目を覚ましたとき。
最初に見えたのは、見慣れ始めたマンションの地下駐車場だった。
「……あれ?」
身体を起こす。
助手席。
陽向の車。
どうやら。
帰ってくるまで、ずっと眠っていたらしい。
「起きた?」
隣から声がする。
「……寝てた?」
「爆睡」
「嘘」
「マジ」
「恥ずかしい……」
思わず顔を覆う。
「なんで?」
「だって、人の車であんなに寝るなんて」
「いいじゃん。疲れてたんでしょ」
陽向がシートベルトを外す。
「あと」
嫌な予感。
「何?」
「口開いてた」
「えっ!?」
反射的に口元を押さえる。
すると。
陽向が吹き出した。
「嘘」
「陽向!」
「あはははっ!」
「もう!」
さっきまで。
あんなに重い話をしていたのに。
たった一言で。
いつもの調子に戻されてしまう。
でも。
不思議と。
それが嫌じゃなかった。
むしろ。
少しだけ安心した。
「ほら、帰るよ」
陽向が車を降りる。
帰る。
その言葉に。
胸が少しだけ温かくなった。
◇◇◇
部屋に入ると。
昨日までと。
何も変わっていなかった。
ソファ。
テレビ。
キッチン。
そして。
テーブルの上に置かれた。
二つのマグカップ。
「……」
私は。
白いカップを見つめた。
朝。
ここを出たとき。
置いていったもの。
陽向との思い出を。
ここに残したつもりだった。
もう戻らないつもりで。
でも。
戻ってきた。
「ただいま……」
無意識に。
言っていた。
その言葉に。
自分で驚く。
ここは。
紗良の家。
なのに。
『ただいま』
と言えた。
後ろから。
「おかえり」
陽向の声。
心臓が。
小さく跳ねる。
振り返る。
陽向は。
何でもないことみたいに。
靴を脱いでいた。
「……」
「何?」
「いや」
何でだろう。
その一言だけで。
泣きそうになった。
「また泣く?」
「泣かない」
「目赤いけど」
「疲れてるだけ」
「はいはい」
陽向が。
私のバッグを持ってリビングへ向かう。
自分の家みたいに。
本当に自然に。
「それ、私が持つよ」
「もう持ってきた」
「ありがとう」
「どういたしまして」
これまでなら。
『ごめん』
と言っていた。
でも。
今日は。
『ありがとう』と言えた。
それだけのことなのに。
少しだけ。
変われた気がした。
◇◇◇
「腹減った」
ソファに座った陽向が。
開口一番。
そう言った。
「さっきまでの感動返して」
「何の感動?」
「何でもない」
「で、飯」
「陽向って本当に食べることばっかり」
「生きる基本だろ」
「それはそうだけど」
時計を見る。
もう夜。
私も。
ほとんど何も食べていなかった。
「冷蔵庫、何あったかな」
扉を開ける。
卵。
野菜。
豚肉。
冷凍ご飯。
「簡単なのでいい?」
「美月が作ってくれんの?」
「陽向も手伝うなら」
「え」
「嫌なの?」
「いやいや」
陽向が立ち上がる。
「やるやる」
「じゃあ野菜切って」
「任せろ」
「できる?」
「舐めんなよ」
ものすごく自信満々。
……嫌な予感。
◇◇◇
五分後。
「……陽向」
「何?」
「玉ねぎ」
「うん」
「大きくない?」
まな板の上。
切られた玉ねぎ。
大きい。
とにかく。
大きい。
「これくらいじゃない?」
「炒め物なのに?」
「食べ応えあるじゃん」
「そういう問題?」
「俺、細かい作業苦手なんだよ」
「さっき任せろって言ってたじゃん」
「気持ちはある」
「気持ちだけ!?」
陽向が笑う。
「じゃ、美月やって」
「もう!」
私は陽向から包丁を受け取る。
「見て」
「はい」
「こうやって半分にして」
「うん」
「薄めに」
