――紗良を返してくれよ。
陽向の言葉が。
何度も。
何度も。
頭の中で繰り返されていた。
陽向が帰ったあと。
私は。
しばらく何もできなかった。
ソファに座ったまま。
ただ。
ぼんやりと。
テーブルの上を見つめていた。
薄いピンク色のマグカップ。
陽向と一緒に選んだもの。
その隣には。
私の白いマグカップ。
二つ並んでいる。
つい数日前までは。
それを見るだけで嬉しかった。
私と陽向の。
初めての思い出。
そう思っていた。
でも。
今は違う。
「……私、何してるんだろ」
小さく呟いた。
ここは。
一ノ瀬紗良の家。
このソファも。
このテーブルも。
この服も。
この身体も。
全部。
紗良のもの。
なのに私は。
ここで暮らして。
紗良の幼なじみだった陽向と笑って。
一緒にご飯を食べて。
マグカップまで選んで。
少しずつ。
自分の居場所みたいに思い始めていた。
「……違うよね」
ここは。
私の場所じゃない。
陽向だって。
本当は。
私にいてほしかったわけじゃない。
目を覚ましたあの日。
泣きながら抱きしめたのも。
何度も家に来てくれたのも。
最初は全部。
紗良が心配だったから。
それなのに。
私は。
優しくされて。
嬉しくなって。
名前を呼んでもらって。
笑ってもらって。
いつの間にか。
もっと。
もっと。
と思うようになっていた。
「最低……」
涙が落ちた。
陽向は。
大切な人を失ったばかりなのに。
私は。
その人の身体で。
陽向のそばにいることを。
嬉しいと思ってしまった。
◇◇◇
その夜。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じると。
いろんな顔が浮かんでくる。
星。
子どもたち。
夫。
そして。
陽向。
最後に。
鏡の中の紗良。
「……」
私はベッドから起き上がった。
時計を見る。
午前四時過ぎ。
まだ外は暗い。
寝室を出る。
そして。
リビングの棚に置かれている。
紗良の写真を手に取った。
そこには。
女優として笑う紗良。
堂々としていて。
綺麗で。
私とは全然違う。
「紗良さん」
写真に向かって呼ぶ。
「本当に……ごめんね」
何度謝っても。
返事はない。
「私」
胸の前で手を握る。
「あなたの人生を生きるつもりなんてなかった」
事故に遭って。
目を覚ましただけ。
それだけだった。
でも。
今は。
違う。
少しずつ。
この身体で生きることに。
慣れ始めている。
それが。
怖かった。
「このままだったら」
声が震える。
「私、本当に」
「あなたの人生を奪っちゃうのかな」
仕事も。
友達も。
家も。
そして。
陽向まで。
「……そんなの嫌だよ」
私は。
写真を元の場所に戻した。
それから。
決めた。
ここを出よう。
◇◇◇
朝。
私は最低限の荷物だけをバッグに詰めた。
財布。
スマートフォン。
充電器。
数日分の服。
それだけ。
紗良の物を持ち出すことにも。
罪悪感があった。
でも。
今の私には。
自分の物なんて何ひとつない。
「……借ります」
誰もいない部屋に向かって。
小さく言った。
そして。
玄関へ向かう。
途中。
テーブルの前で。
足が止まる。
二つのマグカップ。
白。
ピンク。
私は。
少し迷って。
白いマグカップを手に取った。
「……」
持っていきたい。
そう思った。
でも。
結局。
元の場所へ戻した。
これも。
ここに置いていこう。
陽向との思い出まで。
持っていったら。
本当に。
戻れなくなる気がした。
玄関で靴を履く。
一度だけ。
部屋を振り返った。
「……ありがとうございました」
誰に向けているのか。
自分でも分からなかった。
紗良に?
陽向に?
この場所に?
