目覚めたら、最推しの腕の中でした~1度終わった私の人生、もう一度恋をしました。~

――紗良を返してくれよ。

陽向の言葉が。

何度も。

何度も。

頭の中で繰り返されていた。

陽向が帰ったあと。

私は。

しばらく何もできなかった。

ソファに座ったまま。

ただ。

ぼんやりと。

テーブルの上を見つめていた。

薄いピンク色のマグカップ。

陽向と一緒に選んだもの。

その隣には。

私の白いマグカップ。

二つ並んでいる。

つい数日前までは。

それを見るだけで嬉しかった。

私と陽向の。

初めての思い出。

そう思っていた。

でも。

今は違う。

「……私、何してるんだろ」

小さく呟いた。

ここは。

一ノ瀬紗良の家。

このソファも。

このテーブルも。

この服も。

この身体も。

全部。

紗良のもの。

なのに私は。

ここで暮らして。

紗良の幼なじみだった陽向と笑って。

一緒にご飯を食べて。

マグカップまで選んで。

少しずつ。

自分の居場所みたいに思い始めていた。

「……違うよね」

ここは。

私の場所じゃない。

陽向だって。

本当は。

私にいてほしかったわけじゃない。

目を覚ましたあの日。

泣きながら抱きしめたのも。

何度も家に来てくれたのも。

最初は全部。

紗良が心配だったから。

それなのに。

私は。

優しくされて。

嬉しくなって。

名前を呼んでもらって。

笑ってもらって。

いつの間にか。

もっと。

もっと。

と思うようになっていた。

「最低……」

涙が落ちた。

陽向は。

大切な人を失ったばかりなのに。

私は。

その人の身体で。

陽向のそばにいることを。

嬉しいと思ってしまった。

◇◇◇

その夜。

ほとんど眠れなかった。

目を閉じると。

いろんな顔が浮かんでくる。

星。

子どもたち。

夫。

そして。

陽向。

最後に。

鏡の中の紗良。

「……」

私はベッドから起き上がった。

時計を見る。

午前四時過ぎ。

まだ外は暗い。

寝室を出る。

そして。

リビングの棚に置かれている。

紗良の写真を手に取った。

そこには。

女優として笑う紗良。

堂々としていて。

綺麗で。

私とは全然違う。

「紗良さん」

写真に向かって呼ぶ。

「本当に……ごめんね」

何度謝っても。

返事はない。

「私」

胸の前で手を握る。

「あなたの人生を生きるつもりなんてなかった」

事故に遭って。

目を覚ましただけ。

それだけだった。

でも。

今は。

違う。

少しずつ。

この身体で生きることに。

慣れ始めている。

それが。

怖かった。

「このままだったら」

声が震える。

「私、本当に」

「あなたの人生を奪っちゃうのかな」

仕事も。

友達も。

家も。

そして。

陽向まで。

「……そんなの嫌だよ」

私は。

写真を元の場所に戻した。

それから。

決めた。

ここを出よう。

◇◇◇

朝。

私は最低限の荷物だけをバッグに詰めた。

財布。

スマートフォン。

充電器。

数日分の服。

それだけ。

紗良の物を持ち出すことにも。

罪悪感があった。

でも。

今の私には。

自分の物なんて何ひとつない。

「……借ります」

誰もいない部屋に向かって。

小さく言った。

そして。

玄関へ向かう。

途中。

テーブルの前で。

足が止まる。

二つのマグカップ。

白。

ピンク。

私は。

少し迷って。

白いマグカップを手に取った。

「……」

持っていきたい。

そう思った。

でも。

結局。

元の場所へ戻した。

これも。

ここに置いていこう。

陽向との思い出まで。

持っていったら。

本当に。

戻れなくなる気がした。

玄関で靴を履く。

一度だけ。

部屋を振り返った。

「……ありがとうございました」

誰に向けているのか。

自分でも分からなかった。

紗良に?

陽向に?

この場所に?

