「なんで一人で全部決めんだよ」
陽向の言葉が。
胸の奥に突き刺さった。
私は何も言えなかった。
一人で決めた。
確かにそうだ。
陽向が苦しそうだったから。
紗良を返してほしいと言ったから。
私がいなくなれば。
少しは楽になるんじゃないかと思った。
でも。
陽向に。
「離れてほしい」
と言われたわけじゃない。
「……だって」
やっと声を出す。
「陽向が辛そうだったから」
「だからって」
「私の顔見るたび、紗良さんのこと思い出すでしょ?」
「思い出すよ」
迷いのない返事だった。
胸が痛む。
「だったら……」
「でも」
陽向が遮った。
「それと、美月にいなくなってほしいのは別だろ」
「……」
「俺が紗良のこと思い出して辛いからって」
陽向の眉が寄る。
「美月が一人でどっか行かなきゃいけない理由になんの?」
「でも私……」
「また『でも』」
「……」
言葉を飲み込む。
陽向が。
大きく息を吐いた。
「昨日の俺が悪かった」
「陽向は悪くないよ」
「悪い」
「だって紗良さんは――」
「そういうことじゃない」
陽向が首を振る。
「紗良に戻ってきてほしいって思ってるのは本当」
「……うん」
「それは今も変わってない」
分かっている。
それを。
嘘で否定してほしいとも思わない。
「でも」
陽向が私を見る。
「『紗良を返してくれ』って美月に言ったって、どうしようもないじゃん」
「……」
「美月が紗良をどっかに隠してるわけじゃない」
「うん」
「自分でこの身体に入ったわけでもない」
「……うん」
「なのに俺」
拳を握る。
「美月なら何とかできるみたいに」
「美月が悪いみたいに言った」
「そんなつもりじゃ……」
「なくても、そう聞こえただろ」
何も言えなかった。
聞こえた。
そして。
傷ついた。
でも。
それを言ったら。
陽向を責めることになる気がして。
言えなかった。
すると。
「美月」
優しい声で呼ばれた。
「昨日の言葉」
「……」
「傷ついた?」
心臓が跳ねた。
真っ直ぐ聞かれる。
逃げられない。
いつもの私は。
ここで。
『大丈夫』
と言う。
『気にしてない』
と笑う。
相手の罪悪感を減らすために。
本当の気持ちを。
飲み込む。
でも。
陽向はずっと。
それをやめろと言っていた。
私は。
ぎゅっと手を握った。
「……傷ついた」
ようやく言った。
陽向の顔が歪んだ。
「うん」
「すごく」
「……うん」
「私だって好きでここにいるわけじゃないのにって」
涙が滲む。
「私だって子どもたちのところに帰りたいのに」
「うん」
「自分の身体に戻りたいのに」
「……うん」
「なのに」
声が震える。
「『返して』って言われても」
「どうしたらいいのか分からないよって」
陽向は。
一度も遮らなかった。
「それに」
一番。
言いたくなかった気持ち。
でも。
口にする。
「私……」
「うん」
「陽向に」
喉が詰まる。
「いなくなってほしいって言われたみたいで」
陽向が。
はっとした。
「……違う」
「分かってる」
「違う、美月」
今度は。
強く言われた。
「俺は」
一歩近づく。
「美月にいなくなってほしいなんて思ってない」
「……」
「昨日だって」
陽向は苦しそうに眉を寄せる。
「紗良の事故のこと聞いて」
「紗良が俺のこと好きだったって知って」
「俺、何にも気づいてなかったって思って」
「……」
「頭ぐちゃぐちゃになって」
だから。
あの言葉が出た。
「でも、それを美月にぶつけていい理由にはならない」
陽向が。
深く頭を下げた。
「……ごめん」
驚いた。
「陽向……」
「本当にごめん」
トップアイドルの天城陽向が。
私に。
頭を下げている。
そんなことじゃない。
そう言おうとして。
やめた。
陽向は。