そして。
私はドアを閉めた。
◇◇◇
どこに行くかなんて。
決めていなかった。
ただ。
陽向の近くには。
いないほうがいい。
そう思った。
スマートフォンには。
何件か連絡が入っていた。
マネージャーから。
そして。
陽向から。
画面を見る。
昨日の夜。
『昨日はごめん』
そのあと。
『ちゃんと話したい』
さらに今朝。
『起きてる?』
胸が苦しくなる。
返信したい。
でも。
できない。
「……これでいいの」
陽向が落ち着けば。
きっと。
分かる。
紗良を取り戻したいなら。
私から離れたほうがいい。
私の顔を見るたび。
紗良を思い出す。
でも。
話せば。
中にいるのは私。
それは。
陽向にとって。
きっと残酷だ。
だったら。
会わないほうがいい。
私はスマートフォンを伏せた。
◇◇◇
その頃。
陽向は。
紗良のマンションの前にいた。
「……出ない」
何度インターホンを押しても。
返事がない。
電話も。
繋がらない。
「美月?」
嫌な予感がする。
管理人に事情を話し。
マネージャーにも連絡を入れた。
しばらくして。
部屋の中へ入る。
「……美月?」
静か。
寝室。
いない。
キッチン。
いない。
浴室。
いない。
そして。
玄関に。
いつも履いていた靴がない。
陽向の顔が強張る。
「……嘘だろ」
テーブルを見る。
二つのマグカップ。
そのまま。
白いカップも。
ここにある。
「……何で」
陽向は。
すぐにスマートフォンを取り出した。
電話。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
メッセージを送る。
『どこにいる?』
既読にならない。
『美月』
『昨日のことなら謝る』
『ちゃんと話そう』
それでも。
返事はなかった。
「……っ」
陽向は。
頭を抱えた。
昨日。
言ってしまった。
紗良を返してくれ。
あの瞬間の。
美月の顔。
笑おうとして。
でも。
泣いていた。
『返せるなら返したいよ』
あの声。
どうして。
気づかなかったんだ。
自分だって。
美月に。
何度も言ってきた。
一人で全部決めるな。
我慢するな。
大丈夫じゃないときは。
大丈夫って言うな。
なのに。
一番。
追い詰めたのは。
自分じゃないか。
「……バカだろ、俺」
陽向は。
家を飛び出した。
◇◇◇
私は。
人目につかない場所を選びながら。
街を歩いていた。
一ノ瀬紗良は。
有名人。
帽子。
マスク。
なるべく顔を隠す。
でも。
行く場所がない。
高瀬美月の家には。
行けない。
紗良の友人のところにも。
行けない。
だって。
私には。
友人ですらない。
ホテルを取ろうにも。
一ノ瀬紗良の名前を使うことになる。
「……私」
道端で。
ふと立ち止まる。
本当に。
何にもないんだ。
高瀬美月としての家。
家族。
お金。
身分証。
全部。
死んだ私と一緒に。
なくなった。
一ノ瀬紗良としてなら。
何でもある。
家も。
仕事も。
お金も。
でも。
それは。
私のものじゃない。
「……どこに行けばいいの」
口に出した瞬間。
涙が滲んだ。
どこにも。
私の場所がない。
前の人生でも。
家族に囲まれながら。
何度も。
そう感じたことがあった。
自分だけ。
この家にいないみたい。
誰にも気持ちが届かない。
みんながいるのに。
一人みたい。
でも。
今は。
本当に一人だ。
「……星」
娘の名前を呼ぶ。
会いたい。
今すぐ。
会いに行きたい。
陽向と。
一緒に考えるはずだった。
遠くから。
子どもたちを見に行く方法。
でも。
もう。
陽向には頼れない。
いや。
頼っちゃいけない。
『紗良を返してくれよ』
また。
耳の奥で。
聞こえた。
「……分かってる」
私は。
小さく答えた。
「私が邪魔なんだよね」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
陽向。
電話。
出ない。
切れる。
また。
すぐにかかってくる。
「……」
出たら。
きっと。
戻りたくなる。
陽向に。
『帰ってこい』
と言われたら。
私は。
帰りたくなる。
だから。
出ない。
スマートフォンをバッグにしまった。
◇◇◇
夕方。
私は。
一つの公園にいた。
ベンチに座り。
子どもたちが遊ぶ姿を。
遠くから眺めている。
母親を呼ぶ声。
「ママー!」
その声を聞くたび。
胸が痛む。
「はーい!」
母親が答える。
走ってきた子を。
抱きしめる。
私は。
その光景から。
目を逸らせなかった。
「……いいな」
私も。
やっていた。
転んだら。
大丈夫?
