇
「いただきます!」
「いただきます」
陽向は。
生姜焼きを口に入れる。
「うまっ!」
いつもの反応。
「これヤバい!」
「大げさ」
「いやマジで美味いって!」
「ありがとう」
「美月、店出せるよ」
「それは言いすぎ」
「俺毎日来る」
「それは困る」
「なんで!?」
私は笑った。
陽向も笑う。
でも。
その笑顔を見ながら。
やっぱり思う。
何か変。
「……」
陽向がご飯を口に運ぶ。
よく食べる。
話す。
笑う。
なのに。
ふとした瞬間。
黙る。
そして。
視線が。
どこか遠くに行く。
「陽向」
「ん?」
「美味しい?」
「え? めっちゃうまいよ!」
「じゃあよかった」
私は。
あえて。
それだけにした。
何があったの?
と。
何度も聞くのは。
違う気がした。
陽向が言いたくなったら。
話せばいい。
昨日。
陽向が私にしてくれたみたいに。
◇◇◇
食事を終え。
二人で食器を片づける。
今日は。
陽向が洗って。
私が拭く。
「そこ、まだ泡ついてる」
「え?」
「ここ」
「細か!」
「細かくないよ」
「美月、姑みたい」
「……」
陽向が。
「あ」
という顔をする。
「ごめん」
「別に大丈夫」
言ってから。
私は自分で笑った。
「今の大丈夫は、本当に大丈夫」
「ならよかった」
陽向も。
少しだけ笑う。
でも。
そのあと。
また黙った。
やっぱり。
何かある。
◇◇◇
片づけが終わり。
テレビをつける。
ちょうど。
陽向が出演している番組が放送されていた。
「あ」
私が言う。
「今日これだったんだ」
「うん」
陽向は。
ソファに座る。
画面の中。
今日の陽向。
収録されたのは。
少し前なのだろう。
ものすごく楽しそうに笑っている。
スタジオ中に響く。
大きな笑い声。
「……」
私は。
テレビと。
隣にいる陽向を。
交互に見る。
違う。
顔は同じ。
声も同じ。
でも。
全然違う。
テレビの中では。
誰よりも楽しそう。
今。
隣にいる陽向は。
笑っていない。
「……陽向」
「何?」
「これ、いつ撮ったの?」
「三週間くらい前」
「そうなんだ」
「うん」
画面の中で。
陽向が。
司会者にいじられて。
大笑いしている。
その瞬間。
陽向が。
リモコンを取った。
テレビを消す。
「……」
部屋が。
急に静かになる。
「ごめん」
陽向が言った。
「今日は見たくない」
「……うん」
私は。
理由を聞かなかった。
陽向が。
ソファの背もたれに。
身体を預ける。
そして。
天井を見る。
「……疲れた」
ぽつり。
本当に。
小さな声だった。
私は。
その言葉を。
初めて聞いた気がした。
「そっか」
それだけ答える。
陽向が。
少し驚いたように私を見る。
「聞かないの?」
「何を?」
「何があったとか」
私は。
少し考えて。
首を振る。
「陽向が話したくなったら聞く」
「……」
「でも今は」
ソファの隣に座る。
「疲れたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、それだけでいいんじゃない?」
陽向は。
何も言わなかった。
◇◇◇
しばらく。
二人とも黙っていた。
テレビもつけない。
音楽もない。
静かな部屋。
不思議と。
気まずくはなかった。
少しして。
陽向が。
口を開いた。
「今日さ」
「うん」
「収録だったんだけど」
話し始めた。
私は。
ただ聞く。
「俺」
「うん」
「ちょっとミスって」
「うん」
「別に大したことじゃないんだけど」
陽向が。
指を組む。
「番組の流れ、止めちゃって」
「……」
「スタッフさんに怒られたとかじゃないよ」
「うん」
「みんなも大丈夫って言ってくれたし」
「うん」
「でも」
一度。
言葉が止まる。
「最近」
「?」
「俺、ちゃんとできてんのかなって思うことあって」
初めて聞く。
陽向の。
弱い声。
「何が?」
私は。
優しく聞いた。
「全部」
陽向が苦笑する。
「歌も」
「ダンスも」
「バラエティーも」
「……」
「後輩も増えてきて」
「俺らより若くて」
「上手いやつもいっぱい出てきて」
「……」
「ずっと」
陽向は。
手を見つめる。
「俺は明るい奴でいなきゃって思ってる」