ちゃんと謝ってくれている。
だったら。
私も。
ちゃんと受け取らなければいけない。
「……うん」
私は涙を拭った。
「分かった」
「……許してくれる?」
「うん」
少しだけ間を置いて。
「でも、もう言わないで」
初めて。
そんなことを言った。
陽向が目を見開く。
「『紗良さんを返して』って」
「……うん」
「私、本当に何もできないから」
「分かった」
「それ言われたら」
胸に手を当てる。
「私、自分がここにいることまで悪いことみたいに思っちゃう」
陽向の目が。
少し揺れた。
「……分かった」
今度は。
ゆっくり。
噛みしめるように頷いた。
「言わない」
「うん」
「約束する」
その言葉を聞いて。
少しだけ。
胸の力が抜けた。
◇◇◇
「……さっきの子」
陽向が。
私の後ろを見る。
星たちは。
もうどこにも見えない。
「娘?」
胸がきゅっとなる。
「……うん」
「星ちゃん?」
「うん」
「そっか」
陽向は。
星が消えていった方向を見る。
「会えたな」
「……会えた、のかな」
私は。
少しだけ笑った。
「何も話してないけど」
「でも見れたじゃん」
「うん」
元気だった。
笑っていた。
それだけで。
どれだけ安心したか。
「目が合ったの」
「え?」
「星と」
あの瞬間を思い出す。
知らない女性を見る目。
でも。
なぜか。
長い間こちらを見つめていた。
「私ね」
声が震える。
「一瞬だけ」
「……」
「もしかして、分かったのかなって思っちゃった」
「……」
「そんなわけないのに」
今の顔は。
一ノ瀬紗良。
母親だった頃の面影なんて。
どこにもない。
「でも」
陽向が言った。
「何か感じた可能性くらいはあるんじゃない?」
「え?」
「だって」
少し笑う。
「美月が紗良の身体に入ってんのだって、普通ならありえないんだろ?」
「……うん」
「だったら」
肩をすくめる。
「娘が母親の何か感じても、もう俺は驚かない」
私は。
思わず笑った。
「何それ」
「いや、マジで」
陽向も笑う。
「最近、俺の常識めちゃくちゃだから」
「私のせい?」
「そこは美月のせいじゃない」
すぐに言われた。
その言葉に。
胸が少し温かくなる。
「……星」
もう一度名前を口にする。
「大きくなったら」
「うん」
「どんな子になるんだろ」
「見たい?」
「……見たい」
迷わず答えた。
「ずっと見たい」
「じゃあ」
陽向が。
当たり前みたいに言った。
「生きなきゃな」
私は顔を上げた。
「……」
「美月が消えるかもとか」
「紗良が戻るかもとか」
「俺たち今、何にも分かってない」
「うん」
「だったら」
陽向が私を見る。
「分かんないことで、先に自分から消えようとすんなよ」
胸が。
ぎゅっと締めつけられる。
「でも」
言いかける。
陽向の眉が上がった。
「あ」
自分で気づいて。
口を閉じた。
「また『でも』言うところだった」
「言ったけどな」
「途中だからセーフ」
「アウトだろ」
思わず。
二人で笑った。
こんな状況なのに。
笑える。
それが。
不思議だった。
◇◇◇
「で」
陽向が。
私のバッグを見る。
「これ、何?」
「……荷物」
「見りゃ分かる」
「数日分の服とか」
「家出じゃん」
「家出って……」
「三十四歳で家出」
「陽向も三十四歳でしょ!」
「俺はしてない」
「もう」
少しだけ。
いつもの陽向に戻ってきた。
それが。
嬉しかった。
「どこ泊まるつもりだったの?」
「……」
答えられない。
陽向がじっと見る。
「ホテル?」
「……たぶん」
「取った?」
「まだ」
「金は?」
「紗良さんの財布に……」
言いながら。
また。
罪悪感。
「ほら」
陽向がため息をつく。
「何にも決めてなかったんじゃん」
「……うん」
「行く場所もなくて」