「なるほど」
「次やってみて」
「先生!」
「はい、生徒」
陽向がもう一度包丁を持つ。
今度は。
さっきよりマシ。
でも。
やっぱり大きい。
「……まあ」
「何?」
「合格」
「よっしゃ!」
「甘い合格だからね」
「合格は合格!」
その喜び方。
子どもみたい。
私は。
思わず笑った。
「何笑ってんの」
「陽向って」
「ん?」
「もっと何でもできると思ってた」
「ひど!」
「だってテレビでは」
歌って。
踊って。
バラエティーもできて。
何でも器用にこなしている。
「俺、家では普通だよ」
陽向が言う。
「むしろできないことめっちゃある」
「例えば?」
「料理」
「今分かった」
「朝起きるの」
「意外」
「片づけ」
「……それはなんとなく分かる」
「なんで!?」
私は笑う。
陽向も。
笑う。
その瞬間。
ふと思った。
私は。
この人のことを。
ずっと知っていると思っていた。
十年以上。
応援してきた。
インタビューも。
テレビも。
ライブも。
たくさん見た。
でも。
知らなかった。
玉ねぎをこんなに大きく切ることも。
料理を褒めると。
子どもみたいに喜ぶことも。
車の中では。
静かな時間が結構好きなことも。
私が眠っている間。
無理に起こさないでいてくれることも。
テレビの中にいる。
『天城陽向』。
そして。
私の目の前にいる。
『陽向』。
同じなのに。
違う。
◇◇◇
出来上がったのは。
豚肉と野菜の炒め物。
味噌汁。
冷凍ご飯。
それだけ。
豪華でも何でもない。
「いただきます!」
陽向が手を合わせる。
「いただきます」
一口。
「うまっ!」
「毎回すごいね、そのリアクション」
「美味いから」
「今日は陽向も作ったでしょ」
「俺、玉ねぎ切った」
「大きかったけど」
「美月厳しい!」
二人で。
笑いながら食べる。
でも。
途中。
陽向が急に黙った。
「……?」
箸が止まっている。
「どうしたの?」
「いや」
「美味しくなかった?」
「逆」
「じゃあ何?」
陽向は。
味噌汁を見ながら。
少しだけ困ったように笑った。
「こういうの」
「?」
「久しぶりだなって」
「家庭料理?」
「それもだけど」
陽向が。
部屋を見回す。
「誰かと普通に飯食うの」
「……メンバーとは?」
「仕事中は食うよ」
「じゃあ普通にじゃん」
「違うんだよな」
陽向が。
少し考える。
「仕事の合間とか」
「終わってからみんなで行くとかじゃなくて」
「家帰って」
「何でもないもん作って」
「今日こんなことあったって話しながら食うやつ」
胸が。
少しだけ鳴った。
「陽向、一人暮らし?」
「うん」
「そっか」
トップアイドル。
大勢に囲まれている。
毎日。
たくさんの人に会って。
何万人ものファンがいる。
だから。
勝手に。
寂しいなんて思わない人だと思っていた。
「一人だと」
陽向が言う。
「適当になんだよ」
「ご飯?」
「全部」
「……」
「仕事終わって帰ったら」
「アニメ見るかゲームするか」
「そのまま寝落ちとか」
「健康に悪そう」
「美月、急に母親になるじゃん」
「だってそれは言うよ」
「ほら」
陽向が笑う。
「そういうの」
「え?」
「紗良はあんまり言わなかった」
また。
紗良の名前。
でも。
以前ほど。
胸はざわつかなかった。
陽向が紗良のことを話す。
それは。
陽向の人生の一部。
消せないし。
消す必要もない。
「紗良さんは?」
「『自己責任でしょ』って」
「……強い」
「だろ?」
陽向が笑う。
「でも」
少しだけ。
その笑顔が寂しくなる。
「そういうとこも、紗良だった」