胸が。
少し痛くなる。
「テレビで」
「楽屋で」
「ライブで」
「俺が落ちたら」
「みんなもテンション下がる気がして」
「……」
「だから」
陽向が。
笑った。
でも。
その笑顔は。
今にも崩れそうだった。
「何でも笑っとけばいいかなって」
私は。
その顔を見た瞬間。
分かった。
ああ。
この笑い方。
知ってる。
私も。
何度もした。
辛いのに。
笑う。
傷ついてるのに。
『大丈夫』
って言う。
本当は聞いてほしいのに。
『何でもない』
と言う。
「……陽向」
「ん?」
「あなたも」
少しだけ。
胸が詰まる。
「無理して笑うんだね」
陽向の笑顔が。
止まった。
「……」
「私」
ゆっくり続ける。
「ずっと陽向って」
「本当にいつも楽しい人だと思ってた」
「……」
「もちろん」
「楽しいときもいっぱいあるんだと思う」
「でも」
陽向を見る。
「笑ってるからって」
「いつも大丈夫なわけじゃないんだね」
陽向は。
何も答えなかった。
「私と一緒だね」
そう言うと。
陽向の目が。
少し大きくなった。
「美月と?」
「うん」
私は。
膝の上で手を組む。
「私もずっと」
「周りが嫌な空気にならないように」
「誰かが怒らないように」
「大丈夫って言ってた」
「……」
「悲しくても」
「傷ついてても」
「私が我慢すれば済むならって」
陽向の表情が。
少し曇る。
「だから」
私は。
笑った。
「分かる気がする」
「陽向が」
「笑ってたほうが楽なとき」
「……」
「自分が笑ってれば」
「周りが心配しなくて済むもんな」
陽向が。
ぽつりと言った。
「うん」
「でも」
私は。
少しだけ首を傾ける。
「それ、ずっとやってたら疲れるよ」
「……」
「私は疲れた」
陽向が。
私を見る。
「めちゃくちゃ疲れた」
私は。
苦笑した。
「なのに」
「やめ方分かんなかった」
陽向が。
少し。
笑った。
今度は。
作った笑顔じゃない。
「……俺もかも」
「そっか」
「俺さ」
「うん」
「ファンに元気もらってるって、よく言うじゃん」
「うん」
「本当にそうなんだけど」
「……」
「同時に」
陽向が。
少しだけ俯く。
「俺が元気でいなきゃって思うんだよ」
「……うん」
「俺見て元気になるって言ってくれる人いるから」
「だから」
「俺が落ちてる姿とか」
「疲れてる姿見せちゃダメって」
胸が。
ぎゅっとなる。
私は。
十年以上。
その『ファン』の一人だった。
陽向に。
笑ってほしい。
元気でいてほしい。
それを。
願っていた。
でも。
その願いが。
知らないうちに。
陽向の重荷になることもあったのかもしれない。
「……ごめん」
思わず言った。
陽向が顔を上げる。
「何で美月が謝るの?」
「私もファンだったから」
「は?」
「ずっと」
「陽向には笑っててほしいって思ってた」
「……」
「元気な陽向を見るのが好きだった」
「それは悪くないだろ」
「でも」
「美月」
陽向が。
少しだけ強い声を出す。
「そこまで背負わなくていい」
「……」
「ファンに求められるのが嫌だって言ってるわけじゃない」
「うん」
「俺が勝手に」
「そうしなきゃって思ってるだけ」
私は。
陽向を見る。
まただ。
陽向は。
私に言う。
全部。
自分のせいにするなって。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ」
私は。
少し考えてから。
言った。
「ここでは」
「?」
「元気じゃなくてもいいよ」
陽向が。
固まった。
「前も言ったけど」
「ここにいるときくらい」
「笑いたくなかったら」
「笑わなくていい」
「……」
「面白くなかったら」
「リアクションしなくていい」
「……」
「疲れたなら」
「疲れたって言っていい」
陽向の目が。
少し揺れる。
「私」
胸に手を置く。
「陽向のファンだったけど」
「今は」
少しだけ。
言葉を探す。
「テレビの天城陽向だけを見てるわけじゃないから」
陽向が。
私を見る。
「玉ねぎ大きく切るし」
「そこ今言う?」
「片づけ苦手だし」
「美月?」
「ソファで寝落ちするし」
「……」
「疲れたら」
「ちゃんと疲れた顔する人だって」