「うん」
「金使うのも紗良に悪いって思って」
「……なんで分かったの?」
「美月だから」
即答。
「美月なら絶対そう考える」
言葉が止まった。
陽向が。
私のことを。
分かるようになっている。
まだ。
出会って間もないのに。
紗良ではなく。
私の考え方を。
「……陽向」
「ん?」
「私のこと」
「うん」
「分かってきた?」
陽向が一瞬固まった。
「まあ」
少し照れたように。
視線を逸らす。
「分かりやすいし」
「またそれ」
「すぐ顔に出る」
「嫌だな」
「俺は楽だけど」
「何で?」
「言ってることと顔違ったら分かるから」
「……」
それ。
私には。
少し怖い。
でも。
同時に。
嬉しい。
『大丈夫』
と言っても。
本当は大丈夫じゃないことに。
気づいてくれる。
そんな人が。
いる。
「じゃ」
陽向が突然。
私のバッグを持った。
「え?」
「帰るぞ」
「……どこに?」
「家」
胸が。
ざわつく。
「紗良さんの家?」
言った瞬間。
陽向が。
少し考えた。
そして。
「今は」
私を見る。
「美月が住んでる家」
「……」
「名義とかそういうのは紗良だけど」
「……うん」
「今そこで寝て」
「飯食って」
「生活してんの、美月だろ」
胸の奥が。
熱くなる。
「でも」
「あ」
陽向が指差す。
「今言った」
「……」
「でも禁止」
「そんなルール聞いてない」
「今作った」
「勝手!」
陽向が笑う。
「帰ろ」
もう一度。
今度は。
少し優しく言った。
「美月」
その一言。
『美月』
私の名前。
高瀬美月。
もう。
公的には。
この世界からいなくなった人。
ニュースでは。
死亡した女性。
家族にとっては。
亡くなった母親。
だけど。
陽向だけは。
今の私を。
美月と呼ぶ。
「……帰っていいの?」
小さく聞く。
陽向は。
少し困ったように笑った。
「だから」
「俺に聞くなって」
「え?」
「美月が帰りたいかどうかだろ」
また。
私に聞く。
どうしたい?
自分で決めていい。
私は。
今まで。
周りがどう思うかばかり考えていた。
迷惑じゃないか。
怒られないか。
嫌われないか。
それから。
自分がどうしたいのかを考える。
だから。
突然聞かれると。
難しい。
「……私」
ゆっくり考える。
あの部屋。
知らない場所だった。
最初は。
怖かった。
でも。
陽向とコーヒーを飲んだ。
ハンバーグを作った。
テレビを見て笑った。
一緒にマグカップを選んだ。
ほんの少しずつ。
私の時間が。
あそこにも増えていた。
「帰りたい」
私は。
初めて。
自分の気持ちだけで答えた。
「……あの家に」
陽向が。
笑った。
「じゃあ帰ろ」
「うん」
私は。
一歩。
陽向の隣を歩き出した。
◇◇◇
車に乗ると。
急に疲れが押し寄せてきた。
一晩。
ほとんど眠っていない。
朝から歩き続けて。
星を見つけて。
泣いて。
陽向と話して。
限界だった。
助手席に座る。
陽向がエンジンをかける。
「寝ていいよ」
「大丈夫」
「はい、出た」
「……眠いです」
言い直した。
陽向が。
満足そうに頷く。
「よろしい」
「先生みたい」
「美月が素直じゃないから」
「陽向に言われたくない」
「俺めっちゃ素直だけど?」
「どこが?」
話しながら。
瞼が。
少しずつ重くなる。
「……陽向」
「ん?」
「今日」
「うん」
「来てくれてありがとう」
陽向が。
一瞬。
黙った。
「もう」
「?」
「勝手にいなくなんないで」
低い声。
私は。
横顔を見る。
「……うん」
「せめて連絡して」
「うん」
「電話出て」
「……うん」
「マジで心臓止まるかと思ったから」
その言葉に。
胸が。
少しだけ鳴った。
「そんなに?」
聞いてしまった。
陽向は。
前を向いたまま。