って駆け寄って。
泣いたら。
抱っこして。
嬉しいことがあったら。
一緒に喜んで。
それなのに。
あの日を境に。
全部。
なくなった。
「星……」
また。
名前が出る。
星だけじゃない。
全員。
会いたい。
一度だけ。
遠くからでもいい。
元気な姿が見たい。
私はスマートフォンを取り出した。
そして。
夫のSNSを開く。
更新されていた。
新しい投稿。
何気ない写真。
子どもたち。
胸が止まりそうになった。
「……!」
そこに。
星がいた。
久しぶりに見る。
娘。
写真の中では。
笑っている。
でも。
少し。
痩せたように見えた。
「星……」
画面に触れる。
触っても。
届かない。
「ママだよ」
涙が落ちる。
「ここにいるよ」
でも。
星には聞こえない。
そのとき。
写真の背景に目が止まった。
見覚えのある場所。
「あ……」
ここ。
知ってる。
子どもたちと。
何度も行った場所。
今いる公園から。
それほど遠くない。
もしかしたら。
まだ。
近くにいる?
考えるより先に。
立ち上がっていた。
◇◇◇
一方。
陽向は。
必死に美月を探していた。
マネージャー。
病院。
美月が話していた場所。
思いつくところ。
全部。
でも。
いない。
「どこ行ったんだよ……」
そして。
ふと思い出す。
美月が。
何度も口にしていたこと。
――子どもたちに会いたい。
「……まさか」
陽向は。
以前調べた。
高瀬美月の情報を。
もう一度開いた。
住んでいた地域。
家族。
そして。
SNS。
そこに上がった。
新しい投稿。
「……ここ」
写真の背景。
場所が分かる。
陽向は。
すぐに車を走らせた。
◇◇◇
私は。
少し離れた場所から。
その姿を見つけた。
「……っ」
星。
間違えるはずがない。
娘。
少し先を。
歩いている。
家族と一緒に。
「ひかり……」
声が震える。
走り出したい。
名前を呼びたい。
抱きしめたい。
ママだよ。
って。
言いたい。
足が。
一歩。
前に出る。
でも。
止まった。
だめ。
今の私は。
一ノ瀬紗良。
知らない女の人。
星からしたら。
突然知らない大人に。
名前を呼ばれるだけ。
怖い。
「……」
私は。
電柱の陰に隠れた。
何をしているんだろう。
自分の娘なのに。
隠れて。
見ることしかできない。
星が。
何か話している。
少し笑った。
その笑顔を見た瞬間。
涙が溢れた。
「……よかった」
笑えてる。
星が。
笑ってる。
「よかった……」
声を殺す。
そのとき。
星が。
突然こちらを向いた。
「……!」
目が。
合った。
一瞬。
ほんの一瞬。
私は。
動けなかった。
星が。
不思議そうに。
私を見る。
当然。
知らない女性だから。
でも。
なぜか。
星は。
しばらく。
私から目を逸らさなかった。
胸が。
大きく鳴る。
もしかして。
そんな期待が。
一瞬だけ。
浮かんでしまう。
でも。
「星ー!」
家族に呼ばれ。
星が振り返った。
そして。
そのまま。
歩いていく。
私は。
追えなかった。
ただ。
離れていく背中を。
見ているだけ。
「……星」
小さく呼ぶ。
「ママね」
涙が止まらない。
「ずっと」
「ずっと大好きだよ」
届かなくても。
言いたかった。
そのときだった。
「美月!」
後ろから。
聞き慣れた声。
心臓が跳ねる。
振り返る。
息を切らした陽向が。
そこに立っていた。
「……陽向」
陽向の顔。
怒っている。
でも。
それ以上に。
泣きそうだった。
そして。
私のところまで来ると。
何も言わず。
ぎゅっと。
抱きしめた。
「……っ」
「何してんだよ……」
耳元で。
声が震える。
「何でいなくなんだよ……!」
「陽向……」
「電話出ろよ!」
強い声。
でも。
抱きしめる腕は。