私は。
頷いた。
「好きだったんだね」
「……大事だったよ」
陽向が静かに答える。
今度は。
その言葉を。
ちゃんと聞けた。
「うん」
それだけで。
よかった。
◇◇◇
食事を終えて。
二人で片づけをした。
そして。
陽向は。
また当然のようにソファへ寝転がった。
「ねえ」
「ん?」
「さっき片づけ苦手って言ってたけど」
「うん」
「ここでは散らかさないでよ」
「美月、厳しい」
「ここ私が片づけることになるから」
「じゃあ俺ん家来たら?」
「え?」
何でもない調子で。
陽向が言う。
「俺ん家片づけて」
「嫌」
即答。
「早っ!」
「自分でやって」
「えー」
「子どもじゃないんだから」
「冷たい」
「陽向が甘えすぎなの」
陽向は。
口を尖らせる。
それを見て。
また笑ってしまう。
本当に。
テレビでは。
こんな顔。
なかなか見ない。
「……ねえ」
「ん?」
「陽向ってさ」
「うん」
「外ではずっとあんな感じなの?」
「あんな感じ?」
「テレビ」
陽向が。
少し考える。
「まあ」
「明るい?」
「うん」
「ずっと?」
「……たぶん」
「疲れない?」
その瞬間。
陽向の表情が。
ほんの一瞬だけ。
止まった。
本当に。
一瞬。
普通なら。
気づかないくらい。
でも。
私は気づいた。
「……疲れる?」
もう一度聞く。
陽向が笑う。
いつもの。
明るい笑顔。
「何言ってんの」
「……」
「好きでやってんだから」
その答え。
昔の私なら。
そのまま受け取っていたと思う。
天城陽向は。
アイドルが大好きで。
いつでも楽しくて。
笑顔で。
そういう人。
でも。
今は。
分かる。
今の笑顔。
さっきまでの笑顔と。
少し違う。
「……そっか」
私は。
それ以上聞かなかった。
陽向も。
何も言わなかった。
テレビをつける。
アニメが流れる。
少しして。
陽向が。
小さく言った。
「……美月ってさ」
「何?」
「変なとこ鋭いよね」
「変なとこって何」
「いや」
陽向は。
テレビを見たまま。
「何でもない」
今度は。
陽向が。
『何でもない』
と言った。
私は。
思わず陽向を見る。
この人も。
言うんだ。
大丈夫じゃないときに。
『大丈夫』
と言う。
何かあるときに。
『何でもない』
と言う。
私と。
同じ。
そう思った。
◇◇◇
一時間ほどして。
陽向がソファで静かになった。
「陽向?」
返事がない。
見ると。
眠っていた。
「……寝てる」
さっき。
ソファで寝ていたらどうするか。
そんな話をしたことを思い出す。
『紗良は絶対起こす』
私は。
少し考えた。
それから。
寝室から薄い毛布を持ってくる。
陽向に。
そっとかけた。
「……お疲れさま」
小さく呟く。
寝顔。
テレビでは。
絶対に見られない。
いや。
雑誌の企画なんかでは。
寝顔風の写真を見ることもあった。
でも。
これは違う。
本当に。
疲れて寝ている陽向。
少しだけ。
眉間に皺が寄っている。
「頑張ってるんだね」
私は。
その場にしゃがむ。
同じ三十四歳。
私は。
母親として。
妻として。
嫁として。
いろんなことに疲れていた。
陽向は。
アイドルとして。
きっと。
私には想像できないものを。
背負ってきた。
テレビの中では。
何も悩んでいないように見えた。
でも。
そんな人。
いるわけない。
私は。
ずっと陽向に。
元気をもらってきた。
辛いとき。
テレビの向こうから。
笑わせてもらった。
だから。
今度は。
「ここにいるときくらい」
小さく言う。
「無理しなくていいのにね」
もちろん。
眠っている陽向には。