「そんなに」
答えた。
「……」
それ以上。
何も言えなかった。
私は。
窓の外へ視線を向ける。
胸の奥。
紗良の感情なのか。
私の感情なのか。
まだ。
分からない。
でも。
ひとつだけ。
分かったことがあった。
私は。
陽向に見つけてもらえたことが。
嬉しかった。
帰ろうと言われたことが。
嬉しかった。
そして。
もう一度。
陽向の隣にいていいのだと。
思えたことが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
◇◇◇
どれくらい経ったのか。
気づけば。
私は眠っていた。
車が赤信号で止まる。
陽向が。
助手席を見る。
静かに眠る美月。
紗良と同じ顔。
でも。
もう。
陽向には分かっていた。
これは。
紗良じゃない。
眠るとき。
少しだけ身体を丸める癖も。
バッグを抱えるようにして寝る姿も。
紗良とは違う。
「……美月」
小さく名前を呼ぶ。
反応はない。
陽向は。
前を向き直った。
昨日。
紗良を返してほしいと願った。
今でも。
紗良に会いたい。
それは。
嘘じゃない。
でも。
今日。
美月がいなくなったと知った瞬間。
自分は。
何を思った?
――紗良の身体がなくなった。
それだけだっただろうか。
違う。
頭に浮かんだのは。
美月の顔だった。
笑って。
泣いて。
すぐに謝って。
何か褒めれば。
びっくりするくらい嬉しそうにして。
自分のテレビを。
誰より楽しそうに見ていた。
高瀬美月。
「……なんなんだろうな」
陽向は。
小さく呟いた。
紗良を失うことが怖かった。
そして今。
美月までいなくなることも。
同じように。
怖かった。
その感情が。
何を意味するのか。
このときの陽向には。
まだ。
分からなかった。
陽向の言葉が。
胸の奥に突き刺さった。
私は何も言えなかった。
一人で決めた。
確かにそうだ。
陽向が苦しそうだったから。
紗良を返してほしいと言ったから。
私がいなくなれば。
少しは楽になるんじゃないかと思った。
でも。
陽向に。
「離れてほしい」
と言われたわけじゃない。
「……だって」
やっと声を出す。
「陽向が辛そうだったから」
「だからって」
「私の顔見るたび、紗良さんのこと思い出すでしょ?」
「思い出すよ」
迷いのない返事だった。
胸が痛む。
「だったら……」
「でも」
陽向が遮った。
「それと、美月にいなくなってほしいのは別だろ」
「……」
「俺が紗良のこと思い出して辛いからって」
陽向の眉が寄る。
「美月が一人でどっか行かなきゃいけない理由になんの?」
「でも私……」
「また『でも』」
「……」
言葉を飲み込む。
陽向が。
大きく息を吐いた。
「昨日の俺が悪かった」
「陽向は悪くないよ」
「悪い」
「だって紗良さんは――」
「そういうことじゃない」
陽向が首を振る。
「紗良に戻ってきてほしいって思ってるのは本当」
「……うん」
「それは今も変わってない」
分かっている。
それを。
嘘で否定してほしいとも思わない。
「でも」
陽向が私を見る。
「『紗良を返してくれ』って美月に言ったって、どうしようもないじゃん」
「……」
「美月が紗良をどっかに隠してるわけじゃない」
「うん」
「自分でこの身体に入ったわけでもない」
「……うん」
「なのに俺」
拳を握る。
「美月なら何とかできるみたいに」
「美月が悪いみたいに言った」
「そんなつもりじゃ……」
「なくても、そう聞こえただろ」
何も言えなかった。
聞こえた。
そして。
傷ついた。
でも。
それを言ったら。
陽向を責めることになる気がして。
言えなかった。
すると。
「美月」
優しい声で呼ばれた。
「昨日の言葉」
「……」
「傷ついた?」