そして。

私はドアを閉めた。

◇◇◇

どこに行くかなんて。

決めていなかった。

ただ。

陽向の近くには。

いないほうがいい。

そう思った。

スマートフォンには。

何件か連絡が入っていた。

マネージャーから。

そして。

陽向から。

画面を見る。

昨日の夜。

『昨日はごめん』

そのあと。

『ちゃんと話したい』

さらに今朝。

『起きてる?』

胸が苦しくなる。

返信したい。

でも。

できない。

「……これでいいの」

陽向が落ち着けば。

きっと。

分かる。

紗良を取り戻したいなら。

私から離れたほうがいい。

私の顔を見るたび。

紗良を思い出す。

でも。

話せば。

中にいるのは私。

それは。

陽向にとって。

きっと残酷だ。

だったら。

会わないほうがいい。

私はスマートフォンを伏せた。

◇◇◇

その頃。

陽向は。

紗良のマンションの前にいた。

「……出ない」

何度インターホンを押しても。

返事がない。

電話も。

繋がらない。

「美月?」

嫌な予感がする。

管理人に事情を話し。

マネージャーにも連絡を入れた。

しばらくして。

部屋の中へ入る。

「……美月?」

静か。

寝室。

いない。

キッチン。

いない。

浴室。

いない。

そして。

玄関に。

いつも履いていた靴がない。

陽向の顔が強張る。

「……嘘だろ」

テーブルを見る。

二つのマグカップ。

そのまま。

白いカップも。

ここにある。

「……何で」

陽向は。

すぐにスマートフォンを取り出した。

電話。

繋がらない。

もう一度。

繋がらない。

メッセージを送る。

『どこにいる?』

既読にならない。

『美月』

『昨日のことなら謝る』

『ちゃんと話そう』

それでも。

返事はなかった。

「……っ」

陽向は。

頭を抱えた。

昨日。

言ってしまった。

紗良を返してくれ。

あの瞬間の。

美月の顔。

笑おうとして。

でも。

泣いていた。

『返せるなら返したいよ』

あの声。

どうして。

気づかなかったんだ。

自分だって。

美月に。

何度も言ってきた。

一人で全部決めるな。

我慢するな。

大丈夫じゃないときは。

大丈夫って言うな。

なのに。

一番。

追い詰めたのは。

自分じゃないか。

「……バカだろ、俺」

陽向は。

家を飛び出した。

◇◇◇

私は。

人目につかない場所を選びながら。

街を歩いていた。

一ノ瀬紗良は。

有名人。

帽子。

マスク。

なるべく顔を隠す。

でも。

行く場所がない。

高瀬美月の家には。

行けない。

紗良の友人のところにも。

行けない。

だって。

私には。

友人ですらない。

ホテルを取ろうにも。

一ノ瀬紗良の名前を使うことになる。

「……私」

道端で。

ふと立ち止まる。

本当に。

何にもないんだ。

高瀬美月としての家。

家族。

お金。

身分証。

全部。

死んだ私と一緒に。

なくなった。

一ノ瀬紗良としてなら。

何でもある。

家も。

仕事も。

お金も。

でも。

それは。

私のものじゃない。

「……どこに行けばいいの」

口に出した瞬間。

涙が滲んだ。

どこにも。

私の場所がない。

前の人生でも。

家族に囲まれながら。

何度も。

そう感じたことがあった。

自分だけ。

この家にいないみたい。

誰にも気持ちが届かない。

みんながいるのに。

一人みたい。

でも。

今は。

本当に一人だ。

「……星」

娘の名前を呼ぶ。

会いたい。

今すぐ。

会いに行きたい。

陽向と。

一緒に考えるはずだった。

遠くから。

子どもたちを見に行く方法。

でも。

もう。

陽向には頼れない。

いや。

頼っちゃいけない。

『紗良を返してくれよ』

また。

耳の奥で。

聞こえた。

「……分かってる」

私は。

小さく答えた。

「私が邪魔なんだよね」

その瞬間。

スマートフォンが震えた。

画面を見る。

陽向。

電話。

出ない。

切れる。

また。

すぐにかかってくる。

「……」

出たら。

きっと。

戻りたくなる。

陽向に。

『帰ってこい』

と言われたら。

私は。

帰りたくなる。

だから。

出ない。

スマートフォンをバッグにしまった。

◇◇◇

夕方。

私は。

一つの公園にいた。

ベンチに座り。

子どもたちが遊ぶ姿を。

遠くから眺めている。

母親を呼ぶ声。

「ママー!」

その声を聞くたび。

胸が痛む。

「はーい!」

母親が答える。

走ってきた子を。

抱きしめる。

私は。

その光景から。

目を逸らせなかった。

「……いいな」

私も。

やっていた。

転んだら。

大丈夫?

って駆け寄って。

泣いたら。

抱っこして。

嬉しいことがあったら。

一緒に喜んで。

それなのに。

あの日を境に。

全部。

なくなった。

「星……」

また。

名前が出る。

星だけじゃない。

全員。

会いたい。

一度だけ。

遠くからでもいい。

元気な姿が見たい。

私はスマートフォンを取り出した。

そして。

夫のSNSを開く。

更新されていた。

新しい投稿。

何気ない写真。

子どもたち。

胸が止まりそうになった。

「……!」

そこに。

星がいた。

久しぶりに見る。

娘。

写真の中では。

笑っている。

でも。

少し。

痩せたように見えた。

「星……」

画面に触れる。

触っても。

届かない。

「ママだよ」

涙が落ちる。

「ここにいるよ」

でも。

星には聞こえない。

そのとき。

写真の背景に目が止まった。

見覚えのある場所。

「あ……」

ここ。

知ってる。

子どもたちと。

何度も行った場所。

今いる公園から。

それほど遠くない。

もしかしたら。

まだ。

近くにいる?