聞こえていない。
そう思っていた。
◇◇◇
しばらくして。
陽向は。
ゆっくり目を開けた。
「……」
身体に。
毛布。
キッチンでは。
美月が何かを片づけている。
「起きた?」
美月が気づく。
「ごめん、起こした?」
「……いや」
「疲れてたんだね」
「寝てた?」
「ぐっすり」
「マジか」
陽向が身体を起こす。
「何で起こさなかったの?」
「寝たかったんでしょ?」
「……」
「ここにいるときくらい、いいんじゃない?」
その言葉。
陽向は。
何も返せなかった。
少し前。
眠る直前。
聞こえていた。
――ここにいるときくらい。
――無理しなくていいのにね。
あれを。
美月は。
独り言だと思っている。
でも。
聞こえていた。
「……美月」
「何?」
「なんでもない」
「またそれ?」
「今日はいいの」
「私の真似?」
美月が笑う。
陽向も。
少しだけ笑った。
でも。
胸の中には。
妙な感覚が残っていた。
一ノ瀬紗良とは。
三十四年間。
一緒にいた。
紗良は。
自分の過去を。
誰より知っていた。
でも。
高瀬美月は。
まだ自分のことを。
ほとんど知らない。
それなのに。
紗良にも。
メンバーにも。
誰にも言われたことのないことを。
さらっと言う。
『ここにいるときくらい、無理しなくていい』
その言葉が。
どうしてこんなに。
心に残るのか。
陽向には。
まだ分からなかった。
ただ。
一つだけ。
確かなことがあった。
美月はもう。
自分にとって。
紗良の身体にいる。
ただの知らない女性ではなかった。
そして美月にとっても。
天城陽向は。
少しずつ。
テレビの中の『最推し』から。
笑ったり。
疲れたり。
料理が苦手だったり。
ソファで寝落ちしたりする。
一人の男性へと。
変わり始めていた。
最初に見えたのは、見慣れ始めたマンションの地下駐車場だった。
「……あれ?」
身体を起こす。
助手席。
陽向の車。
どうやら。
帰ってくるまで、ずっと眠っていたらしい。
「起きた?」
隣から声がする。
「……寝てた?」
「爆睡」
「嘘」
「マジ」
「恥ずかしい……」
思わず顔を覆う。
「なんで?」
「だって、人の車であんなに寝るなんて」
「いいじゃん。疲れてたんでしょ」
陽向がシートベルトを外す。
「あと」
嫌な予感。
「何?」
「口開いてた」
「えっ!?」
反射的に口元を押さえる。
すると。
陽向が吹き出した。
「嘘」
「陽向!」
「あはははっ!」
「もう!」
さっきまで。
あんなに重い話をしていたのに。
たった一言で。
いつもの調子に戻されてしまう。
でも。
不思議と。
それが嫌じゃなかった。
むしろ。
少しだけ安心した。
「ほら、帰るよ」
陽向が車を降りる。
帰る。
その言葉に。
胸が少しだけ温かくなった。
◇◇◇
部屋に入ると。
昨日までと。
何も変わっていなかった。
ソファ。
テレビ。
キッチン。
そして。
テーブルの上に置かれた。
二つのマグカップ。
「……」
私は。
白いカップを見つめた。
朝。
ここを出たとき。
置いていったもの。
陽向との思い出を。
ここに残したつもりだった。
もう戻らないつもりで。
でも。
戻ってきた。
「ただいま……」
無意識に。
言っていた。
その言葉に。
自分で驚く。
ここは。
紗良の家。
なのに。
『ただいま』
と言えた。
後ろから。
「おかえり」
陽向の声。
心臓が。
小さく跳ねる。
振り返る。
陽向は。
何でもないことみたいに。
靴を脱いでいた。
「……」
「何?」
「いや」
何でだろう。
その一言だけで。
泣きそうになった。