心臓が跳ねた。
真っ直ぐ聞かれる。
逃げられない。
いつもの私は。
ここで。
『大丈夫』
と言う。
『気にしてない』
と笑う。
相手の罪悪感を減らすために。
本当の気持ちを。
飲み込む。
でも。
陽向はずっと。
それをやめろと言っていた。
私は。
ぎゅっと手を握った。
「……傷ついた」
ようやく言った。
陽向の顔が歪んだ。
「うん」
「すごく」
「……うん」
「私だって好きでここにいるわけじゃないのにって」
涙が滲む。
「私だって子どもたちのところに帰りたいのに」
「うん」
「自分の身体に戻りたいのに」
「……うん」
「なのに」
声が震える。
「『返して』って言われても」
「どうしたらいいのか分からないよって」
陽向は。
一度も遮らなかった。
「それに」
一番。
言いたくなかった気持ち。
でも。
口にする。
「私……」
「うん」
「陽向に」
喉が詰まる。
「いなくなってほしいって言われたみたいで」
陽向が。
はっとした。
「……違う」
「分かってる」
「違う、美月」
今度は。
強く言われた。
「俺は」
一歩近づく。
「美月にいなくなってほしいなんて思ってない」
「……」
「昨日だって」
陽向は苦しそうに眉を寄せる。
「紗良の事故のこと聞いて」
「紗良が俺のこと好きだったって知って」
「俺、何にも気づいてなかったって思って」
「……」
「頭ぐちゃぐちゃになって」
だから。
あの言葉が出た。
「でも、それを美月にぶつけていい理由にはならない」
陽向が。
深く頭を下げた。
「……ごめん」
驚いた。
「陽向……」
「本当にごめん」
トップアイドルの天城陽向が。
私に。
頭を下げている。
そんなことじゃない。
そう言おうとして。
やめた。
陽向は。
ちゃんと謝ってくれている。
だったら。
私も。
ちゃんと受け取らなければいけない。
「……うん」
私は涙を拭った。
「分かった」
「……許してくれる?」
「うん」
少しだけ間を置いて。
「でも、もう言わないで」
初めて。
そんなことを言った。
陽向が目を見開く。
「『紗良さんを返して』って」
「……うん」
「私、本当に何もできないから」
「分かった」
「それ言われたら」
胸に手を当てる。
「私、自分がここにいることまで悪いことみたいに思っちゃう」
陽向の目が。
少し揺れた。
「……分かった」
今度は。
ゆっくり。
噛みしめるように頷いた。
「言わない」
「うん」
「約束する」
その言葉を聞いて。
少しだけ。
胸の力が抜けた。
◇◇◇
「……さっきの子」
陽向が。
私の後ろを見る。
星たちは。
もうどこにも見えない。
「娘?」
胸がきゅっとなる。
「……うん」
「星ちゃん?」
「うん」
「そっか」
陽向は。
星が消えていった方向を見る。
「会えたな」
「……会えた、のかな」
私は。
少しだけ笑った。
「何も話してないけど」
「でも見れたじゃん」
「うん」
元気だった。
笑っていた。
それだけで。
どれだけ安心したか。
「目が合ったの」
「え?」
「星と」
あの瞬間を思い出す。
知らない女性を見る目。
でも。
なぜか。
長い間こちらを見つめていた。
「私ね」
声が震える。
「一瞬だけ」
「……」
「もしかして、分かったのかなって思っちゃった」
「……」
「そんなわけないのに」
今の顔は。
一ノ瀬紗良。
母親だった頃の面影なんて。
どこにもない。
「でも」
陽向が言った。
「何か感じた可能性くらいはあるんじゃない?」
「え?」
「だって」
少し笑う。
「美月が紗良の身体に入ってんのだって、普通ならありえないんだろ?」
「……うん」
「だったら」
肩をすくめる。
「娘が母親の何か感じても、もう俺は驚かない」
私は。
思わず笑った。
「何それ」
「いや、マジで」