震えていた。
「俺」
「……」
「マジで」
「また誰かいなくなったかと思った……」
その言葉に。
胸が締めつけられる。
紗良を失った。
そして。
今度は。
私まで。
「……ごめん」
反射的に言う。
陽向が。
私を抱きしめたまま。
「今回だけ」
「……え?」
「今回だけは」
声が震える。
「ちゃんと謝って」
私は。
目を閉じた。
「……ごめんなさい」
「うん」
「勝手にいなくなって」
「うん」
「心配かけて」
「……うん」
陽向の腕に。
少しだけ力が入る。
「でも」
私は。
そっと身体を離した。
陽向を見る。
「戻れないよ」
陽向の顔が止まる。
「……何で」
「だって」
涙を拭う。
「私がいたら」
「陽向、辛いでしょ?」
「……」
「私を見るたび」
「紗良さんの顔なのに」
「中身は私で」
「……」
「紗良さんを返してほしいって思うでしょ?」
陽向の顔が歪む。
「昨日のは――」
「間違ってないよ」
首を振る。
「陽向は悪くない」
「……」
「私が陽向でも」
「同じこと思うから」
だから。
「私が」
声が震える。
「離れたほうがいい」
陽向は。
しばらく黙った。
そして。
「……それ」
低い声で言った。
「誰が決めた?」
「え?」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「美月が一人で決めただろ」
「……」
「俺が」
陽向の眉が寄る。
「離れてほしいって言った?」
「でも」
「言ってない」
「……」
「紗良を返してほしいって」
陽向は。
苦しそうに息を吐いた。
「言った」
「……」
「最低だった」
「違うよ」
「違わない」
陽向は首を振る。
「でも」
そして。
私を見る。
「だからって」
一歩。
近づく。
「美月までいなくなれなんて」
声が震えた。
「一回も言ってねえよ」
私は。
何も言えなかった。
「なんで」
陽向が言う。
「なんで一人で全部決めんだよ」
その言葉が。
胸の奥に。
深く。
突き刺さった。
陽向の言葉が。
何度も。
何度も。
頭の中で繰り返されていた。
陽向が帰ったあと。
私は。
しばらく何もできなかった。
ソファに座ったまま。
ただ。
ぼんやりと。
テーブルの上を見つめていた。
薄いピンク色のマグカップ。
陽向と一緒に選んだもの。
その隣には。
私の白いマグカップ。
二つ並んでいる。
つい数日前までは。
それを見るだけで嬉しかった。
私と陽向の。
初めての思い出。
そう思っていた。
でも。
今は違う。
「……私、何してるんだろ」
小さく呟いた。
ここは。
一ノ瀬紗良の家。
このソファも。
このテーブルも。
この服も。
この身体も。
全部。
紗良のもの。
なのに私は。
ここで暮らして。
紗良の幼なじみだった陽向と笑って。
一緒にご飯を食べて。
マグカップまで選んで。
少しずつ。
自分の居場所みたいに思い始めていた。
「……違うよね」
ここは。
私の場所じゃない。
陽向だって。
本当は。
私にいてほしかったわけじゃない。
目を覚ましたあの日。
泣きながら抱きしめたのも。
何度も家に来てくれたのも。
最初は全部。
紗良が心配だったから。
それなのに。
私は。
優しくされて。
嬉しくなって。
名前を呼んでもらって。
笑ってもらって。
いつの間にか。
もっと。
もっと。
と思うようになっていた。
「最低……」
涙が落ちた。
陽向は。
大切な人を失ったばかりなのに。
私は。
その人の身体で。
陽向のそばにいることを。
嬉しいと思ってしまった。
◇◇◇
その夜。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じると。
いろんな顔が浮かんでくる。
星。