「また泣く?」
「泣かない」
「目赤いけど」
「疲れてるだけ」
「はいはい」
陽向が。
私のバッグを持ってリビングへ向かう。
自分の家みたいに。
本当に自然に。
「それ、私が持つよ」
「もう持ってきた」
「ありがとう」
「どういたしまして」
これまでなら。
『ごめん』
と言っていた。
でも。
今日は。
『ありがとう』と言えた。
それだけのことなのに。
少しだけ。
変われた気がした。
◇◇◇
「腹減った」
ソファに座った陽向が。
開口一番。
そう言った。
「さっきまでの感動返して」
「何の感動?」
「何でもない」
「で、飯」
「陽向って本当に食べることばっかり」
「生きる基本だろ」
「それはそうだけど」
時計を見る。
もう夜。
私も。
ほとんど何も食べていなかった。
「冷蔵庫、何あったかな」
扉を開ける。
卵。
野菜。
豚肉。
冷凍ご飯。
「簡単なのでいい?」
「美月が作ってくれんの?」
「陽向も手伝うなら」
「え」
「嫌なの?」
「いやいや」
陽向が立ち上がる。
「やるやる」
「じゃあ野菜切って」
「任せろ」
「できる?」
「舐めんなよ」
ものすごく自信満々。
……嫌な予感。
◇◇◇
五分後。
「……陽向」
「何?」
「玉ねぎ」
「うん」
「大きくない?」
まな板の上。
切られた玉ねぎ。
大きい。
とにかく。
大きい。
「これくらいじゃない?」
「炒め物なのに?」
「食べ応えあるじゃん」
「そういう問題?」
「俺、細かい作業苦手なんだよ」
「さっき任せろって言ってたじゃん」
「気持ちはある」
「気持ちだけ!?」
陽向が笑う。
「じゃ、美月やって」
「もう!」
私は陽向から包丁を受け取る。
「見て」
「はい」
「こうやって半分にして」
「うん」
「薄めに」
「なるほど」
「次やってみて」
「先生!」
「はい、生徒」
陽向がもう一度包丁を持つ。
今度は。
さっきよりマシ。
でも。
やっぱり大きい。
「……まあ」
「何?」
「合格」
「よっしゃ!」
「甘い合格だからね」
「合格は合格!」
その喜び方。
子どもみたい。
私は。
思わず笑った。
「何笑ってんの」
「陽向って」
「ん?」
「もっと何でもできると思ってた」
「ひど!」
「だってテレビでは」
歌って。
踊って。
バラエティーもできて。
何でも器用にこなしている。
「俺、家では普通だよ」
陽向が言う。
「むしろできないことめっちゃある」
「例えば?」
「料理」
「今分かった」
「朝起きるの」
「意外」
「片づけ」
「……それはなんとなく分かる」
「なんで!?」
私は笑う。
陽向も。
笑う。
その瞬間。
ふと思った。
私は。
この人のことを。
ずっと知っていると思っていた。
十年以上。
応援してきた。
インタビューも。
テレビも。
ライブも。
たくさん見た。
でも。
知らなかった。
玉ねぎをこんなに大きく切ることも。
料理を褒めると。
子どもみたいに喜ぶことも。
車の中では。
静かな時間が結構好きなことも。
私が眠っている間。
無理に起こさないでいてくれることも。
テレビの中にいる。
『天城陽向』。
そして。
私の目の前にいる。
『陽向』。
同じなのに。
違う。
◇◇◇
出来上がったのは。
豚肉と野菜の炒め物。
味噌汁。
冷凍ご飯。
それだけ。
豪華でも何でもない。
「いただきます!」
陽向が手を合わせる。
「いただきます」
一口。
「うまっ!」
「毎回すごいね、そのリアクション」
「美味いから」
「今日は陽向も作ったでしょ」
「俺、玉ねぎ切った」
「大きかったけど」
「美月厳しい!」