陽向も笑う。
「最近、俺の常識めちゃくちゃだから」
「私のせい?」
「そこは美月のせいじゃない」
すぐに言われた。
その言葉に。
胸が少し温かくなる。
「……星」
もう一度名前を口にする。
「大きくなったら」
「うん」
「どんな子になるんだろ」
「見たい?」
「……見たい」
迷わず答えた。
「ずっと見たい」
「じゃあ」
陽向が。
当たり前みたいに言った。
「生きなきゃな」
私は顔を上げた。
「……」
「美月が消えるかもとか」
「紗良が戻るかもとか」
「俺たち今、何にも分かってない」
「うん」
「だったら」
陽向が私を見る。
「分かんないことで、先に自分から消えようとすんなよ」
胸が。
ぎゅっと締めつけられる。
「でも」
言いかける。
陽向の眉が上がった。
「あ」
自分で気づいて。
口を閉じた。
「また『でも』言うところだった」
「言ったけどな」
「途中だからセーフ」
「アウトだろ」
思わず。
二人で笑った。
こんな状況なのに。
笑える。
それが。
不思議だった。
◇◇◇
「で」
陽向が。
私のバッグを見る。
「これ、何?」
「……荷物」
「見りゃ分かる」
「数日分の服とか」
「家出じゃん」
「家出って……」
「三十四歳で家出」
「陽向も三十四歳でしょ!」
「俺はしてない」
「もう」
少しだけ。
いつもの陽向に戻ってきた。
それが。
嬉しかった。
「どこ泊まるつもりだったの?」
「……」
答えられない。
陽向がじっと見る。
「ホテル?」
「……たぶん」
「取った?」
「まだ」
「金は?」
「紗良さんの財布に……」
言いながら。
また。
罪悪感。
「ほら」
陽向がため息をつく。
「何にも決めてなかったんじゃん」
「……うん」
「行く場所もなくて」
「うん」
「金使うのも紗良に悪いって思って」
「……なんで分かったの?」
「美月だから」
即答。
「美月なら絶対そう考える」
言葉が止まった。
陽向が。
私のことを。
分かるようになっている。
まだ。
出会って間もないのに。
紗良ではなく。
私の考え方を。
「……陽向」
「ん?」
「私のこと」
「うん」
「分かってきた?」
陽向が一瞬固まった。
「まあ」
少し照れたように。
視線を逸らす。
「分かりやすいし」
「またそれ」
「すぐ顔に出る」
「嫌だな」
「俺は楽だけど」
「何で?」
「言ってることと顔違ったら分かるから」
「……」
それ。
私には。
少し怖い。
でも。
同時に。
嬉しい。
『大丈夫』
と言っても。
本当は大丈夫じゃないことに。
気づいてくれる。
そんな人が。
いる。
「じゃ」
陽向が突然。
私のバッグを持った。
「え?」
「帰るぞ」
「……どこに?」
「家」
胸が。
ざわつく。
「紗良さんの家?」
言った瞬間。
陽向が。
少し考えた。
そして。
「今は」
私を見る。
「美月が住んでる家」
「……」
「名義とかそういうのは紗良だけど」
「……うん」
「今そこで寝て」
「飯食って」
「生活してんの、美月だろ」
胸の奥が。
熱くなる。
「でも」
「あ」
陽向が指差す。
「今言った」
「……」
「でも禁止」
「そんなルール聞いてない」
「今作った」
「勝手!」
陽向が笑う。
「帰ろ」
もう一度。
今度は。
少し優しく言った。
「美月」
その一言。
『美月』
私の名前。
高瀬美月。
もう。
公的には。
この世界からいなくなった人。
ニュースでは。
死亡した女性。
家族にとっては。
亡くなった母親。
だけど。
陽向だけは。
今の私を。
美月と呼ぶ。
「……帰っていいの?」
小さく聞く。
陽向は。
少し困ったように笑った。
「だから」
「俺に聞くなって」
「え?」
「美月が帰りたいかどうかだろ」
また。
私に聞く。
どうしたい?