子どもたち。
夫。
そして。
陽向。
最後に。
鏡の中の紗良。
「……」
私はベッドから起き上がった。
時計を見る。
午前四時過ぎ。
まだ外は暗い。
寝室を出る。
そして。
リビングの棚に置かれている。
紗良の写真を手に取った。
そこには。
女優として笑う紗良。
堂々としていて。
綺麗で。
私とは全然違う。
「紗良さん」
写真に向かって呼ぶ。
「本当に……ごめんね」
何度謝っても。
返事はない。
「私」
胸の前で手を握る。
「あなたの人生を生きるつもりなんてなかった」
事故に遭って。
目を覚ましただけ。
それだけだった。
でも。
今は。
違う。
少しずつ。
この身体で生きることに。
慣れ始めている。
それが。
怖かった。
「このままだったら」
声が震える。
「私、本当に」
「あなたの人生を奪っちゃうのかな」
仕事も。
友達も。
家も。
そして。
陽向まで。
「……そんなの嫌だよ」
私は。
写真を元の場所に戻した。
それから。
決めた。
ここを出よう。
◇◇◇
朝。
私は最低限の荷物だけをバッグに詰めた。
財布。
スマートフォン。
充電器。
数日分の服。
それだけ。
紗良の物を持ち出すことにも。
罪悪感があった。
でも。
今の私には。
自分の物なんて何ひとつない。
「……借ります」
誰もいない部屋に向かって。
小さく言った。
そして。
玄関へ向かう。
途中。
テーブルの前で。
足が止まる。
二つのマグカップ。
白。
ピンク。
私は。
少し迷って。
白いマグカップを手に取った。
「……」
持っていきたい。
そう思った。
でも。
結局。
元の場所へ戻した。
これも。
ここに置いていこう。
陽向との思い出まで。
持っていったら。
本当に。
戻れなくなる気がした。
玄関で靴を履く。
一度だけ。
部屋を振り返った。
「……ありがとうございました」
誰に向けているのか。
自分でも分からなかった。
紗良に?
陽向に?
この場所に?
そして。
私はドアを閉めた。
◇◇◇
どこに行くかなんて。
決めていなかった。
ただ。
陽向の近くには。
いないほうがいい。
そう思った。
スマートフォンには。
何件か連絡が入っていた。
マネージャーから。
そして。
陽向から。
画面を見る。
昨日の夜。
『昨日はごめん』
そのあと。
『ちゃんと話したい』
さらに今朝。
『起きてる?』
胸が苦しくなる。
返信したい。
でも。
できない。
「……これでいいの」
陽向が落ち着けば。
きっと。
分かる。
紗良を取り戻したいなら。
私から離れたほうがいい。
私の顔を見るたび。
紗良を思い出す。
でも。
話せば。
中にいるのは私。
それは。
陽向にとって。
きっと残酷だ。
だったら。
会わないほうがいい。
私はスマートフォンを伏せた。
◇◇◇
その頃。
陽向は。
紗良のマンションの前にいた。
「……出ない」
何度インターホンを押しても。
返事がない。
電話も。
繋がらない。
「美月?」
嫌な予感がする。
管理人に事情を話し。
マネージャーにも連絡を入れた。
しばらくして。
部屋の中へ入る。
「……美月?」
静か。
寝室。
いない。
キッチン。
いない。
浴室。
いない。
そして。
玄関に。
いつも履いていた靴がない。
陽向の顔が強張る。
「……嘘だろ」
テーブルを見る。
二つのマグカップ。
そのまま。
白いカップも。
ここにある。
「……何で」
陽向は。
すぐにスマートフォンを取り出した。
電話。
繋がらない。
もう一度。
繋がらない。
メッセージを送る。
『どこにいる?』
既読にならない。
『美月』
『昨日のことなら謝る』
『ちゃんと話そう』
それでも。
返事はなかった。
「……っ」
陽向は。
頭を抱えた。
昨日。
言ってしまった。