二人で。
笑いながら食べる。
でも。
途中。
陽向が急に黙った。
「……?」
箸が止まっている。
「どうしたの?」
「いや」
「美味しくなかった?」
「逆」
「じゃあ何?」
陽向は。
味噌汁を見ながら。
少しだけ困ったように笑った。
「こういうの」
「?」
「久しぶりだなって」
「家庭料理?」
「それもだけど」
陽向が。
部屋を見回す。
「誰かと普通に飯食うの」
「……メンバーとは?」
「仕事中は食うよ」
「じゃあ普通にじゃん」
「違うんだよな」
陽向が。
少し考える。
「仕事の合間とか」
「終わってからみんなで行くとかじゃなくて」
「家帰って」
「何でもないもん作って」
「今日こんなことあったって話しながら食うやつ」
胸が。
少しだけ鳴った。
「陽向、一人暮らし?」
「うん」
「そっか」
トップアイドル。
大勢に囲まれている。
毎日。
たくさんの人に会って。
何万人ものファンがいる。
だから。
勝手に。
寂しいなんて思わない人だと思っていた。
「一人だと」
陽向が言う。
「適当になんだよ」
「ご飯?」
「全部」
「……」
「仕事終わって帰ったら」
「アニメ見るかゲームするか」
「そのまま寝落ちとか」
「健康に悪そう」
「美月、急に母親になるじゃん」
「だってそれは言うよ」
「ほら」
陽向が笑う。
「そういうの」
「え?」
「紗良はあんまり言わなかった」
また。
紗良の名前。
でも。
以前ほど。
胸はざわつかなかった。
陽向が紗良のことを話す。
それは。
陽向の人生の一部。
消せないし。
消す必要もない。
「紗良さんは?」
「『自己責任でしょ』って」
「……強い」
「だろ?」
陽向が笑う。
「でも」
少しだけ。
その笑顔が寂しくなる。
「そういうとこも、紗良だった」
私は。
頷いた。
「好きだったんだね」
「……大事だったよ」
陽向が静かに答える。
今度は。
その言葉を。
ちゃんと聞けた。
「うん」
それだけで。
よかった。
◇◇◇
食事を終えて。
二人で片づけをした。
そして。
陽向は。
また当然のようにソファへ寝転がった。
「ねえ」
「ん?」
「さっき片づけ苦手って言ってたけど」
「うん」
「ここでは散らかさないでよ」
「美月、厳しい」
「ここ私が片づけることになるから」
「じゃあ俺ん家来たら?」
「え?」
何でもない調子で。
陽向が言う。
「俺ん家片づけて」
「嫌」
即答。
「早っ!」
「自分でやって」
「えー」
「子どもじゃないんだから」
「冷たい」
「陽向が甘えすぎなの」
陽向は。
口を尖らせる。
それを見て。
また笑ってしまう。
本当に。
テレビでは。
こんな顔。
なかなか見ない。
「……ねえ」
「ん?」
「陽向ってさ」
「うん」
「外ではずっとあんな感じなの?」
「あんな感じ?」
「テレビ」
陽向が。
少し考える。
「まあ」
「明るい?」
「うん」
「ずっと?」
「……たぶん」
「疲れない?」
その瞬間。
陽向の表情が。
ほんの一瞬だけ。
止まった。
本当に。
一瞬。
普通なら。
気づかないくらい。
でも。
私は気づいた。
「……疲れる?」
もう一度聞く。
陽向が笑う。
いつもの。
明るい笑顔。
「何言ってんの」
「……」
「好きでやってんだから」
その答え。
昔の私なら。
そのまま受け取っていたと思う。
天城陽向は。
アイドルが大好きで。
いつでも楽しくて。
笑顔で。
そういう人。
でも。
今は。
分かる。
今の笑顔。
さっきまでの笑顔と。
少し違う。
「……そっか」
私は。
それ以上聞かなかった。
陽向も。
何も言わなかった。