自分で決めていい。
私は。
今まで。
周りがどう思うかばかり考えていた。
迷惑じゃないか。
怒られないか。
嫌われないか。
それから。
自分がどうしたいのかを考える。
だから。
突然聞かれると。
難しい。
「……私」
ゆっくり考える。
あの部屋。
知らない場所だった。
最初は。
怖かった。
でも。
陽向とコーヒーを飲んだ。
ハンバーグを作った。
テレビを見て笑った。
一緒にマグカップを選んだ。
ほんの少しずつ。
私の時間が。
あそこにも増えていた。
「帰りたい」
私は。
初めて。
自分の気持ちだけで答えた。
「……あの家に」
陽向が。
笑った。
「じゃあ帰ろ」
「うん」
私は。
一歩。
陽向の隣を歩き出した。
◇◇◇
車に乗ると。
急に疲れが押し寄せてきた。
一晩。
ほとんど眠っていない。
朝から歩き続けて。
星を見つけて。
泣いて。
陽向と話して。
限界だった。
助手席に座る。
陽向がエンジンをかける。
「寝ていいよ」
「大丈夫」
「はい、出た」
「……眠いです」
言い直した。
陽向が。
満足そうに頷く。
「よろしい」
「先生みたい」
「美月が素直じゃないから」
「陽向に言われたくない」
「俺めっちゃ素直だけど?」
「どこが?」
話しながら。
瞼が。
少しずつ重くなる。
「……陽向」
「ん?」
「今日」
「うん」
「来てくれてありがとう」
陽向が。
一瞬。
黙った。
「もう」
「?」
「勝手にいなくなんないで」
低い声。
私は。
横顔を見る。
「……うん」
「せめて連絡して」
「うん」
「電話出て」
「……うん」
「マジで心臓止まるかと思ったから」
その言葉に。
胸が。
少しだけ鳴った。
「そんなに?」
聞いてしまった。
陽向は。
前を向いたまま。
「そんなに」
答えた。
「……」
それ以上。
何も言えなかった。
私は。
窓の外へ視線を向ける。
胸の奥。
紗良の感情なのか。
私の感情なのか。
まだ。
分からない。
でも。
ひとつだけ。
分かったことがあった。
私は。
陽向に見つけてもらえたことが。
嬉しかった。
帰ろうと言われたことが。
嬉しかった。
そして。
もう一度。
陽向の隣にいていいのだと。
思えたことが。
どうしようもなく。
嬉しかった。
◇◇◇
どれくらい経ったのか。
気づけば。
私は眠っていた。
車が赤信号で止まる。
陽向が。
助手席を見る。
静かに眠る美月。
紗良と同じ顔。
でも。
もう。
陽向には分かっていた。
これは。
紗良じゃない。
眠るとき。
少しだけ身体を丸める癖も。
バッグを抱えるようにして寝る姿も。
紗良とは違う。
「……美月」
小さく名前を呼ぶ。
反応はない。
陽向は。
前を向き直った。
昨日。
紗良を返してほしいと願った。
今でも。
紗良に会いたい。
それは。
嘘じゃない。
でも。
今日。
美月がいなくなったと知った瞬間。
自分は。
何を思った?
――紗良の身体がなくなった。
それだけだっただろうか。
違う。
頭に浮かんだのは。
美月の顔だった。
笑って。
泣いて。
すぐに謝って。
何か褒めれば。
びっくりするくらい嬉しそうにして。
自分のテレビを。
誰より楽しそうに見ていた。
高瀬美月。
「……なんなんだろうな」
陽向は。
小さく呟いた。
紗良を失うことが怖かった。
そして今。
美月までいなくなることも。
同じように。
怖かった。
その感情が。
何を意味するのか。
このときの陽向には。
まだ。
分からなかった。