紗良を返してくれ。
あの瞬間の。
美月の顔。
笑おうとして。
でも。
泣いていた。
『返せるなら返したいよ』
あの声。
どうして。
気づかなかったんだ。
自分だって。
美月に。
何度も言ってきた。
一人で全部決めるな。
我慢するな。
大丈夫じゃないときは。
大丈夫って言うな。
なのに。
一番。
追い詰めたのは。
自分じゃないか。
「……バカだろ、俺」
陽向は。
家を飛び出した。
◇◇◇
私は。
人目につかない場所を選びながら。
街を歩いていた。
一ノ瀬紗良は。
有名人。
帽子。
マスク。
なるべく顔を隠す。
でも。
行く場所がない。
高瀬美月の家には。
行けない。
紗良の友人のところにも。
行けない。
だって。
私には。
友人ですらない。
ホテルを取ろうにも。
一ノ瀬紗良の名前を使うことになる。
「……私」
道端で。
ふと立ち止まる。
本当に。
何にもないんだ。
高瀬美月としての家。
家族。
お金。
身分証。
全部。
死んだ私と一緒に。
なくなった。
一ノ瀬紗良としてなら。
何でもある。
家も。
仕事も。
お金も。
でも。
それは。
私のものじゃない。
「……どこに行けばいいの」
口に出した瞬間。
涙が滲んだ。
どこにも。
私の場所がない。
前の人生でも。
家族に囲まれながら。
何度も。
そう感じたことがあった。
自分だけ。
この家にいないみたい。
誰にも気持ちが届かない。
みんながいるのに。
一人みたい。
でも。
今は。
本当に一人だ。
「……星」
娘の名前を呼ぶ。
会いたい。
今すぐ。
会いに行きたい。
陽向と。
一緒に考えるはずだった。
遠くから。
子どもたちを見に行く方法。
でも。
もう。
陽向には頼れない。
いや。
頼っちゃいけない。
『紗良を返してくれよ』
また。
耳の奥で。
聞こえた。
「……分かってる」
私は。
小さく答えた。
「私が邪魔なんだよね」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
陽向。
電話。
出ない。
切れる。
また。
すぐにかかってくる。
「……」
出たら。
きっと。
戻りたくなる。
陽向に。
『帰ってこい』
と言われたら。
私は。
帰りたくなる。
だから。
出ない。
スマートフォンをバッグにしまった。
◇◇◇
夕方。
私は。
一つの公園にいた。
ベンチに座り。
子どもたちが遊ぶ姿を。
遠くから眺めている。
母親を呼ぶ声。
「ママー!」
その声を聞くたび。
胸が痛む。
「はーい!」
母親が答える。
走ってきた子を。
抱きしめる。
私は。
その光景から。
目を逸らせなかった。
「……いいな」
私も。
やっていた。
転んだら。
大丈夫?
って駆け寄って。
泣いたら。
抱っこして。
嬉しいことがあったら。
一緒に喜んで。
それなのに。
あの日を境に。
全部。
なくなった。
「星……」
また。
名前が出る。
星だけじゃない。
全員。
会いたい。
一度だけ。
遠くからでもいい。
元気な姿が見たい。
私はスマートフォンを取り出した。
そして。
夫のSNSを開く。
更新されていた。
新しい投稿。
何気ない写真。
子どもたち。
胸が止まりそうになった。
「……!」
そこに。
星がいた。
久しぶりに見る。
娘。
写真の中では。
笑っている。
でも。
少し。
痩せたように見えた。
「星……」
画面に触れる。
触っても。
届かない。
「ママだよ」
涙が落ちる。
「ここにいるよ」
でも。
星には聞こえない。
そのとき。
写真の背景に目が止まった。
見覚えのある場所。
「あ……」
ここ。
知ってる。
子どもたちと。
何度も行った場所。
今いる公園から。
それほど遠くない。
もしかしたら。
まだ。
近くにいる?