考えるより先に。

立ち上がっていた。

◇◇◇

一方。

陽向は。

必死に美月を探していた。

マネージャー。

病院。

美月が話していた場所。

思いつくところ。

全部。

でも。

いない。

「どこ行ったんだよ……」

そして。

ふと思い出す。

美月が。

何度も口にしていたこと。

――子どもたちに会いたい。

「……まさか」

陽向は。

以前調べた。

高瀬美月の情報を。

もう一度開いた。

住んでいた地域。

家族。

そして。

SNS。

そこに上がった。

新しい投稿。

「……ここ」

写真の背景。

場所が分かる。

陽向は。

すぐに車を走らせた。

◇◇◇

私は。

少し離れた場所から。

その姿を見つけた。

「……っ」

星。

間違えるはずがない。

娘。

少し先を。

歩いている。

家族と一緒に。

「ひかり……」

声が震える。

走り出したい。

名前を呼びたい。

抱きしめたい。

ママだよ。

って。

言いたい。

足が。

一歩。

前に出る。

でも。

止まった。

だめ。

今の私は。

一ノ瀬紗良。

知らない女の人。

星からしたら。

突然知らない大人に。

名前を呼ばれるだけ。

怖い。

「……」

私は。

電柱の陰に隠れた。

何をしているんだろう。

自分の娘なのに。

隠れて。

見ることしかできない。

星が。

何か話している。

少し笑った。

その笑顔を見た瞬間。

涙が溢れた。

「……よかった」

笑えてる。

星が。

笑ってる。

「よかった……」

声を殺す。

そのとき。

星が。

突然こちらを向いた。

「……!」

目が。

合った。

一瞬。

ほんの一瞬。

私は。

動けなかった。

星が。

不思議そうに。

私を見る。

当然。

知らない女性だから。

でも。

なぜか。

星は。

しばらく。

私から目を逸らさなかった。

胸が。

大きく鳴る。

もしかして。

そんな期待が。

一瞬だけ。

浮かんでしまう。

でも。

「星ー!」

家族に呼ばれ。

星が振り返った。

そして。

そのまま。

歩いていく。

私は。

追えなかった。

ただ。

離れていく背中を。

見ているだけ。

「……星」

小さく呼ぶ。

「ママね」

涙が止まらない。

「ずっと」

「ずっと大好きだよ」

届かなくても。

言いたかった。

そのときだった。

「美月!」

後ろから。

聞き慣れた声。

心臓が跳ねる。

振り返る。

息を切らした陽向が。

そこに立っていた。

「……陽向」

陽向の顔。

怒っている。

でも。

それ以上に。

泣きそうだった。

そして。

私のところまで来ると。

何も言わず。

ぎゅっと。

抱きしめた。

「……っ」

「何してんだよ……」

耳元で。

声が震える。

「何でいなくなんだよ……!」

「陽向……」

「電話出ろよ!」

強い声。

でも。

抱きしめる腕は。

震えていた。

「俺」

「……」

「マジで」

「また誰かいなくなったかと思った……」

その言葉に。

胸が締めつけられる。

紗良を失った。

そして。

今度は。

私まで。

「……ごめん」

反射的に言う。

陽向が。

私を抱きしめたまま。

「今回だけ」

「……え?」

「今回だけは」

声が震える。

「ちゃんと謝って」

私は。

目を閉じた。

「……ごめんなさい」

「うん」

「勝手にいなくなって」

「うん」

「心配かけて」

「……うん」

陽向の腕に。

少しだけ力が入る。

「でも」

私は。

そっと身体を離した。

陽向を見る。

「戻れないよ」

陽向の顔が止まる。

「……何で」

「だって」

涙を拭う。

「私がいたら」

「陽向、辛いでしょ?」

「……」

「私を見るたび」

「紗良さんの顔なのに」

「中身は私で」

「……」

「紗良さんを返してほしいって思うでしょ?」

陽向の顔が歪む。

「昨日のは――」

「間違ってないよ」

首を振る。

「陽向は悪くない」

「……」

「私が陽向でも」

「同じこと思うから」

だから。

「私が」

声が震える。

「離れたほうがいい」

陽向は。

しばらく黙った。

そして。

「……それ」

低い声で言った。

「誰が決めた?」

「え?」

陽向が。

真っ直ぐ私を見る。

「美月が一人で決めただろ」

「……」

「俺が」

陽向の眉が寄る。

「離れてほしいって言った?」

「でも」

「言ってない」

「……」

「紗良を返してほしいって」

陽向は。

苦しそうに息を吐いた。

「言った」

「……」

「最低だった」

「違うよ」

「違わない」

陽向は首を振る。

「でも」

そして。

私を見る。

「だからって」

一歩。

近づく。

「美月までいなくなれなんて」

声が震えた。

「一回も言ってねえよ」

私は。

何も言えなかった。

「なんで」

陽向が言う。

「なんで一人で全部決めんだよ」

その言葉が。

胸の奥に。

深く。

突き刺さった。