テレビをつける。
アニメが流れる。
少しして。
陽向が。
小さく言った。
「……美月ってさ」
「何?」
「変なとこ鋭いよね」
「変なとこって何」
「いや」
陽向は。
テレビを見たまま。
「何でもない」
今度は。
陽向が。
『何でもない』
と言った。
私は。
思わず陽向を見る。
この人も。
言うんだ。
大丈夫じゃないときに。
『大丈夫』
と言う。
何かあるときに。
『何でもない』
と言う。
私と。
同じ。
そう思った。
◇◇◇
一時間ほどして。
陽向がソファで静かになった。
「陽向?」
返事がない。
見ると。
眠っていた。
「……寝てる」
さっき。
ソファで寝ていたらどうするか。
そんな話をしたことを思い出す。
『紗良は絶対起こす』
私は。
少し考えた。
それから。
寝室から薄い毛布を持ってくる。
陽向に。
そっとかけた。
「……お疲れさま」
小さく呟く。
寝顔。
テレビでは。
絶対に見られない。
いや。
雑誌の企画なんかでは。
寝顔風の写真を見ることもあった。
でも。
これは違う。
本当に。
疲れて寝ている陽向。
少しだけ。
眉間に皺が寄っている。
「頑張ってるんだね」
私は。
その場にしゃがむ。
同じ三十四歳。
私は。
母親として。
妻として。
嫁として。
いろんなことに疲れていた。
陽向は。
アイドルとして。
きっと。
私には想像できないものを。
背負ってきた。
テレビの中では。
何も悩んでいないように見えた。
でも。
そんな人。
いるわけない。
私は。
ずっと陽向に。
元気をもらってきた。
辛いとき。
テレビの向こうから。
笑わせてもらった。
だから。
今度は。
「ここにいるときくらい」
小さく言う。
「無理しなくていいのにね」
もちろん。
眠っている陽向には。
聞こえていない。
そう思っていた。
◇◇◇
しばらくして。
陽向は。
ゆっくり目を開けた。
「……」
身体に。
毛布。
キッチンでは。
美月が何かを片づけている。
「起きた?」
美月が気づく。
「ごめん、起こした?」
「……いや」
「疲れてたんだね」
「寝てた?」
「ぐっすり」
「マジか」
陽向が身体を起こす。
「何で起こさなかったの?」
「寝たかったんでしょ?」
「……」
「ここにいるときくらい、いいんじゃない?」
その言葉。
陽向は。
何も返せなかった。
少し前。
眠る直前。
聞こえていた。
――ここにいるときくらい。
――無理しなくていいのにね。
あれを。
美月は。
独り言だと思っている。
でも。
聞こえていた。
「……美月」
「何?」
「なんでもない」
「またそれ?」
「今日はいいの」
「私の真似?」
美月が笑う。
陽向も。
少しだけ笑った。
でも。
胸の中には。
妙な感覚が残っていた。
一ノ瀬紗良とは。
三十四年間。
一緒にいた。
紗良は。
自分の過去を。
誰より知っていた。
でも。
高瀬美月は。
まだ自分のことを。
ほとんど知らない。
それなのに。
紗良にも。
メンバーにも。
誰にも言われたことのないことを。
さらっと言う。
『ここにいるときくらい、無理しなくていい』
その言葉が。
どうしてこんなに。
心に残るのか。
陽向には。
まだ分からなかった。
ただ。
一つだけ。
確かなことがあった。
美月はもう。
自分にとって。
紗良の身体にいる。
ただの知らない女性ではなかった。
そして美月にとっても。
天城陽向は。
少しずつ。
テレビの中の『最推し』から。
笑ったり。
疲れたり。
料理が苦手だったり。
ソファで寝落ちしたりする。
一人の男性へと。
変わり始めていた。