考えるより先に。
立ち上がっていた。
◇◇◇
一方。
陽向は。
必死に美月を探していた。
マネージャー。
病院。
美月が話していた場所。
思いつくところ。
全部。
でも。
いない。
「どこ行ったんだよ……」
そして。
ふと思い出す。
美月が。
何度も口にしていたこと。
――子どもたちに会いたい。
「……まさか」
陽向は。
以前調べた。
高瀬美月の情報を。
もう一度開いた。
住んでいた地域。
家族。
そして。
SNS。
そこに上がった。
新しい投稿。
「……ここ」
写真の背景。
場所が分かる。
陽向は。
すぐに車を走らせた。
◇◇◇
私は。
少し離れた場所から。
その姿を見つけた。
「……っ」
星。
間違えるはずがない。
娘。
少し先を。
歩いている。
家族と一緒に。
「ひかり……」
声が震える。
走り出したい。
名前を呼びたい。
抱きしめたい。
ママだよ。
って。
言いたい。
足が。
一歩。
前に出る。
でも。
止まった。
だめ。
今の私は。
一ノ瀬紗良。
知らない女の人。
星からしたら。
突然知らない大人に。
名前を呼ばれるだけ。
怖い。
「……」
私は。
電柱の陰に隠れた。
何をしているんだろう。
自分の娘なのに。
隠れて。
見ることしかできない。
星が。
何か話している。
少し笑った。
その笑顔を見た瞬間。
涙が溢れた。
「……よかった」
笑えてる。
星が。
笑ってる。
「よかった……」
声を殺す。
そのとき。
星が。
突然こちらを向いた。
「……!」
目が。
合った。
一瞬。
ほんの一瞬。
私は。
動けなかった。
星が。
不思議そうに。
私を見る。
当然。
知らない女性だから。
でも。
なぜか。
星は。
しばらく。
私から目を逸らさなかった。
胸が。
大きく鳴る。
もしかして。
そんな期待が。
一瞬だけ。
浮かんでしまう。
でも。
「星ー!」
家族に呼ばれ。
星が振り返った。
そして。
そのまま。
歩いていく。
私は。
追えなかった。
ただ。
離れていく背中を。
見ているだけ。
「……星」
小さく呼ぶ。
「ママね」
涙が止まらない。
「ずっと」
「ずっと大好きだよ」
届かなくても。
言いたかった。
そのときだった。
「美月!」
後ろから。
聞き慣れた声。
心臓が跳ねる。
振り返る。
息を切らした陽向が。
そこに立っていた。
「……陽向」
陽向の顔。
怒っている。
でも。
それ以上に。
泣きそうだった。
そして。
私のところまで来ると。
何も言わず。
ぎゅっと。
抱きしめた。
「……っ」
「何してんだよ……」
耳元で。
声が震える。
「何でいなくなんだよ……!」
「陽向……」
「電話出ろよ!」
強い声。
でも。
抱きしめる腕は。
震えていた。
「俺」
「……」
「マジで」
「また誰かいなくなったかと思った……」
その言葉に。
胸が締めつけられる。
紗良を失った。
そして。
今度は。
私まで。
「……ごめん」
反射的に言う。
陽向が。
私を抱きしめたまま。
「今回だけ」
「……え?」
「今回だけは」
声が震える。
「ちゃんと謝って」
私は。
目を閉じた。
「……ごめんなさい」
「うん」
「勝手にいなくなって」
「うん」
「心配かけて」
「……うん」
陽向の腕に。
少しだけ力が入る。
「でも」
私は。
そっと身体を離した。
陽向を見る。
「戻れないよ」
陽向の顔が止まる。
「……何で」
「だって」
涙を拭う。
「私がいたら」
「陽向、辛いでしょ?」
「……」
「私を見るたび」
「紗良さんの顔なのに」
「中身は私で」
「……」
「紗良さんを返してほしいって思うでしょ?」
陽向の顔が歪む。
「昨日のは――」
「間違ってないよ」
首を振る。
「陽向は悪くない」
「……」
「私が陽向でも」
「同じこと思うから」
だから。
「私が」
声が震える。
「離れたほうがいい」
陽向は。
しばらく黙った。
そして。
「……それ」
低い声で言った。
「誰が決めた?」
「え?」
陽向が。
真っ直ぐ私を見る。
「美月が一人で決めただろ」
「……」
「俺が」
陽向の眉が寄る。
「離れてほしいって言った?」
「でも」
「言ってない」
「……」
「紗良を返してほしいって」
陽向は。
苦しそうに息を吐いた。
「言った」
「……」
「最低だった」
「違うよ」
「違わない」
陽向は首を振る。
「でも」
そして。
私を見る。
「だからって」
一歩。
近づく。
「美月までいなくなれなんて」
声が震えた。
「一回も言ってねえよ」
私は。
何も言えなかった。
「なんで」
陽向が言う。
「なんで一人で全部決めんだよ」
その言葉が。
胸の奥に。
深く。
突き刺さった。