私は。
笑った。
「もう知ってるから」
陽向は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
「……なんか」
「?」
「恥ずかしい」
「何が?」
「ファンに裏側バレてんの」
「今さら?」
「俺のイメージ!」
「大丈夫」
「何が?」
「玉ねぎ大きくても好きだから」
言った瞬間。
「……」
二人とも。
止まった。
「あ」
私の顔が。
一気に熱くなる。
違う。
今のは。
「ファンとして!」
慌てて付け足す。
陽向が。
少しだけ口元を上げる。
「はいはい」
「本当に!」
「分かったって」
「絶対分かってない!」
「顔赤いけど?」
「もう!」
陽向が。
笑った。
今度は。
自然な笑い声。
私も。
つられて笑う。
さっきまで。
重かった空気が。
少しだけ軽くなった。
◇◇◇
しばらくして。
陽向は。
ソファに横になった。
「また寝る?」
「今日は寝ない」
「昨日もたぶんそう思ってたでしょ」
「今日はマジ」
「はいはい」
私は。
毛布を持ってくる。
「まだ寝ないって!」
「どうせ寝る」
「美月、俺の扱い雑になってない?」
「距離が縮まった証拠です」
言ってから。
また。
少し恥ずかしくなる。
陽向は。
一瞬だけ。
私を見た。
でも。
何も言わなかった。
ただ。
小さく笑った。
「……じゃあ」
毛布を受け取る。
「借りる」
「どうぞ」
陽向は。
毛布をかける。
そして。
天井を見ながら。
ぽつりと言った。
「美月」
「何?」
「俺」
「うん」
「今日」
「ここ来てよかった」
胸が。
少しだけ鳴った。
「そっか」
私は。
それだけ答えた。
「美月んとこ来ると」
陽向は。
目を閉じる。
「なんか楽なんだよな」
「……」
「飯出てくるから?」
冗談っぽく聞く。
陽向が。
目を閉じたまま。
笑う。
「それもある」
「やっぱり!」
「でも」
続ける。
「それだけじゃない」
心臓が。
ドクン。
「何?」
聞いた。
でも。
返事がない。
「陽向?」
近づく。
寝ている。
「……寝るの早っ」
思わず笑ってしまう。
やっぱり。
疲れていたんだ。
私は。
テレビをつけなかった。
部屋の照明を。
少しだけ暗くする。
そして。
陽向の寝顔を見る。
「……お疲れさま」
今日も。
聞こえていないと思って。
呟いた。
「いつも元気くれて」
「ありがとう」
ファンだった頃。
私は。
この人に。
何度も助けられた。
テレビの中の陽向が。
笑ってくれるだけで。
少しだけ。
辛い現実を忘れられた。
だけど。
今は。
思う。
陽向だって。
誰かに。
支えてもらっていい。
ずっと。
誰かを笑わせる側じゃなくてもいい。
「今度は」
小さな声で。
言った。
「私が少しくらい」
「陽向が休める場所になれたらいいな」
そのとき。
眠っているはずの陽向の指が。
ほんの少し。
動いたことに。
私は。
気づかなかった。
◇◇◇
陽向は。
目を閉じたまま。
美月の声を聞いていた。
――私が少しくらい。
――陽向が休める場所になれたらいいな。
胸の奥が。
妙に熱くなる。
これまで。
たくさんの人に。
言われてきた。
『元気をもらっています』
『陽向くんを見ると笑顔になれます』
『ずっと明るい陽向くんでいてください』
全部。
嬉しかった。
心から。
でも。
美月は。
初めて。
言った。
――笑わなくていい。
――疲れたって言っていい。
そして。
――休める場所になりたい。
「……」
眠ったふりをしながら。
陽向は。
そっと。
胸の前で手を握った。
紗良とは。
違う。
紗良は。
誰より長く自分を知っていた。
美月は。
まだ。
出会ったばかり。
それなのに。
どうしてだろう。
今まで。
誰にも見つけてもらえなかった部分を。
美月だけが。
少しずつ。
見つけていく。
そのことが。
嬉しくて。
同時に。
少しだけ。
怖かった。
高瀬美月。
この人といると。
自分が。
『天城陽向』ではなく。
ただの『陽向』に。
戻ってしまう。
そして。
その時間を。
もっと欲しいと思い始めている自分に。
陽向は。
まだ。
名前をつけることができなかった。



